江雲記―六角定頼に転生した舐めプ男の生涯―

藤瀬 慶久

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蝉と鷹

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 ・貞吉二年(1544年) 八月  河内国若江郡  近衛前久


 ……美しい。
 空を悠然と飛ぶ鷹の姿が、これほど美しい物だとは知らなかった。
 遠くに見える額田山は空中に濃い緑の線を描き、空の青と山の緑の境目がはっきりと見て取れる。だが、その空も山も、大きく翼を広げた鷹の前ではその美しさを引き立てる添え物でしかない。

 鉄砲の音が響くと、悠然と舞っていた鷹が突如として体を細く鋭く尖らせて獲物に飛び掛かった。鉄砲の音に驚いて飛び立った小鳥を狙っているようじゃな。
 何としなやかで猛々たけだけしい姿であることか。美しさと猛々しさを併せ持つ鷹の姿は、他に例えようが無い。

 獲物を捕らえた鷹が丘の上で待つ父上の元へと舞い戻る。父上の隣では、六角公方(六角定頼)が今しがた発射したばかりの鉄砲を持って立っている。
 お二人のお姿も雄々しい物だ。

 鷹とお二人の姿に見とれていると、後ろの方からいくつかの馬蹄の音が近づいて来た。
 やれやれ、ようやく侍従(織田頼信)が追い付いて来たかな?

「お待たせいたしました」

 綾藺笠あやいがさの縁を持ち上げて侍従が笑う。
 軽く息を乱しているが、存外平気そうな顔をしておじゃるな。侍従も随分と馬が上手くなった。

 だが、こう暑くてはたまらぬ。麿や侍従、それに警護の武士達も等しく汗みずくになっている。

「ちと木陰で休むか」
「ええ」

 侍従と共に木陰に向かって馬を進め、馬から降りて手綱を従者に渡した。
 水筒を口につけると、ただの水が甘露のように美味く感じる。

「しかし、六角公方(六角定頼)は阿波に向かわれたと聞いたが、ここでのんびりと鷹狩などしていて良いのかの」
「それがどうやら三好殿の進軍が予想以上に早く、親父殿が渡海するまでも無いと……。出番を失ってしまったと笑っておられました」
「左様か。それで父上を河内にまで引っ張り出して鷹狩を……」
「ええ。ここの所太閤殿下(近衛稙家)が部屋に籠っておられると聞き、御身を案じておられました。何かの気晴らしにでもなれば良いと」

 六角公方の心遣いは有難い。
 近頃の父上は鬱々として楽しんでおられるご様子が無い。あれではいずれお体を壊されてしまう。
 何か越後以外の事に心が向けばよいのだが……。

 もう一度銃声が響き、再び鷹が放たれる。
 何度見ても美しい姿であるな。

「さて、参ろうか。鷹の羽ばたく姿を間近で見させてもらおうではないか」
「はい」



 ・貞吉二年(1544年) 八月  河内国若江郡 六角定頼


「鉄砲とやらを鷹狩に使うとは、なかなかに面白いことを考えるな」
「恐れ入ります。近頃鷹狩の楽しさに目覚めましてな」

 近衛稙家が物珍しそうに鉄砲を眺める。最初に撃った時は随分と驚いていたが、今では銃撃音にもすっかり慣れたようだ。

「して、わざわざ河内にまで連れ出した理由は何じゃ? 鉄砲とやらを見せびらかしたかったわけではあるまい」
「いえ、実はその通りです。鉄砲とその威力を知ってもらおうと思ってお誘い致しました」

 稙家が呆れたような顔になる。まあ、自慢するために呼び出したと言われればそうもなるか。

「殿下。越後の事は聞いておられましょう?」
「……」

 近衛が口元に力を籠める。
 足利義輝を奉じた長尾景虎は、今年の春に長尾晴景と戦って快勝した。春日山城を奪還すべく長尾政景と共に出兵した晴景だったが、信濃川を挟んで対峙した景虎に完膚なきまでに打ちのめされた。
 景虎はあえて晴景よりも少ない兵力で河原に布陣し、しかも越中で神保が挙兵したと偽情報を流して陣形を崩して見せた。勝利を確信した晴景方が川を渡った瞬間に伏せていた兵を押し出し、混乱する晴景方を一気に突き崩したそうだ。

 どこかで聞いた事のある戦いぶりだよな。
 やはり長尾景虎は畿内の戦をつぶさに調べているのだろう。俺や斎藤利政の戦い方をよく研究している。

 だが、長尾景虎の勢威が伸びることは、同時に俺と足利義輝の和解が遠のくことを意味する。義輝が勝てると思っているうちは俺に頭を下げるはずはないからな。
 近衛稙家としても頭の痛いところだ。

「この次には菊幢丸(足利義輝)が……いや、長尾が越後兵を駆って上洛軍を起こす、と?」
「さて、そうは上手く行きますまいな」
「しかし、越後を抑えれば次は越中へと手を伸ばして来よう」
「越中の前に関東に足を取られまする」

 近衛が今度は怪訝な顔になる。長尾が関東に出兵するということは、上杉と北条の争いに介入するということだ。
 上洛を目指す義輝がそんな回り道を許すものかどうか、疑問に思っているのだろう。

 北条氏綱に河越城を奪われた扇谷上杉の上杉朝定は、北条の代替わりを好機と捉えて河越城を北条から奪還して欲しいと上杉憲政に泣きついた。上杉憲政は関東管領としてこれを受諾し、河越城へ兵を出した。
 折しも北条氏康との仲が険悪になっていた古河公方足利晴氏は、上杉憲政が挙兵するとこれに呼応した。
 もっとも、関東では古河公方の挙兵に眉をひそめる向きもある。小弓公方を討ち、古河公方の配下として馬車馬のように働いて来た先代北条氏綱の忠義を土足で踏みにじるような行為だからな。

 史実では関東の多くの武士が古河公方に味方したそうだが、今の歴史では足利体制そのものが大きく揺らいでいる。加えて北条氏康が武蔵守に任じられたことで、関東の武士の中にも古河公方を見限って北条に付く者が出始めた。
 俺が鎮守府大将軍に就任したことの影響が関東にも出ているということだ。六角家と友好関係を築いている北条家が在ることで、関東の諸勢力にとって古河公方や関東管領が唯一絶対の支配者では無くなりつつある。

 実はこの情勢に最も危機感を募らせているのが越後の長尾景虎だ。
 景虎の目には、北条は関東における六角政権の先兵と見えているだろう。このまま北条が勝つようなことがあれば、上洛軍を起こす前に後顧の憂いを絶つ必要が出てくると考えるはずだ。

「お主は北条が勝つと見ておるのか? 関東管領は北条の三倍の兵で河越城を包囲していると聞くが」
「それは分かりません。ですが、北条もむざむざと敗れはせぬでしょう。戦が長引けば、大軍を擁する関東管領は逆に兵糧不足に苦しみます。そうなれば上杉は越後へ援軍要請を出すことになる。
 長尾平三(長尾景虎)としてもこの援軍要請は無視できません。仮に関東管領が敗北することになれば、もはや上洛どころではない。越後本国が危険に晒されることになる」

 まあ、歴史を知っている俺からすれば北条が負けることはあり得ない。何せ関東で味方が増えた上に武田信玄も北条側で参戦するんだ。北条は史実以上に楽になり、上杉は史実以上の苦戦を強いられる。
 つまり、景虎は望むと望まざるとに関わらず関東に兵を出すしかなくなる。

「はるか遠くの関東の出来事もお主にかかれば掌の上、か。……して、それと麿に鉄砲の威力を見せつけたことと一体何の関係がある」
「六角家はこの鉄砲を数多く有し、戦の方法の見直しを始めております。一方の長尾は関東の戦で益々武威を磨き上げるでしょう。
 お互い信じる物が違う者同士、もはや一戦もせずに和睦するという道は無い物と存ずる」
「……麿にも覚悟を定めよと申すか」
「太閤殿下が越後との和睦を模索しておられることは重々承知しております。既に幾人かの使者を越後に遣わされていることも。
 ですが、結局世の中とは成るようにしか成らぬ物。いつまでもお心を煩わせず、流れに身を任せることも肝要かと思いましてな」

 近衛稙家がじっと瞑目して深いため息を吐いた。
 蝉の声がうるさく響く。まるで短い夏を惜しむようだ。

「やはりそなたは優しい男だな。倅が麿の身を案じておるのを見兼ねてくれたか」
「ご子息はご子息なりに今の世に立とうとしておられます。人の身で出来ることには限りがある。であれば、我ら年寄りに出来るのは望みを次の世代に託すことではありませんかな?」
「ふむ……まだ倅には早いようにも思うが……」
「誰か別な者を座らせるのも面白くはありますまい」

 半年前に俺が辞任してから、内大臣の席は空席のままになっている。

 やがて近衛稙家が遠くに目を転じた。稙家の視線の先には、目を輝かせてこちらに駆けてくる近衛前久と織田頼信の姿があった。

「分かった。麿は麿に出来ることを為そう。息子達のことはよろしく頼む」
「ハッ……」



 ・貞吉二年(1544年) 八月  摂津国欠郡 堺 顕本寺  六角定頼


 京に戻った近衛稙家は、出家して覚天と号した。
 そして、年が明ければ近衛前久が俺の次の内大臣に任じられることも内定した。これで近衛家も正式に世代交代を果たした形になる。
 家督を前久に譲った稙家は、前久が内大臣に任じられた後に九州に下る手筈になっている。鎮守府大将軍への臣従を求める使者は九州にも行っているが、大友を始めとした九州の諸大名は誰一人前向きな返事を寄越して来ない。
 まあ、九州にとっては将軍がどうこうよりも目の前の戦の方が切実だからな。

 そこで、近衛稙家に朝廷の使者として九州に下ってもらい、和議を仲介して行くよう依頼した。
 新任の六角将軍の言うことは無視できても朝廷の言うことはさすがに無視できないだろうという目論見だ。それでも無視する者に対しては、西国を平定した後改めて九州征伐を実施することになる。
 まだ先の話にはなるが、こういったことは早めに手を付けておく方がいい。

「大本所様(六角定頼)」

 廊下から進藤貞治が声を掛けてくる。どうやら招いていた客人が来たようだな。

「おう。来たか」
「ハッ……しかし、まことあのような者達とお会いになるのですか?」
「ははは。そんなに異様か?」
「は、はあ。赤い髪に鼻がそそり立ち、まるで鬼か物の怪の類のようにて……」

 進藤が何とも言えない顔をする。
 まあ、無理もないか。生まれて初めて見る西洋人だからな。

 ポルトガル船の来航が近いはずだとアタリをつけて情報を集めさせていたが、堺の顕本寺から一年前に異形の者達を乗せた船が種子島に漂着したらしいと報せを受けた。
 すぐにピンと来たよ。恐らくそれが初めて日本に来航したポルトガル船だ。

 それから人を遣ってこちらにも顔を出すように伝えさせた所、代表者であるフランシスコとモッタの二人を堺へ送ると返事があった。
 どちらも商人の代表者らしいから、今後の交易のことを多少話しておくのは有益だろう。
 何せ、いずれ布教と引き換えに交易を認めるとかなんとか言って来るはずだからな。それらに先んじて交易の実績を作っておきたい。

 日本へ船を出せば儲かると思わせれば、宣教師が何と言おうと商売の匂いのするところに集まるのが商人という者だ。
 先に商人を抱き込んでしまえば、宣教師がどう言おうとなし崩しに交易を維持することは不可能ではないだろう。

「ふむ。いつも沈着な新助(進藤貞治)がそこまで言うとは、会うのが楽しみだ。では、その物の怪とやらに会いに行こうか」

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