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烏月・Ⅱ
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しおりを挟む由椰が立ち去ってしばらくした頃、炊事場の和室に残された烏月の胸に、ふっと冷たい風が吹き込んできた。
おそらく、由椰が祠にいるのだろう。烏月の体に入り込んでくる気の気配で、由椰が泣いているのだとわかる。それがわかっていても、烏月には由椰を追いかけて慰めてやることはできなかった。
今ここで追いかけていっては、必死に心を無にして由椰を突き放した意味がなくなってしまうからだ。
祭りに連れて行ったお礼にと、由椰が耳飾りを差し出してきたとき、酒を飲み、ほどよく回っていた酔いが一気に冷めた。由椰からの贈り物に、心が揺れた。
耳飾りを受け取って、「気に入った」と優しく笑いかければ、由椰はきっと、嬉しそうに頬を染めて笑い返してきただろう。けれど、烏月がそうしなかったのは、由椰のためを思ってのことだ。
烏月の屋敷は、由椰にとって、人の世に戻れるまでのいわば仮住まい。いずれは人の世に還る由椰に、烏月たちのいる幽世への未練を残させてはいけない。
由椰は烏月にとって特別だった。
伊世が消えてから三百年以上ものあいだ、人を助けることをやめ、外の世界との距離をとった烏月が、由椰を一時的に屋敷に住まわせることにしたとき、泰吉や風夜はひどく驚いていた。
その時点で、賢い従者たちは、由椰が烏月にとってなにか特別な存在だと気付いていただろう。だからこそ、風音も泰吉も風夜も、由椰を大切に扱ってくれていた。
従者たちは何も知らないが、烏月には由椰のことを特別に想う理由があった。
烏月が由椰に初めて出会ったのは、三百年前。烏月が、神力が落ちて神無司山の自分の住居からも出られなくなった伊世を見舞ったときのことだ。
人里から運んできた果物を捧げようと烏月が伊世の祠に向かうと、汚れたぼろの着物を着た少女がひとり、祠の前で熱心に祈っていた。
烏月の姿は、普段は人の目に見えない。姿を隠したまま供物だけを置いて立ち去ろうかと思ったが、祠の前にひざまずいた少女があんまり熱心に祈りを捧げていたので、つい、姿を見せて声をかけてしまった。
「さっきから、何をそんなに祈っているのだ。祈ったところで無駄だぞ。ここの神にはもう、お前の願いをかなえてやれるだけの力は残っていない」
意地悪く笑って言うと、祈りを捧げていた少女が振り向いた。
金色と青の色違いの瞳が、伊世に似ている。一瞬、子どもに化けた伊世かと思ったが、それにしては気配が違う。着ているものはぼろだったし、髪の毛や顔は汚れていたが、美しい少女だった。
「あなたは?」
突然声をかけてきた烏月を警戒するように、少女がじっと見つめてくる。
「偶然に通りすがった者だ。そろそろ暗くなるぞ。力を失った神への祈りなどやめて、早く家に帰った方がいい。夜になると、このあたりはあやかしが出る」
伊世の神力が弱まってからの神無司山は、すっかり荒れてしまっていたのだ。
「暗闇もあやかしも怖くはありません。この世にひとりになることに比べたら」
少女の言葉に、烏月が怪訝に眉をしかめる。
「祈っても神様がかなえられない願いがあることはわかっています。それでも祈っているあいだは、穏やかな心でいられます。私は自分のために神様に祈っているのです。だから、心配しないでください」
「……、なるほど」
烏月が眦を下げて笑いかけると、少女が烏月に小さく会釈した。それから、また目を閉じて祈り始める。
ふと見ると、祠に歪な形のぼたもちがふたつ置いてあった。少女が捧げた供物だろうか。
伊世の祠に何かが捧げられているところを見るのは、ひさしぶりのことだった。
烏月はしばらく熱心に祈っている小さな背中を見つめていたが、やがてそれにも飽きて、その場を去った。
翌日、また見舞いに来てみると、少女の姿はなく、ぼたもちだけがふたつ、祠に残されていた。
皿ごと持っていって伊世に渡すと、伊世が嬉しそうに、ぼたもちをひとつ烏月に分けてくれた。見た目は不恰好だったが、柔らかすぎず、固すぎず、程よい甘さの餡子に包まれたそれは、烏月が今まで口にした供物の中でも特に美味かった。
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