さようなら竜生、こんにちは人生

永島ひろあき

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5巻

5-2

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 ファティマとともにバンパイアにさらわれた村娘のリタは、救出されたその日のうちから動き回れる健康状態だった。
 これは幽閉されていたとはいえ、食事と住居環境に関しては、村でのものとは比較にならぬぜいを凝らした物が与えられていたからだ。
 グロースグリアの財力の賜物たまものと、リタ達の世話役だったシエラの配慮であろう。
 一方、半ばバンパイアと化してしまい、また幽閉されていた部屋のベッドから一歩も動けずにいたファティマは、筋肉の硬直や衰弱などが見られる為、しばらく治癒魔法を施しつつ、村長宅の一室を借りて療養する手筈てはずだ。
 ネルとリタはファティマにつきっきりで看病し、私とセリナは村人を少しでも安心させる為、周囲を見回って安全を確かめたり、村の仕事を手伝ったりして過ごしていた。


 フラウパ村滞在中のある日、狩りの獲物を求めて近くの森に足を踏み入れた私とセリナは、帰りがけにドラミナの馬車まで足を延ばし、顔を見に行く事にした。
 森の中の開けた場所に停められた大型馬車の前まで来た私とセリナは、揃って首を傾げた。
 理由は全くもって不明だが、私達の目の前で馬車が小刻みに揺れているからだ。
 自由になっているスレイプニル達までも私達同様に首を傾げるなり、困惑するなりしている。

「ドランさん……揺れていますね」
「なぜかは知らんが、揺れているな」

 私もセリナも取り敢えず目の前の現状を口にしていた。
 危険な魔力の気配はないし、ドラミナの馬車にだけ限定して地震が発生しているだとか、空間や時間が振動しているとかいうわけでもない。
 どうやら馬車の内側でドラミナが何かをして揺らしているようだ。
 スレイプニル達も困惑はしているものの、おびえるなり怒っているなりした様子はないから、危険性や緊急性はなさそうだが……はて?

「ドラミナさん、どこか具合でも悪いのでしょうか?」
「いや、バンパイアクイーンである彼女にとって、病は縁遠い言葉だ。戦いの傷も完全に癒えているから、具合が悪いという事はないだろう」
「やっぱり、バンパイアの女王様って凄いんですね」
「人間と違って、種の中での位階の高さがそのまま生物としての強さに繋がるからな。バンパイアの王族はそのままバンパイアにおける最強の存在を意味する。ドラミナは凄くて当たり前なのさ」

 まあ、危険はないだろう。私は左側面の扉のドアノブを握った。
 扉を開こうとし、僅かだが抵抗があった事を訝しく思う。ふむ? 私を馬車の中に入れるのを渋っているのか、それとも、意識的にしろ無意識的にしろ、ドラミナが私を避けたいと思っているのだろうか。もし後者ならば随分と寂しい話だ。そう思いながら私は抵抗をあきらめた扉を開いて馬車に乗り込んだ。
 この馬車に乗るのは三度目になるが、相変わらず馬車の室内とは思えぬ豪奢ごうしゃさと落ち着きを兼ね備えている。だが、そこにドラミナの姿はなかった。
 セリナは初めて入ったドラミナの馬車の内装を興味津々きょうみしんしんといった様子で見回し、あまりの豪奢さに目を白黒させている。
 ドラミナは車内に重ねた別の空間にいるようだが、揺れの原因はそちらか。
 私は目に魔力を流し込み、魔眼まがんに変えてざっと車内を見回す。重ねられた別の空間への入り口を探したのである。

「ここだな」

 ほどなくして、私の魔眼は目的のものを見つけ出した。長椅子の後ろ側、馬車の後部の荷台へと続く扉のある場所である。この扉と位相いそうの異なる空間に、もう一つの扉があるわけだ。
 右手を伸ばして触れると、それまで何もなかった所に新たに扉が一つ滲むように現れる。
 赤い石造りの両開きの扉で、装飾の類はないが万年の時が流れても風化する事を拒絶する堅牢けんろうさがあった。

「え、え? さっきまであった扉と違いますよね?」
「別の空間に隠されていた扉を引きずり出しただけだよ。高位の魔法使いの工房や迷宮にはよくある仕掛けだと書物で読んだが、セリナの故郷ではこういう仕掛けは見なかったのかい?」
「空間操作系の魔法はものすごく難しいし、適性のある魔法使いも珍しいですから、私の知っている限りだと見ませんでしたよ。ドランさんは本当に何でも出来るんですね」

 目を輝かせて感心するセリナに、私はこそばゆさを感じながら扉を開いた。
 流石私のご主人様、とか言い出しそうな雰囲気である。――その場合、何か使い魔の主としてのご主人様以外にも意味がありそうだが。

「何でもというわけではないが、まあ、大概の事はね。それよりもドラミナの所へ行くぞ。この向こうに気配がある」

 扉の向こうに広がっていたのは、我が王国の王族の方々のものでも及ばぬであろう、豪奢な寝室だった。馬車の中だけならず、この寝室の豪華さと壮麗さに、セリナは言葉もなく呆然としている。
 セリナの肩を軽く叩き、私は室内の品々の中で異彩を放つ棺へと視線を向けた。
 複雑な幾何学きかがく模様を描く黄金羊の絨毯じゅうたんが敷かれた床から、三段高い所に安置されているのは、黄金とありとあらゆる貴金属で飾られた黒いひつぎだった。

「今はあの棺の中で就寝中のはずなのだが……」

 基本的にバンパイアは太陽が地平線の彼方かなたに昇るのと同時に、あらがえない眠りに襲われて瞼を閉じてしまう。だが、特異体質の主や、長い時を生きた個体の中には、なんとか意識を保つ事が出来る者もいる。さらに強力な個体の場合、陽光さえ浴びなければ、太陽の昇る時刻でも行動が可能となる。私の古神竜としての血を飲んだ今のドラミナなら、昼の時刻に眠るも眠らないも自分の意思次第だろう。
 そのドラミナの眠る棺が、私達の目の前で、先程からまあ盛大にガタガタと揺れていた。どうしたらあんなに揺れる?

「えっと、何をどうしたらあんなになるんですかね?」
「ふむ、本人に聞くのが一番手っ取り早いか」

 その前に、と魔眼を竜眼へと変えて棺の内部を観察してみると、地上世界で考えれば最高位と言ってつかえない防御魔法と技術のすいが凝らされているのが見えた。
 たとえ太陽の中に放り込まれようが、奈落穴ならくけつの中心部に叩き込まれようが、棺の中に眠る者は一切の苦痛を感じまい。
 ドラミナさんは何をしていらっしゃるのかなあ。悪戯いたずら小僧になった気分で覗き見てみると、ドラミナは薄い生地の夜着で豊満な体を包んでいた。素晴らしい凹凸おうとつを描くドラミナの肢体の陰影が生地きじに透けて見える、この上なく妖艶ようえんな姿である。
 深紅のクッションが敷き詰められた棺の中で、ドラミナは両手で顔を覆い、何かに耐えるか誤魔化すかのようにゴロゴロと転がっていた。
 なぜ転がり続けているのだろう。また酔いがぶり返したのか? 世の中には思い出し笑いとか思い出し怒りとかもあるらしいが、思い出し酔いなど聞いた事がない。

「ドラミナ、私だ、ドランだ。なにやら馬車が揺れているが、どうかしたか?」

 私が声を掛けた途端とたん、棺の揺れは収まった。
 竜眼で見えるドラミナは両手を顔から下ろすと、恐る恐る棺のふた越しに私を見ていた。
 多分、棺の中にいながら外部の様子を探れる構造になっているのだろう。
 ドラミナは、あわあわと慌てた様子を見せたが、すぐにそれを収めると、手櫛てぐしでささっと髪を整えて、んん、と声の調子を確かめる。
 淑女が身だしなみを整えたと言うにはいささか乱暴だが、ま、急ぎだからな。

「いえ、何でもありません。少々、自分の行いを反省していただけの事です。お騒がせして申し訳ありません。そちらにいらっしゃるのはセリナさんですね。おもてなしもせずに失礼をしました。今、用意いたしますからお待ちください」

 ぎいっと、小さな音を立てて蓋が浮かび上がり、私とは反対の方向にずれると、天井から降り注ぐシャンデリアの灯りがドラミナの姿をあらわにした。
 同性であっても生唾なまつばを呑まずにはおられぬドラミナの妖艶な肢体を、薄い生地の夜着で包んだだけの姿に、傍らのセリナがほうっと、熱く濡れた吐息を零す。
 セリナ自身類稀たぐいまれなる美少女であるが、バンパイアの女王は更にその上を行く絶世とたとえるもむなしい美女なのであった。
 ドラミナはゆったりと身体を起こしたが、自分の着衣があまりに扇情的せんじょうてきすぎる事に気付くと、顔を赤らめて虚空から真っ白いガウンを取り出して肩の上から羽織はおる。
 おや、勿体もったいない、と思うあたり、私も下心という奴を覚えるようになったものだ。
 私は手を差し出し、ドラミナが棺から出るのに手を貸す。

「ありがとう、ドラン。あちらのソファで少々お待ち下さい」

 ドラミナに誘導されて、私とセリナは室内に置かれている二脚のソファの片方に腰を落ち着ける。
 磨き抜かれた黒い大理石のテーブルを挟んで向かいに腰掛けたドラミナが、水晶の鈴を鳴らすと、何もなかったテーブルの上に忽然こつぜん白磁器はくじきのティーセットが出現した。
 ドラミナが手ずからティーポットの中身を注いでゆくと、カップに満たされた琥珀こはく色の液体は鼻腔びこうを優しく慰撫いぶする芳香ほうこうを湯気と共に立てる。

「うわぁ、美味しいです、このお茶」
「ふむ、ガロアで飲んだお茶も美味しかったが、これは比べ物にならないな」
「ふふ、喜んでいただけたのならなにより。誰かと一緒にお茶を飲むなど久しぶりの事ですから、心がはずみます」

 そう言って自分もティーカップに口をつけるドラミナの顔は、言葉通り嬉しそうだった。これなら故国に報告を終えた後でも、自らを滅ぼすような真似をする心配はないかな。

「ところでドラミナ。先程までの揺れは一体なんなのか、差し支えなければ教えて欲しいのだが、どうかな?」

 大きくドラミナの身体が痙攣けいれんした。先程までの奇行の理由はセリナも知りたいらしく、ティーカップを置くとやや身体を前のめりにしてドラミナに視線を向けている。
 私とセリナの視線を浴びるドラミナは、カチャカチャと音を立てながらティーカップを置くと、視線をあちらこちらに彷徨わせてから、わざとらしくせきを一つした。

「じじじじ実はど、ドランと……ひざ……膝まく…………」

 ごにょごにょもにょもにょ、と声にならない声でしゃべるドラミナの声をかろうじて翻訳すると、要するにジオールを滅ぼした後の私にお姫様だっこをされてから、膝枕、指しゃぶりと一連の自分の行いを思い出し、顔から火を噴くような羞恥に駆られて転がっていたらしい。
 ふむふむ、今更になって恥ずかしがるとは、ますますもって可愛い反応をするなあ、と私がのほほんとしていられたのは、短い時間だった。
 私の左隣から放たれる熱く、しかし同時に冷たい視線に顔を向けると、そこにはじとっと半眼になって私をにらむセリナの姿が。
「私もまだされた事ないのに」などと、ぶつぶつ口にしているので、理由は実に分かりやすい。ふむ、単純明快にしておそらく最も効果的な解決法は一つ。

「セリナ、ドラミナ」
「ふん、何ですか?」
「な、何か?」

 にっこりと笑う私に、拗ねているセリナは嫉妬しっと羨望せんぼうからツンケンとした態度で、そしてドラミナは羞恥という名の化粧をいた顔で、おどおどと応えた。
 ふむっふっふ、と私が悪だくみの笑い声を零して二人を見回すと、びくくん、と二人は背筋に悪寒おかんでも走ったみたいに震える。

「安心したまえ、二人に痛い思いをさせるような事はしないよ」

 そう、痛い思いはさせぬ。痛い思いは。


     †


「ふあ、やはりドランの膝は素晴らしい。うふふ」
「ふわ、わわ、こ、これはこれは、ああ、病みつきになりますよぉ。ドラミナさんが夢中になるのも、うう……分かります」

 私の右膝にはうっとりと目を閉じて頭を預けるドラミナ。先程までの狼狽ろうばいと恥じらいはどこへやら、私の膝の上で安らぐ事に夢中になっている。
 反対の左膝にはセリナが頭を預け、だらんと蛇の下半身を絨毯の上に投げ出し、先端を昼寝している猫の尻尾みたいに揺らしていた。
 ドラミナに膝枕をした事にセリナが嫉妬しているのなら、セリナにも膝枕をしてあげればよいのである。

「ドラン、その、出来れば……」

 私の方を向いて膝の上で横になっているドラミナが、懇願こんがんの色を浮かべて上目遣いにお願いをしてきた。そんな顔をされれば、どんな富豪でもドラミナの願いを叶える為に全財産を投げ出すだろう。

「どうしたんだい?」

 優しくささやいた私の声に、ドラミナは私の膝の上で身動みじろぎしながら、お願いの内容を口にする。もっとも、既に予想の付いていた事ではあるが。

「あのもう一度、指をですね……」
「皆まで言わなくとも分かっているよ」
「なら言わせないでください」
「可愛いから言わせたくなるのさ」

 私は馬車の中でしたのと同じように、右の人差し指の先を切って、私の方を向いているドラミナの唇に持っていく。もはやドラミナは恥じらいがないのか、セリナがいるにもかかわらず、目を輝かせて私の指を咥える。

「ドランさん、ドラミナさんに何かしたんですか?」

 ごろっと仰向けになって私を見上げるセリナの頭をなでりなでりとしながら、私は何でもないと答える。ドラミナは私の血を御所望ごしょもうだが、セリナはこのまま頭を撫でる方がよいだろう。
 丁寧にセリナの頭を撫で続けると、とろんとセリナの目元が緩み、心地好さそうに瞼を閉じ始める。

「大したことではないよ。セリナ、痛くはないか? 指が引っ掛かる事もないし、綺麗きれいな髪だね。毎日きちんと手入れをしているからだろうな」
「ドランさんがお風呂を作ってくれましたし、ファティマちゃんが色々と持ってきてくれるんです。その分、お手入れに時間が掛かるようになっちゃいましたけどね」
「私はセリナが鏡台の前で、ブラシで髪を梳いている時の仕草しぐさが好きだな」
「ドランさんは髪の長い女性の方が好きなんですか?」

 ふむん。そう言えば私の周りの女性はほとんど髪が長いな。さほど長くないのはファティマとネルくらいか?

「髪の長さで好き嫌いはしていないつもりだが、ふふ、セリナの髪は好きだよ」
「……そ、そーですか。えへ、えへへ」

 私の発言は盛大にセリナの琴線きんせんに触れたらしく、膝の上のセリナの顔はそのまま溶けてしまいそうなほど緩みきって締まりがない。
 ふむ、やはり正直は美徳だな。

「覚えておいてくれると嬉しいね」
「絶対に忘れません! あ、そうだ。ドランさん、ガロアに戻ったら、時々でいいですからこうして膝枕をしてくださいますか?」
「頼まれればいくらでもするとも。セリナの好きな時に言ってくれればいい」

 そうして私とセリナとドラミナは、長い事この時間を共有し続けた。


 心行くまで二人が私の膝を堪能した後、私達は連れだってファティマのお見舞いに行く事にした。
 村人達はラミアであるセリナにはもう慣れたが、バンパイアであるドラミナが村の中を歩くと、ぎょっと身を竦めて足を止め、その美貌がもたらす美的衝撃に精神を打ちのめされてほうけてしまう。しかし、こればかりはどうしようもない。騒がれるわけではないから、放っておくのが最善の手段だ。
 村長の所で寝ているファティマを訪ねると、付きっきりで看病しているリタが顔を覗かせた。ちょうどファティマを着替えさせた後だったらしく、手には衣服をまとめて入れたかごを持っていて、私達に気付くとぱっと笑顔を見せる。

「やあ、リタ。ファティマの調子はどうだね?」

 私の問いに、リタは笑顔のまま答える。

「はい、どんどん良くなっていますよ。そろそろ普通に歩き回れるようになると思います。皆さんのお顔を見たら、もっと元気が出ると思います」
「それはなによりの吉報きっぽう。とはいえ、そなたも一日中看病していては、大変でしょう。あまり無理はしないように」

 私に続いてリタに声を掛けたのは、優しげな笑みを浮かべたドラミナである。
 リタはドラミナに直接救われた事もあってか、彼女に対して恐れを抱かずにほがらかに接していた。その事がドラミナにとっても嬉しいようで、両者の関係は実に良好と言える。

「はい。それでは、あたしは洗い物がありますから、これで失礼します」

 リタが水場の方に向かうのを見送ってから、私達はノックをしてファティマとネルの待つ室内へと足を踏み入れる。
 半バンパイアと化したファティマの体調をおもんぱかり、窓は全てカーテンと雨戸が閉められて、陽光が射し込まないように細心の注意が払われている。
 仮に陽光が射しても届かない位置に動かされたベッドの上で、ファティマはランプの灯りを頼りに読書している途中だった。

「ドラン、セリー、ドラミナ陛下」
「陛下はいりませんよ、ファティマ。ただのドラミナで構いません」

 ファティマは私達の訪問にも慣れたもので、読んでいた本を開いたまま膝の上に置いて、見る者の心をなごませる笑みを浮かべる。

「いらっしゃい」

 ネルはファティマのベッドの傍らに置いた椅子に腰かけて、アルポという赤い果実の皮をナイフでいているところだった。

「ファティマ、少し顔色が良くなってきたな。あと一日か二日もあればもう元通りだろう」
「えへへ、ご心配をおかけしましたぁ」

 私の激励に、ファティマは恥ずかしげに笑う。私達はフラウパ村の周囲を散策した時の話や、魔法薬の材料を引き取るという依頼は残念ながら果たせなかった事などを話題にした。
 ふと、私はファティマの膝の上の本へと話題を振る。

「ところでその本はどんな本なのだ? ファティマの本好きは前から知っていたが、依頼で来た先にも持ってきているのか」

 根っからの本好きである上に、将来は魔法を用いた絵本や童謡作家になるという夢のあるファティマからすれば、様々な分野の書籍に目を通す事は将来に向けての勉強になるのだろう。

「これ? これはね、東方の国から伝わってきた本だよぉ。恋愛小説なんだけどね。文化の違いって言うのかなぁ? 色々と興味深い言い回しがあるんだよ」

 ふむん。ネルはまるで興味なさげに皮剥きを再開しているが、恋愛小説という単語にセリナが大いに食いついた。

「ファティマちゃん、どんな言い回しなの? 東の国って独特の文化があるって事くらいしか知らないから、興味があるな」

 ドラミナも少しだけ反応したところを見るに、こういった事には、種族とは関係なしに女性共通の心理が働くものなのかね。

「うん。東の方だと直接的に愛しているって言葉は、あんまり口にしないみたいなんだよね。だから好きだとか、愛しているって言う代わりに、この本の中の主人公は愛する女性に、〝貴方といると月が綺麗ですね〟って言うの~。不思議だね。最初読んだ時はどうしてかなって思ったけど、何度も読んでいるうちに風雅ふうがでこういう言い回しも素敵だなって思うようになったんだあ。他にも、〝死んでもいい〟って書いてある本もあったなあ。面白いよねぇ、同じ人間なのに歴史や文化が変われば、こんなに表現が変わるんだもん」

 セリナはファティマの話にふんふんと熱心に聞き入り、自分なりの意見を口にした。

「う~ん、確かに、〝死んでもいい〟って言うのも素敵だけれど、私としては、〝貴方といると月が綺麗ですね〟っていう言い方も好きだな。命懸けで愛してくれるのはとても嬉しいけれど、一緒に生きていきたいものね」
「ね~」

 一方で私とドラミナはと言うと、ファティマから告げられた話に、お互いの顔を見つめあった。ドラミナはすぐに顔を逸らしたが、灯りのない場所でもはっきりと分かるくらいに赤くなっていたのは私の見間違いではあるまい。
 よりにもよって〝月が綺麗ですね〟、か。……言ったな、私。ジオールを完全に滅ぼした後、ドラミナをこの腕に抱きかかえながら、満月の見守る中で〝月が綺麗だ〟と言ったぞ。
 ふむん。よもや月をめたら愛の告白になるとは、私にとってもドラミナにとっても不意打ちにも程がある。そして、ドラミナのこの反応からするに、ファティマの告げた東方の文学については知らなかったらしい。

「ドラミナ」
「なん……何ですか、ドラン」
「次も東方風が良いか、それとも君の故郷風の方が良いか?」
「ど、どどど、ドラン!?」

 ぼふんと音と湯気を立てぬのが不思議なくらいに、ドラミナは赤くなる。
 ふむ、ドラミナ火山大噴火などと、なんとも下らない事を思いついてしまった。
 私は別にドラミナがどこまで赤くなるのか試しているわけではないのだが、どうもなあ、反応がなあ。初心うぶというか乙女っぽくて可愛いというか、どうしてもからかいたくなるのだ。

「わ、ドラミナ様、急に大きな声を出してどうしたのお?」

 陛下から様づけに切り替えたファティマが、ドラミナのらしからぬ大声に驚き、セリナも同じようにして振り返った。ネルだけが黙々と次の果実を剥いている。
 ドラミナが二の句が継げずに口をきっと結んでいると、部屋の片隅から陰気な声が私達に掛けられた。

「陛下もそのようなお顔が出来るのですね」

 そこには、最初からそのように彫琢ちょうたくされた像のように微動だにしないバンパイアの少女――シエラがいた。
 ブランに魔剣グリーフマリアで貫かれ、滅びの間際にまで追い詰められていたシエラであったが、私はシエラにファティマと深い結びつきを持たせる事でその存在を保たせた。
 私の魔力を触媒にして増幅させたファティマの生命力を、機能を停止した心臓の代わりにシエラに埋め込み、灰になる寸前だった彼女の存在を維持させたのだ。

「シエラ、そなたは相も変わらず陰気な顔をしていますね。せっかくの美人が台無しです」

 ドラミナは澄ました顔を作ってシエラに返事をしたが、内心の動揺は収まりきってはおらず、ぷるぷると全身が小刻みに震えていて、顔もドラミナ火山小噴火中の色合いである。

「随分と余裕のあるご様子で。本懐を果たされて心が晴れましたか?」

 皮肉とも取れるシエラの言葉であったが、その声には揶揄やゆ嘲笑ちょうしょうも含まれてはいなかった。椅子に腰かけたシエラの瞳はただぼうっと閉ざされた扉の向こうを見続けている。
 結局、シエラは家族の旅立った冥界に行く事は出来なかった。仲間達がブランに殺された時も、そして復讐を果たし損ねた時も。一度は死に損ね、今一度滅び損ねたシエラの心中は荒廃こうはい虚無きょむとが支配しているのだ。
 ドラミナも、ある意味同じ境遇であったシエラの姿に心を痛めている様子で、悲しげに眉根まゆねを寄せる。

「晴れましたが、その後に待っていたのは果てと終わりの見えぬ虚しさでした。今はドランのお蔭で随分と紛れていますし、故郷の皆に報告しなければなりませんから、虚しさを一時忘れる事は出来ていますけれど」
「そうですか。この虚しさを一時でも忘れられるのなら、それは素晴らしい事ですね」
「そなたは……いえ、そなたの心に光を射すのには誰よりも適した者がいますね」

 ドラミナはベッドの上のファティマを振り返り、ファティマはその視線の意味するところを正しく理解してうなずき返した。
 私はシエラの生命を繋いだ。ただ生命だけを。その生命に生きようという意思を与え、心を死の暗黒から生の光明こうみょうへと向けるのは私の役目ではない。
 それはあの時、シエラを生かしたいかと問うた私に、生かしたいと力強く答えたファティマの役目だ。
 もうこれ以上私がシエラの生に関わるべきところはなかった。これから先、ファティマに助言なり具体的な助けなりを求められたならばともかく、私からこれ以上彼女達にするべき事はない。なにより、ドラミナに頷き返したファティマの瞳に輝く光が、私の助力などまるで必要ないものだと信じさせてくれた。
 シエラの事はファティマに任せれば何もかも上手くいくと確信出来たが、どうにも意図が読めないのが、もうひとりの級友のレニーアである。
 遠巻きに物陰に隠れて私を見ているが、こちらから近づいて話しかけようとすると、ささっと逃げ出し、ある程度距離を置くとまた私を見る――という事を繰り返すのである。
 敵意はないから放置しているが、いずれこの行動の理由を問わねばなるまい。魔法学院に戻ればその余裕と時間が作れるだろう。


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