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14~17 Side 秋斗 02話
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六時半を回ると湊ちゃんが戻ってきた。
「様子はどう?」
「とくに何もなく寝てるよ」
「そう」
湊ちゃんが仮眠室をノックすると、「はい」と割とはっきりした声が返ってきた。
もしかしたら起きていたのかもしれない。
湊ちゃんはドアを開けると、俺がそうしていたように、少しだけ開けた状態でドアを閉めた。
俺は中の様子が気になり、仮眠室のドア脇の壁にもたれかかる。
仮眠室のドアは内開きのため、俺がここに立っていることは彼女からは見えない。つまり、立派な立ち聞き。
「どう?」
「だいぶ、楽になりました。……でも、身体を起こしているのはかなりきついです」
「そりゃそうでしょう? 数値自体がすごく低いもの。こんな数値で普通に過ごされたら医者なんていらないわよ」
携帯のディスプレイを見て血圧を確認する。
七十六の四十八――さっきよりはいいけど、それでも低い……。
「先生、私……あと二ヶ月、どうやったら学校に通い続けられるだろう……」
その声に、彼女の不安の大きさを感じる。
「少し進歩したじゃない」
「進歩、ですか?」
「少し前なら、すぐに辞めることを考えたんじゃない?」
あぁ、それは確かに……。少しは前向きに考えられるようになったのだろうか。
「……同じことです。これからの二ヶ月、学校に通えなければ出欠日数や単位もろもろを落として進級できなくなりますから……」
「……学校に登校さえしていればなんとかならないこともない。保健室で授業を受けるシステムも整っているのよ」
「……そうなんですか?」
「嘘なんてつかないわ。学校案内のパンフレットや公にされる資料には載ってないけど、あるのよ。もちろん、授業を出席扱いにするわけだから、課題もクリアしないといけないけど……。うちの学校、学力のある生徒には慈悲深いの。蒼樹はそれも知っていて翠葉にこの学校を勧めたはずだけど? まさか聞いてないの?」
確か、そんなことを俺にも蒼樹は訊いてきた。
俺はもともと職員じゃないし詳しくは知らないから、と湊ちゃんに訊くことを勧めたんだ。
「去年の秋ごろだったかしら? 私のところへ訊きに来たのよ」
そういえば、あのころだったな。蒼樹に、うちの警備会社に就職しないかと誘って断られたのは。
ふと懐かしいことを思い出す。
あのころの蒼樹は翠葉ちゃんのことで頭がいっぱいで、それどころではなかった。
高校の資料を片っ端から集め、この学校に来ることで彼女が得られるメリットのありとあらゆるものを探していた。そして、数日後には就職はせず、もう一年院に残ると言いにきた。
院に進むと決意したのは、翠葉ちゃんがうちの藤宮に入学することを見越してだったのだろう。
「けど、学校に通えていればって話だから、あんたは学校までがんばって来なくちゃいけないけど」
正直、今の状態ではそれも難しい気がする。
「先生……」
少し震える彼女の声。けれど、芯はぶれていない。そう感じた。
「何?」
「薬の分量を増やすの、全国模試のあとじゃだめですか?」
衝撃的な申し出に、彼女が見えるわけでもないのに俺はドアへ視線を向けずにはいられなかった。
薬を飲まなければ昨日のような痛みが襲ってくるんじゃないのか……?
「全国模試って、来月の頭よね?」
「はい。六月の二日です」
あと一週間……。
「ちょうど入梅が予想されているころか……」
「この状態じゃ勉強できそうにないんです。でも、勉強しなくちゃ危ない科目がいくつかあって……」
理解できない……。この状態でどうしてそこまで試験を気にする?
「薬の投与が遅れる分、痛みが出てくる可能性も高くなるわよ?」
「鎮痛剤で抑えます」
「鎮痛剤の副作用で血圧や体温が下がるのもわかってるわよね?」
……湊ちゃん、まさか許すつもりじゃないよな?
「ここで耐えておかないと、今後の高校生活に響くと思うんです。全国模試を落とすことはできない。でも、模試のあとなら一週間続けて休んだとしても期末考査まではまだ時間があります。七月頭までになら体調を立て直せるかもしれません」
意図はわからなくはないが、そんなに順調にいくものなのか?
「……なるほどね。二ヶ月間、どっちにしろつらい思いをするならどこにウェイトを置くか――そういうことね?」
どこに重きを置くか……?
彼女のこれからの二ヶ月とは予想を絶するほどつらいものなのだろう。それは、こんな選択をしなくてはいけないくらいには、ということ――
「そういうことなら考えなくもない。薬を増やすのは一週間後の開始で、痛み止めは――三段階に増やそう。三段階というよりは一段階で飲める薬を二種類に増やすわ。ひとつは胃の負担になりにくい軽めの薬。もうひとつは今飲んでいるもの。それで胃への負担が少しでも軽くなるといいけど……」
湊ちゃんが許可するなら少しは猶予があるのかとも思ったけど、きっとそういうわけではないのだろう。
「……翠葉、そういうことは口にしなさい。いくら主治医とはいえ、翠葉の身体が手に取るようにわかるわけじゃない。思うことがあれば口にすればいい。そしたら一緒に考える」
あぁ、彼女は今の考えを言うのにかなり勇気がいったのだろう……。
「医者的見地からすれば家で休ませたいというのが本音だし、薬も飲ませておきたい。けど、それで翠葉の人生に歪みが生じるなら考えなくちゃいけない。一度脱線すると社会復帰が難しい――それは現場で働いたことがある医者なら誰もが知ってる。だから、自分がどうしたいのかは口にしていい」
「……はい」
社会復帰、ね。高校生にそんな言葉を使わなくちゃいけないって、どんなに辛辣な世界かな。俺には少しも想像ができないけれど、彼女はすでに一度その思いを味わっている。
「薬は秋斗に渡しておく。もう少し寝てなさい。秋斗もまだ仕事が残ってるみたいだし。秋斗が迎えに来るまで寝てるのね。無理に身体を起こしてる必要もないわ。寝てたらきっと運んでくれるでしょう?」
身体を起こしていたのかっ!?
すぐにさっきの真っ青な顔が思い出される。
仮眠室から、「それは恥ずかしいです」と小さな声が聞こえてきた。
「いいじゃない、眠れる森の乙女みたいで」
湊ちゃんは笑いながら出てきた。
今度は隙間なくしっかりとドアを閉める。
表情から笑みを消すと窓際まで移動し、窓を背に仮眠室のドアを見つめながらひとつため息をついた。
「……思ってたよりもあの子しっかりしてるわ」
「……薬、遅らせて大丈夫なの?」
「んなわけないじゃない。医者から言わせたら、自分から具合悪くなりに行くようなものよ? それでも、あの子の優先順位は学校に通うことが一番なのよ。それをクリアするためならこういう手段も考えてくる。……あれほど痛みに怯えてるというのにね。こっちがやるせなくなるわ……」
こんな湊ちゃんの表情はめったに見れるものじゃない。
すごく悔しそうな、どうにかしてあげたいのにそれができない――医者なのにできない、って叫んでいる気がする。現に、きれいな指先がうっ血すほどに力をこめていた。
「痛みが出ると血圧が急に上昇して脈拍も上がるの。これから一週間、少し気をつけてモニタリングしてあげて」
「……了解」
「点滴も抜いたから、あとは秋斗に任せる。今、あの子に雅なんて接触させたら私が許さないわよ?」
そう鋭い視線を投げられた。
「体調をコントロールすることでいっぱいいっぱいなの。そのうえ、変な悩みまで抱えさせないでちょうだい。いいわね?」
「わかってる」
ひとつ仕事を片付けてから彼女を起こしに仮眠室に入った。
「翠葉ちゃん、帰れる?」
「はい。今、何時でしょう?」
「七時過ぎかな」
身体を起こすのに手を貸す。と、背中に添えた手から骨の感触が伝った。
ここ数日でかなり痩せたんじゃ……。
もともと細い子ではあるけれど、ここまでではなかった気がする。
上体を起こすと、彼女は右手で額を押さえた。
この程度でも眩暈が起こるものなのか……?
すでに想像の範疇を超えていた。
彼女は少しすると身体の向きを変え、ベッドから足を下ろす。そして、決意したように立ち上がった。
途端に腕にかかる体重が増える。
これだけゆっくり時間をかけてもだめなときはだめなんだな……。
わずかに彼女の肩が震えている気がした。
彼女は自分の足元に視線を落としたまま。
きっと、こういうときに思うのだろう。自分が情けない、と……。
いてもたってもいられずその細い身体を胸に抱き寄せた。
「ゆっくりでいい……。ゆっくりいこう」
彼女は胸元でコクリと頷く。
情けなくなんかないよ……。だって、君はこんなにも自分の身体と闘っているのだから。そんなふうに思う必要はない。
君は人の体温で安心できると言ったよね? それならいつだって俺の体温を分けてあげるよ。だから、すべてをひとりで抱えないでほしい。
少しして、「落ち着いた?」と訊けば、小さな頭がゆっくりと上を向き、わずかに笑みを浮かべて「大丈夫です」と答えた。
つらいって泣いてくれていいのに……。いっそ、そのほうが思い切り抱きしめてあげられるのに……。
――蒼樹にだってしないことを俺にしてくれるわけがない。
そうは思うものの、やはりやるせない。
こんな状態でどうしてそんなふうに笑えるんだ……。
「じゃ、行こうか」
「はい」
彼女の右側を支えながらゆっくり歩いて図書棟を出た。
図書棟を出る際には生徒会メンバーから声をかけられたが、彼女に言葉を返すほどの余裕がないと察すると、誰もが口を閉ざし彼女のことを見守るに留めた。
テラスへ出て階段を目にすると、彼女の目は不安そうに揺れた。
それでも歩みを止めようとはせず、手すりに手を伸ばす。
本当は抱き上げて運んでしまいたい。何よりも安全だし手っ取り早い。
それをしないのは、彼女が自分で歩こうとしているから。そして、先ほどの「社会復帰」という言葉が頭をよぎったからだ。
それに、部活が終わる時間ということもあり、生徒があちらこちらにいる。それを気にしているのか、先ほどから早く下りようと歩みを速めたがる。そのたびに、俺は彼女の手を握る左手に力をこめて制した。
人目は気になるかもしれない。それでも、焦って転ばれるよりはいい。
駐車場に着き助手席に座らせると、すぐにシートを倒した。俺がしなければ、我慢をしてでもつらい体勢で座っているのだろうと思ったから。
「この時間は少し混むかもしれないから寝てて?」
彼女は素直にコクリと頷いた。
運転席に乗り込みエンジンをかけると、カーステから聞こえてきたのはカーペンターズの「Close to you」だった。
ここのところ、この曲しか聴いていない。
隣に横になる彼女の頬が少し緩むのを見て、音楽の偉大さを知る。
少し遠回りにはなるけれど、アンダンテに寄ってケーキを買っていこう。苺タルトなら少しは食べてくれるかもしれない。
とにかく、なんでもいいから少しでも口にしてほしい……。
店の駐車場に車を停め、彼女を見る。
ずっと起きていたのか、不思議そうに窓の外へ視線を向けていた。
しかし、彼女の体勢から見えるものは空くらいなものだろう。
「ちょっと待っててね」
車を降り店内に入ると、残り少ないケーキがいくつか。
苺タルトが残っていてよかった……。
いくつか適当にオーダーして車に戻る。
ケーキボックスを置くため後部座席のドアを開くと、ちょうど横になった彼女の視線の先に置くことになった。
「アンダンテの、前……?」
「そう」
目がまぁるく開いてとてもかわいい。
こういう表情が本当にかわいくて、ついこちらの表情も緩む。
運転席に戻り、
「ご飯が食べれなくても苺タルトならがんばれるんでしょ?」
少し意地悪な笑みを添えると、思い切り顔を背けられた。
……そこまでの意地悪をしたつもりはないんだけど。
「……どうかした?」
「いえ――どうも、しないです」
そう言う割にはこちらを見てくれる気配はない。
エンジンをかけつつも、俺は彼女から視線を剥がせずにいた。
ふいに胸を押さえる仕草を目にして、
「翠葉ちゃん、痛みが出てたりする?」
「違っ――痛みとか、そういうのじゃなくて……あの、大丈夫です」
この子の大丈夫は信じていいのかがわからない。せめてこっちを向いてくれたなら表情を読み取ることができるのに。
顔を見せないのは隠せる自信がないからか……?
「……薬は早めに飲んだほうがいいんじゃない?」
自販機ならそこにある。視線を移せばミネラルウォーターが目に入った。
ドアレバーに手をかけながら彼女に視線を戻すと、居心地悪そうに身体の向きを変えてくれた。
「本当に違うので……大丈夫です」
眉をハの字にした顔で言われても信憑性には欠けるというもの。
でも、彼女の家まではあと十五分とかからない場所にいる。ならばこのまま出るか――
途中にコンビニもいくつかあるから、水はどこでも調達できる。
そこまで考えてから車を出した。
「様子はどう?」
「とくに何もなく寝てるよ」
「そう」
湊ちゃんが仮眠室をノックすると、「はい」と割とはっきりした声が返ってきた。
もしかしたら起きていたのかもしれない。
湊ちゃんはドアを開けると、俺がそうしていたように、少しだけ開けた状態でドアを閉めた。
俺は中の様子が気になり、仮眠室のドア脇の壁にもたれかかる。
仮眠室のドアは内開きのため、俺がここに立っていることは彼女からは見えない。つまり、立派な立ち聞き。
「どう?」
「だいぶ、楽になりました。……でも、身体を起こしているのはかなりきついです」
「そりゃそうでしょう? 数値自体がすごく低いもの。こんな数値で普通に過ごされたら医者なんていらないわよ」
携帯のディスプレイを見て血圧を確認する。
七十六の四十八――さっきよりはいいけど、それでも低い……。
「先生、私……あと二ヶ月、どうやったら学校に通い続けられるだろう……」
その声に、彼女の不安の大きさを感じる。
「少し進歩したじゃない」
「進歩、ですか?」
「少し前なら、すぐに辞めることを考えたんじゃない?」
あぁ、それは確かに……。少しは前向きに考えられるようになったのだろうか。
「……同じことです。これからの二ヶ月、学校に通えなければ出欠日数や単位もろもろを落として進級できなくなりますから……」
「……学校に登校さえしていればなんとかならないこともない。保健室で授業を受けるシステムも整っているのよ」
「……そうなんですか?」
「嘘なんてつかないわ。学校案内のパンフレットや公にされる資料には載ってないけど、あるのよ。もちろん、授業を出席扱いにするわけだから、課題もクリアしないといけないけど……。うちの学校、学力のある生徒には慈悲深いの。蒼樹はそれも知っていて翠葉にこの学校を勧めたはずだけど? まさか聞いてないの?」
確か、そんなことを俺にも蒼樹は訊いてきた。
俺はもともと職員じゃないし詳しくは知らないから、と湊ちゃんに訊くことを勧めたんだ。
「去年の秋ごろだったかしら? 私のところへ訊きに来たのよ」
そういえば、あのころだったな。蒼樹に、うちの警備会社に就職しないかと誘って断られたのは。
ふと懐かしいことを思い出す。
あのころの蒼樹は翠葉ちゃんのことで頭がいっぱいで、それどころではなかった。
高校の資料を片っ端から集め、この学校に来ることで彼女が得られるメリットのありとあらゆるものを探していた。そして、数日後には就職はせず、もう一年院に残ると言いにきた。
院に進むと決意したのは、翠葉ちゃんがうちの藤宮に入学することを見越してだったのだろう。
「けど、学校に通えていればって話だから、あんたは学校までがんばって来なくちゃいけないけど」
正直、今の状態ではそれも難しい気がする。
「先生……」
少し震える彼女の声。けれど、芯はぶれていない。そう感じた。
「何?」
「薬の分量を増やすの、全国模試のあとじゃだめですか?」
衝撃的な申し出に、彼女が見えるわけでもないのに俺はドアへ視線を向けずにはいられなかった。
薬を飲まなければ昨日のような痛みが襲ってくるんじゃないのか……?
「全国模試って、来月の頭よね?」
「はい。六月の二日です」
あと一週間……。
「ちょうど入梅が予想されているころか……」
「この状態じゃ勉強できそうにないんです。でも、勉強しなくちゃ危ない科目がいくつかあって……」
理解できない……。この状態でどうしてそこまで試験を気にする?
「薬の投与が遅れる分、痛みが出てくる可能性も高くなるわよ?」
「鎮痛剤で抑えます」
「鎮痛剤の副作用で血圧や体温が下がるのもわかってるわよね?」
……湊ちゃん、まさか許すつもりじゃないよな?
「ここで耐えておかないと、今後の高校生活に響くと思うんです。全国模試を落とすことはできない。でも、模試のあとなら一週間続けて休んだとしても期末考査まではまだ時間があります。七月頭までになら体調を立て直せるかもしれません」
意図はわからなくはないが、そんなに順調にいくものなのか?
「……なるほどね。二ヶ月間、どっちにしろつらい思いをするならどこにウェイトを置くか――そういうことね?」
どこに重きを置くか……?
彼女のこれからの二ヶ月とは予想を絶するほどつらいものなのだろう。それは、こんな選択をしなくてはいけないくらいには、ということ――
「そういうことなら考えなくもない。薬を増やすのは一週間後の開始で、痛み止めは――三段階に増やそう。三段階というよりは一段階で飲める薬を二種類に増やすわ。ひとつは胃の負担になりにくい軽めの薬。もうひとつは今飲んでいるもの。それで胃への負担が少しでも軽くなるといいけど……」
湊ちゃんが許可するなら少しは猶予があるのかとも思ったけど、きっとそういうわけではないのだろう。
「……翠葉、そういうことは口にしなさい。いくら主治医とはいえ、翠葉の身体が手に取るようにわかるわけじゃない。思うことがあれば口にすればいい。そしたら一緒に考える」
あぁ、彼女は今の考えを言うのにかなり勇気がいったのだろう……。
「医者的見地からすれば家で休ませたいというのが本音だし、薬も飲ませておきたい。けど、それで翠葉の人生に歪みが生じるなら考えなくちゃいけない。一度脱線すると社会復帰が難しい――それは現場で働いたことがある医者なら誰もが知ってる。だから、自分がどうしたいのかは口にしていい」
「……はい」
社会復帰、ね。高校生にそんな言葉を使わなくちゃいけないって、どんなに辛辣な世界かな。俺には少しも想像ができないけれど、彼女はすでに一度その思いを味わっている。
「薬は秋斗に渡しておく。もう少し寝てなさい。秋斗もまだ仕事が残ってるみたいだし。秋斗が迎えに来るまで寝てるのね。無理に身体を起こしてる必要もないわ。寝てたらきっと運んでくれるでしょう?」
身体を起こしていたのかっ!?
すぐにさっきの真っ青な顔が思い出される。
仮眠室から、「それは恥ずかしいです」と小さな声が聞こえてきた。
「いいじゃない、眠れる森の乙女みたいで」
湊ちゃんは笑いながら出てきた。
今度は隙間なくしっかりとドアを閉める。
表情から笑みを消すと窓際まで移動し、窓を背に仮眠室のドアを見つめながらひとつため息をついた。
「……思ってたよりもあの子しっかりしてるわ」
「……薬、遅らせて大丈夫なの?」
「んなわけないじゃない。医者から言わせたら、自分から具合悪くなりに行くようなものよ? それでも、あの子の優先順位は学校に通うことが一番なのよ。それをクリアするためならこういう手段も考えてくる。……あれほど痛みに怯えてるというのにね。こっちがやるせなくなるわ……」
こんな湊ちゃんの表情はめったに見れるものじゃない。
すごく悔しそうな、どうにかしてあげたいのにそれができない――医者なのにできない、って叫んでいる気がする。現に、きれいな指先がうっ血すほどに力をこめていた。
「痛みが出ると血圧が急に上昇して脈拍も上がるの。これから一週間、少し気をつけてモニタリングしてあげて」
「……了解」
「点滴も抜いたから、あとは秋斗に任せる。今、あの子に雅なんて接触させたら私が許さないわよ?」
そう鋭い視線を投げられた。
「体調をコントロールすることでいっぱいいっぱいなの。そのうえ、変な悩みまで抱えさせないでちょうだい。いいわね?」
「わかってる」
ひとつ仕事を片付けてから彼女を起こしに仮眠室に入った。
「翠葉ちゃん、帰れる?」
「はい。今、何時でしょう?」
「七時過ぎかな」
身体を起こすのに手を貸す。と、背中に添えた手から骨の感触が伝った。
ここ数日でかなり痩せたんじゃ……。
もともと細い子ではあるけれど、ここまでではなかった気がする。
上体を起こすと、彼女は右手で額を押さえた。
この程度でも眩暈が起こるものなのか……?
すでに想像の範疇を超えていた。
彼女は少しすると身体の向きを変え、ベッドから足を下ろす。そして、決意したように立ち上がった。
途端に腕にかかる体重が増える。
これだけゆっくり時間をかけてもだめなときはだめなんだな……。
わずかに彼女の肩が震えている気がした。
彼女は自分の足元に視線を落としたまま。
きっと、こういうときに思うのだろう。自分が情けない、と……。
いてもたってもいられずその細い身体を胸に抱き寄せた。
「ゆっくりでいい……。ゆっくりいこう」
彼女は胸元でコクリと頷く。
情けなくなんかないよ……。だって、君はこんなにも自分の身体と闘っているのだから。そんなふうに思う必要はない。
君は人の体温で安心できると言ったよね? それならいつだって俺の体温を分けてあげるよ。だから、すべてをひとりで抱えないでほしい。
少しして、「落ち着いた?」と訊けば、小さな頭がゆっくりと上を向き、わずかに笑みを浮かべて「大丈夫です」と答えた。
つらいって泣いてくれていいのに……。いっそ、そのほうが思い切り抱きしめてあげられるのに……。
――蒼樹にだってしないことを俺にしてくれるわけがない。
そうは思うものの、やはりやるせない。
こんな状態でどうしてそんなふうに笑えるんだ……。
「じゃ、行こうか」
「はい」
彼女の右側を支えながらゆっくり歩いて図書棟を出た。
図書棟を出る際には生徒会メンバーから声をかけられたが、彼女に言葉を返すほどの余裕がないと察すると、誰もが口を閉ざし彼女のことを見守るに留めた。
テラスへ出て階段を目にすると、彼女の目は不安そうに揺れた。
それでも歩みを止めようとはせず、手すりに手を伸ばす。
本当は抱き上げて運んでしまいたい。何よりも安全だし手っ取り早い。
それをしないのは、彼女が自分で歩こうとしているから。そして、先ほどの「社会復帰」という言葉が頭をよぎったからだ。
それに、部活が終わる時間ということもあり、生徒があちらこちらにいる。それを気にしているのか、先ほどから早く下りようと歩みを速めたがる。そのたびに、俺は彼女の手を握る左手に力をこめて制した。
人目は気になるかもしれない。それでも、焦って転ばれるよりはいい。
駐車場に着き助手席に座らせると、すぐにシートを倒した。俺がしなければ、我慢をしてでもつらい体勢で座っているのだろうと思ったから。
「この時間は少し混むかもしれないから寝てて?」
彼女は素直にコクリと頷いた。
運転席に乗り込みエンジンをかけると、カーステから聞こえてきたのはカーペンターズの「Close to you」だった。
ここのところ、この曲しか聴いていない。
隣に横になる彼女の頬が少し緩むのを見て、音楽の偉大さを知る。
少し遠回りにはなるけれど、アンダンテに寄ってケーキを買っていこう。苺タルトなら少しは食べてくれるかもしれない。
とにかく、なんでもいいから少しでも口にしてほしい……。
店の駐車場に車を停め、彼女を見る。
ずっと起きていたのか、不思議そうに窓の外へ視線を向けていた。
しかし、彼女の体勢から見えるものは空くらいなものだろう。
「ちょっと待っててね」
車を降り店内に入ると、残り少ないケーキがいくつか。
苺タルトが残っていてよかった……。
いくつか適当にオーダーして車に戻る。
ケーキボックスを置くため後部座席のドアを開くと、ちょうど横になった彼女の視線の先に置くことになった。
「アンダンテの、前……?」
「そう」
目がまぁるく開いてとてもかわいい。
こういう表情が本当にかわいくて、ついこちらの表情も緩む。
運転席に戻り、
「ご飯が食べれなくても苺タルトならがんばれるんでしょ?」
少し意地悪な笑みを添えると、思い切り顔を背けられた。
……そこまでの意地悪をしたつもりはないんだけど。
「……どうかした?」
「いえ――どうも、しないです」
そう言う割にはこちらを見てくれる気配はない。
エンジンをかけつつも、俺は彼女から視線を剥がせずにいた。
ふいに胸を押さえる仕草を目にして、
「翠葉ちゃん、痛みが出てたりする?」
「違っ――痛みとか、そういうのじゃなくて……あの、大丈夫です」
この子の大丈夫は信じていいのかがわからない。せめてこっちを向いてくれたなら表情を読み取ることができるのに。
顔を見せないのは隠せる自信がないからか……?
「……薬は早めに飲んだほうがいいんじゃない?」
自販機ならそこにある。視線を移せばミネラルウォーターが目に入った。
ドアレバーに手をかけながら彼女に視線を戻すと、居心地悪そうに身体の向きを変えてくれた。
「本当に違うので……大丈夫です」
眉をハの字にした顔で言われても信憑性には欠けるというもの。
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