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―― 第一章 ――
【010】秋空の高さ
しおりを挟む秋の空は他の季節よりも澄んでいて、高く見えるような気がする。
たなびく雲を一瞥してから、庭の紅葉の木を見れば、赤や黄色に色づいていて、それがそばの池へと落ちていく。礼瀬家の庭はとても広い。
「いってらっしゃい、お父様」
澪の手を握り、玄関に時生は立っている。
明るい声を放った愛息子に向かい、偲が微笑を返す。
「ああ、行ってくる。時生、澪を頼んだぞ」
「はい! いってらっしゃい」
こうして本日も偲は仕事へと出かけていった。
その背を見送ってから、時生は澪と繋いでいる手に力を込める。
「僕達も中に入ろう」
「うん!」
明るい声の澪を伴い、時生は踵を返して邸宅の中へと入った。
澪の世話係となり、この礼瀬家で暮らすようになり、もう一週間が経過した。
どんどん秋が深まっていく。
庭の木々や草花が秋の装いに変わり、時には軒先に置いてある桶の中に薄氷がはることや、霜が降りることも増えた。
帝都の中心部からは少し離れた場所に位置するこの深珠区は、そう雪深いわけではないが、全く降雪がないわけでもない。そろそろ冬支度の頃合いだろうか。
もしその際、できる事があるならば手伝いたいと考えながら、澪が靴を脱ぐのを、時生は見守った。中へと入り、手洗いとうがいを二人でしてから、真っ直ぐに澪の部屋へと向かう。
「今日はなんの勉強をするんだ?」
自分から学習机の前に座った澪が、興味津々だという顔で時生を見上げる。
この一週間で、澪はとても学習意欲が高いようだと、時生は気がついた。初日の言動が嘘のようだ。そんなところも愛らしい。
「今日は異国語の中から、英語の勉強をしましょうか」
「うん! またアルファベットの書き取りか?」
「また?」
「昔、この家にも英語の先生が来ていたんだ。でもアルファベットを書くようにとしか言わないから、飽きておれは止めたんだ」
思い出しているのか不服そうな顔をし、唇を尖らせている澪を見て、歩みよった時生が小さく首を振る。
「基礎は大切かもしれないけど、僕の考えていたものとは違うかな」
「ん? じゃあなにをするの?」
「絵本を読もうかなって」
「絵本! それはおれも好きだ!」
澪は必ず寝る前に、絵本を読んでいる。それはとっくに時生も知っていた。
特に最近のお気に入りは、桃太郎だというのも分かっている。
そして子供向けの童話は、実は裕介の宿題の中の英文読解の課題として含まれていたので、押しつけられた時生は、英国から逆輸入された英語の桃太郎の原文を記憶していた。それを紙に書き起こしたのは、昨日澪が算数の問題を解いていた時のことだ。学習机の抽斗にいれておいた紙と、日本語版の桃太郎の絵本を、時生はそれぞれ取り出して、澪の前の机に置く。
「これとこれを見て」
「わぁ、桃太郎だ!」
「うん。実はね、この二つには、同じことが書いてあるんだよ」
「……え?」
すると澪が驚いた顔をした。
「たとえばここ、『Momotarou』と書いてあるでしょう? これは『ももたろう』と読むんだよ。つまり、『桃太郎』だね」
「ローマ字だ! 覚えてるぞ! あいうえおと同じやつだ」
「そうだね。澪様はよく分かるね」
比べるものではないかもしれないが、裕介はそれも苦手だったなと思い出す。
実際、中学校四学年を卒業しても、異国語に関しては、この国ではまだまだ苦手な者は多いのが実情で、時生自身も自分がどの程度理解しているのかは、実は不安でもある。ただ教えていると、自分の知識も磨かれるようで、澪の『先生役』というのは、色々と振り返ることが出来て、己もまた楽しいと感じている。
「この英文には、桃太郎のことが書いてある。こちらのいつも読んでいる絵本と同じ内容だよ。見比べながら、少しずつ英語の勉強をしてみようか」
「うん! それならおれもできる気がする!」
このように、二人は勉強を始めた。
桃太郎には、『鬼』が出てくる。時生はふと、異国からこの日本にあやかしが入ってくるのならば、逆に日本から出て行くあやかしもいるのだろうかと、漠然と考えていた。
熱心に英文を読もうとする澪に、一つずつ分かりやすく、主語や述語、単語の意味を教えながら勉強を進めていく内、すぐに昼食の時間になった。午後のお昼寝の時間は、いつも時生は休憩で、小春が面倒を見てくれる。
昼食後、使用人が休憩する和室へ向かうと、先に室内にいた真奈美が、笑顔で湯飲みに緑茶を注いでくれた。
「はい、どうぞ。今日の茶菓子は、大判焼きなの」
それを聞いて、両頬を持ち上げ、時生は柔和に笑った。
この邸宅で過ごすようになり、小春や真奈美、書生の渉にも、とてもよくしてもらっている。彼らは皆優しくて、時生をすぐに受け入れてくれた。いいや、初めから受け入れてくれていた。それが時生には嬉しかった。
同時に、こうした休憩時間――それも温かいお茶や茶菓子を口にしてよいなど、高圓寺家では考えられなかったことであり、時生はこの時間が愛おしく思えてたまらない。
高圓寺家では、存命時の母も含めて時生達は使用人という扱いをされていた。実際母は元々女中であったのだが、その扱いが、正妻の松子により酷いものへと変化し、その子である時生も幼少時から使用人として扱われて、母子ともに苛め抜かれて育った。そんな環境下にあったので、時生は生まれてこの方、お茶の時間など、ここに来る前は一度も体験したことが無かったのである。お茶はおろか休憩時間がそもそも無かった。当初は本当に休んでよいのかと戸惑った。だが一週間を経た今、時生は少しずつ休むという事を覚えてきた。
しかし与えられている休憩を、実際になにもせずに過ごすことはやはり気がひけてしまい、時生はいつも同様のことを尋ねる。
「この後は、何かお手伝いできることはありますか?」
「そうねぇ」
真奈美が湯飲みを手に、小首を傾げる。
最初は時生のこの申し出に、特にないと口にしていた真奈美達だが、時生がやりたがっているようだと判断したのか、最近では手伝わせてくれることも増えてきた。
「私、お茶が終わったら、今日はいつもは磨かない場所の窓も磨くの。そこは週に一度だけやるんだけど。窓拭きのお手伝い、お願いしてもいい?」
湯飲みを置いて、真奈美が手を合わせる。
「勿論です」
できる事が見つかり、嬉しくなって時生は柔和に微笑した。
こうしてこの日は、お茶を飲んだ後、真奈美の仕事を手伝った。
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