後宮化粧師は引く手あまた

七森陽

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憎めたらどんなに良かっただろうか

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「それがざっと一年前です」
「……」
 なるべくゆっくりの速度で歩いてはいたが、既に桔梗殿の入り口までたどり着いていて、香月と芳馨は立ち話の様相を呈していた。
 芳馨は眉を顰めて、何と声をかけたらよいか迷っている様子だ。
「結構重たい話で、なんだかすみません」
「…なんでアナタが謝るのよ」
 複雑そうな芳馨に、香月は逆に気持ちが軽くなるのを感じる。
 こうして順序だてて振り返ったのは初めてで、改めて話してみると…なかなかひどい話だったなと客観的に見ることが出来る。
「でも、今は梦瑶さまの元で働けて、本当に幸せなんですよ」
 一度捨てたつもりの命。今は全て、あの小さくて大きな姫に捧げると決めている。
「…で、結局どうだったのよ」
「……どう、って?」
「…姜子豪との子?」
「ああ!結局勘違いというか、精神的なものが身体にきてただけでした」
「……そう」
 あからさまにほっとしたような表情で、それに香月は苦笑する。
「でも、今まで誰にもこんな話したことなかったので、なんだかスッキリしました」
「何で話してくれたのよ」
「え、芳馨さまが『お姐さんに教えてみなさい』って」
 先程までと違って殊勝な態度の芳馨に、香月は目を見開く。まぁでも確かに、ここまで重い話だとは思わないわよねと思い直し、くすりと笑みを漏らした。
「…子豪と再会して」
 姜の邸で着させてもらった衣装の裾を、両手で伸ばす。
「もう二度と会いたくないと思ってたのに、憎しみみたいな感情は一切無いんだなって気づいたんです」
 薄い紫の、それはそれは上等な布だ。きっと二年前の姜家なら、ここまで立派な布をホイホイと他人に渡すことはなかっただろう。
「たぶん、婚約のことで色々あっても、子豪だけは変わらずに横柄で自分勝手で居てくれたから…孤独にならずに済んだんだろうなって」
「……」
 芳馨は黙したままだ。
「感謝なんてものは一切無いですけど、でもその過去があったから今があるんだって、何となく受け入れられたんじゃないかなと思います」
 変ですよね、そう言って自嘲気味に芳馨を見遣ると、思ったよりも真剣な顔で話を聞いてくれていた。
「……変か変じゃないかで言うと…明らかに変ね」
「……」
 しかし真剣な顔でそう言われて、思わずガクッと右肩が下がる。やはり変なのか。わかってはいるけれど、面と向かってハッキリ言われると情けない気持ちになる。
「でも、まぁわからなくもないわ」
「…え」
「人生色々よね。でも、それでもここにたどり着いてるんだから、それがアナタの運命だったのよ」
「運命……ですか」
「そ。そう思った方が健全じゃない?全ては神のみぞ知る、ってね」
 そう言って笑った顔は、お姐さんというよりも男の人だなと香月は思った。
 きっとそれぞれがそれぞれの思いを抱えてここに居るのだ。運命と言えば簡単だけれど、成るべくして成った、これが自分の道であった、と受け入れて進む方が前を向く力にはなる。
「……憎めたらどんなに良かっただろうかって、さっきまで思ってたんです」
 先程よりももっと気持ちが軽くなった気がして、香月は顔に笑みを浮かべた。
「でも、憎めない私で良かったです。憎んで生きてたら、たぶん私は梦瑶さまのことを好きで居られなかったと思います」
 豪宇のあの眼のように激しい炎で生きていても、たぶん人を幸せには出来ないだろうから。
「だからその『運命』、信じて生きてみますね」
 なんだかとても嬉しくてそう微笑うと、芳馨はなぜか複雑そうな顔をして自身の頬を掻いた。
「…別に励ましたかったわけじゃないんだけどね」
 その仕草が少年のようで、香月は思わず吹き出す。変わり者と噂の後宮管理官は、ただの人情に厚い青年だった。
「ま、いいわ。とりあえずアナタのだ~いすきな梦瑶妃のとこへ帰んなさい」
 芳馨は頬を掻いた手を広げ、ひらひらと揺らす。
 そのまるで照れ隠しのような行動にひそりと笑ってから、香月ははた、と気づく。
 そう言えばどこまで梦瑶たちに話が及んでいるのだろうか、と。
「…あの、私この格好で戻ったらヤバいですかね」
 そろりと思わず小声になった台詞に、芳馨は「あぁ、」と思い出したように返す。
「それなら、もう『紫丁香』の件は俊熙が話しちゃったらしいわよ」
「えっ」
「まぁ仕方なかったのよ、責めないであげてちょうだい」
 香月はもう一度自身の着ている衣装を見下ろした。そしてどんな化粧を施したか思い出して…
「う、」
気まずい気持ちになる。
「俊熙が話した時には『紫丁香』にピンときてなかったみたいだけど、あれから半日経ってるしどうかしらね。もう耳に入れてるかも、」
 芳馨はそこで言葉を切って、香月の耳に口を寄せた。
「ふ・で・お・ろ・し」
 最後にふっと息を吹きかけられて「ひぇ!」と間抜けな声が漏れる。
「ちょっと何よその色気のない声。良くそれで『紫丁香』名乗れたわねぇ」
「そ、それとこれとは関係ないじゃないですか!」
「関係大アリよ、大アリ! アナタの昨晩の訪問のおかげで、『第二皇子は手解き役に夢中だ』って、密やかな噂になりかけてんのよ」
「えぇっ!?」
 それはとってもまずいのでは。
 いくら東宮に入りたかったとは言え、やはりあの口実はやばかったらしい。しかも郎官相手に慣れない色仕掛けみたいなことまでしてしまった。今思い出しても恥ずかしくて顔から火が出そうだ。
「まぁ幸い箝口令が敷かれたし、アナタの拙い頑張りのおかげで『紫丁香』は上等な女だって触れ込みになってるから、殿下の品位もそこまで落ちなくて済んではいるけど…」
 うぐ、と香月は言葉に詰まる。なんだか色々バレている気がする。
「それにしてもアナタ、もうちょっとこう…色気出せない?  折角見目は良いんだから、仕草とか気をつければもっと…」
 ジロジロと上から下まで物色されて、香月はどんな表情をすればいいかわからない。色気と言われても、正直これまで『引き出す方』しかした事がないのだ。
「妓女とか客にいなかったの?」
「いましたよ、青楼も遊郭も」
「うーん、じゃあ同衾は?」
「っはァ!?」
「秀英と子豪だけ?」
「何言ってるんです!?」
 突然当たり前みたいにあけすけな事を聞かれて目が飛び出る程驚く。
「いいじゃない、もう全部聞いたんだからこれくらい」
 確かに生々しい話をしてしまったのは香月だが、それとこれと何が関係あると言うのか!
「な、んでそんなこと答えないといけないんですか」
「あー、わかったわかった、まぁそうよね、許嫁がいて他の男と懇ろするような女じゃないわよね、アナタは」
「ね、懇ろって…」
 そうだともそうじゃないとも言えず、香月は背中に冷や汗を感じる。なぜ今日初めて会ったような人に、ここまで全てさらけ出してしまっているのだろうか。
 芳馨は何か思案しているのか、香月をじっと見つめながら顎に手を当てている。その指先がしなやかで、香月はその指先が少し薄めの爪紅で彩られていることに気づく。そう言えば『紫丁香』に爪紅は施していなかったっけ。
 自身の爪を見て、なるほど爪紅も極めたいなぁなどと思っていると、芳馨がパンと両手を叩いた。
「わかったわ、アタシが教えてあげる」
「……へ?」
 何かを教えてくれるという結論に至ったらしいが何だろうか。爪紅?
「色気、出していきましょ」
「ん?え?」
「多分アナタは、そういう色事の経験が少ないのよ。どうせ秀英とか子豪とだって受け身だったんでしょ」
「な、何の話してるんですか!?」
「そこで照れて意固地になってる時点でお察しなのよ!」
 何だかわからないがめちゃくちゃ下世話な話に圧を掛けられている気がする!
「いい?『紫丁香』としてもう目立っちゃってるんだから、こうなったらとことん『紫丁香』を全うしてもらわなきゃ困るのよ。ただ気飾ればいいってもんじゃない、ちゃんとそれらしく振る舞えないと」
「…それらしく…」
「そう、アナタは次期皇帝の手解き役なんだから」
 芳馨が言っているのはもちろん本当の意味での手解き役ではない。外から見た『手解き役=紫丁香』に、信憑性を持たせるべく努力しろと言っているのである。――ということは理解できるのだが、やれるかやれないかは話が別だ。
「お姐さんが、オンナとは何たるかを教えてあげるわ」
 芳馨は腕組みをしてさも当たり前のようにそう言い放つ。いやオンナとはって、あなた宦官でしょとは言えるはずもない雰囲気。
 どう反論しようかと口を開いた時、また芳馨が耳元に口を寄せてきて、
「手取り足取り、腰取り、ね」
囁きと息の吹きかけまでをひとまとめにお見舞いしてきた。
「ひぇえ!」
「だからそれを直しなさいって言ってるのよ」
 よくわからないまま、芳馨はやる気満々になってしまった。香月だって二十歳の色々と経験してきた女なんだからそんなの必要――ないとは言えないほどには、『色仕掛け』の方法を知らないのは事実である。
「じゃあとりあえずまた明日呼びに来るから、とりあえず梦瑶妃への説明、頑張って」
「あっ」
 すっかり忘れていたがそうだった、そっちの問題もあったんだった。
 手解き役についてはもう隠してはおけないな、と唸っていると、気づけばもうそこには芳馨の姿はなく、『紫丁香』だけが取り残されていたのだった。



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