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2巻
2-1
しおりを挟む第一章―――― 死戦前夜
魔兵達の気配が遠く離れ、私達の周囲の空気からは徐々に緊張感が薄れてゆく。まずはこの場を凌いだ、ということか。
「ドランさん、大丈夫ですか!? もう、あんな風に笑うから、私、ドランさんに何かあったらどうしようって、凄く心配だったんですからね!」
ラミアの美少女セリナが猛烈な勢いで私の所へと這い寄って来て、私の両肩を掴むや、がくがくと揺さぶりながら涙声で喋りかける。
視界が揺さぶられる中、私はセリナには過剰な心配をかけてしまった事を悔やんでいた。
エンテの森で知己を得たウッドエルフの兄弟ギオとフィオの住まう村が魔界の軍勢に襲われている事を知り、助勢に駆けつけた私達だが、魔兵を率いる一騎当千の猛者、ゲオルグ、ラフラシア、ゲレン、ゲオルードらを前に分断され、苦境に立たされることとなった。
ゲオルグの放つ渾身の一撃に対し、私は古神竜の力をもってこれを打ち破ったのだが、並みの人間ではひとたまりもなかっただろう。セリナが取り乱すのも無理はない。
私は、セリナの手に私自身の手を重ね、優しく声をかけて落ち着かせる事にした。
「大丈夫だよ、セリナ。私はこの通りかすり傷一つ負ってはいないよ。セリナ達の方こそゲレンのような強敵を相手に、怪我をしていないか?」
「私は大丈夫です。クリスティーナさんが前に出て戦ってくださったので、私は後ろから魔法を使うだけで良かったですから」
セリナはそこまで言うと、青い満月のような瞳の端に涙の粒を浮かべ、感極まった様子で私に抱きついて小さな肩を震わせる。私はその肩を優しく抱き止めて、赤ちゃんをあやす要領で優しく撫で続けた。
「そうか、ならクリスティーナさんにはお礼を言わないとな。クリスティーナさん、傍目に見ていた分には怪我は負っていないように見えたが、大丈夫かい?」
魔剣エルスパーダを鋼鉄の鞘に納めたクリスティーナさんは、私に色々と聞きたい事がありそうな顔をしていたが、セリナの様子を見てそれを後回しにしてくれたようだった。気遣いのできる方で助かったな。
「多少の疲れはあるが、問題はないさ。骨は折れていないし、特に斬られたりもしていない。いくらか肝を冷やされたがそれくらいかな。色々と聞きたい事はあるが、今は後にしておこう」
「そうしてくれると助かるよ。それにギオ達の方も私達に話があるみたいだ」
私は、駆けて来るギオへと振り返り、軽くセリナの背中を叩いて、甘えさせてあげられる時間が早くも終わりを迎えた事を伝えなければならなかった。
私達はギオとフィオに先導されて、一旦静寂を取り戻したウッドエルフの村へと案内された。黒薔薇の精ディアドラが無言で後に続く。
エンテの森で最も西にあるウッドエルフの村は、サイウェストというらしい。夜は既に更けていたが、月明かりの他にも発光性の苔があちこちに群生し、枝には発光虫を納めたランプが吊るされていて、光源に困る事はない。ウッドエルフ達は巨木の空洞をそのまま家屋として利用していたり、あるいは枝の上に板を渡して家屋としていたりするようだった。
村には張り詰めた雰囲気が漂っていた。ギオ達に案内されているとはいえ、本来エンテの森に居るはずのない人間である私達の姿に、懐疑の念を向けるウッドエルフ達の姿が散見される。かすかに香る血の匂い、痛みに苛まれる者達の呻き声、死者の魂を冥界に運ぶ低級の霊やそれらより格の高い死神、親しい者の死を嘆き悲しむ者達の泣き声。これらが、平時は豊かな森の恵みと共に生きるはずのこの村に満ちていた。
気の弱いところのあるセリナなどはゲレンを相手に勇猛に戦っていたのが嘘みたいに、私の陰に隠れるようにして這っている。
まだ私と離れ難いのか、セリナは私の左腕に自分の右腕を絡めていて、少しでも私と触れていたいらしい。
「あんまり歓迎されている様子はないですね」
セリナが不安げに問いかけてくる一方で、クリスティーナさんは興味深げに村の様子を見回している。周囲から降り注ぐ視線をちっとも気にしていない。
ゲレンとの戦いは相当な疲弊を強いられたはずだが、それが顔に出た様子はなく、心身ともに強靭にできているらしい。
私はセリナに返答しつつ、先導しているギオの背中に問いかけた。
「時期が悪い事を考えれば仕方がない。行動で認めてもらう他ないだろう。ギオ、私達をどこへ案内するつもりなのか、教えてもらえるか?」
「族長の所だ。そこに他の種族の戦士達も集まっている。君達を紹介して現状を確認するのにも、その方が手っ取り早い」
「ふむ、合理的だな」
ディアドラはギオと話をする私達に時折視線を向けるがそれだけで、後は黙々と歩くきりだった。森の中とさほど変わらない村を歩いていくと、ひと際大きく太い木が見えてきた。大の大人が三十人は手を伸ばさなければならないほど太く、濃い緑の葉を生い茂らせているその巨木は、雄大な存在感を発している。この辺りで最も古い、長老の木だという。
その長老の木の根元に、今まで見た中では一番大きな家があり、ウッドエルフの氏族ごとに持つ紋章が縫いこまれた旗が玄関に立てられている。他の家には見られなかったものであり、この旗が族長の証なのだろうか。
家の前にはウッドエルフの戦士達や狼人、虫人、鳥人の戦士らが集まっており、ギオが連れて来た私達に好奇と疑いの視線が再び降り注がれる。
「族長達と話がある。中に居られるか?」
「ああ。魔界の者達への対策について皆で話し合っているところだ。ギオ、その者達が例の?」
灰色の毛皮を持った狼人の青年がギオの後ろに続く私達を一瞥して問う。この場に居る全員の心のうちを代弁した形だな。
「その説明を族長達にこれからする。心配はしなくていい。ベルン村の者だそうだ。あそこの人間達は前に約定を交わした事もある相手だ」
「そうか、あの村のな。族長達はいつもの所だ。行くなら早くした方がいい」
ギオは狼人に頷き返すと私達を連れて族長の家へと入る。見慣れぬ家の中の調度品や様式に目を惹かれがちになるが、切迫した事態に陥ったこの現状、悠長に観察している暇がないのが惜しまれる。
ギオは勝手知ったる様子で族長の家の中を進み、時折すれ違うウッドエルフ達と挨拶を交わして、家の一番奥にある大きな部屋へと私達を導いた。
有事の際に使う広間か何かなのだろう。天を貫く巨木と、そこに集まる森の様々な生き物達の刺繍が施された一枚布をくぐると、巨木の幹から切り出したと思しき大円卓を囲む人々が居た。
端整な顔立ちに深い皺を刻んだウッドエルフと、私より三回りは大きい体を白い毛皮でもこもこと覆った狼人。更に下半身が赤い甲殻と細やかな体毛を生やした蜘蛛の姿で、上半身は妙齢の美女というアラクネ。
この三者がウッドエルフを中心に腰かけている。ウッドエルフがギオの言っていた族長で、他の二者もそれぞれの種の長達と見て、間違いはなさそうだ。
三者三様の視線が私達に突き刺さる中、ギオとフィオがすっと前に出て小さく頭を下げる。
「デオ族長、ヴライク殿、アルジェンヌ殿、ただいま戻りました」
デオがウッドエルフの族長、ヴライクが狼人、アルジェンヌがアラクネの名前か。デオは私達の顔を見回してからギオへと視線を戻して口を開き、重い声で話し始める。
「よく戻った。マールは無事見つかったそうだな。何よりだ。北の防壁での戦いの知らせは受け取っている。ディアドラ、よく戦ってくれた。敵は魔界の花の精だったそうだな」
「ええ。皆の命を啜った外道とようやく顔を合わせる事ができたわ。倒す事はできなかったけれど、次こそは必ずあいつの息の根を止めて見せる」
これまで口を閉ざしていたディアドラがおもむろに口を開く。ディアドラをしても黙ったままでいられる立場の相手ではないのだろう。
「あまり血気に逸るな。お前は普段は冷静なくせに、一度頭に血が上ると視野が狭くなる」
「頭の片隅に留めておくわ。思い出すかどうかは分からないけれど」
「やれやれ……。ところでギオ、そちらの方々の事を紹介してくれるか? ヴライクやアルジェンヌも気になって仕方がない様子だ」
「おれはそこまで気にしちゃおらん」
「私は気になります。魔兵とそれを統率する者達と、互角か、それ以上に戦われた方々と聞いています。それが私達にとってどんな意味を持つか、本当はヴライクとて理解しているでしょう?」
ヴライクの狼の顔から胸のうちを読み取ることは、至難の技のように思えたが、アルジェンヌの言葉を受けて図星だったのか、少しだけ顔を背けた。ふむ、分かりやすい。
アルジェンヌは、八つの眼の視線を私達に這わせている。
人間と同じ造作の二つの瞳の他に、額やこめかみなどに蜘蛛の眼が六つあった。
「魔兵達に追われていたマールを助けてくれた者達です。族長達もベルン村はご存知だと思いますが、その村からやってきた者達で、彼らの村の近くにこの森の者達が姿を見せた事を不審に思い、調べに来たと言っています。北の防壁での戦いでは彼らにとても助けられました。彼らがいなければ、多くの者達が犠牲になっていた事でしょう」
「ベルン村か、懐かしい名前だな。確かにあの村の位置ならば、魔兵に追われた者達が姿を見せてもおかしくはないか。魔兵達との戦いに助力してくれた事に族長として、そして森に生きる者として、礼を言わせてもらいたい。ありがとう」
ギオの説明を受けて礼を述べるデオに、私達はそれぞれ応えた。
「ふむ、私達も私達の事情があってした事。あまり気にしないで頂けると助かります。名乗るのが遅れましたが、私はベルン村のドランです」
「セリナです。ベルン村でお世話になっています」
「クリスティーナと申します。私はベルン村の者ではありませんが、ドラン達と故あって行動を共にしています」
「とんだ災難に巻きこんでしまったな。まずは座られると良い。楽にしてくれ」
デオ族長に着席を促され、素直に従って円卓に着く。すると奥の部屋から木製の盆に人数分の木のコップを載せたエルフの給仕が姿を見せた。
コップの中の液体はかすかに緑がかっていて、果汁を搾ったものらしい。一口含むと、口の中から鼻孔の奥にまで爽やかな香りが満ち溢れて、気分を爽快なものにしてくれる。
「わざわざこのサイウェストまで来たのだ。何も伝えずに追い返すわけにもいくまい。ギオからはどこまで話を聞いているのかな?」
「このサイウェストの北に魔兵達の門が出現し、貴方達をはじめ、森の者達を殺戮して回っている事、そして近隣の種族が力を合わせて魔兵達に反攻を計画している事までは。それとつい先ほど、ゲオルグ、ゲレン、ゲオルード、ラフラシアという魔兵の統率者達と刃を交わしてきたところです」
「うむ。そこまで聞いているとなると改めて伝える事は少ないが、我々の現状だけでも伝えておこう。魔界の門が出現した影響でこの近隣の空間が歪んでしまい、我らウッドエルフの応援の到着が遅れているのだ」
「妖精の道が使えないと?」
ああ、とデオは重々しく頷く。妖精の道というのは、この物質界とは別の世界である妖精界を介する事で、遠く離れた地へ距離を無視して移動できる特殊な道だ。
それが使えず、応援が来ないとなると、サイウェストの人々は手持ちの戦力で魔兵達の駆逐を行わなければならないだろう。おそらくそれはかなり厳しいな。
「ゲオルグと名乗った者が三日と期限を設けたそうだが、我らはこれに応じる気はない」
ゲオルグらとの戦いからさほど時間は経っていないはずだが、既に三人の族長達との間で結論は固められていたらしい。ヴライクやアルジェンヌらにも不服はないようだ。
今回のような事態が起きる以前から、強い信頼関係を築いていたのだろう。
「三日では応援も間に合うまい。その為、我らは残った戦える者達を結集し、魔界の門を破壊して奴らをこの地上から追い払う」
ウッドエルフ達のみならず、近隣の他種族の命運も懸けて行われる戦いとあり、デオの表情にも険しさが増す。表情を変えずにたたずんでいたアルジェンヌが口添えした。
「魔界の者達が地上に顕現していられるのは、門から存在を維持する為の力の供給を受けているからです。門を破壊すれば瘴気の漏洩も防げましょう。後は森の自浄作用で、元の姿を取り戻すはず」
アルジェンヌの言葉に間違いはない。魔界と地上を繋ぐ門の破壊は、魔界の者達を撃退する上で絶対に欠かす事はできない。
だが門に近づけば近づくほど、それは魔界に近づくことを意味する。魔兵達の力は増して、逆に地上の生物にとっては過酷な環境へと変わるのだ。
敵が強くなるというのにこちらは弱体化を余儀なくされる訳だが、それはこの三人の族長達も承知の上での決断だろう。そうする事で出るであろう犠牲も覚悟のうえに違いない。
「奴らが三日の期限を切ったという事は、その三日で奴らにとって何がしかの準備が整う可能性がある。存在を安定させる為の魔界化が完了するか、新たな軍勢が出現するか……。それを許せば、この森の民達の未来は暗い闇に覆われてしまうだろう」
「貴方達の事情は分かりました。ギオとも話をしたのですが、私達はこのまま貴方達と共に戦うつもりです。こう申しては何ですが、魔界の者達との戦いとなれば、場合によっては私の故郷や王国にまで累が及ぶ可能性もあります。それを看過するわけには参りませんからね」
既に私とクリスティーナさん、セリナの間では決定していた事だ。断言した私に、クリスティーナさんとセリナから不満の声が上がる事はなかった。
しかし、デオは森の外の者達からの助力を受ける事に、ギオ同様に迷いがあるようで小さく唸って即答を控える。
沈黙の帳が下りるかと私が思った時、意外な事に、狼人のヴライクは私達と共に戦う事を容認する意見を口にした。
「おれ達の力を侮るのか、と言いてえところだが、お前さん達の防壁での戦いの様子を聞く限り、そういう口を利くだけの実力があるってのは確かだろう。いや、むしろおれ達の方が地面に額を擦りつけてでも頼まなきゃならんところだ。デオよ、向こうから力を貸したいと言ってくれているんだ。情けない話だが、戦える奴がいるんなら、誰であれ力を借りなきゃならん不味い状況だ。森の外の者達に力を借りるのが後ろめたいなら、その分、礼を弾んで筋を通せばよかろうよ」
一般に狼人は同族意識と縄張り意識が強く、よほどの事がない限りは他種族に頼る事をしない。
その狼人の長が私達を頼ると口にしたという事は、それだけ彼らが追い込まれていると推察できる。
ディアドラと同等に近い力があればゲオルグらと渡り合えない事もないが、そこまでの強者は滅多に居ないという事だろうか。
ヴライクの言葉にデオが思案していると、アルジェンヌが畳みかける。怜悧な光を宿した八つの眼は、全てデオの顔を映していた。
「私もヴライクの意見に賛同します。ドラン、クリスティーナ、セリナ、貴方達の申し出は私達にとっては望外の幸運。無論只で助力を請うなどと図々しい真似はいたしません。先ほどヴライクが口にした通り、助力を請う代わりに戦いが終わった暁には、私達でできるだけのお礼を貴方達にいたしましょう。例えば、今後ベルン村の方々と交流を持つのも良いかと思います。これまでは精々が木材を得る為に木を切り倒す事を黙認した程度でしたが、これからは我らアラクネの糸やそれで仕立てた織物、狼人族が狩猟で得た獲物や森の中でしか採取できない鉱石、ウッドエルフ達の育てている薬草や花で交易を行っては? 規模こそ小さな範囲に留まりましょうが、今挙げた品々は、人間の方々の間ではそれなりに希少価値のある品でございましょう。命を懸けた戦いをして頂くからには、それくらいの対価は必要であると考えます」
アルジェンヌからの提案は、私個人としては願ってもない事だった。
たとえ見返りがなかったとしても、魔界の者達との戦いに助力するのは吝かではなかったが、ベルン村にとって利益となる報酬が提案された今、私は人参を目の前にぶら下げられた馬のように新たな闘志が燃えるのを感じていた。
我がベルン村の金の成る木は、付近で採掘される魔晶石や精霊石の他にマグル婆さんとそのご家族、私が調合する魔法薬である。
エンテの森にのみ分布する薬草、魔法花の類が安定して手に入れば、より価値の高い魔法薬を調合して卸す事ができるようになる。
もっともラミア同様に、繁殖に他種族の雄を必要とするアラクネ種の長として、この提案の裏には、森の外の人間の雄と接触する機会を設けたいという目論見もあるだろう。
無論、得られた報酬を活かせるかどうかは、私を含むベルン村側の問題だが、まだ得られてもいないものの事で深く悩んでも、今は仕方あるまい。
アルジェンヌの提案は私達の闘志を煽るだけでなく、迷うデオの背中を押す為でもあった。
「そうだな。それくらいの対価を払うだけの事を求めているのは確かだ。君達が助力してくれると言うなら、できる限りの礼をしよう。我ら三人の族長が保証する。ドラン、セリナ、クリスティーナ、どうかよろしく頼む」
そう告げて深く頭を下げるデオに続き、ヴライク、アルジェンヌも真摯に頭を下げた。彼らの背中には森に生きる全ての者達の生命が乗っているのだ。
「死力を尽くしてご期待に応えましょう。ところで今回の事態について、人間の王国側に伝える手筈は整っているのですか? 人間から組織的な助力を得る危険性を憂慮されているとは思いますが、最悪の場合、王国の助勢も視野に入れるべきと考えますが……」
最悪の場合になどさせるつもりは毛頭ないが、仮にサイウェストと周辺の集落が陥落し、ウッドエルフの軍勢も敗れた場合、魔界の軍勢はエンテの森を出て、周辺諸国にも侵略の魔の手を伸ばすのは間違いない。
魔界の軍勢に対して何の備えもしていない状況で、そのような事態になれば、大地には無惨な死体が累々と横たわり、河川は血の赤に染まる事だろう。
「王国側へは私の方で連絡の手筈を整えてあります。懸念なく、魔界の者達との戦いに集中してください」
部屋の奥から姿を見せたウッドエルフの女性が、私の質問への回答を口にした。
金糸のごとく眩い髪を背に流し、纏うのは深緑色のローブ。切れ長の瞳の色はエメラルドの輝きに等しく、血が通っていないかのような白く透けた肌からは、美女の石像のような印象を受ける。
二十代後半と見える美貌だが、長命種のエルフである以上実年齢は外見からでは推し量れない。それを言ったら私の魂の年齢などは、この地上のどんな種族よりも古いものになるけれど。
私達からの視線にもまるで動じた様子を見せず、ウッドエルフの女性は物音一つ立てずにデオの右後ろまで歩いてきて足を止める。
ヴライクやアルジェンヌ、ギオやフィオ達にとっては顔見知りのようで、誰何の声が上がる事はなかった。
私はこの女性が誰かと問おうとしたが、隣に腰かけていたクリスティーナさんが驚きに満ちた声を上げた。この方がこうも感情を露わにした声を出すのは珍しい。
「学院長!?」
血よりも深く、ルビーよりも艶やかな瞳を大きく見開き、クリスティーナさんはウッドエルフの顔をまじまじと見つめる。
学院長と呼ばれたウッドエルフは、ちらっとエメラルド色の視線をクリスティーナさんの美貌に向けて、小さく窘めた。
「クリスティーナ、そのように声を荒らげてはいけません。淑女のする事ではありませんよ。それと、私はこの場では学院長ではなく、ただのウッドエルフ。呼ぶのならオリヴィエとお呼びなさい」
「クリスティーナさん、こちらの方は?」
セリナがちろちろと二股に割れた舌先を覗かせながら質問した。
「私の通っているガロア魔法学院のオリヴィエ学院長だ。ウッドエルフである事は知っていたが、ひょっとして学院長のご出身はこちらなのですか?」
「学院長ではなくオリヴィエです。質問に関してはその通りですよ。このエンテの森が私の故郷。随分前に森を出て外の世界で暮らしていたのですが、このような事態を知り、駆けつけたのです。魔法学院の学院長としての職分はきちんと果たしたうえでの事ですから、心配は無用ですよ」
「は、はあ。そうでしたか……」
クリスティーナさんはオリヴィエに対してどう反応するべきなのか分からず、終始困ったような顔を浮かべている。
ふむ、こんなクリスティーナさんを見るのは初めてだな、と私が感心していると、セリナが顔を寄せてひそひそと小声で話しかけてきた。
「ドランさん、ガロア魔法学院って何ですか?」
「ふむ? 私達のベルン村の南方にある都市がガロアで、そこに魔法を教える王立の学院がある。都市から名前を取って、ガロア魔法学院というのだよ。ガロアは王国の北部でも主要な街道が交錯する土地で、北部各地の特産物や情報、お金が集まる北部随一の大都市だ。だから人も多く集まるし、そうした者達の中から素養のある者を勧誘し、王国に仕える魔法使いとして教育しているのだったかな」
もっとも、魔法学院の生徒は貴族である宮廷魔術師の子弟や、たまたま素養を持ち、大商人の親族のような財力と権力を持った後ろ盾のある者が、大部分を占めると聞く。
ただの平民では魔法学院に通う為の費用を賄うのはまず不可能であるし、魔法学院側が学費や生活費を負担する特待生になれる程優秀な人材は、そうそう見つかるものではないだろう。
「へえ~、じゃあドランさんも勧誘されるかもしれませんね。私が暮らしていたラミアの里にも魔法の得意な人達は居ましたけど、ドランさんはその人達と比べても凄いですもの。というか、さっきのゲオルグとの戦いを見ると、ドランさんに勝てる人間さんなんていないんじゃないですか?」
「ふふ、ありがとう。そうだな、魔法学院で好成績を収めれば宮廷への道も開けるからね。生活の向上という意味では、入学を望むべきなのかもしれないな」
「ん~、でもそうなると、ドランさんがベルン村を出ていかないといけなくなるから、寂しくなっちゃいますね」
「そうだな。私も村の皆やセリナと別れるのは寂しい。まあ、辺境の農民には縁遠い話だよ」
私は寂しげに眉根を寄せるセリナをそう言って慰めたが、実のところ、ベルン村にはガロア魔法学院の関係者がおり、その方から入学を何度か打診されている。
今のところ、私に魔法学院に入学する意思はないが、村の将来に貢献できるならば少し考え直す必要があるかもしれない。
だが、それを考えるのは後だ。魔界の者達を打倒する事こそが、今最優先に考えるべき事なのだから。
「取り敢えず、王国側への連絡はオリヴィエさんにお任せすればよいのですね?」
「ええ、私に任せておいてください。以前森を出た者達にも可能な限り声をかけておきました。私を含め、皆が故郷の為に戦うつもりです。貴方達にばかり負担を強いる事はしませんよ」
「そうですか、何とも心強い事です」
それから私達は、ゲオルグ達の出現した魔界の門の破壊の為に、明日、太陽が中天に昇った時刻に残る戦力で出陣する事を伝えられた。私達はデオの家の空いている部屋に泊めてもらう事となり、一つの大部屋に案内された。家族や恋人でもない成人した男女が、同じ部屋で一夜を明かすのは気が引けるが、今回のような場合は別だ。
セリナは少し恥ずかしがったが、クリスティーナさんはまるで気にした様子もなく、防具を脱いで寝台の上に腰かけていた。
雰囲気や外見だけで言えば、この上なく典雅な美貌と気品を誇る女性なのだが、中身の方はどうにも貴族らしくなく、私達平民に近いものを持っているようだ。
「セリナ、クリスティーナさん、少し外に出てくる。すぐに戻るから」
防具を外し、長剣も置いて外に出る私に、セリナのはーい、という元気の良い声が返って来た。
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