後宮化粧師は引く手あまた

七森陽

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それってつまりただのエサですよね

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 そこはとても広く、高級な調度品で溢れた部屋だった。
 香月はいたたまれない気持ちになって、思わず漆がたっぷり塗られた高そうな椅子の端をぐっと握る。
 かつて仕事では数回、こういった場に招集されたこともあったのだが、その時は完全に『職人』状態だった為か一切の緊張は無かった。
 しかし今は違う。不可抗力とは言え、東宮に単身で来る羽目になるだなんて、数日前までの自分は想像もしていなかったのだから。
「ごめんねお待たせ」
 気軽い雰囲気で部屋に入ってきたのは、黄太耀皇太子殿下その人だ。その後ろにはいつものように彼の右腕である官吏、劉俊熙が侍っている。
「さて、では交渉といこうか」
 にこりと人懐っこい笑みを浮かべたその目の奥が底知れない色をしていることに気付いて、香月は肌を粟立てた。

「俺の意見はだいたい俊熙と一緒だよ。といっても手解き役なんてのはあんま興味ないから、主にはゴタゴタ解消の為に君の力を借りたいってのが主軸だけど」
 湯気のあがる茶器を傾けながら、太耀は淡々と語る。手解き役に興味ない、という台詞に、香月は少しだけ胸を撫で下ろした。
「殿下、しかし想定からしても『手解き役』である必要が…」
「ん、まぁ、そうなんだけど」
 しかし撫で下ろしたのも束の間、俊熙が神経を逆撫でしてきてまた気が気でなくなる。
「…あのすみません、本質が未だに掴めていないのですが…」
 結局今自分に指示されようとしているのは『何の』役なのか。皇太子の初めてを指南する必要が、あるのかないのか。まずはそれを教えてほしい。
「そうだね、とりあえず手解き役は必要かな。というより、手解き役『役』って言った方が良いかな」
 ? つまり、手解き役のフリをする?ということだろうか。
 目を白黒させている香月を見て、太耀はカラカラと笑う。
「まぁどっちでもいいよ、本当に手解きしてくれるって言うならそれでもいいし!役得?てやつだよね!」
「殿下」
 軽~く言い放つ太耀を、俊熙が嗜める。どうやら本質は手解き役ではないらしい、ということがこの段にしてようやく理解出来た香月である。
「つまり、閨に入るとかはナシ?」
「……」
「いやなんで無言なんですか」
「…閨には、入る、ことになると思う」
 いや、前言撤回、やはりあんまり理解出来てない。
「全部教えてあげたいのはやまやまなんだけどね、どこに誰がいるかもわからないから」
 人好きそうな顔で微笑みながら、諭すように太耀が言う。
「悪いようにはしないよ?」
 いやそんな悪役みたいな台詞を言われて、安心する人が居るものか。
 ただ、当初思っていた『手解き役』とは違う意味合いの役割を、化粧師である自分が担うことで、この皇太子殿下の命を狙う不届き者を特定することができるらしい。そりゃあ、人助けになるというのなら引き受けないこともないのだが…。
「あの、それ、引き受けて私に得ってありますか?」
 要はそこなのである。命を狙われている人を助けるということは、すなわちその凶刃の前に立ちはだかるも同意だ。香月はただ、平穏に、梦瑶の役に立ちながら生きたいだけなのに。
「お前、この期に及んで私欲など…」
「いやいいよ俊熙、彼女の気持ちもわかるからね」
 怒りを顔に滲ませた俊熙を、真面目な顔をした太耀が制す。
 右腕と言われる俊熙であれば皇太子の変わりに死ぬくらいの覚悟をもって仕えているのだろうが、生憎香月はまだまだ下っ端女官である。危ない目に遭っているのが梦瑶ならばまだしも、そこまでの大それた覚悟を皇族に持っている訳では無い。
「申し訳ないけど、君に明確な得はないよ」
 太耀はさらりとそう言った。
 女官一人言うことをきかせるくらい訳ない身分の尊人であるはずなのに、騙すことなく真摯に向き合ってくれている。香月はなんとなく彼を見直した。
「でも、受けないことで、君にとって悪いことは起こるかもしれない」
「……え」
 至って真面目な表情だ、無闇に怯えさせて脅そうという雰囲気でもない。
「このまま野放しにしていると、こっちの派閥の主家である張が、おそらく危なくなる」
「…張って…」
「…君の主だよ」
 張。張梦瑶。香月の今最も尊敬する主、その人の生家だ。
「しかも梦瑶妃は、太耀様を慕っておられる。尚更危険だろう」
 冷静な声の俊熙にもそう告げられ、香月の血の気が一気に引いた。そんなの……そんなの。
「そんなの…受けるしかないじゃないですか」
 香月には、梦瑶を失うことは出来ない。
 誰よりも恩があるのだ。
「うん、そう言ってくれると思った」
 茶器をカタンと置き、太耀はにこりと笑む。
「君が優秀な女官で嬉しいよ」
 自分に何が出来るかわからないし、何をすべきなのかもわからない。が、主人を守ることだけは香月の中で決定事項だ。
「契約成立だね」
「…謹んでお受けいたします」
 椅子に座ったまま、深く平伏する。俊熙のものであろう深く吐き出した溜息が妙に耳に残った。

 広い邸宅の出口まで俊熙に案内されながら、香月は先程の俊熙に負けないくらいのしっかりめの溜息を吐いた。
 受けてしまった。こんな大それた役を。平穏からじわりと遠のいた自分の女官人生を嘆く。
「…そんなに嫌か」
 少し前を歩く俊熙が、振り返りながら問う。
「それはまぁ、そうですよ…」
 そう答えてもう一度大きく息を吐いた。
「私は本当に、平穏に目立たず生きていきたいんです。それなのにこんな危なそうなこと引き受けちゃって」
「……」
「でも、梦瑶さまを危ない目に遭わせるくらいなら、私が多少危険に曝されることくらい、まぁ仕方ないかなって思います」
 主を守ることが出来るなら、それも本望である。
「聞きたかったんだが」
 そこでしばらく無言で聞き耳を立てていた俊熙が、ぽつりと話し出した。
「何故そんなに梦瑶妃に傾倒しているんだ?」
 俊熙の問いは、決して幼い妃を馬鹿にしているといった類のものではなく、純粋に聞いてみたくて聞いた、という感じだった。
 だから香月も素直に答える。
「…あの方は、まだあのお歳なのに、本当に懐の深い方なんです」
 脳裏に思い返すのは、出会った時の事だ。家族も亡くし誇りも失くし裏切られボロボロだった香月を、梦瑶はその大きな器で救ってくれたのである。
「感謝してもし尽くせません。おそらく梦瑶さまと出会えてなければ、私はもう、この世にいないでしょうから」
「……」
 俊熙の視線を感じるが、香月は足元から目を逸らさず続ける。
「きっとあのお方にとってはなんて事ない出来事だったのでしょうけど…だからこそ余計に、尊敬してしまうんです」
 これが恩を売りたくて人に優しくするような人であったなら、香月はここにはいない。梦瑶がただ梦瑶であったから、ここで生きると決めたのだ。
「……私も…」
 俊熙が小さくそう、言葉を発した。
「私も、同じようなものだ」
 前を向いてまた歩みを進める彼のあとを、慌てて香月も無言でついていく。
「生きる価値はないと思っていた私に、太耀様が居場所を与えてくださった」
 少し笑みを含んだ声だった。表情はこちらからは見えないが。
「報いなければと。あのお方の為ならば、この身が朽ちようとも構わない」
 心の底からの言葉だと、香月は思った。上辺からのものではない。
 最年少科挙突破記録を持つ俊熙が、生きる価値もないと思うに至った経緯も気になるにはなるが、それよりも主を大切にする想いみたいなものに親近感を覚えて、香月はなぜだか戦友を得たような感覚で嬉しくなる。
「おんなじですね」
 ふふ、と笑うと、俊熙がぴたりとその足を止めた。香月もぶつからないように立ち止まる。
「……恩に着る」
 振り返り、そう、言われた。
「あの方を救うことを選んでくれて」
 素直にそんな御礼が出るとは思っておらず、香月は声も出せずに驚いた。あの常に上から目線だった態度とは大違いである。
「だからこそ、お前の意思は尊重したいと思っている」
 そう言うと俊熙は身体をこちらに向け、しっかりと香月に対峙した。
「呉香月が手解き役であることは悟られないように万全を期そう。なんなら別の身分を準備してもいい」
「…別の、身分?」
「ああ、別人として、手解き役を演じればいい」
 それは願ってもない提案だった。が、そんなことが可能だろうか。身分が別物だとしても、誰にも見られず移動するなんてことができる訳でもない。そんな形だけ別の物を用意されたって…。
「それに…お前は『化粧師』なのだろう?」
「…ええ」
「その化粧で、お前自身を別人に仕立て上げればいい」
「!」
 考えを読まれたのかと思うほど、香月の疑問にドンピシャな回答が返ってきて驚く。なるほど、見た目も身分も全て偽ってしまえと、そう言うことか。
「出来ないのか?」
「で、きますけど…っ」
 自慢じゃないが、普段は目立ちたくなさすぎてどすっぴんのせいで、しっかりと化粧を施せば香月と気付かれないように偽れる自信はあった。
「…十日後、第一の策を張るつもりだ。その時内々に手解きが行われる事を周知しておく」
「十日後」
 どうやら決定事項らしい。十日後までに、準備を整えなければならない。
「その時は堂々と、化けた姿で練り歩いてくれ」
 化けるという物言いに少しカチンときたけれど、まぁ普段が『これ』じゃあそう言いたくもなるか。香月は自分のひっつめ髪を撫でて頷く。
「それに…」
 しかし納得した香月は次の台詞に頬を張られた気分になった。
「もし向こうが何か仕掛けようとするなら、『ここ』しかないだろう」
 香月を指さしてそう、言う。
 仕掛ける?何を?誰に?
 一瞬思考が止まりかけて、そして悟る。待て、それって。
「それって、つまり、ただの『囮(エサ)』ですよね…?」
「ああ、そうとも言う」
 たったさっき固めた決意を、香月は早くも盛大に後悔した。



 
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