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―― 第三章 ――
【061】浄化の技法
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その時、呻き声が聞こえ、時生の顔に濡れたものがかかった。驚いて目を開けると、目の前に割って入った裕介が、首を強く噛まれていた。そこから、血飛沫が飛んでくる。それが己の頬を濡らしたのだと気づいたのは、裕介が手にしていた守り刀を、襲ってきた相手の胸に突き立てたのを見た時だ。黒い模様が首まである相手が、がくりと床に倒れたのとほぼ同時に、裕介もまた絨毯の上に膝をつく。
「裕介様!」
「……っ、裕介お兄様と呼べと言っただろう。物覚えが悪いな」
辛そうな声で言葉を放った裕介が、右手で左首を押さえながら立ち上がる。
そして振り返った時、その体にびっしりと汗をかいているのが見えた。シャツの下から、黒い茨の模様が、裕介の肌に広がっていく。振り返り時生を見て、当初は必死な様子ではあったものの笑っていた裕介の黒い目が、次第に光を失っていく。
時生がハッとした時、裕介の唇が震えた。そして、口が大きく開いていく。
裕介が地面を蹴った。
時生が仰け反る。すぐに裕介もまたあやかしに近しい存在に化したのだと、意識的には理解していた。だが、動けない。再び、ギュッと目を閉じる。庇ってくれた、それが頭の中に浮かんでくる。それなのに動けない自分が不甲斐ないと、そう考えて胸が苦しくなった。
すると肉を食い破る音が響き、再び時生の体に何かが降りかかってきた。
反射的に双眸を開けると、僅かに瞳に光を取り戻し、いつものように怒っているような顔に変わった裕介が、彼自身の左腕に歯を突き立てていた。裂けた腕のシャツの合間からは、露出した肉が見える。
「時生!」
「裕介様……」
「さっさと俺を倒せ!」
「!」
「こ、このままでは、またすぐに俺の意識は飲まれる。そのようなこと、高圓寺家の当主として恥だ。お前も高圓寺の血を引く人間で――そして今お前には居場所があるのだろう!? 早く、その平和を守ればいい。さきほど俺に行ったじゃないか。高圓寺家の当主として命じる、早く俺を倒せ! 武器の一つや二つあるだろう!?」
叫んだ裕介の姿に、時生が目を見開く。それから思わず唇を噛む。
服の内側にある、軍部で配布された短刀の存在を思い出す。ダラダラとこめかみと背を汗が伝っていく。胸元を押さえた時生は、護刀の存在を掌で感じる。
「時生、お前は俺が憎いだろう!? 迷うな! 怒りの解消を堂々と出来る好機だとでも思えばいい。今なら大義名分があるぞ? 俺がどれだけ俺を虐め抜いたか思い出せ。早く……殺れ!! こ、これは――最後の命令だ! 俺に復讐すればいい!」
それを聞き、時生の指先が震えた。
脳裏に様々な裕介の酷い仕打ちが過る。それは、裕介の言う通りではあった。
「さっさとし、しろ……っ、早く! あやかしと化すなど、高圓寺家の当主として名折れなんだよ! 早く……っく、このままじゃ、俺はお前を噛んでしまうから、早くしろと言っているだろうが!!」
裕介の声が切実さが滲むものへと変化していく。
思わず時生は激しく首を振った。
「そんなこと出来ないよ! 裕介様は、僕の家族なんでしょう!?」
するとそれを聞いた裕介は、虚を突かれたように目を丸くした。
それから時生の前で初めて、それこそ人生で時生が記憶しているかぎり初めて、唇の両端を優しく持ち上げた。その瞳には苦笑が滲んでいる。
「……お前を助けるだなんて、俺も馬鹿だな。なあ、時生。最期だから言うが……これまで酷い事をして、悪かったな」
「!」
微苦笑している裕介の瞳が、再び蒙昧とした、仄暗いものへと変わり始める。
「時生、迷うな……お前は俺の弟なんだからな……もう俺のことは諦めろ」
裕介は呟くようにそう言うと、目を伏せ、そして他の者のように変わった。
ふらふらと時生へと近づいてくる。
その口が、大きく開かれたのを、時生は見た。
だが今度は、時生は体に力を込め、下ろしていた拳を強く握った。
「僕は、諦めない!」
力強くそう声を出した時生は、訓練のことを想起した。まだまだ成功率は決して高くはない。けれど、破魔の技倆を用いた浄化の力を、既に何度か用いることに成功している。一度天井を見上げてから、改めてしっかりと裕介を視界に捉え、時生は決意した。
――僕が、僕が必ず助ける。
――裕介様だけじゃない、ここにいるみんなを。
――守られているだけでは、ダメだ。
――僕が、助けるんだ!
きつく瞼を閉じ、脳裏に破魔の技倆を使うために必要な、無心の紋を描く。五芒星の中央に陰陽の丸を思い浮かべる。そしてそれらの中央に、浄化の技法を使うために必要な、高圓寺家に伝わっていたとされる、軍に記録されていた、特別な青い不死鳥が羽を揺らす姿を思い浮かべた。すると、先程裕介から受け取り胸元に入れておいた布袋が、同時に温かくなりはじめた気がした。しかしそれには構わず、握っていた右手を持ち上げて、時生はしっかりと目を見開く。
直後、会場中に強い風が吹き荒れた。それは冷たい風だというのに、全てに青い焔が宿っていた。人々を、その青い嵐が飲み込んでいく。すると絶叫が方々で上がり始め、バタバタと会場の半数の者が床に倒れた。テーブルにぶつかった者も多いようで、ワイングラスが落ち、硝子が割れる音が響く。青い焔がまとう風が体に吹き付ける度、あやかしと化していた者達は、体を浄化されたようで、黒い茨の模様が消え、絨毯に頽れ、倒れていく。まだ普通の人間だった者達は、驚愕したように立ち尽くしている。
「時生、よくやった!」
そこへ駆け寄ってきた相樂が、大きく肩を叩く。
「それでこそ、俺達あやかし対策部隊の人間だ!」
力強くそう言ってから、相樂は、この騒動にも我関せずといった様子で、扇を動かし偲達とやり合っている牛鬼を睨めつけた。
「必ずここでで倒すぞ!」
「はい!」
大きく返事をしてから、時生はチラリと床に倒れている裕介を見る。
すると雛乃が駆け寄っていた。
「私が見ているわ。だから、行って。時生さんと叔父様なら、きっと出来るわ!」
彼女の声にも後押しされて、笑顔を浮かべ頷いてから、時生もまた牛鬼の方を睨めつけた。
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