鬼のツノゴと神のメゴ

くるっ🐤ぽ

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後に残った人々

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 あの夜のことである。
 ギャアッと気味の悪い声がしたことを、つぐ女は覚えている。鳥の声かと思われた。暗く、不吉なものを呼ぶ鳥の声は、トワコと、トワコの兄さまが逃れていたモノに違いなかった。
 夫であった龍に目玉を渡して以来、この目は他の人間がその目に映す光を映さなくなった。龍はつぐ女の目玉に愛しみの眼差しを注いでくれながら、時折、つぐ女の名前を呼んで、接吻をしてくれた。つぐ女の目玉を通して、自分の名前を呼ぶ龍の声が聞こえることも、接吻の感触が伝わることもない。ただ、龍の温かい愛情がつぐ女の胸に沁みる。
 トワコの兄さまも、龍がつぐ女を想うのとは違うだろうが、温かい心で、トワコを想っていたに違いなかった。だから、逃げたのだ。それなのに、追いつかれてしまった。
 トワコの兄さまのお面は、焼けなかったのだろうと、つぐ女には思われた。だから、願いも届かなかった。
 トワコの兄さまはきっと、トワコの幸いを願ったことだろう。その願いは、誰にも届かない。
 神様にも。
 トワコにも。

 トワコとトワコの兄さまが追いつかれた夜、時蔵は「名無しの列」には参加しなかった。家にいて、煙草を吸っていた。
 トワコの兄さまが、煙草を少しください、と言ったとき、時蔵は煙草を一本だけ、トワコの兄さまに渡した。トワコの兄さまは、時蔵はケチだという目つきで、時蔵を見た。翌日、時蔵はトワコの兄さまから、煙草は美味しくなかった、と感想を言われた。それからほどなくして、トワコは清女から裁縫を教わり出したらしいのである。
 時蔵の父は、清女と彩女の店から、財布を買って、母に渡したことがある。兎と鳥の図案の刺繍が施された丸い財布は、母の手には可憐過ぎるように思われた。しかし母は、心からの喜びらしい声で、ありがとう、と言った。それから、自分の古くなった財布から、硬貨を取り出して、その、可憐過ぎるような財布に入れた。父は母の喜びに戸惑ったような目をして、顔を赤くしていた。
 その日、追いつかれたトワコと、トワコの兄さまのことをぼんやり考えながら、時蔵が煙草を吸っていると、隣に、時蔵の父の影が、スゥ、と現れた。そして、時蔵の手から煙草を取った。しかし、時蔵の手から煙草がなくなったわけではなく、時蔵の手に持っていた煙草の影が、時蔵の父の影に渡ったのである。影になっても、時蔵の父は煙草を吸うらしい。臆病、と言われたほどの父だったが、煙草を吸う姿には、何か自信があるように感じられた。
 時蔵の悲しみが、時蔵の父の影に伝わったかもしれない。

 河童は川に浮きながら、煙草をふかしていた。ポッカリと月が浮いていて、そこに穴が開いているようだった。
 山男がノシノシとやってきて、川のふちに座った。酒瓶からグビグビと酒を飲んでいた。
「トワコと、あのツノゴは元気かのぅ……」
 山男は、濡れた唇の奥から、地鳴りのようなゴロゴロという声で言った。
「心配じゃ。手紙も寄越してくれるなと言われた」
 河童は顔に細長く切れ込みを入れたような鼻の奥から、煙草の煙をプカプカと吐き出した。山男は、河童が答えなくても、頓着しないようである。
「儂は、あの二人を儂の三人の女房に会わせてやりたかった。あの二人さえよかったら、儂らの子どものようにして、結婚の世話をしてやりたかった。二人とも、良い子じゃ。女房らも、喜んだろう」
 人が良すぎる山男は、迷惑なことを言っている。河童は呆れて、長く息を吐いた。山男は自分の思いつきにとらわれて、感動しているのか、涙まで流している。グイ、と思い切り酒を飲んで、深く息を吐いている。
「おや、弥治郎じゃ」
 山男が不意に言った。河童は水の上に浮かしていた体を起こした。
 確かに、弥治郎だった。
「今晩は」
 弥治郎は、この頃声が変わり始めている。弥治郎の左手にはハナではなくなった美夜、右手にはクキではなくなった千夜が、それぞれくっついている。
「弥治郎、どうした、こんな夜に」
「美夜と千夜が眠れないって言うから、こっそり出てきたんです」
「お父とお母に叱られるぞ」
 山男は、大きな目玉をグリグリとさせた。美夜と千夜は、クスクス笑いながら、弥治郎の背中に引っ込んだ。弥治郎は、寂しそうな目で山男を見返しただけで、それには答えなかった。
「おじさんたち、トワコの話をしていましたね」
「たち、ではない」
 黙っているつもりだった河童は、思わず口を入れてしまった。
「こいつが勝手に喋っていただけである」
「そうじゃ、そうじゃ。トワコと、トワコの兄さんの話じゃ」
 河童と山男がそれぞれ勝手なことを言うので、弥治郎は目を丸くした。
「弥治郎、お前、トワコから手紙が来とらんか」
 山男は、弥治郎に言った。
「いいえ」
 弥治郎は答えた。
「トワコは手紙を出したいって言ってくれたけれど、いらないって言ってしまったんです」
「手紙なんぞ」
 河童は言った。
「そんなもの、未練になるだけだ貰わない方がいい。断った方が偉い」
「お前さんは冷たい」
 山男は河童に文句を言った。その、小山のような体に、美夜と千夜が纏わりついている。餌に群がる小魚のように、喜びに満ちている姿だ。
 河童は、言った。
「胸の奥で、時々想うくらいで充分だ」

 千里を駆ける車夫は、胸の奥で時々想う。かつて、自分が乗せた客を。その中には、あの美しい少女と、鬼もいた。
 ただ、元気でいて欲しいと思う。
 幸せでいて欲しいと思う。
 そう思いながら、千里を駆ける車夫は、星のように輝く俥の輪をガラガラと鳴らす。
 今日は、山猫の嫁入りだ。
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