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二章 僕は彼女を離さない

44 最後の伴奏

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 アンサンブルサークルの三年生、前坂由奈さんの声はあまり好きではなかった。
 が、青山星佳がサークルに顔を出すようになってから、前坂さんは上手くなった。中音域の声が伸びるようになった。
 アメイジング・グレイスもアヴェ・マリアも、前坂さんの透明感ある歌声に合っている。伴奏を引き受けて良かった――前坂さんの歌が終わり、役目の一つを無事に果たせた。

 観客は百人ほどだろうか。座席の半分が埋まっている。先輩方に言わせると、昨年より客が集まっているそうだ。音大生とのコラボ効果かもしれない。
 拍手を一心に浴びている前坂さんの後ろで、僕も頭を垂れる。
 と、主役の彼女が黄色いドレスの裾をひるがえし、僕の手を取って観客にお辞儀した。
 コンサートで歌手が伴奏者の手を取るのはあまりないので、先輩なりに僕に気を遣っているのだろう。

「にゃあああ、三好く~ん、ありがとね~」

 前坂さんは、観客の前で僕の腕に頭をこすり付けてきた。
 油断した。人目があるから、変に逃げ回るわけにもいかない。歓声に混じり、冷やかし声が聞こえてくる。
 会場はただの広い教室なので、舞台袖はない。そのまま僕は先輩を促して、出演者が座る座席に戻った。


 アンサンブルサークルの発表は歌だけではなく、器楽メンバーのフルートやクラリネットのソロに、弦楽アンサンブルが加わった。
 大学のダンスサークルのメンバーがゲスト参加しワルツを踊り、アンサンブルのメンバーが「美しき青きドナウ」を奏でる。
 音大生たちが、自分たちの冬の定期演奏会をアピールし、モーツァルトのオペラ「魔笛」の序曲を披露する。
 まもなく僕と青山星佳の出番だ。

 星佳は、紺色のロングドレスに身を包んでいる。僕の知らない衣装だ。大きく開いた白い背中が眩しい。スポットライトがない薄暗い教室なのに。
 高校時代、地元のイベントでソロを披露する彼女のために、伴奏をした。人前で彼女と舞台に立つのは一年ぶりだろうか。

 彼女の背筋はずっと張ったまま。あの細い身体は筋肉の塊だ。ピアノの席からは彼女の後姿しか見えないが、凄まじい形相で、夜の女王を演じているのがわかる。
 復讐に身を焦がし、世界の支配を企む女王――ピアノで軽やかにスタッカートを切る。
 夜の女王は、わが呪いを聞け! と叫んだ。僕も彼女の呪いが世界中に響くよう、鍵盤を強く押し出す。
 途端。
 大学の教室は、スタンディングオベーションで湧きあがった。

 歓声の中、彼女は恭しくゆったりと頭を垂れる。僕も合わせて立ち上がりその場でお辞儀をした。
 ほどなく星佳がくるっと振り返り僕の手を取った。彼女は前坂さんの歌を聴いていたから、同じように気を遣ったのだろうか。
 と、彼女が顔を近づけ、僕の頬にキスをした。途端、ヒューヒューと口笛が飛び交う。
 この状況で僕が何もしないのもアンバランスだと判断し、僕も頬にキスを返した。

「マサ、最高よ」

 彼女の両腕が僕の首に回り、僕の胸に顔をうずめてきた。歓声は益々盛り上がる。
 もちろん、歌手と伴奏者が舞台で抱き合うなど普通はないが、これは大学の文化祭。気にすることはない。僕も彼女のむき出しの背中に手を回した。
 突如、寂しさを覚える。
 この素晴らしい歌手の元でピアノを弾くのも、彼女を抱きしめるのも……今日で最後だ。
 名残り惜しさに、舞台の上ということも忘れ、つい力が入る。

「もう、マサったら」

 星佳の囁きで我に返り、僕は彼女の肩を抱き寄せ、席に戻った。


 伴奏者としての役目が終わり、僕は廊下で一人、息を吐いた。これからピアノソロを二曲発表する。
 スコアを開いた。ショパンの「革命のエチュード」。間違えやすいところにチェックを入れてある。
 もう一曲のスコアは、僕の頭の中だ。篠崎あいらのためにアレンジし、彼女のために弾く。


 僕の物理学実験のパートナー、篠崎あいら。
 彼女は僕のピアノを聴くと、応えてくれた。僕は、彼女の科学史の講義に押しかけた後。LINEで、場所と時間を伝えた。僕のピアノソロが始まる時刻を。
 教室に入り、サークルのメンバーの待機する席に戻る。
 席を見渡したが篠崎あいらはまだ来ていない。
 僕は、五百人の受講者がいる科学史の講義会場で、篠崎あいらを見つけた。教室ほぼ満席で二百人近く集まっている。が、篠崎あいらの姿は見当たらない。

 突然、子供時代を思い出す。ピアノ発表会に父が来ていないか、ホールの観客、一人一人の顔を確認しては落ち込んだ。が、小学校の高学年にもなれば学習し、父を探すことはなくなった。
 ……今はそんなことはどうでもいい。
 革命を成功させるんだ!
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