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まるで蛇に睨まれた蛙の心地ですが
しおりを挟むコンコン、扉を二回叩く音が聞こえて香月は寝台から立ち上がった。太耀かと思いそのまま待ってみるが、しばらく経っても扉は開かない。
あれ、これって出迎えなきゃいけない作法でもあったんだっけ?
何せ手解き役など初めての経験なので(当たり前だが)、勝手がわからず戸惑う。
するともう一度、コンコン、と先程より強めに音がする。
「…はい、」
出迎えるべきなのかも、と、香月は何重にもなる天幕をくぐり抜け、扉へと急いだ。なんせ広い部屋なので小走りである。
「はい、お待たせしました」
扉を押し開けると、そこには太耀、ではなく、先程香月を案内してくれていた宮女がいた。
あがりではなかったのかと香月は驚く。
「こちらをお持ちするようにと、俊熙様に言付かって参りました」
頭を下げた状態で差し出されたのは、硝子の水差しと細かい装飾の杯が二つだった。何だと理解できないままにとりあえずそのお盆を受け取る。
「では、失礼いたします」
しっかりと渡し終えると、これでようやく仕事が終わったというような顔をして宮女は去っていく。
杯が二つというのがなんだか妙に生々しい気がして、扉近くの机に急いでそれを置いた。先程俊熙が放った紙の束を変わりに手に取り、なんとはなしにぱらりとめくる。それは日付を書く欄だけが端に設けられているだけの、ただの紙だった。何に使うのだろう?と考えていると、扉の向こうから足音が聞こえる。
わ、来た!
忘れかけていたがまた無駄に心臓が鳴ってくる。
「入るね」
柔和な声は太耀のものだ。その声から間もなくすぐに扉は開かれて、扉のそばにいた香月とまだ半分しか開けていない戸の隙間から目が合う。
「…お出迎え?」
「ちがいますっ」
少しびっくりした顔の太耀につっこみを入れてから、香月は少し扉から離れた。
「ごめんねー、待たせちゃって」
太耀はカラカラと笑いながらするりと部屋に入り、そのまま惑うことなく寝台へ向かう。
まぁ座れる場所が、そことこの出口付近の机しかないのだから、まぁ仕方ないのだが。
「…俊熙さまはいらっしゃらないんですか?」
妙に気恥ずかしくてそんなことを聞くと、
「ああそのうち来るよ~」
天幕をくぐり寝台に辿り着いた皇太子がのんびり答える。
「それまで話でもしようよ」
にこにこと手招きする彼に、香月は断る理由も見当たらないので、胸に紙の束を抱えたまま近寄る。
ぽんぽんと寝台の端を叩かれて、おずおずとそこに座った。
「…何持ってるの?」
「あ、これはさっき俊熙さまがそこに置いてて」
香月が今は水差しが置いてある机を指さすと、そちらに目をやったあと太耀が「ああ」と頷く。
「確かこれ書かなきゃいけないんだよね」
香月の手からその紙を抜き取ると、寝台の横にある台から筆を取り出した。そして日付や何かを書き付け始める。
「…何を書くんですか?」
よく理解できないまま聞くと、太耀は紙に目を落としたままうーんと唸る。
「そうだなぁ…」
そして顔を上げ、スッと目を細める。
「香月ちゃんはどうされたい?」
「…………へ?」
にこり、と感情の読めない笑顔を向けられる。
「これ、今夜の詳細書かなきゃなんだよね」
しばらくその言葉の意味を咀嚼し…香月は顔から火を噴いた。
「…っ!?」
「あははは!おもしろ~!」
完全にからかわれた。四つも歳下のまだ加冠もしてない皇太子に。
自分がまるで初心な少女みたいで恥ずかしい。
「まぁ、これを偽造しなきゃいけないのは本当だからさ」
太耀は未だ笑いながら筆をくるくる器用に回している。
「今回、宗正みたいな役割を俊熙が買って出てるからこの作戦が成り立ってるんだよね」
宗正とは、嫡子の順位を定める役職だ。配下の宦官が後宮での閨の様子をきちんと記録する事で、妃達が同時期に妊娠したとしても嫡子の序列をつけることが出来るという仕組みだ。
後宮で皇太子と閨に入るとはそういう事である。またもや生々しい現実に直面して、いっそう恥ずかしさに拍車がかかった。
「ま、なんとか上手いこと書いておくよ」
堂々としている太耀に、加冠もまだの十六歳のくせして、言う事が一丁前すぎるのでは?と妙に疑ってしまう。本当に手解き役なんてちっとも必要なさそうなのだが…。
「なんでそんな百戦錬磨みたいな台詞が言えるんですかね…」
「まあまあ、そんなことは気にせず…」
太耀が誤魔化そうとしたのか、真正面から香月の姿を捉えて――
「……」
止まった。
「…?」
「……」
じっと、見つめられる。
「…あの、何か…」
「…本当に香月ちゃん?」
「え?…はい、そうですけど」
「うっわー、すごい!もしや化粧師って魔術師の仲間なの!?」
部屋の醸す妖艶な空気をぶち壊すかのように、太耀が大きな声を出した。
えっ今更?
「さっき逆光でよく見えなくてさー!」
変わらず大きな声の太耀は、寝台をドスドス揺らしている。
「すごいすごい!!」
喜んでいるのか、わからないが、とても笑顔だ。
すると部屋の扉がギィと音を立てて開き、
「ちょっと殿下、外に聞こえてきましたよ!」
何してるんですか!と俊熙が慌てて押し入ってきた。
「えー、だって!俊熙も見た!?」
咎められてもものともせず、興奮しきった太耀はその勢いのままズイズイと香月に詰め寄る。
「すごい、別人みたいだけど、近寄るとちゃんと香月ちゃんってわかるね!」
寝台の上で図らずも至近距離まで近寄られてしまい、香月は無駄にドギマギしてしまう。
「あの、とりあえず離れて…」
余りにも綺麗なご尊顔に近寄られると、いくら主の想い人とは言えどドキリとしてしまう。いやこれは仕方ない、誰だって綺麗な顔には弱い。
「殿下、とりあえずそれを」
俊熙が見かねたように二人の間に割って入り、太耀の手元の紙束を取り上げた。書き途中のそれは筆と一緒に俊熙の手に収まる。
「え~でも……なんか本当に勿体ないなぁ」
空いた手で自身の太ももに肘を立て、顎を乗せた状態で太耀は香月を見上げた。
「これが嘘なんてなぁ」
「? 化けた姿ってこと?ですか」
まぁこの姿は香月だと絶対にバレないように必死で固めた嘘の姿であるから、間違いないが。
「ちっがうよ!そうじゃなくて」
しかしその言葉を大きく否定しながら、太耀が目をスーッと細めて妖艶に笑む。
「本当に食べちゃいたいなぁ」
「…………っ!?」
未だかつて無い程の『やばい』空気に充てられて、香月は身動きが取れなかった。あれだ、蛇に睨まれた蛙だ。
本当にこの男、加冠前の十六歳だろうか。手解き役を探しているような段階ではないように思うのだが。
何も言えないままの香月を助けるように、俊熙が溜息をつきながら太耀を諌める。
「殿下、そろそろ本題に」
その言葉で、太耀はにーっと湛えていた笑みを崩して少し真面目な表情になった。
それを見て香月はほっと一息つく。
「呉香月、ここから今一度、化粧師としての腕の見せ所だ」
いよいよ始まるらしい。
そう、ここからが本当の『秘め事』なのである。
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