狂い咲く花、散る木犀

伊藤納豆

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7章

114話 悪い冗談

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庭の大きな桜の木は、少し前まで膨らみを持っていた蕾が開き、綺麗な桃色の花びらを咲かせていた。縁側に座り、晴柊はいつもの様にシルバのブラッシングをしていた。晴柊はこの庭を一望できる縁側でシルバと戯れることが、この屋敷に来てからのお気に入りだった。


「ごめんな、シルバ。…絶対に、迎えに来るから。」

「クゥン?」


晴柊がシルバの頭を撫でる。そんな晴柊の後ろから声が降りかかる。


「晴柊、八城が来る。部屋へ戻ってろと言っただろ。」

「そのことなんだけど……俺も同席するよ。」

「は?お前、何を言ってる。」

「ああ、丁度よかった。」


晴柊の思いがけない発言から、2人に険悪なムードが広がりそうになった時。タイミングが良いのか悪いのか、八城が現れた。この中だけで状況を掴めていないのは自分だけだと琳太郎はすぐに悟った。嫌な予感がする。


「今日は晴柊君にも同席して頂きたくて。…ね。」


八城が晴柊に目配せをする。晴柊は素直に頷いた。


「そうなんだ。伝えてなくて、ごめん。」


先日の八城との商談は、見えぬところでの晴柊の奮闘もあり、無事成功した。しかし、数日後八城から「報告があるから話がしたい」と申し出があった。商談のことで何かあったのだろうと、琳太郎は疑いもせず承諾していた。


しかし、この異様な空気。どうやらあの商談は関係ないらしい。


半ば押し切られる形で琳太郎と八城、そして晴柊が和室に入る。琳太郎は当たり前の様に晴柊を横に座らせた。


「先日電話でお伝えした通り、今日はご報告がありまして。」

「何ですか。」

「それは……晴柊君から直接聞いてみたらどうでしょう。」


琳太郎の視線が晴柊に向く。晴柊は目を合わすことができなかった。まっすぐ前を見れば、八城の顔がある。晴柊は彼の顔を見て怯えるでもなく、ただ、覚悟を決めた。怪訝そうな琳太郎に視線を合わせ、口を開く。震えてしまいそうな声を必死に取り繕った。


「俺、ここを出て行く。…空弧に、ついていくことにしたんだ。琳太郎、ごめ――」


琳太郎は晴柊の言葉を最後まで聞き届けないまま、勢いよく晴柊の喉元を掴み、押し倒した。晴柊は畳に頭を強く打ち、息苦しさから琳太郎の血管が浮き出る腕を両腕で抑えた。


「席を外せ。」


それを見ていた八城に、琳太郎は睨みを利かす。到底、大事な取引先に見せる顔ではなかった。ああ、これが裏社会で恐れられる薊琳太郎か、と八城は妙に納得した。


晴柊を見ると、その視線に八城は確証を得た。彼は、わかっている。八城は大人しく和室を後にした。


「カハッ……!はぁ、はぁっ……」


琳太郎の手が離れ、晴柊が必死に息を吸った。顔の真横に、琳太郎の手が強く置かれる。琳太郎は怒り狂い、見たことがない形相をしていた。


「もう一度言ってみろ。俺の聞き間違いか?だったらまだ、許してやるぞ。」

「……琳太郎、アンタと別れるって言ってるんだ。いい加減、お姫様ごっこも飽きた。ここは居心地も悪い。何より、空弧のことが好きになった。あの人は凄いよ。俺と少ししか歳変わらないのに、あんなに立派なんだ。優しいし、何より俺に自由をくれる。」

「お前、自分が何を言ってるのかわかってんのか。」


晴柊の口からすらすらと出る言葉。八城に脅されているわけではない、ということは琳太郎には嫌というほどに理解できた。晴柊の視線が、いつもの凛とした臆することない瞳だからだ。助けを求めるでもない。自分で決めた、と言わんばかりの強い眼。


「わかってる。ああ、でも、俺はアンタに「買われてる」んだっけ。」


その言葉を聞いた琳太郎の拳が、晴柊の顔面に今にでも殴り掛かりそうな勢いで振りかぶった。買った、買われた、最早そんな関係を通り越したものであったはずだろうと、琳太郎の晴柊への愛が無碍にされた気がして、心底腹を立てたのだ。


「殴る?…それとも、殺す?できないよな。アンタは俺を殺すことなんてできないよ。……もうお終いだ、琳太郎。」


ごめん、ごめん。


晴柊の心の声が自分の中に虚しく木霊する。
傍から見れば怒り狂っている琳太郎。でも、晴柊にはわかる。あの琳太郎が、悲しみ苦しんでる。ああ、こんな顔させたくなかったな。晴柊はそう思った。

「俺のことは忘れて。」

嘘、忘れないで。

「意地張ってないで素敵な女性と結ばれて、跡継ぎ育てろよ。」

そんなの嫌。俺以外見るな。

「俺はもう、アンタのこと好きでいられなくなった。」

好き、大好きだよ。


晴柊は身体を起こす。力がまるで入っていない琳太郎の身体を押しのけ、立ち上がった。これ以上いたら、決心が揺るぎそうだ。最後に、1つだけ欲張らせてくれ。思い出作りくらい、良いだろう。


晴柊は、ただ黙って座り込む琳太郎の唇を奪った。自分の本心が漏れ出ないように、浅く、しかし脳裏に刻み込むように唇を重ねる。


「………それじゃあ、行くわ。身体には気を付けて。」


晴柊は和室を後にした。すぐそこに立っていた八城と、屋敷を後にする。側近達に会わなくてよかった。もし今会ったら、泣きついてしまいそうだ。


鼻の奥がツンとする。ダメだ、外に出るまで、誰にも見られるな。後悔なんてしない。


「ワン!ワン!!」


遠くでシルバの鳴き声がする。後ろ髪引かれる思いをこみ上げている晴柊手を取り、八城はそのまま屋敷の外へと出て、車に乗り込ませた。


「上手にできたじゃないですか。少々、ひやひやしましたけど。」

「『取引』…わかってるんだろうな。」

「もちろん。これは君と私の取引ですから。」


晴柊はゆっくり目を瞑った。大丈夫、真意は変わっていない。琳太郎のために生きる。全部、彼のために。



「今日からここで暮らしてください。安心して、セキュリティ万全、私の家です。まあ、最低限の物しかないですが。」


晴柊が連れてこられたのは、八城曰く彼が暮らしているという家だった。といっても、テレビやソファ、最低限のものしか置かれていない。まるで、琳太郎のあのマンションを彷彿とさせる。


「あちらの部屋は私の仕事部屋なので、それ以外なら好きに使ってください。」

「待て。俺はアンタと一緒に暮らす必要があるのか?アンタは「琳太郎から俺を奪うこと」っていう行為が目的だ。さぞ興味も好意もない男をこんな傍に置いておいたら、面倒ごとが増えるだけだろ。琳太郎への当てつけにだってならない。」

「本当に、彼が関わると君は驚くほど話を飲み込むね。まるで、自分の境遇なんてどうでもいいというように。君は正しい。彼から奪い取った後では、何も生み出す価値のない君を傍に置いておくのは私にとって不利益でしかない。それなら、君に価値を与えてあげましょうか?そのお得意の顔と身体を使って。大手企業の役員、政治家、芸能人…この世界には卑劣な趣向を持った太客は腐るほどいます。君なら、すぐ人気になれますよ。」


八城は晴柊の両頬を掴んだ。晴柊の視線が嫌悪で染まる。八城はパッと手を離し、笑顔を振舞った。


「まぁ、それは追々。今は下手に動いてこの取引が彼に漏れてしまうのを防ぐことが最優先です。私と同棲している親密な恋人、という設定だと思って振る舞ってください。」



あれから数日が経ち、晴柊は1人外を歩いていた。見事に最後まで隠し通した晴柊の本音に、琳太郎は気付いていない。晴柊が本当に琳太郎から離れたくなったと思った、と感じているはずである。そんな彼が乱暴なやり方で晴柊を攫うという行動に出るとは考えにくかった。晴柊には、琳太郎はその行動に出ないという確証があった。


その言葉を聞いて、八城は晴柊の自由行動を許可した。ただ、この家に帰ってくることを条件にした。今更晴柊が逃げないことはこの『取引』の成立が証明しているのだが。


「本当に……俺は価値がない人間だな。」


晴柊は1人当てもなく彷徨い、そう呟いた。八城の言葉が妙に心にこびりついていた。行く場所も目的もない。琳太郎がいなければ生きる意味さえ分からなくなる。琳太郎に会いたい。まだ日も経っていないというのに、先が思いやられる。


「晴柊…?」


自分の名前を知る人物。晴柊はビクリと肩を震わせ、振り返った。


「晴柊!随分姿見なかったから……なんだ~よかった元気そうで!」


そこには生駒の姿があった。大学終わりなのか、リュックを背負いいつものスポーツ服とは違う私服姿である。


「あっくん……ごめん。実は、バタバタしてて。」

「えっ、っていうか、1人!?なんで!?いいの!?」

「あっくん、声大きい…」


生駒は晴柊の状況に気付いたのか驚いたように声を張り上げた。いつもいるはずのシルバと側近の姿がないのである。無理もない。通行人の視線を受け、生駒は焦ったように近くのカフェへと晴柊を誘った。こんな道端で済みそうな話ではないと感じ取ったからだ。


いつしか、あんなに望んでいた自由。カフェで友人と談笑。でも、琳太郎がいないとこんなにも嬉しくないなんて。


「晴柊…?晴柊。飲み物、どうする?」

「ああ…えっと、」


いつもの晴柊と違う。生駒はすぐに感じ取った。琳太郎と何かあったに違いない。生駒は向かい合い居心地悪そうにする晴柊に視線をやった。


「琳太郎さんと何かあった?喧嘩か?」

「琳太郎とは別れたんだ。」

「えっ…なんで!?」

「もう、ついていけないって思った。うん、そう……いい加減、窮屈に感じちゃって。」


晴柊はヘラッと笑って見せる。ダメだ、勘ぐられるような真似したら。


「だって、晴柊、…」

「いいの。」

「もう好きじゃないのかよ、琳太郎さんのこと。」

「うん。」


晴柊は頼んだ甘いドリンクのストローを啜る。


「俺の目見て言って。」

「……」

「晴柊。」

「いいんだってば!」


ガヤガヤと賑やかだった店内が静まり返る。心配するような視線を向けるもの、面倒ごとが起きているのかと怪訝そうな視線を向けるもの。


「……ごめん。」

「あ…いや。でも、らしくない。」

「もう好きじゃないよ。俺から切り出したんだ。未練も何もない。それとも……晴れてフリーになった俺と付き合う?あっくん。」


晴柊はまるで揶揄うように、生駒を誘う。まるで別人になったかのような晴柊。俺が好きになった晴柊とは違う、生駒は直感で感じていた。


「悪い冗談言うようになったね、晴柊。」

「本当だね。……ごめん。」

「今はどこに?行く先は?」

「大丈夫、あるよ。そんな無計画で飛び出さない。……ああ、もう行かないと。じゃあね。」


晴柊はお金を置いてカフェを出て行く。八城が晴柊にいくらか持たせていたものだった。生駒は晴柊の背中を追うことも、腕を引くこともできなかった。彼の何にも靡かない、というような雰囲気がそれを止めた。
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