後宮化粧師は引く手あまた

七森陽

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これはいわゆる意外性詐欺ですから

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「香月、最近髪がつやつやね?」
 梦瑶にそう指摘され、香月は心臓が飛び出そうになった。
「、そうですか…?」
「ええ!太陽の光が髪に滑っていくみたい!」
 我が主は詩興にも長けているのだが、こんな所で才能を見せつけられるとは思わなかった。
「えっと、新しい香油を試してみようと思いまして…良さそうでしたら、姫さまの髪結の時に使いましょうね」
 これは全くの嘘ではない。その通りにしようと思っている。ただきっかけが内緒なだけで。
 あの契約締結から七日、香月は少しずつ準備を整えていた。何の準備かと言えばもちろん、架空の『手解き役』を演じる準備である。
 この一年強、手入れをサボりにサボっていた腰まである髪は、数日香油を使うだけであっという間に艶を取り戻した。元々化粧師として自身の手入れなども好きでやっていた香月だが、両親の死からそんな心の余裕もなくしてしまっていた。
 久しぶりに、『手をかければかけた分綺麗になる』経験をして、最近はまた自分用の化粧品を集める楽しさを思い出している。
「ふふ、わたくし嬉しいわ」
 四阿で小さく切った月餅をつまみながら、梦瑶がにこにこと香月を見つめる。
「わたくしずっと、香月もお洒落したらいいのにって思ってたのよ」
 十一歳に身なりを心配される二十歳。後宮で起こるべきことではないのは重々承知である。
 香月は何と返せばよいかわからず、曖昧に笑っておいた。きっかけはあくまでもこの依頼の為なので、この件が片付いたらまたサボるようになっていくのだろうからそんなに期待されても申し訳ない。
「でもどうして?恋でもしちゃった?」
 梦瑶の思わぬ一言に、白牡丹を蒸らしていた手がガチャンと茶器を鳴らす。
「恋!?」
 ここ数年自分に縁のなかった言葉過ぎて、いい歳にもなって動揺してしまった。こんなどすっぴんの地味顔行き遅れ女官を捕まえて、言うに事欠いて恋?
「姫さま、私をからかっても何も面白くないですよ!」
「やだからかってなんかないわ!香月の一大事かしらと思って、こうして二人きりになったのに!」
 二人でお茶会しましょ、と誘われたのにはそんな理由があったとは。相変わらず主は十一歳にして女の中の女である。
「…ご期待に添えず申し訳ないですけど、全然違います」
「えー違うの!?」
 じゃあどうしてよ~と可愛く訊ねてくる主には無言を返し、頑張りすぎるのも考えものかと小さく嘆息する。今夜は香油を使わないでおこう、そう決意した。


 件の日、亥の刻。東宮に一番近い後宮の部屋から、香月は意を決して忍び出た。桔梗殿からは離れているし、他の妃の殿からも距離はある。後々噂になっても争いの火種となることはおそらくないだろう。
 香月は数日前から少しずつ、化粧品や衣装をこの空き部屋に運んでいた。そして決行日の今日、他の宮女が部屋へ引き上げた頃合で抜け出し、万全の『変装』を施した。
 架空の手解き役の名前は、紫丁⾹といった。いかにも色気のありそうな名前で、この名に相応しい化粧はどんなものだろうかと、考えるのも楽しかったことを思い出す。
 いつも梦瑶に化粧を施す時、題材となる花が指定されていたのだが、まるでその慣習と同じような状況に少し緊張が解けた。紫丁⾹。紫色をした、西国からもたらされた繊細な花の名だ。
 その名に合わせて用意した薄紫の羽織を肩にかけ、後宮の出口に差し掛かった所で背筋を伸ばす。さて、自分は充分な囮(エサ)になれているだろうか。
 紫丁香は、商人である紫家の長子(という設定)だそうだ。俊熙が丁寧に書き記した内容を頭で反芻しておく。
 庭園のような廊下を渡り東宮に辿り着くと、見張りの兵士二人が訝しげにこちらを見た。
「こんばんわ」
 ゆったりと笑むと、片方はつられて会釈をし、もう片方はぼんやりと香月の顔を凝視してくる。
「太子さまのお世話を仰せつかって参りました。劉俊熙さまへお目通り願えますか?」
 慇懃にそう言うと、途端に兵士はなるほどという顔をして目配せし合う。開け放たれた門に足を踏み入れ進んで行くと、後ろから値踏みするようなねとつく視線が追いかけてくるのを感じた。
 まぁ、『噂の手解き役』なのだろうから、こうもなるか。
 二日前から王宮内では、そっと耳打ちされるように密やかにその噂が広められたそうだ。知りうる者は限られていたが、それを喜ぶ者や疎む者、そしてそれを好機と捉える者にまで行き届いた。あとはどう動いてくるか、だ。
「紫丁香」
 宮女に案内されながら廊下を進んでしばらくすると、二つ曲がった所で俊熙と出会う。目が合うと、彼の頬がピクリと動いた。宮女もいる手前何と返せば良いかわからず、香月は無言のまま俊熙に目で問う、どうすればよいか、と。数瞬微動だにしなかった彼はハッと気付いたのか、静かに侍っていた女に何やら合図をした。
 宮女はそれを受けてスッと会釈し辞していく。きっと彼女は今日これであがりなのだろう、香月はここからが本番だが。無言で見送って、俊熙が歩き出す方へついて行く。おそらくこのまま閨へ直行なのだろうが、歩くにつれ、フリだとわかっていても妙にドキドキが高まってきた。こんな場面、絶対に梦瑶に知られたくない。
「…上手く化けたな」
 小さく、俊熙がそう吐いた。その声は純粋に驚いている風だった。
「化けられてますか、無事」
「ああ、」
 ちらりと振り返って確認しながら、
「声を掛ける相手を間違えたかと思った」
と、少し笑った声で言ってくる。
 暗くてよく見えなかったが、確かに笑っていた。あの、仏頂面の俊熙が。
「…及第点でしょうかっ!」
 これはもしや化粧師の腕を褒められているのでは、と意気込んだせいで少し声が大きくなってしまった。
 静かに、としっかり振り向いて口の動きだけで諭してくる俊熙は、もういつもの無表情である。
 またもや珍しく笑った顔を逃してしまった。
 及第点かどうかの答えは無く再び歩き出す彼に、香月はただついて行くだけだった。

「…ここだ」
 少し奥まった場所に、金の装飾の扉があった。俊熙は躊躇いもせずにそれを観音開きにすると、少し身体を傾けて香月が入れる隙間を作る。
 軽く会釈をしながら中に入ると、幾重にも天幕が張られたその奥に、少し大きめの寝台が妙に煌々と横たわっていた。何もしないはずなのに心臓が、痛い。
「では太耀様をお呼びするから、その辺りで待っていてくれ」
 そう言いながら、扉の近くに誂えてある机に紙の束を置いている俊熙を、香月は何とはなしにじっと見た。見そびれた笑い顔を想像してみるがどうにもピンとこない。これはもう横っ腹をくすぐったりの物理攻撃をするしか……
 などと考えていたら、いつの間にか俊熙はこちらを見ていて、いつものように腕を組みながら半開きの扉に寄りかかっていた。
 やばい、顔を見つめすぎていたせいで気恥ずかしい。けれどそれはものともせずに、向こうもこちらをじっと見つめていた。
「……あ、あの……何か……」
 さすがにいたたまれなくなってそう漏らすと、俊熙は香月を上から下まで視線でひと撫でして、満足そうに頷いた。
「申し分ないな」
 そして、少し意地悪そうな、何か企むような、そんなニヤリとした笑みを残して、するりと扉から抜け出ていった。
 パタンと扉が閉まりきるが、寝台の傍に灯された篝火で部屋には充分な光度があった。火の温もりのせいか、この妖艶な雰囲気のせいか、何が原因かはわからないが、とりあえず顔が熱い。
 違う、見たかったかんじの笑みではなかった。
 だけどそれが俊熙の『上級の褒め』だとわかって、香月は両手で頬を抑えた。

『恋でもしちゃった?』

 なんの脈絡もなく唐突に、我が主の数日前の台詞が飛び出してくる。
 いや違うから。
 これはあれだ、普段表情に乏しい人の突然の変化にびっくりしているだけだ。思わぬ意外性にくらりとくるやつ。そんなのに騙されないんだから。
 そもそも彼は役職も高貴で何より宦官。そんな対象に挙げるような人ではない。
「ここ数日、ちょっと刺激的な日々だったせいね」
 感覚が昔に戻っているのだ。変に浮かれている場合ではないのだから、気を引き締め直さなくては。
「とにかく、今夜は囮としてお役に立たないと!」
 でなければ、大切な主に危険が及ぶ未来が近づく。
 ふん!と気合いを入れて、とりあえず香月は寝台の端にそっと腰掛けた。

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