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榊 柚乃・3
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しばらくして激情の波が少し収まると、わたしはとぼとぼと廊下を歩き始めた。
フラれて悲しくて苦しくても、家に帰らないといけない。沈んだ心と、カバンがやけに重かった。
肩からずり落ちてくるカバンを引き摺りながら、廊下の角を曲がる。トスン、トスンとカバンを引きずって階段を降りていると、そのあいまに、ペタン、ペタンと上履きが床を弾く音が聞こえてくる。
トスン、ペタン、トスン、ペタンと交互に響いてくる音をぼんやりと聞き流しながら歩いていると、途中でペタンの音が止まった。
トスン、トスン。足元だけを見つめて、一段ずつカバンを落としていると、「柚乃?」と語尾上がりに誰かがわたしを呼んだ。
ドクンと胸が鳴る。
ゆっくりと視線をあげると、ワンフロア下の踊り場に立つ明るい茶髪の男子生徒がこちらを見上げていた。
わたしのほうが高い位置にいるから、背の高さはよくわからない。捲った袖から伸びた日に焼けた腕に、青のブレスレットは見当たらない。だけど、少し汚れた上履きの踵は、かなり年季の入った感じでしっかり踏み潰されていた。
階段の手摺りに手をかけてこちらを見上げた彼が、茶色の髪を揺らして首を傾げる。
「柚乃? どうした?」
優しい声で名前を呼ばれて、全身にブワーッと一気に鳥肌がたつ。
「蒼生、くん……? なんで戻ってきたの?」
泣きそうな声で訊ねたら、彼がペタン、ペタンと上履きの底で床を鳴らしながら階段をひとつ、ふたつと駆け上がってきた。
「なんで、って。そりゃあ、戻ってくるだろ。柚乃のこと待たせっぱなしだし」
話しながら、彼がペタン、ペタンと上履きを鳴らして、またひとつ、ふたつと距離を詰めてくる。
「すぐ話しつけるって言ったのに、遅くなってごめんな。山崎のやつ、何度説明しても全然納得しなくてさ。おれ、完全に濡れ衣なのに、山崎が親に電話するとか言い出しやがって。たまたま通りかかった吉原先生が助けてくれて、なんとか逃げ出せた」
ペタン、ペタンと階段を上ってきた彼との距離が、さらに縮まる。わたしの二段下で足を止めると、目の前に立った彼がじっと顔を覗き見てきた。
「ていうか、何あったの? 柚乃、泣いてた?」
わたしの目元に、そっと伸ばしてきた彼の手が触れる。近付いた彼から、ふわっとバニラみたいな香りが漂ってくる。その手が肌に触れる感覚と甘くて優しい香りを、わたしはとてもよく知っていた。
ああ、このひとが、ほんとうの蒼生くんだ。
そう確信したら、胸が詰まっていっぱいになって。抑えきれなくて。わたしは目の前の彼に、無我夢中で飛びついた。
「え、は? 柚乃?」
首に回した両腕で、しがみつくようにぎゅーっと抱きつくと、耳元でめちゃくちゃ動揺する蒼生くんの声が聞こえてきて。愛おしさに、泣きたくなった。
「ごめんなさい……。目印、間違えて取られちゃった……」
「え、何の話?」
蒼生くんにしがみついたままズビッと鼻を啜ると、彼が遠慮がちにわたしの背中を撫でてくれる。シャツの上から伝わってくる蒼生くんの手のひらの温度に、どうしようもなく安堵した。
蒼生くんに名前を呼ばれて、蒼生くんに抱きしめられたことで、教室の前でわたしに別れを告げてきた人が違和感だらけだったことに今さら気付く。
付き合いだしてからの蒼生くんは、わたしに話しかけるとき、まず最初に名前を呼んでくれる。
突然声をかけられたら、顔が認識できないわたしが誰に話しかけられているのかわからなくて一瞬混乱するからだ。
蒼生くんはたぶん、自分が蒼生くんだってことをわたしに知らせるために、意識的に名前を呼んでくれている。それはお互いを名前で呼び合うようになる前からずっと変わらない、蒼生くんの気遣いだ。
だけどブレスレットを奪っていったあの人は、わたしの名前を一度も呼ばず、別れ際にだけ「ごめんね、榊さん」と他人行儀にそう言った。
あの人は、蒼生くんのフリをした別人だ。もしかしたらあの人が、体育のときに蒼生くんが外したブレスレットを盗っていったのかもしれない。
そんな人が着けたブレスレットに惑わされてしまったなんて、わたしはバカだ。
ブレスレットなんて、蒼生くんを判別するためのただの保険で。そんなものに頼りすぎてはいけなかったのに。
「蒼生くん、他の女の子から告白なんてされてないよね」
「されてないけど……。急に、何?」
「わたし、蒼生くんと別れてないよね」
「だから、急に何? 別れてたら、おれが困るんだけど。ほんとに、何あった?」
怪訝そうに問いかけてくる蒼生くんの首筋に頭をくっつけて、すりすりと首を振る。
「ちょ、柚乃?」
困ったようにわたしを呼ぶ蒼生くんの声を聞きながら、もう大丈夫だと思った。
蒼生くんの顔は、変わらずぼんやりとしてうまく認識できないけど。蒼生くんの笑った顔も、怒った顔も、照れた顔も、泣いた顔も、わたしにはちゃんと見分けられないけど。
わたしの名前を呼ぶ優しい声も、抱きしめてくれる腕の温かさも、漂ってくる優しくて甘い香りも、全部。蒼生くんと他の人とではまるで違う。
わたしは、わかりやすいブレスレットをつけてくれる男の子が好きなんじゃない。
蒼生くんが蒼生くんだから。彼のことが、どうしようもなく好きなんだ。
フラれて悲しくて苦しくても、家に帰らないといけない。沈んだ心と、カバンがやけに重かった。
肩からずり落ちてくるカバンを引き摺りながら、廊下の角を曲がる。トスン、トスンとカバンを引きずって階段を降りていると、そのあいまに、ペタン、ペタンと上履きが床を弾く音が聞こえてくる。
トスン、ペタン、トスン、ペタンと交互に響いてくる音をぼんやりと聞き流しながら歩いていると、途中でペタンの音が止まった。
トスン、トスン。足元だけを見つめて、一段ずつカバンを落としていると、「柚乃?」と語尾上がりに誰かがわたしを呼んだ。
ドクンと胸が鳴る。
ゆっくりと視線をあげると、ワンフロア下の踊り場に立つ明るい茶髪の男子生徒がこちらを見上げていた。
わたしのほうが高い位置にいるから、背の高さはよくわからない。捲った袖から伸びた日に焼けた腕に、青のブレスレットは見当たらない。だけど、少し汚れた上履きの踵は、かなり年季の入った感じでしっかり踏み潰されていた。
階段の手摺りに手をかけてこちらを見上げた彼が、茶色の髪を揺らして首を傾げる。
「柚乃? どうした?」
優しい声で名前を呼ばれて、全身にブワーッと一気に鳥肌がたつ。
「蒼生、くん……? なんで戻ってきたの?」
泣きそうな声で訊ねたら、彼がペタン、ペタンと上履きの底で床を鳴らしながら階段をひとつ、ふたつと駆け上がってきた。
「なんで、って。そりゃあ、戻ってくるだろ。柚乃のこと待たせっぱなしだし」
話しながら、彼がペタン、ペタンと上履きを鳴らして、またひとつ、ふたつと距離を詰めてくる。
「すぐ話しつけるって言ったのに、遅くなってごめんな。山崎のやつ、何度説明しても全然納得しなくてさ。おれ、完全に濡れ衣なのに、山崎が親に電話するとか言い出しやがって。たまたま通りかかった吉原先生が助けてくれて、なんとか逃げ出せた」
ペタン、ペタンと階段を上ってきた彼との距離が、さらに縮まる。わたしの二段下で足を止めると、目の前に立った彼がじっと顔を覗き見てきた。
「ていうか、何あったの? 柚乃、泣いてた?」
わたしの目元に、そっと伸ばしてきた彼の手が触れる。近付いた彼から、ふわっとバニラみたいな香りが漂ってくる。その手が肌に触れる感覚と甘くて優しい香りを、わたしはとてもよく知っていた。
ああ、このひとが、ほんとうの蒼生くんだ。
そう確信したら、胸が詰まっていっぱいになって。抑えきれなくて。わたしは目の前の彼に、無我夢中で飛びついた。
「え、は? 柚乃?」
首に回した両腕で、しがみつくようにぎゅーっと抱きつくと、耳元でめちゃくちゃ動揺する蒼生くんの声が聞こえてきて。愛おしさに、泣きたくなった。
「ごめんなさい……。目印、間違えて取られちゃった……」
「え、何の話?」
蒼生くんにしがみついたままズビッと鼻を啜ると、彼が遠慮がちにわたしの背中を撫でてくれる。シャツの上から伝わってくる蒼生くんの手のひらの温度に、どうしようもなく安堵した。
蒼生くんに名前を呼ばれて、蒼生くんに抱きしめられたことで、教室の前でわたしに別れを告げてきた人が違和感だらけだったことに今さら気付く。
付き合いだしてからの蒼生くんは、わたしに話しかけるとき、まず最初に名前を呼んでくれる。
突然声をかけられたら、顔が認識できないわたしが誰に話しかけられているのかわからなくて一瞬混乱するからだ。
蒼生くんはたぶん、自分が蒼生くんだってことをわたしに知らせるために、意識的に名前を呼んでくれている。それはお互いを名前で呼び合うようになる前からずっと変わらない、蒼生くんの気遣いだ。
だけどブレスレットを奪っていったあの人は、わたしの名前を一度も呼ばず、別れ際にだけ「ごめんね、榊さん」と他人行儀にそう言った。
あの人は、蒼生くんのフリをした別人だ。もしかしたらあの人が、体育のときに蒼生くんが外したブレスレットを盗っていったのかもしれない。
そんな人が着けたブレスレットに惑わされてしまったなんて、わたしはバカだ。
ブレスレットなんて、蒼生くんを判別するためのただの保険で。そんなものに頼りすぎてはいけなかったのに。
「蒼生くん、他の女の子から告白なんてされてないよね」
「されてないけど……。急に、何?」
「わたし、蒼生くんと別れてないよね」
「だから、急に何? 別れてたら、おれが困るんだけど。ほんとに、何あった?」
怪訝そうに問いかけてくる蒼生くんの首筋に頭をくっつけて、すりすりと首を振る。
「ちょ、柚乃?」
困ったようにわたしを呼ぶ蒼生くんの声を聞きながら、もう大丈夫だと思った。
蒼生くんの顔は、変わらずぼんやりとしてうまく認識できないけど。蒼生くんの笑った顔も、怒った顔も、照れた顔も、泣いた顔も、わたしにはちゃんと見分けられないけど。
わたしの名前を呼ぶ優しい声も、抱きしめてくれる腕の温かさも、漂ってくる優しくて甘い香りも、全部。蒼生くんと他の人とではまるで違う。
わたしは、わかりやすいブレスレットをつけてくれる男の子が好きなんじゃない。
蒼生くんが蒼生くんだから。彼のことが、どうしようもなく好きなんだ。
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