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44.Switch(1)
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「っ、」
ぐっとAの腕が後方に引かれた。シュゼーが自分の背後にAを庇おうとしているのだ。細い彼の指が震えている。
それまで滑るように走っていた車体が大きく揺れ、Aとシュゼーは座席から放り出されそうになる。それから車は二、三度、蛇行して、ようやく停止した。ふたりの身体は攪拌され、シートの片側にもみくちゃにされてしまった。
運転手がDomだったのだろう。EのGlareに当てられたらしい。
Aが取り落としたスマホを、フロアから拾い上げたのはEだった。
通話はまだ切れていなかったようだ。
「N、今すぐ戻ってこい」
再度、Aを庇うようにシュゼーが抱き留める腕に力を籠める。荒い呼吸がAの耳元を打った。台風の夜、窓に耳をそばだてている時の音と同じだ。
シュゼーは怯えていた。怯えながらも親が子供を庇護するようにAを庇ったのだ。
Aもまた同じだ。
自分の所有物を盗られたDomが、目と鼻の先にいる。Glareを感じ取れないUsualにだって、空気は人並みに読める。
少しでも余計なことをしたら、羽虫を払うように殺されてしまうだろう緊張感がピンと張りつめていた。
「N、聞こえていないのか」
問いかける声は、返事をし易いようにあくまでも静かだ。
だがそれは、振り下ろされていないだけ、真綿で包まれているだけの、抜き身の刃の静けさだった。
ややあって、Nの声がした。通信状況が悪いのか、最初の発音がガサついている。後ろの方で「あれ、Eも一緒なんですね」とクレハドールが楽しそうな声を上げる。
『お前のところには帰らない』
Aはぎゅっとシュゼーの腕に指を食い込ませてしまう。
この、はらはらしながら成り行きを見守るしかない、疎外感。
父と呼ばせた男が酒瓶を壁に投げつけて去っていくとき、その後ろ姿を罵るときの母と空気に似ている。
まだ細い糸に縋る余地があるのではと期待をしてしまう。期待をしてしまうから、なおのこと神経が磨り減る。
「何故だ?」
『…………』
返事を口にするのを躊躇っている沈黙の重さが、スマホを通して伝わってくる。
Eはこちらに一瞥もくれることなく、ディスプレイから視線を逸らさない。
「これまでお前の為に何かを惜しんだつもりはない。
それでも足りないなら、口にしてくれなければ分からないだろう。 N、何が不満なんだ。全てに対して譲歩する」
場違いな笑い声が響いた。
『良く言うなあ! 浮気しておいて!』
手を叩かんばかりのクレハドールの哄笑に、三人共が反射的に思い違いだと気づいた。
Nは、Eと共同経営者とのやりとりを読み違えている。
勘違いだとNを説得するべきか、Eと共同経営者の繋がりをクレハドールに隠し通すべきか。どちらがより良い選択なのか判断がつきかねた。
そんなAの逡巡が、シュゼーの手の甲に知らず、とうとう爪を立てさせた。
『ん、』
『あの夜のメッセージ見ましたよね。別れようって。どうしてすぐ会いに来なかったんです? Nはずっと待っていたんですよ。
そういうことですよね』
『、ぅ』
Aの位置からでは、Eが持つスマホの裏面しか見えない。
だからこそ、勝ち誇るかのようなクレハドールの声の合間から覗くNの吐息に、要らぬ想像力が働いてしまう。
一体、ディスプレイには何が映っていて、Eは何を見ているのか。
「だからといって、Nを測定器に使っていい道理があるわけがない」
『ええ? あなたが人道を語るんですか』
「これからお前の身に起こる不幸に同情して、助言をくれてやる。今すぐその場から離れろ」
返事をしたのは、Nだった。
『E、クレハドールは命を懸けると言ってくれた。
お前はお前で、もっと扱いやすいSubをパートナーにした方がいい』
ふつり、とそこで通話は途切れた。途切れる間際に、鋭い何かが空を斬る音がした。
「はっ……、はっ……、」
片手で口を押さえているが、シュゼーが嗚咽を漏らせている。EのGlareを浴びた上に、何かの記憶がフラッシュバックしたのかもしれない。
スマホを握りつぶさんばかりのEを見上げて、Aは改めて震えあがった。
視線が錯綜したとき、Eは長いこと昏い眼でAを見つめた。
自分にとって使える人間か否か。冷徹な眼差しで検分されるのは、子供の時以来だった。
「A。
今のはどの辺りだ」
びくりと肩が跳ね上がった。
クレハドールが背景を映してくれてよかったと、感謝すら覚える。
「ま、窓から、青い屋根が見えた。
……第二エリア、マダム・グリュデの店の近く……、
あ、……あいつ、女に部屋を借りさせてたんだ……」
それを聞くなり、Eがドアを開けて外へ出ていく。運転手はまだ使い物にならないだろうから自分でハンドルを握るのだろう。
閉められたドアの乱暴さに、Aとシュゼーはまた身を竦める。
しかしそれが合図だったかのように、石のように固まっていた身体がゆっくりと強ばりを解いていった。Eが離れたせいもあるだろう。それでも口の中に突っ込まれていた銃口が、気休め程度に離れただけに過ぎないが。
車が走り出した。
窓の外に、道路に四つん這いになり吐いている運転手の姿が見える。
Aはまだ呼吸が整わず、鎖骨の辺りに手をやって落ち着かせようと苦心する。シュゼーの手に眼がいき、謝るかわりに血が滲んだそこを撫でる。
「やけに遅くないか?」
シュゼーが窓の外を見て囁く。
「ぜったい、わざと」
「……自分に逆らったことに対する仕置きってことか」
Glareの残滓がぶり返したのか、シュゼーは嘔吐いて口を覆う。
Aは首を振って否定する。
「クレハドールはDom性が強ければスイッチを押せるって言ってたけど、それが一般的なの?」
「……恐らく」
「じゃあやっぱりEとNが特別なんだ……」
Aは深々と息を吐く。
ぐっとAの腕が後方に引かれた。シュゼーが自分の背後にAを庇おうとしているのだ。細い彼の指が震えている。
それまで滑るように走っていた車体が大きく揺れ、Aとシュゼーは座席から放り出されそうになる。それから車は二、三度、蛇行して、ようやく停止した。ふたりの身体は攪拌され、シートの片側にもみくちゃにされてしまった。
運転手がDomだったのだろう。EのGlareに当てられたらしい。
Aが取り落としたスマホを、フロアから拾い上げたのはEだった。
通話はまだ切れていなかったようだ。
「N、今すぐ戻ってこい」
再度、Aを庇うようにシュゼーが抱き留める腕に力を籠める。荒い呼吸がAの耳元を打った。台風の夜、窓に耳をそばだてている時の音と同じだ。
シュゼーは怯えていた。怯えながらも親が子供を庇護するようにAを庇ったのだ。
Aもまた同じだ。
自分の所有物を盗られたDomが、目と鼻の先にいる。Glareを感じ取れないUsualにだって、空気は人並みに読める。
少しでも余計なことをしたら、羽虫を払うように殺されてしまうだろう緊張感がピンと張りつめていた。
「N、聞こえていないのか」
問いかける声は、返事をし易いようにあくまでも静かだ。
だがそれは、振り下ろされていないだけ、真綿で包まれているだけの、抜き身の刃の静けさだった。
ややあって、Nの声がした。通信状況が悪いのか、最初の発音がガサついている。後ろの方で「あれ、Eも一緒なんですね」とクレハドールが楽しそうな声を上げる。
『お前のところには帰らない』
Aはぎゅっとシュゼーの腕に指を食い込ませてしまう。
この、はらはらしながら成り行きを見守るしかない、疎外感。
父と呼ばせた男が酒瓶を壁に投げつけて去っていくとき、その後ろ姿を罵るときの母と空気に似ている。
まだ細い糸に縋る余地があるのではと期待をしてしまう。期待をしてしまうから、なおのこと神経が磨り減る。
「何故だ?」
『…………』
返事を口にするのを躊躇っている沈黙の重さが、スマホを通して伝わってくる。
Eはこちらに一瞥もくれることなく、ディスプレイから視線を逸らさない。
「これまでお前の為に何かを惜しんだつもりはない。
それでも足りないなら、口にしてくれなければ分からないだろう。 N、何が不満なんだ。全てに対して譲歩する」
場違いな笑い声が響いた。
『良く言うなあ! 浮気しておいて!』
手を叩かんばかりのクレハドールの哄笑に、三人共が反射的に思い違いだと気づいた。
Nは、Eと共同経営者とのやりとりを読み違えている。
勘違いだとNを説得するべきか、Eと共同経営者の繋がりをクレハドールに隠し通すべきか。どちらがより良い選択なのか判断がつきかねた。
そんなAの逡巡が、シュゼーの手の甲に知らず、とうとう爪を立てさせた。
『ん、』
『あの夜のメッセージ見ましたよね。別れようって。どうしてすぐ会いに来なかったんです? Nはずっと待っていたんですよ。
そういうことですよね』
『、ぅ』
Aの位置からでは、Eが持つスマホの裏面しか見えない。
だからこそ、勝ち誇るかのようなクレハドールの声の合間から覗くNの吐息に、要らぬ想像力が働いてしまう。
一体、ディスプレイには何が映っていて、Eは何を見ているのか。
「だからといって、Nを測定器に使っていい道理があるわけがない」
『ええ? あなたが人道を語るんですか』
「これからお前の身に起こる不幸に同情して、助言をくれてやる。今すぐその場から離れろ」
返事をしたのは、Nだった。
『E、クレハドールは命を懸けると言ってくれた。
お前はお前で、もっと扱いやすいSubをパートナーにした方がいい』
ふつり、とそこで通話は途切れた。途切れる間際に、鋭い何かが空を斬る音がした。
「はっ……、はっ……、」
片手で口を押さえているが、シュゼーが嗚咽を漏らせている。EのGlareを浴びた上に、何かの記憶がフラッシュバックしたのかもしれない。
スマホを握りつぶさんばかりのEを見上げて、Aは改めて震えあがった。
視線が錯綜したとき、Eは長いこと昏い眼でAを見つめた。
自分にとって使える人間か否か。冷徹な眼差しで検分されるのは、子供の時以来だった。
「A。
今のはどの辺りだ」
びくりと肩が跳ね上がった。
クレハドールが背景を映してくれてよかったと、感謝すら覚える。
「ま、窓から、青い屋根が見えた。
……第二エリア、マダム・グリュデの店の近く……、
あ、……あいつ、女に部屋を借りさせてたんだ……」
それを聞くなり、Eがドアを開けて外へ出ていく。運転手はまだ使い物にならないだろうから自分でハンドルを握るのだろう。
閉められたドアの乱暴さに、Aとシュゼーはまた身を竦める。
しかしそれが合図だったかのように、石のように固まっていた身体がゆっくりと強ばりを解いていった。Eが離れたせいもあるだろう。それでも口の中に突っ込まれていた銃口が、気休め程度に離れただけに過ぎないが。
車が走り出した。
窓の外に、道路に四つん這いになり吐いている運転手の姿が見える。
Aはまだ呼吸が整わず、鎖骨の辺りに手をやって落ち着かせようと苦心する。シュゼーの手に眼がいき、謝るかわりに血が滲んだそこを撫でる。
「やけに遅くないか?」
シュゼーが窓の外を見て囁く。
「ぜったい、わざと」
「……自分に逆らったことに対する仕置きってことか」
Glareの残滓がぶり返したのか、シュゼーは嘔吐いて口を覆う。
Aは首を振って否定する。
「クレハドールはDom性が強ければスイッチを押せるって言ってたけど、それが一般的なの?」
「……恐らく」
「じゃあやっぱりEとNが特別なんだ……」
Aは深々と息を吐く。
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