焔の牡丹

水城真以

文字の大きさ
2 / 10

二、

しおりを挟む

       *


 奇妙丸きみょうまるはその日、小牧山こまきやま城下のふもとにある館を訪れていた。
 門をくぐると、子どもの声が響く。奇妙丸は玄関には行かず、庭へ回った。

 庭では、弟の茶筅丸ちゃせんまると、妹の五徳ごとくがいた。茶筅丸はぼうっと縁側に座って菓子を頬張っていたが、五徳は目ざとく奇妙丸を見つけると、一目散に駆け寄ってきた。

「兄上!」

 飛びついてくる妹を受け止めながら、奇妙丸はくすくすと笑った。
「五徳、はしたないぞ? 来年には嫁入りするのに――」
 この時、五徳は同盟国である三河に嫁入りすることが定められていた。
 しかし、五徳はぷいと頬を膨らませながら、
は兄上がいいー」
 と、駄々を捏ねた。
 五徳とじゃれ合っていると、ようやく茶筅丸が近づいてきた。大きくなったな、と奇妙丸が声をかけるより先に、

「兄上……いつの間にこられてたのじゃ?」

 と、とぼけた発言を投げかけられたので、思わず脱力した。


       *


 奇妙丸が来訪したのは、生母・吉乃きつのを見舞うためであった。

 もともと体が弱かった上に、立て続けで3人の子を産んだ吉乃は、産後の肥立ちが悪かった。五徳が3歳を迎える頃には起き上がることもままならなくなっていた。

(母上は、小牧山にくるべきではなかったのではなかろうか)

 奇妙丸は、常にそんな思いを抱いていた。
 吉乃はずっと、正式な側室になることを拒んでいた。そこに含まれた複雑な吉乃の気持ちに奇妙丸は気がついておらず、単に遠慮しているのだろう――と、思っていた。それが小牧山城に吉乃の館を建てたと聞いた時は、突然承諾したのである。

 なぜかと疑問だったが、小牧山へ移った吉乃を見た奇妙丸は、変わり果てた母の姿に、すべてを察した。

 尾張で評判の美女として名高かった吉乃は、見違えるほどに肉が落ちていた。小牧山にきたのは、側室になることを受諾したというよりも、自身の命運を察し、残りの時を少しでも我が子達の傍で過ごしたかったからであろう。
 奇妙丸は、病を抱えた生母の姿を見ながら、

『なぜ父上は、無理に小折から出てこさせたのか』

 と、信長を責めたくなった。

 信長は、吉乃を小牧山城へ呼び寄せる時――吉乃の身分では乗れない輿を遣わしたという。そして小牧山城までの道を、何度も何度も休憩しながら、進んで来た。
 しかし、どれだけ気を使ったところで、長い移動は吉乃の体に負担を強いたことは明らかだった。

(ふう……)

 奇妙丸は、吉乃の部屋に向かいながら、侍女達にばれないように息を吐いた。
(生駒の母上に会うのは、妙に緊張する……)
 そう思ってしまうのは、吉乃を母と呼んだ記憶が少ないせいだろう。
 奇妙丸にとって、吉乃は母というよりも、信長の側室という印象が鮮烈だった。だから、はじめて会った時はなにを話せばいいか分からなかった。そして、衰えたといっても、元々が桁違いの美女であったので、肉がなくなっても吉乃の美しさは健在であった。
 吉乃もそれは同じだったのだろう。吉乃は奇妙丸の名を呼び、元気に育っていることを喜んだだけで、深く追求することはなかった。
 ただ、不思議なのは、ほとんど会っていなかったにも拘わらず、吉乃と過ごす時間は、一瞬でも「織田家の嫡男」という立場を忘れることができた。なんとなく、信長が吉乃をどうして特別に想うのかが分かった気がした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...