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不可思議な空耳

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「それにしても、二神山の北側はふだん風夜に任せているから勝手がわからないな。野狐の住処に足を踏み入れて、危うく噛み付かれるところだった」
「それは危なかったですね……。山の北側は特に荒れているので、兄も必ず空から見回るようにしていると言ってましたよ」

「それは初耳なんだが……」
「そうでしたか……。それは申し訳ありません」
「あの鴉……。いつか羽根をむしり取ってやる……」

 よほど嫌な目にあったのか、三つ目のぼたもちを噛みちぎりながら、泰吉がぶつぶつと文句を言う。

「今日は、風夜さんはどちらに?」

 泰吉や風音の話を聞く限り、風夜にはなにか別の務めで出かけているのだろう。

 由椰が尋ねると、

「人里ですよ」

 と、泰吉が不機嫌そうな顔で口をもごもごさせた。

「人里なら、この前行ったばかりでは……?」
「あのときは人里に用事などなかったと思いますが、今日は本当に人里の偵察に行っています。明日から一週間、二神山の麓の町で、随分と前に外から持ち込まれた神様の誕生を祝う祭りがあるんです。もう四百年も続いているという人の世では歴史のある祭りで、町の外からも見物客がたくさんの人が集まるんですけど……。その余興に紛れて、よその土地から凶悪なあやかし達も入ってきます。だから、事前に偵察をして、あやかし達の出入りしそうな場所をあらかじめ塞いでおくんです。風夜はしばらく、そっちにかかりっきりかと……。おそらく今日は、ここへは来ませんよ」 

「そうでしたか……。では、ぼたもちは召し上がっていただけませんね。その祭りのお務めが終わる頃に作ればよかったです」
「鴉にぼたもちを食わせる必要ないですよ。オレがたくさんいただきます」

 そう言って泰吉が次のぼたもちを手に取る。

「たくさん召し上がっていただいて構いませんけど……。烏月様の分も考えてくださいね。風夜さんの分は……、風音さんに届けてもらうことなどできますか?」
「もちろんです。兄も喜びます」

 風音がそう言うので、由椰は風夜の分を用意するために立ち上がった。ぼたもちを詰めた重箱を風呂敷に包んでいる途中、風に紛れて何か音が聞こえてきたような気がして、ふと手を止める。

「今日は、山の麓では前日から祭りの準備をしているのですか?」
「はい。一週間かけて行う大規模な祭りですからね。祭りの前日は、いつも麓はざわついてますよ」
「そうですか。だから、太鼓の音も聞こえてくるのですね」

 炊事場の窓の外の景色に視線を向けた由椰がそう言うと、泰吉が不可思議そうに首を傾げた。

「ほんとうですか? この敷地内は、烏月様が外からの音も断絶しているはずですが……」
「そうなのですね。祭りと聞いて気持ちが昂って、風の音を聞き間違えたのでしょうか……」

 泰吉と風音にぽかんとした顔をされ、由椰は少し恥ずかしくなった。

「実は……。幼い頃、母に連れられて祭りに出かけたことがあるのです。麓の村で行われた規模も小さなものだったのですが、いつもより少しだけいい着物を着せてもらって、母にねだって出店でりんご飴を買ってもらいました。ピカピカした飴を食べてしまうのがもったいなくて、なかなか食べられませんでした。祭りに行ったのは、その一度だけですけど、とても楽しかった記憶があります。泰吉さんたちの話を聞いて、また行ってみたいなどと思ったから聞こえもしない音が聞こえてきたのかもしれませんね」

 笑いながらそう言うと、由椰は重箱を包んだ風呂敷を風音に手渡した。

「これを風夜さんに……」

 ちょうどそのとき、炊事場の戸が少し開いた。

「今日はぼたもちを作ると聞いたが……」
「はい、たくさん作っておりますよ」

 由椰が入り口の戸を開けると、烏月が中に入ってきて小上がりに腰かける。

「お先にいただいています。由椰様のぼたもちは、最高にうまいですよ」 

 すでに六つもぼたもちを食べている泰吉がそう言うと、

「なんだ、泰吉に先を越されていたのか」

 と、烏月が顔をしかめた。

「烏月様もたくさん召し上がってくださいね。すぐにお茶もお持ちします」

 由椰は形のきれいなぼたもちを皿にいくつかのせると、烏月のそばに置いてお茶の用意をした。

 湯飲みに炊事場にいる四人分のお茶を淹れて小上がりに運ぶと、烏月がひとつめのぼたもちを美味そうに食し終わるところだった。

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