遠い昔からの物語

佐倉 蘭

文字の大きさ
43 / 46
第四部「その日の朝」

第一話

しおりを挟む

   その日の朝、間宮まみや 廣子ひろこはいつもとは違う八丁堀の停留場から、廣電でんしゃに乗って職場へ向かっていた。

   昨夜は、戦死した夫の弟が出征するにあたっての壮行会があり、実家からひさしぶりに婚家に戻った。
   東京の府立工業専門学校に進んだ義弟であるが、今まで猶予されていた彼らのような理科系の者にまでも、時勢は臨時召集令状赤紙を送ってきた。

   多くは語らないが、つい最近東京から疎開してきた従妹いとこの様子を見ていても、今この国はかなり緊迫を極めているようだ。


   廣子は路面チンチン電車から見える街の景色を、窓を通して見た。
   今のところ、生まれ育ったこの街は、ほぼ「無傷」である。

   お城の地下に陸軍の大本営が設置され、軍都として名高いこの街には、幸いなことにまだこれといった空襲の被害はない。
   海軍の軍港のある隣町の呉などは、尋常ならぬほどのB29やグラマンの攻撃にさらされているというのに。

——海軍より陸軍の方がまもりが固いんじゃろか。

   廣子はわが故郷ふるさとを護ってくれているというにもかかわらず、おもしろくなかった。
   日米開戦してまもなく名誉の戦死を遂げた夫が海軍航空隊の搭乗員パイロットだったからだ。

——「パイロット」なんて、憎っくき鬼畜米英が遣いよる敵性語じゃけど。

   一応、廣子が代用教員を務める国民学校ではお国の手前、
「絶対につこうたらいけん。むやみやたらに遣うて憲兵さんにでも見つかったら、二度とうちに帰れんよ」
と子どもたちにはさとしているが、実際はそんなことで憲兵に引っ張られた人を見たことはない。

   それに、大人だって、つい口をついて出ているものだ。
   たとえば、鬱屈した戦時の中で、子どもから年寄りまでもがささやかな楽しみにしている「ラヂオ」を、敵性語だからといって言い換えている人が、果たしてこの国にいるのだろうか。

   廣子は亡き夫との婚約中、同僚の海軍士官たちに「わしのエンゲじゃ」と言って紹介されていたことを思い出した。
   海軍での「婚約者」という言葉は、英語の「engage」に由来するのだ。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。 生きるために走る者は、 傷を負いながらも、歩みを止めない。 戦国という時代の只中で、 彼らは何を失い、 走り続けたのか。 滝川一益と、その郎党。 これは、勝者の物語ではない。 生き延びた者たちの記録である。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

徳川慶勝、黒船を討つ

克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。 尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。 もしかしたら、消去するかもしれません。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

マルチバース豊臣家の人々

かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月 後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。 ーーこんなはずちゃうやろ? それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。 果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?  そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?

処理中です...