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24巻
24-2
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グドに続いて小さく頭を下げるアムリアを見るサザミナや周囲の兵士達の視線は、変わらず厳しいままだ。アルダム商会に身分は保障されたが、それでも純人間種であるのには変わりないからか。それともまだ怪しまれているのか。
「いえ、私達はあくまで職務を果たしているだけです。それでも、貴方のようなロマル人がウミナルの中で姿を見せて歩き回るのは勧められません。次に何か問題があれば、いくらアルダム商会の保証があったとしても、見逃せませんよ」
種族の名の通り虎の如き威圧感を滲ませるサザミナに、グドが乾いた笑いを零した。
外見の威圧感と逞しさに反して胆が小さい――とグドを責めるのは酷であろう。サザミナはまだ若いが、相当に修羅場を潜っているのは間違いない。
その修羅場がロマル帝国相手と考えれば、アムリア相手にかくも厳しい態度を取るのも当然――いや、むしろこれでも優しい態度なのかもしれない。
「分かりました。気を付けます。重ね重ね、この度はご迷惑をおかけしました」
私は再び下げられたアムリアの頭を横目に見ながら、今回とは比較にならない〝迷惑〟をかける事になるのだろうと、今の内からサザミナに重ねて頭を下げておいた。
戦火がこの地にまで及ぶか、それともサザミナが戦場に立つのかまではまだ分からないが、いずれにせよウミナルを騒がせるのには違いあるまい。
私達は最後までサザミナ達からの険しい視線を浴びながら、詰所を後にした。
†
グドの乗りつけてきた小型の馬車に先導されて、私達は改めてウミナルに入る。
馬車が出発する直前、グドから彼の屋敷に着くまでは、くれぐれもアムリアの姿を見られないように、と忠告された。ウミナルでそれなりの地位と影響力を持つ彼にしても、アムリアを二度も庇うのは難しいのだろう。
さすがにアムリアも今回ばかりは自重して、馬車の幌の内側から覗くだけに留めている。
それだって、外部の視線とアムリアの視線が交わらないように、私がこっそり幻術を重ねている上での事だ。
「今進んでいるのは目抜き通りだな。馬車の中にも通りの賑わいが届いているだろう」
私が御者台から荷台のアムリアに話しかけると、小声で返事があった。
「はい。まだ港ではありませんけれど、一層強い潮の香りが届いています。それに、色んな種族の方がこうまでひしめき合っている光景は、やはり圧倒されます。これまでの道のりではウミナルに近づくにつれて、人間の比率が減ってきましたが、この街では全く見かけませんね」
「ふむ、どこかに追放したというわけではあるまいが、まとめて隔離して、余計な衝突と治安の悪化を防いでいるのかもしれん。詳しい事情はグドが教えてくれるだろう」
アルダム商会の店舗はウミナルの港に近い位置にある。通りを進むにつれて、海産物を取り扱う店舗の割合がどんどんと増え、寄せては返す波の音もより大きくなる。
漁では大変に頼りになる魚系の亜人達の数も多くなり、まだ鱗や殻を濡らしたままの者も少なくない。加工場や競りの行われている市場を尻目に、私達はアルダム商会の持っている厩舎に馬車とホースゴーレム達を預け、事務所へと案内された。
通りに面した、煉瓦を積み重ねた五階建ての建物である。その一階の奥まった場所にある代表の部屋で、私達はグドと改めて対面した。
私達の事と、アルダム商会がアークレスト王国の隠れ蓑である事を知るのは、商会の中でもごく一部に限られている。私達にお茶を用意してくれた執事もその内の一人だったろう。
グドは巨漢ながら愛嬌のある顔から緊張の強張りを解いて、飲みやすい温度に冷まされたお茶を一息に飲む。
「んぐんぐ、んむ、美味い。皆さんも咽喉が渇いてはいませんか? どうぞ遠慮なく飲んでください」
グドと長テーブルを挟み、長椅子に腰かけた八千代と風香、アムリアが勧められるままにお茶に口を付けた。
私とメイド三姉妹はいざという場合に備えて、アムリア達の周囲に立っている。
こちらのお嬢さん達三人がお茶を飲んで落ち着くのを待ってから、グドは表情を引き締め直して口を開く。何十年もロマル帝国とこの地に住む人々を相手に商売をしてきた歴戦の商人は、さて、私達に何を聞かせてくれるのか、何を問うのか。
「貴方達の事を知らされた時にはずいぶんと驚かされましたが、堂々とこのウミナルに入ろうとなさるのには、さらに驚かされましたぞ」
批判されてもおかしくないのだが、グドの声音には純粋な驚きだけがあった。
「申し訳ありません。どう対応されるのかを含めて、このウミナルという都市とこの地の人々の事を肌で感じて知りたかったのです」
グドに答えたのはアムリアだ。私達の誰よりもこのウミナルを知る商人と話をするのには、この町を訪れる事を希望した彼女が最も相応しく、同時にそれが彼女の責任でもある。
「なんとも豪胆な。しかし、悪くすれば刃傷沙汰になる恐れもあります。サザミナ殿が言っていたように、次からは気を付けなければなりません」
「はい。あの……刃傷沙汰と仰いましたが、やはり、それほどまでにこの都市での人種間との関係はひどいのですか?」
グドは言葉を選ぶように腕を組み、目を瞑って小さく唸った。飢えた熊が発するような唸り声に、八千代と風香の耳が一度しおしおとへたれた。こっちも肝っ玉が小さいものだ。
「もちろん、良いか悪いかで言えば、悪いの一択になります。それはアナ様達もウミナルまでの道のりで存分に目にして来られたでしょう。帝国側での反乱を起こした者達や亜人、異民族達への対応もまた、ご覧になっているのでは?」
「はい。最初にライノスアート大公のお膝元から見聞の旅を始めましたので。エルケネイやその周囲ではそれなりに亜人と異民族でも上手く手を携えていられましたけれど、ここではロマル民族でなくとも人間種ならば敬遠されているのですね。でも、あの……この港の辺りでは、人間種の方々が特に監視されている様子もなく働いているのをお見かけしたのですが」
「ああ、それはウミナルやこの辺りに住んでいる人間種ではありませんよ。海の向こう側、つまり交易国に在籍している人間種です。太陽の獅子吼の思想がどうあれ、それは彼らの傘下に属する者達に適用されるのであって、敵対関係にあるわけでもない交易相手に押し付けるものではありませんから。思想に影響を受けすぎた者達が暴走するのを危惧して、太陽の獅子吼側は港の周囲にはまだ落ち着いている連中を回して、余計ないざこざを避けておりますぞ。それでも雰囲気は険悪になっていますが」
グドは溜息交じりに続ける。
「我が商会の人間種の者も、以前よりも仕事がやりづらくなったと愚痴を零す始末。取引それ自体は以前よりも我らに都合の良いものになりましたが、雰囲気の悪化は否めません」
長年ウミナルで仕事をしてきた者達ならば、当然こうした空気の変化を敏感に感じ取れるだろう。事前の調べ通り、交易の条件それ自体は帝国時代よりも良いようだが、この様子ではそれもいつまで続くか分からない。
グド達を含め、今はこのウミナルに寄港している者達も、より条件の良い港があったなら、そちらを利用する選択肢が出てくるはずだ。
「ではグド様、この都市に残っている人間種の方々はどのような扱いを受けているのですか? 私達の調べでは、彼らは単純な労働力として扱われていて、戦場に兵士として連れて行かれる事もないようですが」
アムリアの話を聞き、グドは感心した様子で目を細める。
「ほう。……アナ様が把握している情報に誤りはありません。しかし、不足はあります。さすがにロマル人でない者は捕われてはおりませんが、ロマル人は特定の区画に隔離されて、割り振られた仕事をこなす日々を行っております。一部、行政や軍事に携わっていた者達は、その能力と知識を買われて、条件と監視を付けて働いている者もいるようですな。ところで、アナ様」
「はい、何か?」
「古今東西の歴史を紐解いてみますと、こうした虐げられていた者達が反旗を翻して立場を逆転させた時、概ね二つに分ける事が出来ます。それが何か、お分かりになりますか?」
「二つ……相手を滅ぼすまで戦うか、途中で妥協するか、でしょうか?」
どうやらアナの答えはグドの用意していた正解とは異なったらしいが、その内容の過激さに、グドは口を大きく開けて驚いた顔を見せた。
虫も殺せそうにないアナの印象を大きく裏切る発言だ。この辺りは戦国乱世が長く続いた故郷を持つ八千代と風香、それに私から影響を受けてしまったからだろうか。
「いや、まあ、それはそう? なのでしょうが。ええとですな……自分達がされた事をそっくりそのまま報復し返すか、奴らと自分達は違うと報復しないか、です。後者の場合は不当な差別をした者達に対して、自分達は決してそのような行いはしないと、平等を旗印に掲げる傾向が見られます。大抵、代を重ねると破綻しますし、ひどい時にはその言葉を口にした者の代で終わりますけれどね……」
古神竜時代の記憶を掘り返してみるに――なるほど、ちらほらと例外を見た記憶もあるが、概ねグドの言う通りだ。
「事前に聞いていたお話ですと、太陽の獅子吼の方達は前者であるように思えますが、何か違うのですか?」
アムリアの問いに、グドがゆっくり言葉を選びながら答える。
「恥ずかしながら、私達も当初は太陽の獅子吼達がロマル帝国に反旗を翻し、一定の成果を上げた後は同じような仕打ちをするものと考えておりました。しかし実際は、その予想よりも余程穏当な扱いがなされています。肝心なのは予想が違ったという事実に加え、何故予想と違ったのか、という点です。太陽の獅子吼を構成する諸種族は、ロマル帝国の支配からの脱却と父祖伝来の土地の奪還、そしてかつての敗北の屈辱を雪ぐ事を共通の目的としています。代々その思想を伝え、種族や部族内の結束を高めるというのは、分かる話です。そうして彼らは今の結果に繋がっておりますしね。ただ、その割に現状の扱いはずいぶんと手ぬるく感じます」
単に太陽の獅子吼が支配の屈辱から人間種を下に扱っているだけと考えては、見落とすものがあると、私達に教えたい様子だ。
アムリアはグドの瞳をじっと見つめて、話の続きを促した。
「私達が現状把握している限りになりますが、どうやら太陽の獅子吼内部でも、思想といいますか、温度差があるのですよ」
「屈辱の歴史と憎悪に従って、自分達には復讐の権利があると声高に叫ぶ者と、虐げられてきた自分達だからこそ、帝国と同じになってはならないと訴える者……でしょうか?」
「それならまだ分かりやすいのですが、復讐の権利を叫ぶ側の中での温度差なのですよ」
「……つまり、どの程度復讐するかの違いでしょうか。誰に、どこまで、いつまで、どう復讐するか、という観点で温度差があるのですね」
アムリアの言葉に頷き、グドは話を続ける。
「その通りです。仮に過激派と称しましょう。その過激派の中の温度差が、今のウミナルの微妙に生ぬるい対応に繋がっているのです。ちなみに太陽の獅子吼内の穏健派はかなり少数です。差別されたのが先祖の代の話であったなら、もっと穏健派も多かったでしょうが、直接差別を受けた世代での反乱ですから、それも仕方のない話です」
他にも言いようはあるかもしれないが、過激派と穏健派の対立ではなくて、過激派内部での温度差とは……エルケネイの反乱勢力『七つ牙』より相手をしづらそうだ。
アークレスト王国にも、アルダム商会経由でこれくらいの話は伝わっているだろうが、私達で何か新しい情報を伝えられるかね?
「現状のウミナルを見れば分かりますが、目下、過激派の舵を握っているのは〝穏健派寄りの過激派〟です。……自分で言っておいてなんですが、ややこしい呼称ですな」
「では、それぞれの派閥の代表格となる方のお名前を冠してはいかがでしょう? 私達も注意しなければならない方のお名前を同時に把握出来ますし、その方が分かりやすいかと思います」
アムリアの提案に、グドは手を打って同意を示す。
「おお、それが良いですな。では、穏健派寄りの過激派の代表は獅子人のアシアという青年ですから、アシア派。過激派の過激派は獅子人のレコという女性ですから、レコ派になりますな」
「ウミナルの状況を考えると、太陽の獅子吼の代表者は、穏健派のアシアさんという方なのですね」
「いや、そこがまたややこしいところでして、太陽の獅子吼の代表たる族長はアシアでもレコでもありません。黄金の鬣を持つ若き獅子人、レオニグス家のレグルです。彼は元々レコ派に近い思想の主でしたが、族長としての重責を担う中で頭が冷えたのか、感情を横に置いて部族全体の未来を考えるようになった節があります。レコ派が舵を握っていたなら、他国の船でも人間種がウミナルを訪れるのを許さなかったでしょうからね」
そうなると、ロマル帝国南方の反乱勢力の主要人物はアシア、レコ、レグルの三名となるわけだ。
アムリアの素性を考えると、レコとレグルに会わせるのは厳しいが、アシアとは少し接触を考える価値があるかもしれない。もっとも、アシアもまた過激派ではあるのだが。
思っていたよりも複雑な太陽の獅子吼内部の事情に少し考えを巡らせてから、アムリアが口を開いた。
「そうなると、レグルさんという方の心がどちらを向いているのかを知るのが、重要ですね」
そう言い切ったアムリアの瞳を見て、両隣の八千代と風香が〝あっ〟と短く声を上げた。
あれはアムリアの覚悟が固まった時の瞳だ。次はレグルの獅子顔を拝みに行く事になりそうだ。
途方もなく強固な覚悟を固めたのが見て取れるアムリアは、その覚悟に基づいた行動に必要そうな情報をグドへと求めた。
「そのレグルさんは、普段はどのように過ごしておられるのですか?」
強い意志の輝きを放ちはじめたアムリアの視線を受けて、心なしかグドが背筋を正す。
国家の後ろ盾を得ながら異国で堂々と商売を行う男の目にも、彼女が只者ではないと映ったのか。
「それは、今の彼は太陽の獅子吼の族長としてだけでなく、傘下の諸部族をまとめ上げる立場に就いていますから、奪取した総督府を改装して、普段はそこに籠っておりますよ。元々、自ら最前線に立って武勇を振るって味方を鼓舞する類の武人ですから、演習に参加している事も多いようですが。とはいえ、血気盛んで済まされる時期は過ぎたと、お小言をしょっちゅう貰っているという評判ですな」
どうやらこの段階で、グドは嫌な予感に襲われたらしい。アムリアを見る瞳には、不審と疑惑の色が急速に濃くなりはじめている。
「なるほど。総督府に行けば必ず会えるわけではないのですね。そうなると、普段の行動を把握していないと、空振りに終わる事も多そうです。自由に使える時間は限られていますし、情報収集に力を入れないといけません」
いよいよ目の前の女性が何を考えているのかを察して、グドは愛嬌のある穴熊人の顔を引きつらせる。
当然だろう。詰所でサザミナから二度と騒ぎを起こさないようにと釘を刺されたばかりだというのに、彼女はよりにもよって太陽の獅子吼の最重要人物と会おうとしているのだから。
「まま、まさか……アナ様はレグル殿に会おうとお考えなのですかな?」
まさかと疑っているのはこの場でグドだけだ。
私はもちろん、八千代や風香、リネット達だって、アムリアが直接自分の目と耳でレグルの人となりを確かめようとしているのを確信していた。
それにしても、アークレスト王国の王城に匿われた生活をしていたにしては、いささか行動力が逞しくなりすぎてはいないかな? ロマル帝国に来てからの今日までの日々で、アムリアの眠っていた資質を目覚めさせたか?
私は堪え切れず、小さな吐息を零した。
「うふふふ、さあ、どうでしょう。世間知らずな私でも、グド様の言われる事がとても難しいのは分かりますわ」
「そ、そう、そうですな。いやははは……アナ様の態度に、ついつい深読みなどしてしまいました。海千山千の商人と渡り合ってきた自負がありましたが、これは精進しないといけませんな。まだまだ未熟、未熟、はははは」
グドは引きつった笑みを浮かべる。
しかし……アムリアは難しいとは言ったが、不可能だとは口にはしていない。はたしてグドはそれに気付いていないのか、無意識に聞こえていないふりをしているのか。
どちらにしても、彼の胃と神経には、今以上に大きな負担をかける未来が待っていそうだ。
アムリアは友好的で可憐な笑みを浮かべたまま、まだ動揺を残しているグドから次の情報を得るべく、あくまで静かな声音で畳みかける。
相手が弱気な態度を見せたなら、それを見逃さずに食らいつく。さながら猛獣めいた洞察力と攻撃性である。
「アナお嬢様は好機を逃しませんね。人の呼吸と間を読み取るのが上手です、とトルネは感心してしまいます」
トルネ――もといリネットの言う通りで、どうやらアムリアは度胸ばかりか観察力や判断力もいつの間にか鍛えられていたらしい。アムリアがその気になれば、あっという間に人を手玉に取る名うての詐欺師になれそうだ。
リネットからの高評価が耳に届いていないアムリアは、決して嘘ではないが、心情の全てというわけでもない言葉で、グドへ語りかけ続ける。
「もし可能であれば、ロマル帝国に更なる波乱を招く若き獅子のご尊顔を拝したいと思っただけですから。難しいようであれば、無理にとは望みません。ところで、先程は過激派の方ばかりお名前を伺いましたけれど、少数だけいる穏健派の代表はどなたなのですか? よくある劇の演目やお話にたとえますと、レグルさんの妹君や恋仲の女性が穏健派の代表で、対立している場面ですが」
冗談めかして言ったアムリアに釣られて、グドも少し笑う。
「おお、そういえばお伝えしておりませなんだな。いや、それにしても、いささか観劇に影響されすぎですぞ、アナ様。太陽の獅子吼で穏健派と呼べる勢力を纏めているのは、リオレという長老格の老婆の獅子人です。父祖の土地を取り戻し、ロマル民族を追い出したなら、それ以上戦火を広げる必要はないのではないかと、主に部族の若い衆を相手に訥々と語りかけているようです。長く争いと差別の歴史を見てきたからでしょうな。ただ……いかんせん、ロマル帝国がまだ大きな戦力を残しておりますし、初戦に勝利を重ねた興奮と歓喜がありますから、休戦や停戦を考える者は少数。終戦ともなれば、ほとんどいないようなものです」
「そうですか。私にこう思う資格があるのか分かりませんが、平和を望む声が小さいのは、悲しいですね」
偽りのない悲哀の色を浮かべたアムリアの表情を見て、グドもまた同じように悲しげな表情を浮かべた。
グドは決して薄情ではないが、同時に商人として感情と行動を切り離せる人物だろう。しかしこの時ばかりは、目の前のアムリアにつられるように感情を素直に示している。
「ただ単に戦いがなくなれば、それが平和というものではないのです。特定の成果を得た上でなければ平和に意味がないと、当事者達が考えている間は、そうそう争いは終わりません。それにしても、今のロマル帝国の状況は、他国の情勢もあってかなり複雑です。私の知る限りですが、さすがに他国の者に膝を突くのは勘弁だと、帝国の者も反乱を起こした側の者も考えているようですがねえ」
その〝他国の側〟についているグドとしては、自身が利益に与る為にもアークレスト王国が介入しやすい状況を望んでいるのだろうか。
まさか目の前にロマル帝国の隠された皇女がいると知ったなら、グドはどのような反応を見せるだろう。
ロマル帝国の皇女というアムリアの素性こそが、場合によっては状況を動かす切り札となり得る。
アムリアも、札あるいは駒としての自分の価値を客観的に理解している。
以前ならばともかく、今の彼女ならそこまで考えが到っていてもなんらおかしくはない。こうしてグドと話しながら、同時に自分をどう使うのが最も効果的かと思考を巡らせているのかもしれない。
双子の姉にあたるアステリア皇女は、常人離れした思考の速さを持つ才女として知られているが……ではアムリアはいかなるものか。
†
協力者であるグドと無事に接触出来た私達は、彼らに旅の荷物と馬車を預けて、早速ウミナルの中を見て回る事にした。
事前の詰所での件もあり、アムリアは不承不承という様子ではあったが、顔を隠す為にフードを被せ、アルダム商会が籍を置いている異国風の衣装に着替えている。
鮮やかな刺繍の施された藍色のスカートに白いシャツ、袖のない深緑色のコルセット、それにフード付きのショートコートという構成になる。
念には念を入れて、違う顔に見える幻術を込めた魔法の指輪を左手の中指に嵌めてもらっている。
あくまで人間の姿のままでウミナルの中を歩き回りつつ、アムリアが二度目の騒ぎを起こしたと知られないようにする為の処置である。
もし再び詰所なりで素性を問われたら、アムリアがアルダム商会に留まっている間暇なので、商会と取引のある異国の女性の用心棒がてら観光していると言い張る予定だ。
用心棒をしながら観光をするというのは、嘘ではないしね。
かくして私達は、青い海から寄せてくる波の音が全身を揺らす港へと足を向けた。
港では、次の航海へと向けて商品となる香辛料や陶器、名産品である海産物の乾物に上質の絹、真珠細工、オリーブオイルなどが、逞しい船員達の手によって船へと運び込まれていた。
それとは逆に、異国でたんまりと仕入れた茶葉や鉱物、反物、各種の酒、良質の木材や魔晶石に精霊石、それらの加工品が船倉から運び出されてもいる。
「ふむ、奴隷の類は見られないな」
家族と引き裂かれ、故郷を追われ、劣悪な環境で海を越えて売り買いされる、奴隷という存在に追い落とされた無数の人々。
前世で数えきれないほど目撃し、今も褪せる事なく私の記憶に刻まれた光景は、幸いにしてこのウミナルでは再現されていなかった。
奴隷という存在に関して、アムリアやリネット、ガンデウス、キルリンネは縁遠いが、八千代と風香は故郷で見た経験があるのか、私の言葉にしみじみと頷いている。
「いえ、私達はあくまで職務を果たしているだけです。それでも、貴方のようなロマル人がウミナルの中で姿を見せて歩き回るのは勧められません。次に何か問題があれば、いくらアルダム商会の保証があったとしても、見逃せませんよ」
種族の名の通り虎の如き威圧感を滲ませるサザミナに、グドが乾いた笑いを零した。
外見の威圧感と逞しさに反して胆が小さい――とグドを責めるのは酷であろう。サザミナはまだ若いが、相当に修羅場を潜っているのは間違いない。
その修羅場がロマル帝国相手と考えれば、アムリア相手にかくも厳しい態度を取るのも当然――いや、むしろこれでも優しい態度なのかもしれない。
「分かりました。気を付けます。重ね重ね、この度はご迷惑をおかけしました」
私は再び下げられたアムリアの頭を横目に見ながら、今回とは比較にならない〝迷惑〟をかける事になるのだろうと、今の内からサザミナに重ねて頭を下げておいた。
戦火がこの地にまで及ぶか、それともサザミナが戦場に立つのかまではまだ分からないが、いずれにせよウミナルを騒がせるのには違いあるまい。
私達は最後までサザミナ達からの険しい視線を浴びながら、詰所を後にした。
†
グドの乗りつけてきた小型の馬車に先導されて、私達は改めてウミナルに入る。
馬車が出発する直前、グドから彼の屋敷に着くまでは、くれぐれもアムリアの姿を見られないように、と忠告された。ウミナルでそれなりの地位と影響力を持つ彼にしても、アムリアを二度も庇うのは難しいのだろう。
さすがにアムリアも今回ばかりは自重して、馬車の幌の内側から覗くだけに留めている。
それだって、外部の視線とアムリアの視線が交わらないように、私がこっそり幻術を重ねている上での事だ。
「今進んでいるのは目抜き通りだな。馬車の中にも通りの賑わいが届いているだろう」
私が御者台から荷台のアムリアに話しかけると、小声で返事があった。
「はい。まだ港ではありませんけれど、一層強い潮の香りが届いています。それに、色んな種族の方がこうまでひしめき合っている光景は、やはり圧倒されます。これまでの道のりではウミナルに近づくにつれて、人間の比率が減ってきましたが、この街では全く見かけませんね」
「ふむ、どこかに追放したというわけではあるまいが、まとめて隔離して、余計な衝突と治安の悪化を防いでいるのかもしれん。詳しい事情はグドが教えてくれるだろう」
アルダム商会の店舗はウミナルの港に近い位置にある。通りを進むにつれて、海産物を取り扱う店舗の割合がどんどんと増え、寄せては返す波の音もより大きくなる。
漁では大変に頼りになる魚系の亜人達の数も多くなり、まだ鱗や殻を濡らしたままの者も少なくない。加工場や競りの行われている市場を尻目に、私達はアルダム商会の持っている厩舎に馬車とホースゴーレム達を預け、事務所へと案内された。
通りに面した、煉瓦を積み重ねた五階建ての建物である。その一階の奥まった場所にある代表の部屋で、私達はグドと改めて対面した。
私達の事と、アルダム商会がアークレスト王国の隠れ蓑である事を知るのは、商会の中でもごく一部に限られている。私達にお茶を用意してくれた執事もその内の一人だったろう。
グドは巨漢ながら愛嬌のある顔から緊張の強張りを解いて、飲みやすい温度に冷まされたお茶を一息に飲む。
「んぐんぐ、んむ、美味い。皆さんも咽喉が渇いてはいませんか? どうぞ遠慮なく飲んでください」
グドと長テーブルを挟み、長椅子に腰かけた八千代と風香、アムリアが勧められるままにお茶に口を付けた。
私とメイド三姉妹はいざという場合に備えて、アムリア達の周囲に立っている。
こちらのお嬢さん達三人がお茶を飲んで落ち着くのを待ってから、グドは表情を引き締め直して口を開く。何十年もロマル帝国とこの地に住む人々を相手に商売をしてきた歴戦の商人は、さて、私達に何を聞かせてくれるのか、何を問うのか。
「貴方達の事を知らされた時にはずいぶんと驚かされましたが、堂々とこのウミナルに入ろうとなさるのには、さらに驚かされましたぞ」
批判されてもおかしくないのだが、グドの声音には純粋な驚きだけがあった。
「申し訳ありません。どう対応されるのかを含めて、このウミナルという都市とこの地の人々の事を肌で感じて知りたかったのです」
グドに答えたのはアムリアだ。私達の誰よりもこのウミナルを知る商人と話をするのには、この町を訪れる事を希望した彼女が最も相応しく、同時にそれが彼女の責任でもある。
「なんとも豪胆な。しかし、悪くすれば刃傷沙汰になる恐れもあります。サザミナ殿が言っていたように、次からは気を付けなければなりません」
「はい。あの……刃傷沙汰と仰いましたが、やはり、それほどまでにこの都市での人種間との関係はひどいのですか?」
グドは言葉を選ぶように腕を組み、目を瞑って小さく唸った。飢えた熊が発するような唸り声に、八千代と風香の耳が一度しおしおとへたれた。こっちも肝っ玉が小さいものだ。
「もちろん、良いか悪いかで言えば、悪いの一択になります。それはアナ様達もウミナルまでの道のりで存分に目にして来られたでしょう。帝国側での反乱を起こした者達や亜人、異民族達への対応もまた、ご覧になっているのでは?」
「はい。最初にライノスアート大公のお膝元から見聞の旅を始めましたので。エルケネイやその周囲ではそれなりに亜人と異民族でも上手く手を携えていられましたけれど、ここではロマル民族でなくとも人間種ならば敬遠されているのですね。でも、あの……この港の辺りでは、人間種の方々が特に監視されている様子もなく働いているのをお見かけしたのですが」
「ああ、それはウミナルやこの辺りに住んでいる人間種ではありませんよ。海の向こう側、つまり交易国に在籍している人間種です。太陽の獅子吼の思想がどうあれ、それは彼らの傘下に属する者達に適用されるのであって、敵対関係にあるわけでもない交易相手に押し付けるものではありませんから。思想に影響を受けすぎた者達が暴走するのを危惧して、太陽の獅子吼側は港の周囲にはまだ落ち着いている連中を回して、余計ないざこざを避けておりますぞ。それでも雰囲気は険悪になっていますが」
グドは溜息交じりに続ける。
「我が商会の人間種の者も、以前よりも仕事がやりづらくなったと愚痴を零す始末。取引それ自体は以前よりも我らに都合の良いものになりましたが、雰囲気の悪化は否めません」
長年ウミナルで仕事をしてきた者達ならば、当然こうした空気の変化を敏感に感じ取れるだろう。事前の調べ通り、交易の条件それ自体は帝国時代よりも良いようだが、この様子ではそれもいつまで続くか分からない。
グド達を含め、今はこのウミナルに寄港している者達も、より条件の良い港があったなら、そちらを利用する選択肢が出てくるはずだ。
「ではグド様、この都市に残っている人間種の方々はどのような扱いを受けているのですか? 私達の調べでは、彼らは単純な労働力として扱われていて、戦場に兵士として連れて行かれる事もないようですが」
アムリアの話を聞き、グドは感心した様子で目を細める。
「ほう。……アナ様が把握している情報に誤りはありません。しかし、不足はあります。さすがにロマル人でない者は捕われてはおりませんが、ロマル人は特定の区画に隔離されて、割り振られた仕事をこなす日々を行っております。一部、行政や軍事に携わっていた者達は、その能力と知識を買われて、条件と監視を付けて働いている者もいるようですな。ところで、アナ様」
「はい、何か?」
「古今東西の歴史を紐解いてみますと、こうした虐げられていた者達が反旗を翻して立場を逆転させた時、概ね二つに分ける事が出来ます。それが何か、お分かりになりますか?」
「二つ……相手を滅ぼすまで戦うか、途中で妥協するか、でしょうか?」
どうやらアナの答えはグドの用意していた正解とは異なったらしいが、その内容の過激さに、グドは口を大きく開けて驚いた顔を見せた。
虫も殺せそうにないアナの印象を大きく裏切る発言だ。この辺りは戦国乱世が長く続いた故郷を持つ八千代と風香、それに私から影響を受けてしまったからだろうか。
「いや、まあ、それはそう? なのでしょうが。ええとですな……自分達がされた事をそっくりそのまま報復し返すか、奴らと自分達は違うと報復しないか、です。後者の場合は不当な差別をした者達に対して、自分達は決してそのような行いはしないと、平等を旗印に掲げる傾向が見られます。大抵、代を重ねると破綻しますし、ひどい時にはその言葉を口にした者の代で終わりますけれどね……」
古神竜時代の記憶を掘り返してみるに――なるほど、ちらほらと例外を見た記憶もあるが、概ねグドの言う通りだ。
「事前に聞いていたお話ですと、太陽の獅子吼の方達は前者であるように思えますが、何か違うのですか?」
アムリアの問いに、グドがゆっくり言葉を選びながら答える。
「恥ずかしながら、私達も当初は太陽の獅子吼達がロマル帝国に反旗を翻し、一定の成果を上げた後は同じような仕打ちをするものと考えておりました。しかし実際は、その予想よりも余程穏当な扱いがなされています。肝心なのは予想が違ったという事実に加え、何故予想と違ったのか、という点です。太陽の獅子吼を構成する諸種族は、ロマル帝国の支配からの脱却と父祖伝来の土地の奪還、そしてかつての敗北の屈辱を雪ぐ事を共通の目的としています。代々その思想を伝え、種族や部族内の結束を高めるというのは、分かる話です。そうして彼らは今の結果に繋がっておりますしね。ただ、その割に現状の扱いはずいぶんと手ぬるく感じます」
単に太陽の獅子吼が支配の屈辱から人間種を下に扱っているだけと考えては、見落とすものがあると、私達に教えたい様子だ。
アムリアはグドの瞳をじっと見つめて、話の続きを促した。
「私達が現状把握している限りになりますが、どうやら太陽の獅子吼内部でも、思想といいますか、温度差があるのですよ」
「屈辱の歴史と憎悪に従って、自分達には復讐の権利があると声高に叫ぶ者と、虐げられてきた自分達だからこそ、帝国と同じになってはならないと訴える者……でしょうか?」
「それならまだ分かりやすいのですが、復讐の権利を叫ぶ側の中での温度差なのですよ」
「……つまり、どの程度復讐するかの違いでしょうか。誰に、どこまで、いつまで、どう復讐するか、という観点で温度差があるのですね」
アムリアの言葉に頷き、グドは話を続ける。
「その通りです。仮に過激派と称しましょう。その過激派の中の温度差が、今のウミナルの微妙に生ぬるい対応に繋がっているのです。ちなみに太陽の獅子吼内の穏健派はかなり少数です。差別されたのが先祖の代の話であったなら、もっと穏健派も多かったでしょうが、直接差別を受けた世代での反乱ですから、それも仕方のない話です」
他にも言いようはあるかもしれないが、過激派と穏健派の対立ではなくて、過激派内部での温度差とは……エルケネイの反乱勢力『七つ牙』より相手をしづらそうだ。
アークレスト王国にも、アルダム商会経由でこれくらいの話は伝わっているだろうが、私達で何か新しい情報を伝えられるかね?
「現状のウミナルを見れば分かりますが、目下、過激派の舵を握っているのは〝穏健派寄りの過激派〟です。……自分で言っておいてなんですが、ややこしい呼称ですな」
「では、それぞれの派閥の代表格となる方のお名前を冠してはいかがでしょう? 私達も注意しなければならない方のお名前を同時に把握出来ますし、その方が分かりやすいかと思います」
アムリアの提案に、グドは手を打って同意を示す。
「おお、それが良いですな。では、穏健派寄りの過激派の代表は獅子人のアシアという青年ですから、アシア派。過激派の過激派は獅子人のレコという女性ですから、レコ派になりますな」
「ウミナルの状況を考えると、太陽の獅子吼の代表者は、穏健派のアシアさんという方なのですね」
「いや、そこがまたややこしいところでして、太陽の獅子吼の代表たる族長はアシアでもレコでもありません。黄金の鬣を持つ若き獅子人、レオニグス家のレグルです。彼は元々レコ派に近い思想の主でしたが、族長としての重責を担う中で頭が冷えたのか、感情を横に置いて部族全体の未来を考えるようになった節があります。レコ派が舵を握っていたなら、他国の船でも人間種がウミナルを訪れるのを許さなかったでしょうからね」
そうなると、ロマル帝国南方の反乱勢力の主要人物はアシア、レコ、レグルの三名となるわけだ。
アムリアの素性を考えると、レコとレグルに会わせるのは厳しいが、アシアとは少し接触を考える価値があるかもしれない。もっとも、アシアもまた過激派ではあるのだが。
思っていたよりも複雑な太陽の獅子吼内部の事情に少し考えを巡らせてから、アムリアが口を開いた。
「そうなると、レグルさんという方の心がどちらを向いているのかを知るのが、重要ですね」
そう言い切ったアムリアの瞳を見て、両隣の八千代と風香が〝あっ〟と短く声を上げた。
あれはアムリアの覚悟が固まった時の瞳だ。次はレグルの獅子顔を拝みに行く事になりそうだ。
途方もなく強固な覚悟を固めたのが見て取れるアムリアは、その覚悟に基づいた行動に必要そうな情報をグドへと求めた。
「そのレグルさんは、普段はどのように過ごしておられるのですか?」
強い意志の輝きを放ちはじめたアムリアの視線を受けて、心なしかグドが背筋を正す。
国家の後ろ盾を得ながら異国で堂々と商売を行う男の目にも、彼女が只者ではないと映ったのか。
「それは、今の彼は太陽の獅子吼の族長としてだけでなく、傘下の諸部族をまとめ上げる立場に就いていますから、奪取した総督府を改装して、普段はそこに籠っておりますよ。元々、自ら最前線に立って武勇を振るって味方を鼓舞する類の武人ですから、演習に参加している事も多いようですが。とはいえ、血気盛んで済まされる時期は過ぎたと、お小言をしょっちゅう貰っているという評判ですな」
どうやらこの段階で、グドは嫌な予感に襲われたらしい。アムリアを見る瞳には、不審と疑惑の色が急速に濃くなりはじめている。
「なるほど。総督府に行けば必ず会えるわけではないのですね。そうなると、普段の行動を把握していないと、空振りに終わる事も多そうです。自由に使える時間は限られていますし、情報収集に力を入れないといけません」
いよいよ目の前の女性が何を考えているのかを察して、グドは愛嬌のある穴熊人の顔を引きつらせる。
当然だろう。詰所でサザミナから二度と騒ぎを起こさないようにと釘を刺されたばかりだというのに、彼女はよりにもよって太陽の獅子吼の最重要人物と会おうとしているのだから。
「まま、まさか……アナ様はレグル殿に会おうとお考えなのですかな?」
まさかと疑っているのはこの場でグドだけだ。
私はもちろん、八千代や風香、リネット達だって、アムリアが直接自分の目と耳でレグルの人となりを確かめようとしているのを確信していた。
それにしても、アークレスト王国の王城に匿われた生活をしていたにしては、いささか行動力が逞しくなりすぎてはいないかな? ロマル帝国に来てからの今日までの日々で、アムリアの眠っていた資質を目覚めさせたか?
私は堪え切れず、小さな吐息を零した。
「うふふふ、さあ、どうでしょう。世間知らずな私でも、グド様の言われる事がとても難しいのは分かりますわ」
「そ、そう、そうですな。いやははは……アナ様の態度に、ついつい深読みなどしてしまいました。海千山千の商人と渡り合ってきた自負がありましたが、これは精進しないといけませんな。まだまだ未熟、未熟、はははは」
グドは引きつった笑みを浮かべる。
しかし……アムリアは難しいとは言ったが、不可能だとは口にはしていない。はたしてグドはそれに気付いていないのか、無意識に聞こえていないふりをしているのか。
どちらにしても、彼の胃と神経には、今以上に大きな負担をかける未来が待っていそうだ。
アムリアは友好的で可憐な笑みを浮かべたまま、まだ動揺を残しているグドから次の情報を得るべく、あくまで静かな声音で畳みかける。
相手が弱気な態度を見せたなら、それを見逃さずに食らいつく。さながら猛獣めいた洞察力と攻撃性である。
「アナお嬢様は好機を逃しませんね。人の呼吸と間を読み取るのが上手です、とトルネは感心してしまいます」
トルネ――もといリネットの言う通りで、どうやらアムリアは度胸ばかりか観察力や判断力もいつの間にか鍛えられていたらしい。アムリアがその気になれば、あっという間に人を手玉に取る名うての詐欺師になれそうだ。
リネットからの高評価が耳に届いていないアムリアは、決して嘘ではないが、心情の全てというわけでもない言葉で、グドへ語りかけ続ける。
「もし可能であれば、ロマル帝国に更なる波乱を招く若き獅子のご尊顔を拝したいと思っただけですから。難しいようであれば、無理にとは望みません。ところで、先程は過激派の方ばかりお名前を伺いましたけれど、少数だけいる穏健派の代表はどなたなのですか? よくある劇の演目やお話にたとえますと、レグルさんの妹君や恋仲の女性が穏健派の代表で、対立している場面ですが」
冗談めかして言ったアムリアに釣られて、グドも少し笑う。
「おお、そういえばお伝えしておりませなんだな。いや、それにしても、いささか観劇に影響されすぎですぞ、アナ様。太陽の獅子吼で穏健派と呼べる勢力を纏めているのは、リオレという長老格の老婆の獅子人です。父祖の土地を取り戻し、ロマル民族を追い出したなら、それ以上戦火を広げる必要はないのではないかと、主に部族の若い衆を相手に訥々と語りかけているようです。長く争いと差別の歴史を見てきたからでしょうな。ただ……いかんせん、ロマル帝国がまだ大きな戦力を残しておりますし、初戦に勝利を重ねた興奮と歓喜がありますから、休戦や停戦を考える者は少数。終戦ともなれば、ほとんどいないようなものです」
「そうですか。私にこう思う資格があるのか分かりませんが、平和を望む声が小さいのは、悲しいですね」
偽りのない悲哀の色を浮かべたアムリアの表情を見て、グドもまた同じように悲しげな表情を浮かべた。
グドは決して薄情ではないが、同時に商人として感情と行動を切り離せる人物だろう。しかしこの時ばかりは、目の前のアムリアにつられるように感情を素直に示している。
「ただ単に戦いがなくなれば、それが平和というものではないのです。特定の成果を得た上でなければ平和に意味がないと、当事者達が考えている間は、そうそう争いは終わりません。それにしても、今のロマル帝国の状況は、他国の情勢もあってかなり複雑です。私の知る限りですが、さすがに他国の者に膝を突くのは勘弁だと、帝国の者も反乱を起こした側の者も考えているようですがねえ」
その〝他国の側〟についているグドとしては、自身が利益に与る為にもアークレスト王国が介入しやすい状況を望んでいるのだろうか。
まさか目の前にロマル帝国の隠された皇女がいると知ったなら、グドはどのような反応を見せるだろう。
ロマル帝国の皇女というアムリアの素性こそが、場合によっては状況を動かす切り札となり得る。
アムリアも、札あるいは駒としての自分の価値を客観的に理解している。
以前ならばともかく、今の彼女ならそこまで考えが到っていてもなんらおかしくはない。こうしてグドと話しながら、同時に自分をどう使うのが最も効果的かと思考を巡らせているのかもしれない。
双子の姉にあたるアステリア皇女は、常人離れした思考の速さを持つ才女として知られているが……ではアムリアはいかなるものか。
†
協力者であるグドと無事に接触出来た私達は、彼らに旅の荷物と馬車を預けて、早速ウミナルの中を見て回る事にした。
事前の詰所での件もあり、アムリアは不承不承という様子ではあったが、顔を隠す為にフードを被せ、アルダム商会が籍を置いている異国風の衣装に着替えている。
鮮やかな刺繍の施された藍色のスカートに白いシャツ、袖のない深緑色のコルセット、それにフード付きのショートコートという構成になる。
念には念を入れて、違う顔に見える幻術を込めた魔法の指輪を左手の中指に嵌めてもらっている。
あくまで人間の姿のままでウミナルの中を歩き回りつつ、アムリアが二度目の騒ぎを起こしたと知られないようにする為の処置である。
もし再び詰所なりで素性を問われたら、アムリアがアルダム商会に留まっている間暇なので、商会と取引のある異国の女性の用心棒がてら観光していると言い張る予定だ。
用心棒をしながら観光をするというのは、嘘ではないしね。
かくして私達は、青い海から寄せてくる波の音が全身を揺らす港へと足を向けた。
港では、次の航海へと向けて商品となる香辛料や陶器、名産品である海産物の乾物に上質の絹、真珠細工、オリーブオイルなどが、逞しい船員達の手によって船へと運び込まれていた。
それとは逆に、異国でたんまりと仕入れた茶葉や鉱物、反物、各種の酒、良質の木材や魔晶石に精霊石、それらの加工品が船倉から運び出されてもいる。
「ふむ、奴隷の類は見られないな」
家族と引き裂かれ、故郷を追われ、劣悪な環境で海を越えて売り買いされる、奴隷という存在に追い落とされた無数の人々。
前世で数えきれないほど目撃し、今も褪せる事なく私の記憶に刻まれた光景は、幸いにしてこのウミナルでは再現されていなかった。
奴隷という存在に関して、アムリアやリネット、ガンデウス、キルリンネは縁遠いが、八千代と風香は故郷で見た経験があるのか、私の言葉にしみじみと頷いている。
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