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5 王司樹
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――――それから二日後。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
聡介がバイトを定時で上がると一台の高級車が道路脇に停まり、その傍には美男子が立っていた。すらりとした体格に仕立ての良いスーツ。お洒落なパーマが目鼻立ちのハッキリした顔に良く似合う。
その男はどこからどう見てもαだった。
だが、その男は店から出て来た聡介を見つけるなり嬉しそうに名前を呼んだ。
「聡介っ」
「樹兄ちゃん!」
「久しぶりだな。あと仕事、お疲れ様」
樹は聡介に近づくと、当然のようにぎゅっと抱き締めた。
彼こそ聡介の七歳年上の従兄弟の王司・樹(おうじ・いつき)。聡介が兄と慕う人物だ。しかし兄のように思っている樹相手でも、少し汗を掻いたバイト終わりに抱き締められるのは少し抵抗があるので、「俺、汗臭いから」と聡介は早々に離れた。
「汗臭くないのにー」
樹は少々不貞腐れた様子で言ったが、聡介はスルーして尋ねた。
「ところで樹兄ちゃん、どうしてここに?」
「吉平おじさんから聡介が今日はバイトに行ってるって聞いたから迎えに」
「そうなの? 迎えに来てくれてありがとう。でも、樹兄ちゃんこそ海外出張大変だったんじゃ? 俺の迎えに来るより家に帰って休んだ方が」
「心配しなくてもそこまで疲れてないから大丈夫。それより家まで送るよ、車に乗って」
樹はそう言うと運転席に乗り込んだ。なので聡介は素直に助手席に乗り込み、シートベルトをしっかりと付けてから車は発進した。
「樹兄ちゃん、いつ帰ってきたの?」
「四時間前ぐらいかな。ああ、聡介のお土産は後ろに乗せてるから後で渡すね?」
「えっ、この前くれたので最後でいいって言ったのに」
「いやー、ついね」
樹は悪びれもなく笑って言った。これはまた海外出張に行ったら何か買ってきそうだ。
……全く。お父さんに言って、樹兄ちゃんの海外出張減らして貰おうか。
聡介はついそう思ってしまう。けれど、そんな聡介に樹は何気なく尋ねた。
「ところで聡介、吉平おじさんから聞いたけどお見合いを受けるって本当?」
樹に聞かれて聡介はドキッとする。そしてどうして樹がわざわざ迎えに来たのかわかってしまった。でも答える言葉は決まってる。
「うん、受けるつもりだよ」
「聡介はそれでいいの?」
「お父さんが持ってきてくれた話だし……相手の人はいい人みたいだから」
「おじさんさ、『相手の人のことを知っても反対するだろ』って言って僕に教えてくれなかったんだけど、どんな人なの?」
「どんな人ってまだ会ったことないからわからないよ。まあ樹兄ちゃんと同い年みたいだけど」
聡介は昨日母親の真里から少しだけ相手方の話を聞いていた。
相手は樹と同じ七つ年上でα性、芸能事務所の社長らしい。そしてまだ発情期の来ていない聡介の体の事も了承しているとか。
今回のお見合いはとりあえず顔合わせ程度で、良かったら今後も会って行く、という話らしい。
けれど、聡介は何となくこのお見合い相手と結婚するんだろうな、とどこか予感めいたものを感じていた。
「ふーん。でも聡介はまだ二十になったばかりだろう。そう言う話はもう少し先でもいいんじゃないか? せめて大学を出てからでも」
「そうかもしれないけど、俺はこんなだし、俺でいいって言ってくれる人がいるならいいかなって。それにとりあえず会うだけみたいだから樹兄ちゃんが心配する事は」
聡介がそこまで言うと樹は車を路肩に停めて、聡介に視線を向けた。
「聡介は恋をして、好きな人とデートしたいとかないのかい?」
樹に聞かれて聡介はドキッとして、頭に鬼崎の姿が過る。でも、何も答えないでいると樹は更に優しい言葉を投げかけてくれた。
「聡介、嫌なら嫌でいいんだよ?」
樹は優しい声で言い、その言葉に聡介の胸はちくりと痛む。樹の優しさが嬉しい、でも同時に申し訳ない気持ちになる。何もできない自分が優しくされるなんて、と思えて。
「俺は大丈夫だよ」
聡介の答えに、樹は何も言わずに前を向く。
「……聡介がそれでいいならいいけど」
そう言いつつまた車を走らせる。でも納得できないのか機嫌が悪いのが見て取れた。けれどそれも自分を心配してくれての事だとわかるからそれ以上何も言えない。
そして車は自宅に着き、聡介は助手席から下りた。だが樹が下りてこない。
「樹兄ちゃん?」
「聡介、これさっき言ってたお土産」
樹は後部座席から質のいい紙袋を運転席から聡介に渡した。
「あ、ありがとう。樹兄ちゃん、家に寄って行かないの?」
「ああ、実は迎えに来る前に寄ってるんだ」
樹の言葉で、きっとそこで父親から見合い話を聞いたのだと聡介は勘づく。
「だから僕はこのまま帰るよ。聡介……お前はすぐに我慢するから、ちゃんと嫌な事は言うんだよ?」
樹の心配してくれる気持ちに聡介は微かに微笑んで「ありがとう」と答えた。でもその答えでは不服だったようで、樹は「じゃあ、また会いに来る。何かあったら連絡するんだぞ」と納得しない顔で車を走らせていった。
……樹兄ちゃんは優しいな、いつも俺の心配をしてくれて。でも俺もしっかりしないといけないよな。
いつまでも頼れる優しい従兄弟に頼ってばかりいられない。けれど自立したい気持ちはあっても、どこからどう手をつければわからない。だから大学にいる間にその道が見つけられればと思っていたが、その矢先にでた見合い話。
……相手の人は俺の事情を知っているって話だけど、本当に俺でいいんだろうか。いや、いいからこの話を受けてくれたんだろうけれど。
なんて思っていると聡介の携帯が鳴った。鞄から取り出すと、そこには鬼崎からのショートメール。
慌てて内容を見ると『明日はお店にいる?』と書かれていた。なのですぐに『明日はいます』と返信すれば、またすぐに返事がくる。
『明日食べに行くからよろしくね』
そのメッセージを見て聡介は胸がきゅっとなる。そしてこの前、公園で頭を撫でられた事を思い出して頬が熱くなった。
……鬼崎さん、明日はお店に来るのか。楽しみだな。
携帯の画面を見ながらほくそ笑む。でもお見合いの言葉が頭を過って聡介は鞄に携帯を戻した。
……お見合いするけど、やり取りぐらいはいいよな。店員とお客さんのやり取りなわけだし。
そう思いつつも好きな気持ちは隠せない。そして樹の言葉が蘇る。
『聡介は恋をして、好きな人とデートしたいとかないのかい?』
……デートか。俺がΩらしくて、発情期が来てたら鬼崎さんに『好き』て言えたかな? ……いや、きっと勇気がなくて結局言えなかったな。それに鬼崎さんはやよいさんの話じゃ独り身で恋人もいないらしいけど、もしかしたら好きな人はいるかもしれないし。
そう思うと胸の奥底がチリチリと焦げ付くように痛む。でもその痛みを無視して、聡介は家の玄関ドアの鍵を開けて中に入ろうとした。
けれど、突然チリッとうなじが痛む。
「んっ?」
聡介は思わずチョーカーの上からうなじに手を当てた。でもその痛みはすぐに消えてしまった。
……なんだろ? 今の。
不思議に思いながらも玄関の向こう側でこてつが聡介の気配を感じて「きゃんきゃん」と鳴いて帰りを待ちわびている。だから聡介は深く考え込まなかった。
「まあいいか」
聡介は呟くと、ドアを開けて家の中に入った。それが予兆である事にも気が付かないで―――。
◇◇◇◇
――――それから翌日の夕方。
聡介はいつも通り仕事に入り、お店が開店してからしばらくして連絡通り鬼崎がやって来た。
「こんばんは、聡介君」
「い、いらっしゃいませ、鬼崎さん」
聡介はできるだけ普段と同じように声をかけたつもりだが、やっぱりこの前頭を撫でられた事がなんだか照れ臭くって鬼崎の事をはっきりと真正面から見られない。けれど一方で鬼崎はいつも通りで。
……やっぱり意識してるのって俺だけだよなぁ。
なんて思いつつも鬼崎をいつもの隅のテーブル席に案内し、注文を取った。鬼崎はビールと三品ほど料理を頼み、勿論その中にはお気に入りの玉子焼きも含まれている。そして出来上がった料理を運び、しばらくバタバタした後、お客さんが少なくなってきたところで鬼崎から話しかけてきた。
「聡介君」
「はい、追加注文ですか?」
「いや、この前の話、覚えてるかな?」
鬼崎に聞かれ、聡介はすぐに頷いた。
「もし良かったら今度の土曜日、散歩に同行してもいい?」
鬼崎の誘いに聡介は即座に答えた。むしろ断る理由なんかない。
「はい、大丈夫です!」
「じゃあ、この前の公園のベンチで待ち合わせして、時間はまた連絡してくれるかな? 聡介君に合わせるよ」
「わかりました!」
「じゃあ、俺はそろそろ帰ろうかな。お勘定をお願いできる?」
そう言って鬼崎はテーブルに置いてあった伝票とクレジットカードを聡介に渡した。
それを受け取り、聡介が会計を済ませてレシートとカードを返すと鬼崎はそれらを財布に入れて席を立つ。
「じゃあ、ごちそうさま。またね、聡介君」
会計が終わって鬼崎はそう言って帰って行った。
「はい、ありがとうございました」
聡介は鬼崎を見送り、鬼崎がいなくなったテーブルを素早く片付ける。しかし不意に樹の言った言葉が蘇った。
『聡介は恋をして、好きな人とデートしたいとかないのかい?』
その言葉と共に鬼崎の姿が思い浮かぶ。
……鬼崎さんとデートできたら、どんなに楽しいだろう。来週にあるお見合いを受けたら……もうきっと永遠に出来ないだろうな。
そう思ったら胸の奥がツキツキと痛くなった。けれど不意に座席に視線を向けると鬼崎の携帯が置きっぱなしな事に気が付く。
「あ!」
……鬼崎さん、携帯を忘れてる!!
聡介はそう思うとその携帯を手に取って、やよいに声をかけた。
「やよいさん、鬼崎さんが携帯を忘れて行ったので渡してきます!」
「あら、仁ってばそそっかしいわね。聡介君、お願い」
やよいの許可を貰って、聡介はお店を出て、すぐさま走って鬼崎の後を追う。
……鬼崎さんの家は公園の方だから、あっちかな。
聡介は鬼崎の行方を予想して大通りに向かって走る。そして少し走れば、先を歩いている鬼崎をすぐに見つけられた。
「鬼崎さん!」
呼びかけると鬼崎は振り返り、走ってくる聡介に驚いた表情を見せる。
「聡介君、どうしたの?」
この様子から携帯を忘れた事に気がついてないようだ。
「鬼崎さん、携帯」
少し息が上がった聡介がそれだけを言えば、ようやく携帯を忘れてた事に気がついたようでズボンのポケットに手を当てた。
「わー、ごめん、聡介君」
「いえ、追いついて良かったです」
聡介はそう言って携帯を手渡した。そうすれば鬼崎は「ありがとう」とお礼を言い、笑顔を見せた。その微笑みにドキッとしながら、聡介は目を逸らして「いえ」と答える。けれどそんな聡介に鬼崎はこんな事を言った。
「わざわざ走って持ってきてくれたお礼、しなきゃね」
「え?! いいですよっ、俺はただ持ってきただけですし」
「いや、助かったからお礼ぐらいさせてよ」
鬼崎に言われて、聡介は困ってしまう。だって、ただ忘れ物の携帯を持ってきただけなのだ。お礼して貰うほどのことも無い。けれど、また頭に樹の言葉が過ぎり、そして目の前には好きな人がいる。
『聡介は恋して、好きな人とデートしたいとかないのかい?』
その声が後押しし、聡介は勇気を出して鬼崎に声をかけた。
「あ、あの! 鬼崎さんっ!」
「ん?」
「そのっ、今度の休みは散歩じゃなくて、えっと、鬼崎が着てるその服のお店に連れてってくれませんか?!」
「俺の……この服? 聡介君、こういう服に興味あるの?」
正直、鬼崎の変な服には興味はないが「はい」と聡介は答えていた。だってそう答えなければ二人っきりで出かけられない。そして聡介の言葉を聞いた後、鬼崎は少し考えてからこう言った。
「わかった。じゃあ、今度の散歩はまたにして今度の土曜日にはこの服の店に連れて行くよ。ついでにランチも一緒にどう?」
思ってもみない誘いに聡介はすぐ頷いた。
「じゃあ決まりだ。また時間と待ち合わせ場所は改めて連絡するね」
鬼崎は聡介が持ってきた携帯を見せて言った。
「はい。じゃあ俺、そろそろお店に戻りますね」
「うん。本当にありがとう、聡介君」
お礼の言葉を告げる鬼崎にぺこっと頭を下げて聡介は駆け走って、今来た道を帰った。
……今度の土曜日、鬼崎さんとっ!!
そう胸を躍らせて。
でも、そのデートで聡介は予期していなかった事態になる―――。
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
聡介がバイトを定時で上がると一台の高級車が道路脇に停まり、その傍には美男子が立っていた。すらりとした体格に仕立ての良いスーツ。お洒落なパーマが目鼻立ちのハッキリした顔に良く似合う。
その男はどこからどう見てもαだった。
だが、その男は店から出て来た聡介を見つけるなり嬉しそうに名前を呼んだ。
「聡介っ」
「樹兄ちゃん!」
「久しぶりだな。あと仕事、お疲れ様」
樹は聡介に近づくと、当然のようにぎゅっと抱き締めた。
彼こそ聡介の七歳年上の従兄弟の王司・樹(おうじ・いつき)。聡介が兄と慕う人物だ。しかし兄のように思っている樹相手でも、少し汗を掻いたバイト終わりに抱き締められるのは少し抵抗があるので、「俺、汗臭いから」と聡介は早々に離れた。
「汗臭くないのにー」
樹は少々不貞腐れた様子で言ったが、聡介はスルーして尋ねた。
「ところで樹兄ちゃん、どうしてここに?」
「吉平おじさんから聡介が今日はバイトに行ってるって聞いたから迎えに」
「そうなの? 迎えに来てくれてありがとう。でも、樹兄ちゃんこそ海外出張大変だったんじゃ? 俺の迎えに来るより家に帰って休んだ方が」
「心配しなくてもそこまで疲れてないから大丈夫。それより家まで送るよ、車に乗って」
樹はそう言うと運転席に乗り込んだ。なので聡介は素直に助手席に乗り込み、シートベルトをしっかりと付けてから車は発進した。
「樹兄ちゃん、いつ帰ってきたの?」
「四時間前ぐらいかな。ああ、聡介のお土産は後ろに乗せてるから後で渡すね?」
「えっ、この前くれたので最後でいいって言ったのに」
「いやー、ついね」
樹は悪びれもなく笑って言った。これはまた海外出張に行ったら何か買ってきそうだ。
……全く。お父さんに言って、樹兄ちゃんの海外出張減らして貰おうか。
聡介はついそう思ってしまう。けれど、そんな聡介に樹は何気なく尋ねた。
「ところで聡介、吉平おじさんから聞いたけどお見合いを受けるって本当?」
樹に聞かれて聡介はドキッとする。そしてどうして樹がわざわざ迎えに来たのかわかってしまった。でも答える言葉は決まってる。
「うん、受けるつもりだよ」
「聡介はそれでいいの?」
「お父さんが持ってきてくれた話だし……相手の人はいい人みたいだから」
「おじさんさ、『相手の人のことを知っても反対するだろ』って言って僕に教えてくれなかったんだけど、どんな人なの?」
「どんな人ってまだ会ったことないからわからないよ。まあ樹兄ちゃんと同い年みたいだけど」
聡介は昨日母親の真里から少しだけ相手方の話を聞いていた。
相手は樹と同じ七つ年上でα性、芸能事務所の社長らしい。そしてまだ発情期の来ていない聡介の体の事も了承しているとか。
今回のお見合いはとりあえず顔合わせ程度で、良かったら今後も会って行く、という話らしい。
けれど、聡介は何となくこのお見合い相手と結婚するんだろうな、とどこか予感めいたものを感じていた。
「ふーん。でも聡介はまだ二十になったばかりだろう。そう言う話はもう少し先でもいいんじゃないか? せめて大学を出てからでも」
「そうかもしれないけど、俺はこんなだし、俺でいいって言ってくれる人がいるならいいかなって。それにとりあえず会うだけみたいだから樹兄ちゃんが心配する事は」
聡介がそこまで言うと樹は車を路肩に停めて、聡介に視線を向けた。
「聡介は恋をして、好きな人とデートしたいとかないのかい?」
樹に聞かれて聡介はドキッとして、頭に鬼崎の姿が過る。でも、何も答えないでいると樹は更に優しい言葉を投げかけてくれた。
「聡介、嫌なら嫌でいいんだよ?」
樹は優しい声で言い、その言葉に聡介の胸はちくりと痛む。樹の優しさが嬉しい、でも同時に申し訳ない気持ちになる。何もできない自分が優しくされるなんて、と思えて。
「俺は大丈夫だよ」
聡介の答えに、樹は何も言わずに前を向く。
「……聡介がそれでいいならいいけど」
そう言いつつまた車を走らせる。でも納得できないのか機嫌が悪いのが見て取れた。けれどそれも自分を心配してくれての事だとわかるからそれ以上何も言えない。
そして車は自宅に着き、聡介は助手席から下りた。だが樹が下りてこない。
「樹兄ちゃん?」
「聡介、これさっき言ってたお土産」
樹は後部座席から質のいい紙袋を運転席から聡介に渡した。
「あ、ありがとう。樹兄ちゃん、家に寄って行かないの?」
「ああ、実は迎えに来る前に寄ってるんだ」
樹の言葉で、きっとそこで父親から見合い話を聞いたのだと聡介は勘づく。
「だから僕はこのまま帰るよ。聡介……お前はすぐに我慢するから、ちゃんと嫌な事は言うんだよ?」
樹の心配してくれる気持ちに聡介は微かに微笑んで「ありがとう」と答えた。でもその答えでは不服だったようで、樹は「じゃあ、また会いに来る。何かあったら連絡するんだぞ」と納得しない顔で車を走らせていった。
……樹兄ちゃんは優しいな、いつも俺の心配をしてくれて。でも俺もしっかりしないといけないよな。
いつまでも頼れる優しい従兄弟に頼ってばかりいられない。けれど自立したい気持ちはあっても、どこからどう手をつければわからない。だから大学にいる間にその道が見つけられればと思っていたが、その矢先にでた見合い話。
……相手の人は俺の事情を知っているって話だけど、本当に俺でいいんだろうか。いや、いいからこの話を受けてくれたんだろうけれど。
なんて思っていると聡介の携帯が鳴った。鞄から取り出すと、そこには鬼崎からのショートメール。
慌てて内容を見ると『明日はお店にいる?』と書かれていた。なのですぐに『明日はいます』と返信すれば、またすぐに返事がくる。
『明日食べに行くからよろしくね』
そのメッセージを見て聡介は胸がきゅっとなる。そしてこの前、公園で頭を撫でられた事を思い出して頬が熱くなった。
……鬼崎さん、明日はお店に来るのか。楽しみだな。
携帯の画面を見ながらほくそ笑む。でもお見合いの言葉が頭を過って聡介は鞄に携帯を戻した。
……お見合いするけど、やり取りぐらいはいいよな。店員とお客さんのやり取りなわけだし。
そう思いつつも好きな気持ちは隠せない。そして樹の言葉が蘇る。
『聡介は恋をして、好きな人とデートしたいとかないのかい?』
……デートか。俺がΩらしくて、発情期が来てたら鬼崎さんに『好き』て言えたかな? ……いや、きっと勇気がなくて結局言えなかったな。それに鬼崎さんはやよいさんの話じゃ独り身で恋人もいないらしいけど、もしかしたら好きな人はいるかもしれないし。
そう思うと胸の奥底がチリチリと焦げ付くように痛む。でもその痛みを無視して、聡介は家の玄関ドアの鍵を開けて中に入ろうとした。
けれど、突然チリッとうなじが痛む。
「んっ?」
聡介は思わずチョーカーの上からうなじに手を当てた。でもその痛みはすぐに消えてしまった。
……なんだろ? 今の。
不思議に思いながらも玄関の向こう側でこてつが聡介の気配を感じて「きゃんきゃん」と鳴いて帰りを待ちわびている。だから聡介は深く考え込まなかった。
「まあいいか」
聡介は呟くと、ドアを開けて家の中に入った。それが予兆である事にも気が付かないで―――。
◇◇◇◇
――――それから翌日の夕方。
聡介はいつも通り仕事に入り、お店が開店してからしばらくして連絡通り鬼崎がやって来た。
「こんばんは、聡介君」
「い、いらっしゃいませ、鬼崎さん」
聡介はできるだけ普段と同じように声をかけたつもりだが、やっぱりこの前頭を撫でられた事がなんだか照れ臭くって鬼崎の事をはっきりと真正面から見られない。けれど一方で鬼崎はいつも通りで。
……やっぱり意識してるのって俺だけだよなぁ。
なんて思いつつも鬼崎をいつもの隅のテーブル席に案内し、注文を取った。鬼崎はビールと三品ほど料理を頼み、勿論その中にはお気に入りの玉子焼きも含まれている。そして出来上がった料理を運び、しばらくバタバタした後、お客さんが少なくなってきたところで鬼崎から話しかけてきた。
「聡介君」
「はい、追加注文ですか?」
「いや、この前の話、覚えてるかな?」
鬼崎に聞かれ、聡介はすぐに頷いた。
「もし良かったら今度の土曜日、散歩に同行してもいい?」
鬼崎の誘いに聡介は即座に答えた。むしろ断る理由なんかない。
「はい、大丈夫です!」
「じゃあ、この前の公園のベンチで待ち合わせして、時間はまた連絡してくれるかな? 聡介君に合わせるよ」
「わかりました!」
「じゃあ、俺はそろそろ帰ろうかな。お勘定をお願いできる?」
そう言って鬼崎はテーブルに置いてあった伝票とクレジットカードを聡介に渡した。
それを受け取り、聡介が会計を済ませてレシートとカードを返すと鬼崎はそれらを財布に入れて席を立つ。
「じゃあ、ごちそうさま。またね、聡介君」
会計が終わって鬼崎はそう言って帰って行った。
「はい、ありがとうございました」
聡介は鬼崎を見送り、鬼崎がいなくなったテーブルを素早く片付ける。しかし不意に樹の言った言葉が蘇った。
『聡介は恋をして、好きな人とデートしたいとかないのかい?』
その言葉と共に鬼崎の姿が思い浮かぶ。
……鬼崎さんとデートできたら、どんなに楽しいだろう。来週にあるお見合いを受けたら……もうきっと永遠に出来ないだろうな。
そう思ったら胸の奥がツキツキと痛くなった。けれど不意に座席に視線を向けると鬼崎の携帯が置きっぱなしな事に気が付く。
「あ!」
……鬼崎さん、携帯を忘れてる!!
聡介はそう思うとその携帯を手に取って、やよいに声をかけた。
「やよいさん、鬼崎さんが携帯を忘れて行ったので渡してきます!」
「あら、仁ってばそそっかしいわね。聡介君、お願い」
やよいの許可を貰って、聡介はお店を出て、すぐさま走って鬼崎の後を追う。
……鬼崎さんの家は公園の方だから、あっちかな。
聡介は鬼崎の行方を予想して大通りに向かって走る。そして少し走れば、先を歩いている鬼崎をすぐに見つけられた。
「鬼崎さん!」
呼びかけると鬼崎は振り返り、走ってくる聡介に驚いた表情を見せる。
「聡介君、どうしたの?」
この様子から携帯を忘れた事に気がついてないようだ。
「鬼崎さん、携帯」
少し息が上がった聡介がそれだけを言えば、ようやく携帯を忘れてた事に気がついたようでズボンのポケットに手を当てた。
「わー、ごめん、聡介君」
「いえ、追いついて良かったです」
聡介はそう言って携帯を手渡した。そうすれば鬼崎は「ありがとう」とお礼を言い、笑顔を見せた。その微笑みにドキッとしながら、聡介は目を逸らして「いえ」と答える。けれどそんな聡介に鬼崎はこんな事を言った。
「わざわざ走って持ってきてくれたお礼、しなきゃね」
「え?! いいですよっ、俺はただ持ってきただけですし」
「いや、助かったからお礼ぐらいさせてよ」
鬼崎に言われて、聡介は困ってしまう。だって、ただ忘れ物の携帯を持ってきただけなのだ。お礼して貰うほどのことも無い。けれど、また頭に樹の言葉が過ぎり、そして目の前には好きな人がいる。
『聡介は恋して、好きな人とデートしたいとかないのかい?』
その声が後押しし、聡介は勇気を出して鬼崎に声をかけた。
「あ、あの! 鬼崎さんっ!」
「ん?」
「そのっ、今度の休みは散歩じゃなくて、えっと、鬼崎が着てるその服のお店に連れてってくれませんか?!」
「俺の……この服? 聡介君、こういう服に興味あるの?」
正直、鬼崎の変な服には興味はないが「はい」と聡介は答えていた。だってそう答えなければ二人っきりで出かけられない。そして聡介の言葉を聞いた後、鬼崎は少し考えてからこう言った。
「わかった。じゃあ、今度の散歩はまたにして今度の土曜日にはこの服の店に連れて行くよ。ついでにランチも一緒にどう?」
思ってもみない誘いに聡介はすぐ頷いた。
「じゃあ決まりだ。また時間と待ち合わせ場所は改めて連絡するね」
鬼崎は聡介が持ってきた携帯を見せて言った。
「はい。じゃあ俺、そろそろお店に戻りますね」
「うん。本当にありがとう、聡介君」
お礼の言葉を告げる鬼崎にぺこっと頭を下げて聡介は駆け走って、今来た道を帰った。
……今度の土曜日、鬼崎さんとっ!!
そう胸を躍らせて。
でも、そのデートで聡介は予期していなかった事態になる―――。
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ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。
「お前のその特異な力を、帝国のために使え」
強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。
しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。
運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。
偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!
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