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翡翠挽回 中:グリーン編

バッドエンドナイト

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 理屈が分からないものに嘉名は与しない。都合の良い理想は追う価値がない。甘い夢にとびつくと碌な目に遭わないのは身をもって理解している。
 だから———正義の逆位置にあると理解していても、嘉名はレッドに従わざるを得なかった。
 当代ヒーローレッド、赤端には決して逆らってはいけない。地位と権力と未知数の戦闘能力を下賜された神の御使いである———彼の望みは先回りして叶えておくに限る。絶対に機嫌を損ねてはならない。根拠など知れている、正義も道義も関係なく、あの人が一番この世で強い生き物だからだった。
 「彼は防衛線でよくやっているようだね」
 ヒーローとして致命的な汚名を被ってからブルーは界境防衛ラインに左遷されていた。嘉名は背筋を正したまま汚らしいものでも口にするかのように返事をする。
 「あの男娼がどうか致しましたか」
 「伝令が入った。どうやら良くない友達に影響されているらしい……ミドリも、来てくれますね」
 まだ懲りずにごっこ遊びをしているのか。内心で嘉名は舌打ちをした。首都から追いやられてなお、上層部の指示を反故にする気狂いぶりには拍車がかかるばかりだという。今は現地の兵士数名と連んで死傷者数を減らすために奔走しているらしい。軍部に紛れ込ませた密偵から話は聞いていたが、遂に赤端の耳にも入ってしまったようだ。
 「取り憑いた穢れを祓ってあげましょう」
 神威を背負った美丈夫が笑う。嘉名はただ、尤もらしく頷いて、言い訳のようにお前が悪いのだと胸の内で一つ唱えた。
 青井清一はわかっていないだけだ。『レッドに逆らってはならない』ことを、今はまだ、あいつは芯から理解できていないだけ。それでも反抗を続ける馬鹿なら……いずれ嫌と言うほど序列を理解させる学習機会が設けられることを、嘉名はその経験から理解していた。

 ———夜明けを待つ防空監視哨。
 一面撒かれた赤と、まだ湯気のあがる腸の酸っぱい匂いがした。
 外れかけの電灯に明暗が脈打つ。昏い参謀室に白が差す。揺れる電灯、千切れた胴体、机に溢れた珈琲のカップ。屍の中心でうずくまる男が一人。
 「ぁ、ああ~……、ぁあ、ぅ。ぅううう」
 頭を掻きむしる群青頭の周りには×××にされた防衛隊員が虫螻のように折り重なっている。突然の凶行を止めようとしたブルーのオトモダチだ。最後の一人があぶくを吹いた。肉を断つ重い音を以て、青井の手は漸く持ち主の言うことを聞き入れた。
 「……ぅうう……ッひ、ひ、ぃい」
 隊員の返り血を浴びた青井は怯え、何が起きたか理解できないという面をしていた。それはそうだ。知らされていなければ、己が人形のように操舵されるなどとは夢にも思うまい。がらんがらんと重たい音。青井の手からナイフが滑り落ちた。後はついた膝を見つめて唸るだけ。……机の端から珈琲が滴り落ちた。
 震える声が弓を構えるグリーンを通り越し、背後の赤端に問う。
 「……本隊の罪状は」
 「叛逆罪だ。よくない友達を持ちましたね」
 「はんぎゃく?何に対する叛意を咎めたものですか……?」
 「それは当然、我らが神に対して———玉座に在します主に対して、さ」
 その時嘉名は見た。真っ直ぐ持ち上げられた深層の青を、恐怖を抑え込んだ信念の瞳を。
 「生け贄をたてずに済むよう力を尽くすことが、神の意に背く行為ですか」
 「供物は大切でしょう。贄達は幸運だ、慣例には従わねば。———祝福が」
 「受けられなくなる?———馬鹿馬鹿しい。お前は只の殺人鬼だ、赤端!!」
 嘉名が部屋の外に弾き出されたと同時、銃声と爆音が内壁を砕いた。およそ四分間に及ぶ反抗を、嘉名はただ壁に背をつけて眺めていることしかできない。
 (どう考えたって勝算なんかないだろ)
 馬鹿な奴。果敢にも挑みかかるブルーに嘉名は頬を引き攣らせる。
 (どうせ殺される。ぼくらこいつの玩具だもんな。そんなにがんばっちゃってさ、石をうめられたやつは、みんな。みんな———。)
 監視哨が崩落する。閃光と、それに追い縋るよう伸びる斬激。胸に拳を当てて青井が叫んでいる。
 「———石が人より大事か!!こんな石塊が、命より大切か!?」
 (どうせかなわない。ひどいめにあわされる。このひとには、全部きこえてるし、みえている———石が教えてしまうから)
 赤端の顔を右半分、青井の銃撃がくり抜いた。瞬きの間に再生するが、その合間を縫って二度、発砲の灯りが闇間を裂いた。ブルーの心臓に取り憑いて脈打つ輝石、ヒーローヂカラの源にひびが入る。青井は己の臓器諸共、鉛の弾丸で胸の輝石を撃ち砕いたのである。
 (石があの人に教える。石が僕らをあやつる。いしが、邪魔を……しなければ)
 嘉名は瞠目する。支配を逃れることができるかもしれないと、そんなこと考えはしても実行する馬鹿は今まで一人もいなかったからだ。普通なら即死は免れられない自殺行為だが、改造を重ねたヒーローの体は既に一般的なヒトの範疇を超えている。

 ———青井の動きが格段に速度を増した。嘉名はレッドに斬りかかる影に、その日初めて畏れを抱いた。手元が見えない。初撃でなで切りにされたスコップは寸刻みに床へばら撒かれ、得物を持たぬ身体は容赦の無い斬戟にあちこちこぼれて自立も難しい。転がる首は足で留める。コマ送りにされた映画の如く、レッドは手、足、胴と腿を分かたれ———青井の剣先は真っ直ぐ仇の心臓部を目指す。異能の源、力の源泉たる結晶体へ。
 「赤端ァアッ!!」
 「———残念だ、青井清一」
 刃先が心臓に斬り込んだと同時、切り取られた頸の断面がごぶりと血液を吹いた。盛り上がった生白い肉が口を利く。物わかりの悪い子供に諭すように、穏やかな口ぶりは変わらなかった。
 「……少しは考えなさい。そんなよくわからないもの、自分に入れる筈ないだろう?」
 四方八方に散った男の破片がコンクリートの上で白く傷み、腐敗を逃れて風化していく。傷口は盛り上がって真新しい四肢へ。深く斬り込んだブルーの身体が傾いだ。胸を押さえて蹲る。
 ……髪の毛から爪先、その紅衣まで完全復活を遂げた異形が、人に似た口を開いた。
 「私に水晶は入っていないんだ……。全ては主の、フ、ンフ……私の思うままだ。信じてたヒーローはどうですか?思っていたものと違いましたか?……生き残った子供。ねえ、生焼け白痴の清一くん」
 「ぁ、あ……っ!が、う、ヴッ」
 「ああ、ああ。可愛そうに。直ぐに石が塞いでくれますよ」
 「ギャァアッ!!ぅああアッ!!」
 清一を仰向けに蹴倒した彼は、こうろこうろと胸部の傷へ指を差し入れた。掻き回した長い指には鮮血がべっとりと纏わり付く。紅衣がはためき、血溜まりの染みを吸い上げた。
 (やはり、駄目だった———。)
 崩落を免れた廊下、事の成り行きを見守っていた嘉名は知らず落胆していた。胸を押さえて薄く唇を噛む。青井は胸部を押さえてもがき苦しんでいた。石の支配が戻った証拠だ。ヒーローの胸に埋め込まれた結晶体は、破壊されてもそれ自体が再生しうる……撃ち砕いても継ぎ合わさって、再び被験者の体を支配下に置く。赤端の支配から逃れることは不可能なのだ。加えてレッドには結晶体が埋め込まれていない。それはヒーロー唯一の弱点すら彼が持ち得ないことを示している。
 「ミドリ」
 弾かれたように嘉名は起立し、斜めに傾いた参謀室に一人立つ男の下へ駆ける。死体処理か、それとも留めをご所望か。……さぞ絶望に曇った面だろうと矢をつがえ、嘉名は見てしまった。
 口から内臓をこぼさんばかりの男が、未だ赤端を睨み据えていること。宿された義憤の焔が瞳の奥でいよいよ燃えさかっている様を。

 ……わからない。この男がわからない。指先が震える。つがえた鏃に込めた力が散逸していく。

 赤端の隊服には端々に血が滲んでいた。———怪物に回復しきっていない箇所があるのを、ブルーは伏したまま嘉名に示唆していた。

 「……やめろ……やめろやめろ、やめてくれ———!!」
 手先が震える。赤端が見ている。なんて情報を教えてくれた。嫌だやめろ、魔が差したってそんなことするものか。……それなのに目が合うだけで、白く呆けたやさしい世界に異端の青が混じっていく。訴えるような視線に煽られて、世界が痛々しくも彩りを取り戻し始めた。そんな風に。ぼくを見ないで。
 破滅まっしぐら間違いなしのコマンドが眼前に現れる。
 弓をひきますか。ひきませんか———。

 とん、とやさしい音がひびく。
 振り向けば赤端が破顔していた。
 「大丈夫」
 腹があつい。差し入れられた得物を追って腹に触れると、背まで貫くぬめりが感じられた。
 「大丈夫、ふたりとも———今日起きたこと全部を、忘れられるからね」

 『つよい生き物には逆らってはならない』。
 従順に、機嫌を損ねないようにしていれば、これの庇護を得て安寧を許される。シンプルかつわかりやすい理屈だ。人間界で死ぬまでぼんやり生きていたいならば、これが一番賢いやり方だった。多くを望まず、高みを目指すこと無く、死ぬまで安らいでいられると初めからわかっていたら———僕は今度こそそっちを選ぶ。
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