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時瀬 蒼生・1
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しおりを挟む吉原先生に強引に押し切られたおれは、美術室の端っこで、イーゼルにスケッチブックを立てた榊 柚乃の前に座らされている。彼女の描く絵のモデルとして。
「よ、よろしく。なるべく早く済ませるね」
吉原先生の手前、おれのことを拒否できなかったのもあるだろうけど。自らおれの座る椅子を用意してくれた榊の態度は、高一の体育の授業中とは違って、そこそこ友好的だった。
だけど、榊がおれのことを嫌っていることには変わりないらしい。スケッチブックを挟んで向き合う榊の態度からは、その事実が隠しようもないくらいに透けて見えていた。
榊 柚乃は絵が上手い。美術の授業で果物のデッサンをさせられたときも、写真を基に好きな風景を描かされたときも、彼女の絵は本物以上にリアルに見えた。
色の使い方や重ね方だって、なんとなく美術を選択したおれの絵とは違って、ちゃんとアートだった。
でも、おれの前で鉛筆を持った榊は、描き出す前にこちらを一瞥したきり、スケッチブックから一度も視線を上げない。
おれは一応、榊の絵のモデルとして座っているはずなのだが、彼女は絵を描くにあたって、おれの顔を全くもって参考にしていなかった。
横を向こうが、欠伸をしようが、榊はおれに何も言わない。なんだったら鼻くそをほじってても、おれを見ないかもしれない。
こんなんで、わざわざモデルなんてやる意味あるか……? おれなんて、別にいなくていいんじゃない?
だんだんとバカらしく思えてきて、床を蹴るようにして椅子から立ち上がる。
気まぐれにイーゼルの上から榊のスケッチブックを覗き込むと、そこには誰ともしれない見知らぬ男が描かれていて。おれは思わず眉をしかめた。
「誰これ」
スケッチブックに描かれた男の子髪型は、なんとなくおれっぽい。つり眉とか、つり目なところとか、部分的なパーツの特徴を捉えられているところもあるにはある。だけど、スケッチブックに描かれている男は、どう見てもおれじゃない。全くの別人だった。
絵がうまい榊なら、もうちょっとくらいおれに寄せた絵が描けそうなものなのに。
スケッチブックに描かれた男は目や鼻や口、それぞれのパーツが気持ち悪いくらいに変な位置に置かれていて、なんとも歪な顔をしていた。目隠しして福笑いをしたときにできたみたいな、バランスの悪い変な顔だ。
よっぽどおれのことが嫌いなのか、それとも「なるべく早く済ませる」という宣言通りに適当に描いたのかは知らないけど。それにしても、ひとこと言いたい。
「榊さんさ、その顔、少しはおれに似せようと思った?」
「え、っと……」
おれに突っ込まれた榊の顔が、ぱっと赤くなる。それから言葉を詰まらせると、恥ずかしそうにうつむいた。
その反応に、ちょっと拍子抜けする。
おれはてっきり、榊がわざと適当に絵を描いているのだと思っていたから。
「ごめんなさい。わたし、人物画って苦手で……」
うつむいた榊が、デッサン用の鉛筆を両手でいじいじと触りながら、ひどく申し訳なさそうに白状する。
「え、でも、榊ってすごく絵うまいじゃん。部活だって美術部なんだろ」
「いちおう美術部なんだけど……。褒めてもらうほどうまくないよ。それに得意なのは主に風景画で、他はそうでもないの。特に人物は一番苦手で、自分から絵の題材に選んだことは一度もない。わたしには、似せて描くっていうのができないから」
細く小さな声で、榊がぽそぽそとおれに説明する。
「絵が描けるやつって、何描かせてもうまいのかなって思ってたけど。そういうわけじゃないんだな」
「なんでも器用にうまく描ける人もいると思う。だけど、わたしは人の顔がうまく再現できないの。せっかくモデルになってもらったのに、ごめんなさい」
眉尻を下げた榊が、困ったように少し視線を上げる。
黒目がちな榊のふたつの瞳は、おれの顔を心底申し訳なさそうに見つめていて。嘘や冗談を言っているふうではなかった。
「別に、謝んなくてもいいよ。おれが勝手に思い込んで誤解しただけだし」
おれがそう言うと、榊がほっとしたように頬を緩めた。
「最近の美術って、ずっと人物画だったでしょ。わたしにはうまく描けないってわかってるし。だから、授業も出られなかった」
鉛筆を指先で弄りながら、榊がぽろっとこぼす。つい気が緩んだのかもしれないけど、榊が授業に出なかった理由が案外と子どもっぽいものだったことに笑ってしまった。
「なんか意外。榊って真面目そうなイメージなのに、そんな理由で授業サボっちゃうんだな。あー、逆に真面目だから、うまく描けないのがプレッシャーになっちゃうの?」
ふっと笑うと、少し柔らかくなりかけていた榊の表情が強張った。それを見て、何か言い方を間違えただろうかとギクリとする。
おれは、真面目そうな榊にも子どもっぽくて我儘なところもあるんだなってちょっと微笑ましく思っただけで。榊を嫌な気持ちにさせるつもりなんて微塵もなかったのに。
「榊は他がうまいんだからいいじゃん。おれなんて、一応美術選択してるけど、全部イマイチだよ。さっきも吉原先生に、おれの描く絵は大雑把だって言われたとこだし」
慌てていろいろフォローを入れたけど、おれが何を言っても、榊の強張った表情は緩まない。
榊が鉛筆を握りしめたまま手を動かさないから、スケッチブックの絵も未完成のまま。いつまで経っても仕上がらない。
「ごめん。なんか、おれ、余計なこと言ったんだよな。今日はもうやめる? ていうか、もうそれで出しちゃえばよくない?」
フォローの言葉を出し尽くしたあと、最終的にそう言うと、榊は黙ってうつむいた。
描けないってごねるくせに、納得いかない絵は出せないのか……。なんか、面倒くさいな。
「じゃあさ、おれが手伝うわ」
見知らぬ男が描かれているスケッチブックの前に立つと、おれは榊の手から強引に鉛筆を奪った。
「なんかさー、目と目の幅とか眉の位置で顔の雰囲気って変わる気がするだよね。榊の絵はパーツは悪くないから、配置を整えればいいんじゃない?」
榊の描いた顔のパーツをちょっとずつ消しゴムで消すと、目や眉の位置を微調整する。そうやって、それぞれのパーツの配置をひとつずつ変えていったら、榊のオリジナルの男よりはおれっぽくなった気がした。
「んー、こんなもん? どう思う?」
完成した絵を持って、自分の顔と並べてみる。
「どう、かな……」
自分的にはだいぶおれっぽく仕上がったと思ったのに、榊の反応は薄かった。顔の強張りは消えているけど、表情が乏しくて何を考えているのかはよくわからない。
やっぱり、榊は少しとっつきにくいやつだ。
考えてみれば、苦手だと思ってるやつ相手に、おれがここまで親切に付き合ってやる必要ってあるのか……? いや、もうないだろ。
そもそもカンニング容疑だって、冤罪なんだし。
おれはため息を吐くと、顔の横で並べていたスケッチブックをパタンと閉じた。
「よし、もうこれで提出な。このスケッチブック、おれが吉原先生に渡してくる。榊は椅子とイーゼル片付けといて」
「え、あ、ちょっと……」
榊の戸惑う声を無視して、スケッチブックを美術準備室にいる吉原先生のところに持って行く。
「せんせーい、モデル終わりました」
「お、ありがとう。お疲れさま」
パソコンを開いて作業をしていた吉原先生が、眼鏡を外しながら振り返る。
榊のスケッチブックを渡すと、それをおもむろに開いた吉原先生が、絵の中のおれと実際のおれの顔を見比べて目を細めた。
「うん。いい感じだね。時瀬くんの自画像」
ふわっと呑気に微笑む吉原先生の言葉にドキリとする。
バレてんじゃん。おれが榊の絵に手を加えてるって……。
だけど吉原先生は、やり直せとは言わなかったし、おれが手を加えた理由も訊いてこなかった。
「遅くまで付き合ってくれてありがとう。助かったよ」
そう言って、榊とおれの合作を、にこにこしながら受け入れる。
適当なのか寛大なのかよくわかんないけど、おれのカンニングについても疑ってなかったし、変な先生だ。
「じゃあ、これで……」
吉原先生にぺこっと頭を下げて美術準備室を出る。
美術室に戻ると、榊がちょうど椅子を片付け終えるところだった。
「なぁ」
後ろから声をかけると、榊がビクリと肩を揺らして振り返る。
そんなびびらなくてもよくない……?
眉根を寄せて、はぁっと短く息を吐く。美術室の端でおどおどと立っている榊に近付いていくと、彼女がすっと視線をおれの足元に落としながらつぶやいた。
「時瀬、くん……?」
文化祭のときと同じ、確かめるような少し語尾上がりな名前の呼び方だ。
癖なのかもしれないけど。もし無意識にやってるのなら、人を苛立たせる癖だ。
声をかけただけで過剰にびびられたせいで、その語尾上がりの呼び方に苛立ちが増した。
「榊ってさ……」
「今日は付き合ってもらってありがとう」
榊ってさ、おれのこと嫌いだよな。
嫌味でも言ってやろうと思ったら、榊がうつむきがちに笑いながらお礼を言ってきた。おかげで、一気に毒気が抜ける。
「吉原先生、絵のことなんか言ってた?」
「あぁ、なんか、おれが榊の絵に手を加えたってバレてたな」
「え、そうなの? やり直しかな……」
そうつぶやいた榊は、眉根を寄せてとても渋い顔をしている。
「いや。いい感じだって言ってたから、あのまま成績つけてくれるんじゃない?」
「そっか。吉原先生が適当でよかった。好成績がついたら、時瀬くんのおかげだね」
「それはどうだろ」
「でも、吉原先生、いい感じだって言ってたんでしょ? あの絵、きっと時瀬くんによく似てたんだね」
榊がふいに、にこっと笑う。
さっきおれが美術室の外から声をかけたときは過剰にビビっていたくせに、今おれの前で笑う榊の顔はまるで警戒心ゼロだ。
そんな榊 柚乃の生態が、おれにはまるで理解できない。だけど……。
一瞬だけおれに向けられた笑顔がかわいいなって。そう思って、胸が揺れた。
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