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【後編】第十章 チョコレートに溶かされて

今更気づいた怖さと苦しさ。

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 その後どうなったのか記憶が定かじゃない。怒り狂う二人が希星に抱き着いたところは覚えている。
 ずっと笑顔を絶やさなかった彼女の目元はメイクと全く異なる赤みを浴びていた。
「落ち着いた?」
「……ぁ」
 彼方の母が放心状態だった水樹の隣で冷めたホットチョコレートを飲む。
「今夜は光希ちゃんの家に泊まるそうよ。芳美ちゃんも実家に荷物を取りに行ったわ」
 彼方の母はそんな水樹の状態を察したのだろう。流れを簡単に説明され、項垂れながらも頷く。
 薄々、希星がオメガだとは勘づいていた。数ヶ月に一週間程度の休みに、成績。この二点に関しては偶然が重なったと捉えることもできる。
「お……俺、取り乱すどころか……。ずっと氷みたいに固まっていて……本当に情けないです……」
『運命の番が現れようが絶対に離れられない』
 あんなにも熱心に番のことを口にするベータは稀だ。世界中探せば、「ウンメイノツガイ? ナニソレオイシイノ?」と言う人も少なからずいるだろう。しかし、どれが自分の運命なのかわからない世だ。アルファやオメガもその絆に強い憧れはあるが、相手がいつ現れるか予言することも不可能だ。
「……情けないんじゃなくて、怖かったんじゃない?」
──カタン。
 軽めの開閉音に我に返る。そこはリビングのソファでも、自宅でもない。オレンジと白のストライプ模様の壁紙、右奥に設置された勉強の机は物が散乱している。ソファかと思いきや、水樹が腰を下ろすのはシミなど年季の入った子供用布団がかかるベッドだ。
(彼方の部屋に通してもらったんだ。帰るのが遅くなるとメッセージがあって……)
 部屋全体が彼方のフェロモンと香りが入り混じりになり、行き詰まった脳がふわふわしてくる。じんわりと汗はかくが、苦しさはない。
(本人の方が香りが強めだからかな)
──カタン。
 音の主は家具だった。勉強机の一番下にある引き出し。目をやれば中身がモロ見えで、リングノートが大量にあった。
 特に後先考えずベッドを立ち、厚紙の一冊開いた。
「──わ」
 ページ一面に写されるのは長髪の男。アナログ写真かと見間違うほどの立体感。恐らく使用されたのは黒い鉛筆一本のみ。濃淡を活かしつつ、瞳の光が命を吹き込む。文化祭の日に覗き見た、でかいキャンパスの男を想起させる作品だ。
『七月十三日。十回目の外出デートで映画を観に行った。リメイク版に関しては幼き頃の感動が微塵もない駄作だったが、代わりに水樹ん家でオリジナルを鑑賞後、絵のモデルを引き受けてもらえた。魅力的過ぎて鼻血出るかと思った。今日からはモデルの対象を一人に決める。治療再開』
 映画を観た日付が男の下に記載され、付け足されるように日記が綴られていた。横のページには文章がびっしりで、行動範囲や、どんな言葉をかけたのかが事細かくある。
 次のページはタオルで汗を拭う男が、そのまた次には缶ジュースに戸惑う男の様子が。記憶の一枚を写真で切り取ったかのようなそれらと、
『今日もまた覚えていられた。良かった』
『記憶が戻るのと水樹を忘れるのはイコールにならないはず。いや、絶対になってみせるもんか』
『薬苦いし、腹壊した。めちゃくちゃ辛い。水樹の笑顔がなかったら今日一日無理だった。早くアルファに戻りたい』
 丸文字で構成された最後の行には、必ず自分への励ましや鬱憤した感情が書かれ、別のノートも同じ展開で時が進む。
『九月四日。アルファ治療への苛立ちや焦燥感がピークに達して大事な水樹に酷いことを言い放った。最低最悪。秋の風がもっと早く頭を冷やしてくれたらな。鷹っちにも水樹の人生を束縛するなと怒られた』
 亀裂が入り、彼方がぶっ倒れた日だ。スケッチブックの男は一筋の涙を流す。涙も鉛筆で描いたと思えない完成度だ。
『適度な距離を取りつつ関係を続けるのって最難関じゃないのか? 水樹を他の誰かに盗られたらどうしよう』
 日を追うごとに増える不安な文章。詳細な記録部分が削られ、不安を書き殴る日も読むうちに出てきた。
『なんでだよ、なんでアルファに戻れないんだよ。昔の僕がベータでもいいって思ったから?』
『水樹が着実に離れていくのを実感する。……取り返しつかないことした』
『十一月二十二日。記憶喪失後、言伝が親子の繋がりだったパパと病院帰りにきちんと話し合った。フランス行きが正式に決まる。現在の僕は、戻り始めた昔の記憶と今の記憶を保持した変な存在で、母さんの元に返してくれたパパを恨みきれない。それと、記憶を失った僕が水樹に迷惑をかけるのは嫌だな』
 もうこの辺りになると、男の表情は花で隠されたり、黒色で塗り潰される。ところどころに灰色の染みが滲み、大量の消しカスがノートの谷に溜まる。
 どのページも余すことなく文字や絵で埋められた中で、十二月二十五日は空白の多く至ってシンプル。このノート最後のページだった。
『十二月二十五日。もし、運命の番になれたのなら。もし、アルファに戻れなくても。もし、また記憶が消えちゃっても』
 とくんとくんと鳴る心臓。水樹はネガティブな三文並んだノートを閉じず、十二月二十五日からのノートに手をつけ、厚紙の表紙を捲った瞬間に目を大きく見開いた。
 それまで黒しか使用しなかった男にカラフルな彩りが施され、無邪気な笑顔だ。幾度となくモデルとなった男の隣にはもう一人別の男もいる。二人は絡ませた手をノートを前にする者に堂々と見せつけ、左薬指を輝かせた。
「今後どんなことが身に降りかかろうと、僕は運命の相手を必ず迎えへに行く。そう遠くない未来で夫夫になろう」
 アナログの有機物が喋るはずもない。春風を呼ぶような誓いに顎を上げれば、頬を赤色に染める彼方が立っていた。目を細められ、食べたばかりのチョコレート味が鼻の奥から立ち上る。
「見られるのも時間の問題だったな」
「あっ……勝手に……」
「いいんだよ。まあ、小っ恥ずかしさはあるね」
 手袋をしなかったのか両頬に添えられた手が冷え冷えだ。自らの熱さを自覚しながら涙が額の方に流れた。
「お、俺……」
「うん?」
「独りだった時に支えてくれた友達が辛い思いをしていたのに動けない薄情者で、フランスから帰る彼方を待つことの危うさを今更感じた大馬鹿で……」
 口の中で涙の液体が混ざる。酸っぱく、ほろ苦い。
「……そっか。だからって自分を貶める必要はないよ。怖かったね」
 恭子は部屋に案内すると、出掛けていった。どこへ向かうのか察しはつく。言い残された「怖かったんじゃない?」の真意を解釈しきれずにいたが、彼方の穏やかな声音を聞き、ぶわっと鳥肌が立つ。
「む……無力な自分がとてつもなく惨めだ。無駄に格好付けといて、人の気持ちを踏みにじるわからず屋。彼方の誘いも断った。最高にダサい……」
 体勢を低くした彼方は、垂れ流れる涙をちろちろと舐める。目の縁、細い眉、髪の生え際を。毛穴をくりくり舐められた時はつい「バカ彼方」と漏らしてしまう。驚きはするが当人はふふっと笑うだけだ。
「なんで……。人が、真剣に……」
「ごめんごめん。結果はどうであれ、相手のことで泣けちゃう水樹はダサくない。これ、水樹が教えてくれたことだよ?」
 教えた覚えなんて……と記憶を遡ると、声が出なかった頃、屋上で彼方が水樹のために泣いた出来事が思い当たる。
「関口さんのことだ。今度会った時にいつも通り接したら大丈夫。その方が彼女も救われるよ」
 顔を起こせば一気に血液が廻り始め、ふらふらながらも彼方にしがみつく。涙の止め時もわからず、思考を放棄する。
「大丈夫、大丈夫だよ」
 子供をあやすみたいに、一定のリズムで丸まった背を叩かれる。呪文のように繰り返される言葉は心地良く、水樹は声を押し殺さず泣いた。

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