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第五章 存在証明
ep.23 最後の仕事
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コンスタンシアは、オーブンを覗き込んだ。
調理室にはすでに甘い匂いが立ち込めている。胸の奥が落ち着かなかった。
「ねえ、なんで急にクッキーなんて作る気になったの?」
焼き上がりを待ちながら、ニコラが尋ねた。
「ん-、ちょっとね」
曖昧に返しながら、コンスタンシアは自分の手元を見つめた。
焼けていくクッキーの色が、昨日、彼の頬を染めた夕日と重なる。
彼のことを隠しているわけではなかった。
けれど、ただあの静かな時間を、二人だけのものにしていたかった。
「あんたってほんとに気分屋だねえ」
「うーん! いい匂い!」
「味見しちゃお」
ニコラと顔を見合わせてひとつつまむ。
サク、といい音がした瞬間、彼が微かに笑ったときのことが浮かんだ。
喜んでくれるかな。
冷めるのを待って、二人はそれぞれクッキーを小袋に詰めていった。
「コニーは誰にあげるの? その一番きれいなやつ」
コンスタンシアは、リボンを結ぶ手を止めた。
自分に向けた、彼の穏やかな笑みを思い出す。耳が熱くなった。
「……大切な友達に」
嘘じゃない。
でも、本当のことでもない。
自分でもわかっていた。
その手の温かさを思い出すたびに、胸の奥が騒ぐ理由を。
ニコラは「ふーん」とだけ言って、それ以上は聞かなかった。
その日、彼は来なかった。
コンスタンシアは、クッキーの包みを手のひらで包み込み、ずっと待っていた。
時折寒さに身震いし、コートの襟に頬をうずめる。
どうして……?
また、どこかで——あの地下で、倒れているのだろうか。
それとも、あの部屋で……?
コンスタンシアは、クッキーを胸元に引き寄せた。
迎えに行こう。
立ち上がりかけて、昨日彼が最後に見せた表情が足を止めさせた。
驚いたような、戸惑うような表情。
その意味が、今更になってわからなかった。
きっと喜んでくれると思っていた。
でも、あの時の表情を思い出すと、胸が苦しくなった。
コンスタンシアは、冷たくなったクッキーの包みを見つめた。
今はまだ、その時じゃないんだ。
それでも——待とう。
……待つって、こんなに勇気のいることなんだ。
◆◇◆
薄暗い部屋で、ギルバートはコートを羽織った。
部屋を出ようとした、その時。机の上の鏡に、青白い顔が映った。
その鏡を伏せ、机の引き出しを開ける。
中から二枚の紙片を取り出した。飴の包み紙と、中央機構の連絡先。
『明日は何か……クッキーでも、持ってくるね』
彼女は今も、ベンチで待っているだろうか。
ギルバートは、よろめきながら椅子の背を掴んだ。
顔を手で覆う。指の隙間を抜けた細い光が、閉じた瞼を刺した。
今すぐにでも、あの森に行きたかった。
寒さに震えながら待つ彼女の姿が、脳裏にちらつく。
約束を破ってしまった——。
行けば、きっと彼女は微笑むだろう。
それがわかってしまうから、瞼を開けることができなかった。
——なぜ。
八年間、どんな命令も必ずやり遂げてきた。この秘密を漏らしたこともない。
それなのに、よりにもよって今、殺されなければならないのか。
逃げてしまえば——。いや、逃げることなどできはしない。
この力を持つ限り、俺は誰かの“道具”だ。
フィニアスは、俺に殺しはさせない。彼らは正義の側にいる。
ここはまだ、マシな檻だ。
『やり遂げれば……俺から師匠に交渉してやろう。誰も文句が言えぬほど、やり遂げればな』
カルダが最後に言った言葉を噛み締める。
——必ず戻る。けれど、今はこれはいらない。
思い出せば、感情をかき乱されるから。
ギルバートは、それらを重ねて手のひらで握りつぶした。
掌に残った微かな感触さえも、意識の隅へ追いやっていく。
大きくゆっくり息を吐くと、ごみ箱に投げ入れる。
からん、と乾いた音がした。
ギルバートは、一度も振り返ることなく部屋の灯りを消した。
扉が閉まる音が、背後で小さく響いた。
彼は、長距離転位用の部屋にいた。息を整え、魔法陣の中心に立つ。
転位の光が、部屋を満たした。
魔力の圧が身体を襲う。ギルバートは奥歯を噛み締め、固く目を閉じた。
「……はっ」
地面に投げ出され、呼吸が戻る。
起き上がり、ギルバートは四肢を確かめた。どこも欠けてはいない。
古びたアパートメントがひしめき合う街の一角。
外壁一枚の向こうに、角蜘蛛の末端が潜んでいるはずだ。
ギルバートは胸を押さえ、魔力の制御に意識を集める。
次の瞬間、外壁を蹴り破って踏み込んだ。
◆◇◆
メリエルは、黒檀のテーブルで紅茶を嗜んでいた。
ティーカップに唇を寄せた刹那、扉を叩く乾いた音が室内に走った。
メリエルは側近に視線を向ける。
「出てちょうだい」
彼は会釈で応じる。薄く扉を開け、部下から言付けを受けた。
その目に緊張が走ったのを、メリエルは見逃さなかった。
「何?」
「——が何者かの襲撃を受けたと」
側近は声を抑えて耳打ちをする。
「まさか。あそこの結界は最新式よ。どこの奴らがやったの」
「……結界は力づくでこじ開けられています。警備もすべて倒されたと。……やったのは、黒髪の、若い魔導士一名です」
彼女の想定を超える答えに、一瞬飲みこむことができなかった。
「一人で……?」
そう呟きながら、メリエルは一人の少年に思い当たる。
彼女の魔力に中てられ、ティーカップが虚しい音を立てて砕けた。
「しつこい男ね」
いいわ。フィニアス。
あんたの作り上げた兵器が私を越えられるかどうか、試せばいい。
メリエルは飲みかけの紅茶を残し、部屋を後にした。
調理室にはすでに甘い匂いが立ち込めている。胸の奥が落ち着かなかった。
「ねえ、なんで急にクッキーなんて作る気になったの?」
焼き上がりを待ちながら、ニコラが尋ねた。
「ん-、ちょっとね」
曖昧に返しながら、コンスタンシアは自分の手元を見つめた。
焼けていくクッキーの色が、昨日、彼の頬を染めた夕日と重なる。
彼のことを隠しているわけではなかった。
けれど、ただあの静かな時間を、二人だけのものにしていたかった。
「あんたってほんとに気分屋だねえ」
「うーん! いい匂い!」
「味見しちゃお」
ニコラと顔を見合わせてひとつつまむ。
サク、といい音がした瞬間、彼が微かに笑ったときのことが浮かんだ。
喜んでくれるかな。
冷めるのを待って、二人はそれぞれクッキーを小袋に詰めていった。
「コニーは誰にあげるの? その一番きれいなやつ」
コンスタンシアは、リボンを結ぶ手を止めた。
自分に向けた、彼の穏やかな笑みを思い出す。耳が熱くなった。
「……大切な友達に」
嘘じゃない。
でも、本当のことでもない。
自分でもわかっていた。
その手の温かさを思い出すたびに、胸の奥が騒ぐ理由を。
ニコラは「ふーん」とだけ言って、それ以上は聞かなかった。
その日、彼は来なかった。
コンスタンシアは、クッキーの包みを手のひらで包み込み、ずっと待っていた。
時折寒さに身震いし、コートの襟に頬をうずめる。
どうして……?
また、どこかで——あの地下で、倒れているのだろうか。
それとも、あの部屋で……?
コンスタンシアは、クッキーを胸元に引き寄せた。
迎えに行こう。
立ち上がりかけて、昨日彼が最後に見せた表情が足を止めさせた。
驚いたような、戸惑うような表情。
その意味が、今更になってわからなかった。
きっと喜んでくれると思っていた。
でも、あの時の表情を思い出すと、胸が苦しくなった。
コンスタンシアは、冷たくなったクッキーの包みを見つめた。
今はまだ、その時じゃないんだ。
それでも——待とう。
……待つって、こんなに勇気のいることなんだ。
◆◇◆
薄暗い部屋で、ギルバートはコートを羽織った。
部屋を出ようとした、その時。机の上の鏡に、青白い顔が映った。
その鏡を伏せ、机の引き出しを開ける。
中から二枚の紙片を取り出した。飴の包み紙と、中央機構の連絡先。
『明日は何か……クッキーでも、持ってくるね』
彼女は今も、ベンチで待っているだろうか。
ギルバートは、よろめきながら椅子の背を掴んだ。
顔を手で覆う。指の隙間を抜けた細い光が、閉じた瞼を刺した。
今すぐにでも、あの森に行きたかった。
寒さに震えながら待つ彼女の姿が、脳裏にちらつく。
約束を破ってしまった——。
行けば、きっと彼女は微笑むだろう。
それがわかってしまうから、瞼を開けることができなかった。
——なぜ。
八年間、どんな命令も必ずやり遂げてきた。この秘密を漏らしたこともない。
それなのに、よりにもよって今、殺されなければならないのか。
逃げてしまえば——。いや、逃げることなどできはしない。
この力を持つ限り、俺は誰かの“道具”だ。
フィニアスは、俺に殺しはさせない。彼らは正義の側にいる。
ここはまだ、マシな檻だ。
『やり遂げれば……俺から師匠に交渉してやろう。誰も文句が言えぬほど、やり遂げればな』
カルダが最後に言った言葉を噛み締める。
——必ず戻る。けれど、今はこれはいらない。
思い出せば、感情をかき乱されるから。
ギルバートは、それらを重ねて手のひらで握りつぶした。
掌に残った微かな感触さえも、意識の隅へ追いやっていく。
大きくゆっくり息を吐くと、ごみ箱に投げ入れる。
からん、と乾いた音がした。
ギルバートは、一度も振り返ることなく部屋の灯りを消した。
扉が閉まる音が、背後で小さく響いた。
彼は、長距離転位用の部屋にいた。息を整え、魔法陣の中心に立つ。
転位の光が、部屋を満たした。
魔力の圧が身体を襲う。ギルバートは奥歯を噛み締め、固く目を閉じた。
「……はっ」
地面に投げ出され、呼吸が戻る。
起き上がり、ギルバートは四肢を確かめた。どこも欠けてはいない。
古びたアパートメントがひしめき合う街の一角。
外壁一枚の向こうに、角蜘蛛の末端が潜んでいるはずだ。
ギルバートは胸を押さえ、魔力の制御に意識を集める。
次の瞬間、外壁を蹴り破って踏み込んだ。
◆◇◆
メリエルは、黒檀のテーブルで紅茶を嗜んでいた。
ティーカップに唇を寄せた刹那、扉を叩く乾いた音が室内に走った。
メリエルは側近に視線を向ける。
「出てちょうだい」
彼は会釈で応じる。薄く扉を開け、部下から言付けを受けた。
その目に緊張が走ったのを、メリエルは見逃さなかった。
「何?」
「——が何者かの襲撃を受けたと」
側近は声を抑えて耳打ちをする。
「まさか。あそこの結界は最新式よ。どこの奴らがやったの」
「……結界は力づくでこじ開けられています。警備もすべて倒されたと。……やったのは、黒髪の、若い魔導士一名です」
彼女の想定を超える答えに、一瞬飲みこむことができなかった。
「一人で……?」
そう呟きながら、メリエルは一人の少年に思い当たる。
彼女の魔力に中てられ、ティーカップが虚しい音を立てて砕けた。
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