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―― 第三章 ――

【057】先見の才の片鱗

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 そこへ、コツンとヒールの音がした。
 時生が視線を向ければ、そこにはドレス姿の雛乃が立っていた。

「またお目にかかれて光栄だわ、時生さん」
「あ……きょ、今日は宜しくお願いします」
「それに直斗様。ごきげんよう」
「そうだね」

 すると直斗が疲れたような顔に変わった。先程までの柔らかな表情ではない。話すのも気怠そうだ。

「時生さんを独り占めにするなんてずるいじゃない。今日の主役のような方なのに。みんな時生さんに興味津々よ? だって破魔の技倆の持ち主が、久しぶりに高圓寺から出たのですもの」

 雛乃の声に、時生は目を丸くする。

「今日は礼瀬の偲様も――そして私達と同じ次代を担う澪様もいらっしゃってるし、四将の人間が勢揃いね。ええ、のある」

 含みのある雛乃の声が響いた時、咳払いが聞こえた。横から聞こえたその声に何気なく顔を向けた時生はビクリとした。そこには歩みよってきた裕介の姿があったからだ。他の男子は和装が多いが、裕介は本日も洋装だ。

「高圓寺の当主はこの俺だが? 俺だけ除け者にしようとは、良い度胸だな。いくら相樂の女でも容赦はしないからな」
「あらあら、無能・・がなにを出しゃばっているの? 滑稽ね」

 嘲笑するような雛乃の声に、あからさまに裕介が眉をつり上げた。

「学校の成績、首席だったと言うけれど、最近じゃもっぱらの噂よ。本当は、優秀な弟に全部やらせていたってね。女学院時代の私の友人は皆幻滅していますわ」
「っ」

 裕介がキッと雛乃を睨めつけてから、時生に顔を向けた。その眼光に、時生は萎縮しそうになる。

「言ったのか?」
「……いえ、なにも」

 時生は困惑して首を振るしか出来ない。そもそも『何を』かが分からない。

「ああ、軍で調べたって姉さんから聞いたよ。僕も呆れたね。それなら、首席は僕だったということだ。だけど、その僕も時生には負けてたって事だけど」

 そこへ直斗が声を挟んだ。すると裕介が顔を歪め、唇を噛んだ。
 時生は状況がよく飲み込めなくて、おろおろと瞳を揺らす。

「それでもこの帝都で一番、見鬼の才があるのはこの俺だ。高圓寺の当主である俺だ」
「言っていればいいのよ。裕介様のようにムラだらけで、滅多に発現しないんじゃ、いくら力が強くても無駄ね。私のように安定して視える方が有益よ」

 小馬鹿にするような雛乃の声、そのかんばせには余裕たっぷりの笑みが浮かんでいる。見るからに、裕介と雛乃の仲は険悪そうだ。

「その減らず口をどうにかしろ。お前はそれでも俺の婚約者なのか?」
「そんなもの、高圓寺の前当主である貴方のお父様の失態で解消は間近よ。ああ、せいせいしたわ。私、性格が悪い男の人って大嫌いなの」
「なっ」
「家同士が決めた繋がりなんて、今の自由恋愛に皆が憧れるご時世に、古すぎるのよ。私に振られて本当にいい気味ね」

 雛乃の声に、あからさまに裕介の顔が引きつった。
 裕介は傍らにあった、赤ワインの並ぶ白いクロスがかかったテーブルに手を伸ばす。

「あら、まだ宴の前なのに、勝手にグラスを? はぁ、本当に下品ね」
「煩い」

 言い合っている二人、冷めた顔をしている直斗。
 だがこの時、時生の背筋がゾクッとした。

 ――この光景を、っている。

 時生は、確かにこの四人でいる場面を、裕介がワイングラスを手に取る場面を、で視た。

 ――あの時、どうなった?

 全身に怖気が走る。そうだ、確かに視た。ワインを呷って、裕介が死ぬ夢を。
 その時直斗が一歩近寄ってきて、時生にしか聞こえない声で囁いた。

「憎いんでしょう?」
「っ」
「ずっと苛まれ、いたぶられて、酷い目に遭ったんでしょう? 僕なら、許さないけどね」

 それを聞いた時、時生の胸中に、嫌な記憶が渦巻いた。
 直斗の言う通りだ。裕介は、時生を虐め抜いてきた。時には、正直裕介がいなかったならば、このように痛い思いはしないと、そう考えたことすらある。そして今、もし裕介がワインを飲み、夢の通りになったならば、虐められた陰惨な記憶からは解放されるのかもしれない。瞬間的に、そんな思考が、時生の脳裏に浮かぶ。

 ――けれど。

「飲んじゃ駄目だ!!」

 気づくと時生は、裕介の持つ赤ワインのグラスをたたき落としていた。
 パリンと、硝子が割れる音が響く。周囲の視線もちらほらと集まった。

「な、なにをするんだ!? ちょっとくらい飲んだって――」
「ち、違います。そうじゃなくて、それには毒が」
「は?」

 裕介が怪訝そうな顔をした。そして下を見て、裕介が凍りついた。雛乃も下を見て息を呑む。敷かれていた絨毯から、煙が上がっていく。絨毯は、黒く変化している。それはワインの染みによるものではない。じわりじわりと布が溶け、変色し、まるであやかしが靄になるように煙が宙に舞い上がり霧散していく。

 その光景を見て、時生はびっしりと汗をかいていた。肩から力が抜ける。
 ――たとえ、過去に何があったとしても。
 死んで欲しいだなんて思ったことはない。もしあの夢が、たとえば先見の才の片鱗だったとしたならば、己は人を助けるために使いたい。それは、相手が今も恐怖を抱く裕介であっても変わらない。

 裕介も雛乃も呆気にとられ、直斗だけが難しそうな顔で腕を組んでいる。その時の事である。

「静粛に。今より、鬼月家主催の夜会を始めます」

 嗄れてはいるが、よく通る声が会場に響き渡る。時生達も反射的にそちらへと視線を向けた。

「本日は特別なゲストをお招きしております。ああ、ゲストというのは、特別な招待客という意味の言葉です。さぁ、こちらへ」

 初老で白髪の鬼月家当主が、首だけで振り返る。
 するとそこには、ゆっくりと後ろの階段を降りてきた青年の姿があった。
 先程結櫻と話をしていた相手と同じ、茶色の紋付き姿。その顔を見て、時生は目を疑った。

「牛鬼様です」

 恍惚とした表情の鬼月家の当主の声に、片手で牛面に触れ、僅かに外して、鴻大がニヤリと笑った。瞬間、会場中が静まりかえる。直後、その場が騒然となった。

 阿鼻叫喚、悲鳴、泣き声、恐れ。
 溢れた混乱、人々が入り口へと向かって逃げ惑う。

「時生!」

 声がかかり、時生がハッとした時、偲が目の前に駆け寄ってきた。険しい顔をした偲が、抱いていた澪を時生の腕に渡す。

「澪を頼む。入り口は、封鎖されている様子だ。二階の部屋の方が安全に思える。どうか、澪を守ってくれ」

 偲の声に、瞳を不安そうに涙で潤ませている澪を抱きしめ、時生は息を呑む。
 一瞥すれば、閉ざされている入り口に集まった人々が、なんとかたたき壊そうとしていた。二階へ通じる階段は、まだひと気がない。

 牛鬼は悠然と笑いながら、不意に鬼月家当主の首を、手にしていた扇で打った。
 すると当主が大きく口を開け、近くにいた招待客の首筋に噛みついた。
 悲鳴を上げたその客は、床に倒れ込んで動かなくなる。だが、少しするとゆらゆらと立ち上がる。その瞳には、光が無い。そしてその者もまた、近くにいた客の首筋に噛みつき始めた。

「っく、牛鬼の妖力を身に受けて、噛まれた者は一時的にあやかしになるらしいな」

 偲がそちらを睨めつけている。牛鬼は次々と扇をふるう。すると会場中に、あやかしに操られた敵が羅我はじめる。それまで人だった者があやかし側に下っていく。時には噛まれても数分は意識がある者もいるようだったが、すぐに禍々しい妖力に全身を蝕まれていく。

「時生、行け。退路は俺が作る!」

 偲はそう言うと床を蹴った。意を決して、時生はその後に続く。



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