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そうは問屋が卸さないのがこの後宮
しおりを挟む香月は桔梗殿の廊下を雑巾がけしながら、庭で休憩している女官たちの話を聞いていた。
「そのソバカス、可愛い~!」
「桔梗殿に仕えてるわけだし、やっぱり濃紫かなーって」
「めっちゃいいじゃん~!あたしもやろっかな、『ソバカス装』!」
聞きながら、香月は身体をちいさく縮こませる。
なるべく目立たないように。ただただ私は廊下の水拭きしてるだけの人ですよー。
「噂だと、凄腕の化粧師がこの後宮に居るんですって!」
「どうせ桂花殿でしょ? 白貴妃さまそういうのお好きそうだもの」
「そうよねー、だってこのソバカス装も桂花殿の子から教えてもらったし」
香月は桶で雑巾をざぶざぶと洗い、ぎゅっとかたく絞った。そして先程とは反対側から、もう一度雑巾を掛けていく。
「次の天長節で、噂の化粧師の支度が見られるかしら」
「ねー!楽しみー!」
その会話を遠くに聞きながら無心で掃除をしていると、後ろから「人気者ね」と声を掛けられて肩が揺れる。
振り返ると、水晶が中庭を見遣りながら立っていた。
「…水晶さま」
「ここ数日で一気に噂になったわね。凄腕の化粧師」
「う……」
改めてそう言われて、香月の背筋に冷や汗が流れる。
そう、あの桂花殿での可馨の胡旋舞から、女官や宮女の間であれよあれよと話題を呼び、『ソバカス装』とやらの名前と共に香月の存在までもが後宮中の噂へ発展してしまったのだ。
平穏を望む香月にとって、大変遺憾な事態である。
「梦瑶さまは嬉しそうだったわよ? わたくしの香月をやっと自慢できるのね、って」
「…お気持ちだけ…受け取りたく…」
この桔梗殿にももちろん噂は広まっていて、香月が化粧師だともちろん知っている梦瑶には、(太耀の件は伏せたままだが)化粧師として依頼があったのだと伝えてある。
「そうは言っても、もう広まってしまったものは仕方がないでしょう。まだ件の化粧師が桔梗殿の呉香月だとは知られていないけれど、きっとそれも時間の問題ね」
「う~、どうしましょう水晶さま」
「太子少傅殿は何て仰ってるの? あの方のご指示なんでしょう?」
水晶だけは、香月が太耀や俊熙から何かしらの依頼を受けていることは知られているので、香月にとっても少しだけ気安く相談が出来て有難い。
「…この調子で後宮中から求められる存在になれ、と」
「あらま。随分大掛かりなのね」
香月は今朝部屋に届いた書面の内容を思い出す。
太子少傅・俊熙から極秘に届けられたそれには、この噂を元に次は淑妃の住まう蝋梅殿(ろうばいでん)に出向するよう書かれていた。
「はぁ……」
香月は大きな溜息をつく。
淑妃とは後宮内で貴妃に次ぐ地位の持ち主である。現皇帝の淑妃は夏嶺依(かりょうい)なのだが、香月が乗り気でない理由としては、何よりも『反太耀殿下派』と言われているのが夏家だからである。
これは俊熙から教えて貰ったことであるが、どうやら夏家の現当主は吏部尚書のお偉いさんで、官吏の任免を担っているため中々政治的にも面倒なことになっているらしい。
しかし、後宮の中で例の『毒殺犯』に繋がる宮女を探すならば、まず一番に探りたい腹であるのは間違いない。
一応、太耀殿下派である白家を味方につけたことで、後宮内での立ち回りがしやすくなっているのは明らかだ。何より白貴妃は側室の中では一番の地位で、例え派閥が違っていても、夏淑妃が反発することは難しい。
そう考えると、まず白貴妃を落としにかかった俊熙の策は流石であった。
ただその思惑通りに動かされていることが、何となく香月にとってはモヤモヤする点でもある。少しの言質をとってうまく外堀を埋めていくようなやり方。
「……流石は最年少科挙突破記録保持者ですよね」
「何か言った?」
「いえ、大掛かり過ぎて困りますって話です」
「そうねぇ。後宮中から求められる。……ますます平穏から遠ざかるわね」
水晶だけは、この女社会で目立つということがどういうことかをよく理解しているだけに、香月の平穏を願う気持ちをわかってくれる存在である。
「ううう……」
「…まぁ、何か困ったことが起きたら言いなさい」
太子少傅の言いつけを反故にできる立場でも無いため、水晶はそう言うだけで精一杯だったのだろうが、香月にとってそれは充分に心強い言葉だった。
「香月、ちょっと」
梦瑶の戸棚で衣装を整理していた香月は、主からそう声を掛けられて驚く。
「姫さま!どうされたんです?」
梦瑶が水晶や宮女を連れずに歩いているのは珍しい。訊ねると、梦瑶は唇に人差し指を立てて香月の手を取った。
「お客さまが来てらっしゃるの、こちらに」
梦瑶がぐいと手を引っ張るので、香月は戸棚を閉めることも出来ずそのまま連れられて行く。
到着したのは来賓室で、その戸を明けて『やっぱり』と香月は得心した。梦瑶の嬉しそうな様子と人の目を避けるような仕草で、何となく予測は出来ていたのだ。
「香月ちゃん!久しぶり」
豪奢な広めの椅子に座るのは第二皇子の太耀だ。その斜め後ろにはさも当たり前のように俊熙が控えている。
「…太耀さま、俊熙さま、ご機嫌麗しゅう」
香月は丁寧に平伏する。きっと『頭をあげて』と言われることはわかっていたが、梦瑶の手前、拝礼を省略する訳にはいかない。
「うん、ご苦労さま、いいよ」
太耀は慣れた様子で平伏を解くよう促す。
サッと顔をあげると、太耀が俊熙に目配せをし、俊熙が頷いたのが見えた。
「呉香月、少しいいか」
こちらへ向かってきながら俊熙にそう言われ、香月の心臓がドクリと跳ねた。
梦瑶を見ると行ってらっしゃいとばかりに手を振っているが、その目はキラキラニコニコしていて、何か勘違いされているような気がする。
「梦瑶妃、少し香月を借ります」
「はぁい、どうぞ。ささ、殿下、今日はなんのお話をしましょうか」
いつもは姓名で呼んでくる俊熙が、少し名前で呼んだだけで香月の心臓は煩くなる。
サラッと香月を見送った梦瑶に引かれる後ろ髪など無いのだが、色々な意味で足を動かせないでいると、
「何をしてる、行くぞ」
「ひゃ!」
俊熙に手を取られて変な声が出た。
俊熙が怪訝な顔をする。
「す、すみません驚いてしまい!」
斜め後ろから梦瑶の意味深な視線を感じ、太耀も「へぇ~」と笑みを含んだ声を発していていたたまれない。
違います!と叫びたかったがそうもいかず、香月は引きずられるようにしてその部屋を後にした。
「どうした、座れ」
初めて会った日に駆け込んだのと同じ空き部屋に入り、俊熙は前と同じ椅子に姿勢よく座った。
「はい…」
香月はドキドキする心臓を抑えながら、静かに椅子に腰掛ける。
いくつか指示は書面で届いてはいたが、頭をぽんぽんされた日から会うのは初めてだ。
そう思い至って、あの時の感触や感じた優しさが舞い戻ってきて、香月の鼓動がまたも高鳴った。
「次に出向してもらう蝋梅殿だが、一応話はついている状態だ。あとはいつにするかだが…」
そんな香月には気づかず、何食わぬ顔で俊熙は話を続ける。その様子から、香月は何とも言えない気持ちになった。
わかってはいた事だが、俊熙にとって香月はただの『呉香月』で『化粧師』で、『人材』なのだ。
いつだったか、俊熙のことを戦友のようだと感じたことがあった。でも、それはきっと香月だけの感覚。
香月は自分が何故こんなにも寂しいような、悔しいような気持ちになるのかがわからない。
――いや、わからないフリをしている。
『特別』になりたいだなんて。そんなこと。
「おい、聞いてるのか?」
「…っ、すみません」
思考の海に潜っていたところを俊熙に指摘されて、香月は我に返った。
「どうした、疲れているのか」
眉間に皺を寄せてそう問うてくる俊熙に、香月は叫び出したい気持ちになる。
だから、優しくするな!と。
「いえ、大丈夫です。すみませんもう一度お願いできますか」
にこりと笑って誤魔化した。こうして違和感を隠すのは、香月の得意技だ。
「…あまり無理はするなよ…って、私が言うのも何だがな」
苦笑した俊熙に鼓動がひとつだけ反応したが、これは条件反射だ、感情は関係ないと自分を納得させる。
「それにしても本当にやってのけるとは」
俊熙は気にした風もなく話を進めるので、香月はそのまま心を無にして耳を傾けた。
「ここで夏淑妃を落とすことが出来れば、後宮内なら粗方自由に捜索が出来るだろう。頼むぞ、呉香月」
しかし心を無にしていたのに、その言葉でそれも崩される。
――この人に頼られることが、今、どれだけ心震えることなのか。
認めたくはなかったが、俊熙はどうやら香月の心を乱す存在になってしまったらしい。
「はぁ……平穏が恋しいです」
やけに演技っぽく香月がそう言うと、俊熙は「諦めろ」と、いつかの台詞とは正反対の事を言ってのけた。
「そうは問屋が卸さないのが、この後宮だからな」
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