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第七章 つながり
07話
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「ただいま!」
「おかえりなさい……」
笑顔の栞さんに笑顔を返すことはできなかった。
「翠葉ちゃん……?」
栞さんは荷物を置き、私の方へと歩いてくる。
髪の毛はすでに下ろされていて、首の後ろは見えないようになっている。でも、ラグの上には救急箱が出たままだし、テーブルには髪の毛に付着した血を拭いたタオルが置いてある。
「美波さん……? これ、なんですか?」
栞さんは険しい顔つきで、救急箱が出ている理由を美波さんに尋ねた。
「翠葉ちゃん、話しちゃうわよ?」
確認をされたけれど、その返事に拒めるわけがなかった。
でも、栞さんが知ったらどんな思いをさせてしまうだろうか。
それを考えるとなかなか首を縦に振ることもできなかった。
美波さんはため息をひとつついて話しだす。
「あくまでも無意識よ? それをわかったうえで聞いてね。首、かなりひどい擦過傷起こしてる。どうも寝てる間に引っ掻いてたみたいなの」
その言葉を聞いた瞬間に、栞さんが私の後ろに回り髪の毛を持ち上げた。
「っ……」
「本人、出血してることすら気づいてなかったのよ。話の途中でなんとなく首に手を伸ばした、そんな感じだった。そのとき、指に血液が付着して気づいたの」
後ろから栞さんにぎゅっと抱きしめられた。
ただそれだけなのに、目に涙が滲みだす。
「栞さん、ごめんなさい……」
「……いいのよ。無意識のものを止めるのは自分じゃ無理なの。周りの人が気づいて止める。それが対処法よ」
あぁ……だから今日は一日私の側にいてくれようとしたのね。
「翠葉ちゃん、ここにいるのはつらいかしら? それなら幸倉のおうちに戻ってもいいのよ?」
抱き締められたままに問われた。
即答はできずに、じっとラグの一点を見て考える。
ここに来てから、なんだか自分の手には負えないことがたくさん起きている。でも、ここからじゃないと学校に通うのは厳しいだろう。
「来週からは学校に通いたいんです……。でも、それは幸倉からじゃ難しいと思う」
「そうね……。それなら、ここじゃなくて私の家に戻る? 昇は八月にならないと帰ってこないわ。それまでは主寝室を翠葉ちゃんが使ってもかまわない。そしたら空は見えるわ。身体を自分で起こせるのなら、ピアノを弾きたいときはここに下りてくればいい。静兄様の部屋のキーを渡しておけば、十階の部屋から九階に下りることもできる」
栞さんは次々と提案してくれる。
「私、今、いっぱいいっぱいみたいで……。学校に通うこと、勉強についていくこと、恋愛のこと、身体のこと――全部抱えられなくて、なんか気持ち悪いくらいに頭の中がぐちゃぐちゃなんです……」
「うん、そうよね。色々と一気にありすぎたわよね」
そう肩口で栞さんの柔らかい鈴を転がしたような声がする。それは癒しの音色に思えた。
「でも……一番優先させたいものはわかっているんです。学校と体調……それだけはどうしても譲れない部分で……。秋斗さんのこと、好きだと思ったけど、その気持ちは嘘じゃないんだけど、どうしても……今はそれを許容できる場所がないみたいです。その気持ちを手放すのは私の身勝手ですよね……」
栞さんからの返答はなかった。それは、肯定を意味するのだろうか。
「翠葉ちゃん、人は誰だって自分がかわいいの。それが当たり前なの。最後に優先するのは自分のことでいいの。だから、自分の中で優先事項が決まっているのならば、それに従うのは悪いことじゃないわ。それすらも理解してくれないような相手なら願い下げって言ってやんなさい」
美波さんの言葉はとても重いものだった。
自分がかわいくて当たり前――本当にそれでいいの?
今まで何度となく私を助けてくれた秋斗さん相手にしていいことなの?
秋斗さんが私を大切に想ってくれているのは痛いほど伝わってくる。でも、それを受け止められない自分が、自分が自分を嫌悪するほどにつらい。
なのに、理解してくれない人は願い下げって、そんな理不尽なことを言っていいのかな……。
「翠葉ちゃん、秋斗くんはいくつ年上?」
美波さんに訊かれた。
「九歳……」
「でしょう? 経験値も違えば器だって違うものよ。彼がどれだけの許容量を持っているのか、それがわかるのは今じゃないかしら」
「……人を試しているみたい」
「……そういう受け取り方もあるわね。でも、彼は今まで結構遊んできてる人間だし、それを悪いこととは言わないけれど、本気の相手が翠葉ちゃんなのなら、翠葉ちゃんの気持ちや状態を汲むことができなければこの先うまくなんていかないわ。……ショックかもしれないけどね、翠葉ちゃんはもう耐えられないところまで秋斗くんの要望に応えている状態。それ以上受け入れようとしたら、また無自覚に自傷行為をしてもおかしくないのよ。私、それだけは見過ごせないわ」
その言葉に栞さんが頷き、
「私もね、こんなふうになるくらいなら、今は秋斗くんと距離を置くべきだと思うの」
静かにそう口にした。
「翠葉ちゃん……今、秋斗くんと一緒にいたい? 今すぐ会いたい?」
私は首を真横に振っていた。
「そこからしてもうおかしいのよ。好きな人には普通会いたいと思うし、側にいたい、触れたいって思ったりするものよ。だから、秋斗くんの取っている行動は間違いじゃない。でも、翠葉ちゃんはちょっと違うのよ」
少し前までは少しでも一緒にいたいと思っていたし、会いたいとも思っていた。手だってつなぎたいと思っていた。
それには自信がある。
藤山でデートしたときの気持ち。あのときの気持ちに偽りなんてなかった。
でも、今は全然違う。秋斗さんという存在が恐怖でしかないのだ。
どうして、どうしてこんなことになってしまったのだろう……。
「翠葉ちゃん、少し休みましょう? 湊との約束は守らなくちゃね」
言われて、決断を出す前に休むことになった。
部屋に戻り時計を見ると、五時半を回ったところだった。
次に起きるのは六時半過ぎ。
そんなことを考えつつ携帯を見ると、メールが届いていた。ディスプレイに表示されたのは「藤宮秋斗」の文字。
その文字を見るだけでも手が震える。
奥歯にぐっと力を入れてメールを開いた。
件名 :昨日はごめん
本文 :俺の基準で行動した節が否めない。
しばらく仕事でマンションには戻れないから会うこともできないけど、
俺の代わりに若槻がマンションに泊ることになった。
何かあれば若槻を頼ってあげて。
いつものような甘い言葉は添えられていない。
謝罪と、今後の予定のみのメール。
気を遣ってくれたのだろうか。それとも、呆れられてしまったのだろうか。
どちらであっても怖い――
けど、この首の傷を見られることなく、知られることなく済みそうでほっとしている自分もいる。
驚かれても傷つかれても、説明のしようがないのだ。弁解のしようがない。
ベッドに横になり腹式呼吸をした。
呼吸を整えると心なしか身体がリラックスする気がする。
前に先輩が言っていた瞑想や精神統一ってこれに似たものなのかな。
でも、瞑想は「迷走」になってしまいそうで怖い。
眠ろうかと思っていたけれど、そんなときにポーチが開く音がした。
蒼兄か誰かが帰ってきたのだろう。
時計を見れば六時前。
栞さんと美波さんの「おかえり」という声がする。それに答えた声は低く静かな声。
司先輩だった。
ドアが開くと美波さんが救急箱を持っていて、
「拓斗が帰ってくるからまたね」
と、手を振ってくれた。
「今日はありがとうございました」
「いいえ、どういたしまして。手のカバーは栞ちゃんに策があるみたいだから、栞ちゃんに任せるわ」
入れ替わりに司先輩が入ってきて、かばんを置くと洗面所に向かったようだ。
美波さんを見送った栞さんが部屋に入ってくる。
「翠葉ちゃん、首にこれを巻きましょう」
エプロンのポケットから白い包帯を取り出した。
「とりあえず、直接手が触れないようにね。髪の毛、ちょっと持っててもらえる?」
髪を自分で持ち上げると、ぐるぐると首の回りを太めの包帯で巻かれた。
「起きているときは掻いてないわよね?」
「はい……。たぶん、一度も掻いてはいないと思います。だって、ヒリヒリして触りたくなんてなかったから」
栞さんは頷くと、
「夜や寝るときだけは手にタオルを巻きましょう」
栞さんの話だと日焼け止めのアイテムに使われるような五本の指が自由になる手袋じゃ意味がないのだとか。
手につけるのならミトン状のものか、指の動きを制限する必要があると言われた。
「何その包帯……」
司先輩が部屋の入り口で目を見開いていた。
「あ……えと――」
つい栞さんの顔を見てしまう。説明などできるわけがない。
「キスマークを見られたくないのはわかるけど、それは過剰すぎるんじゃない?」
何を答えることもできず言葉に詰まっていると、
「司くん、違うのよ。今、首を怪我しているの。だからマッサージも首は避けてね」
栞さんの言葉では司先輩は納得しなかった。
「普通首なんて怪我しないですよね」
当たり前すぎる言葉が返された。
「……栞さん、いいです。大丈夫……。司先輩にはちゃんと自分で話します」
「……大丈夫?」
大丈夫なわけではない、でも――
「……大丈夫です。ありがとうございます」
「そう……? じゃぁ、私は夕飯作りに行くけれど、何かあったら声かけてね」
そう言うと部屋を出ていった。
部屋に司先輩とふたりになり、司先輩の視線を痛いほどに感じる。
「話してくれるんでしょ」
無表情で訊かれる。
私は尋問されているような気持ちで重い口を開いた。
「あの……擦過傷です」
「……それだけじゃ説明不十分だと思うけど」
それはそうだ。どうして擦過傷を起こした、という話だろう。
「気づいたら擦ってました……。気づいたら、血が出るほどに引っ掻いていたみたいです」
「……それは無意識にってこと?」
コクリと頷く。
「……見られたのが嫌だった? それとも付けられたのが嫌だった?」
「……両方、かな。自分でもわからないの」
答えると、司先輩は深く息を吐き出した。
「……そんな目で見るな。もうこれ以上は訊かないから。ほら、マッサージ始める」
先輩はトン、と弾みをつけて壁から離れる。
「姉さんから腰と背中と首ってオーダーされた」
うつ伏せになるように言われて体勢を変えると、
「ちょっと待ってて」
と、一度部屋を出ていった。
戻ってきた時には毛布とバスタオルを手にしていた。
「毛布は胸の下に入れて。直接ベッドのマットよりかは楽だと思う。それから、できる限りベッドの端に横になって。壁際行かれると手が届かない」
言われたとおりに位置をずらすと、
「髪、邪魔だから適当に編むよ」
と、手櫛を何度か通して髪の毛を編み始めた。そして、テーブルに乗っていたペンケースからボールペンを取り出すと、それをかんざしのように使って髪の毛をまとめてしまった。
先輩、器用……。
もうひとつの大判のバスタオルは背中にかけられた。
「腰から始めるけど、触られるのが嫌ならとっととカミングアウトすること」
「はい」
「その前に確認。手……」
いつかのように手を差し出された。
その手に自分の手を乗せ軽く握ったけれど、何も感じなかった。
「先輩、大丈夫」
「なら始めるから」
背骨に添って丁寧に丁寧に指圧を加えられる。少しくすぐったくなることがあって、堪えるのが大変だった。
「翠……笑ってたりする?」
こちらをうかがうようにして訊かれる。
「だって、くすぐったいっ!」
「じゃ、もうすこし強く押す」
突如加えられた力に、
「痛いっ」
「……注文が多い人間のマッサージはやりたくない」
そうは言っても、そのあとの指圧は加減がちょうど良く、くすぐったくも痛くもなかった。
腰と背中、頭と二十分くらいずつで施術してくれた。
「先輩……お医者様じゃなくていますぐにでもマッサージ師になれそうですね?」
「それはどうも……」
「手、疲れませんか?」
「あぁ、適当に疲れてる」
「あのっ、私、手の平のマッサージだけは得意なの。終わったらやらせてくださいっ」
「…………」
先輩は急に黙りこくった。
「先輩……?」
「いや……」
いやって、だめってこと……?
「だって、これから毎日来てくれるのに何もお返しができないのは嫌です」
「……それじゃ食後にお願い」
「はい!」
ピアノを習っていたとき、ピアノの先生がしてくれたマッサージを覚えている。
すごく気持ちが良くて、蒼兄やお母さんたちにもしてあげたくて覚えたのだ。
小さい私の手でも両手を使ってツボさえきちんと押さえられれば効果がある。
司先輩みたいに全身の力を使ってするようなマッサージには私の身体は向かないだろう。でも、手の平ならできる。
目の前に自分にできることがひとつ浮上するだけで気持ちが軽くなるのがわかった。
自分がここにいる意味。自分に今できること。
それらは私にとって、とてもとても大切な存在理由なのだ――
「おかえりなさい……」
笑顔の栞さんに笑顔を返すことはできなかった。
「翠葉ちゃん……?」
栞さんは荷物を置き、私の方へと歩いてくる。
髪の毛はすでに下ろされていて、首の後ろは見えないようになっている。でも、ラグの上には救急箱が出たままだし、テーブルには髪の毛に付着した血を拭いたタオルが置いてある。
「美波さん……? これ、なんですか?」
栞さんは険しい顔つきで、救急箱が出ている理由を美波さんに尋ねた。
「翠葉ちゃん、話しちゃうわよ?」
確認をされたけれど、その返事に拒めるわけがなかった。
でも、栞さんが知ったらどんな思いをさせてしまうだろうか。
それを考えるとなかなか首を縦に振ることもできなかった。
美波さんはため息をひとつついて話しだす。
「あくまでも無意識よ? それをわかったうえで聞いてね。首、かなりひどい擦過傷起こしてる。どうも寝てる間に引っ掻いてたみたいなの」
その言葉を聞いた瞬間に、栞さんが私の後ろに回り髪の毛を持ち上げた。
「っ……」
「本人、出血してることすら気づいてなかったのよ。話の途中でなんとなく首に手を伸ばした、そんな感じだった。そのとき、指に血液が付着して気づいたの」
後ろから栞さんにぎゅっと抱きしめられた。
ただそれだけなのに、目に涙が滲みだす。
「栞さん、ごめんなさい……」
「……いいのよ。無意識のものを止めるのは自分じゃ無理なの。周りの人が気づいて止める。それが対処法よ」
あぁ……だから今日は一日私の側にいてくれようとしたのね。
「翠葉ちゃん、ここにいるのはつらいかしら? それなら幸倉のおうちに戻ってもいいのよ?」
抱き締められたままに問われた。
即答はできずに、じっとラグの一点を見て考える。
ここに来てから、なんだか自分の手には負えないことがたくさん起きている。でも、ここからじゃないと学校に通うのは厳しいだろう。
「来週からは学校に通いたいんです……。でも、それは幸倉からじゃ難しいと思う」
「そうね……。それなら、ここじゃなくて私の家に戻る? 昇は八月にならないと帰ってこないわ。それまでは主寝室を翠葉ちゃんが使ってもかまわない。そしたら空は見えるわ。身体を自分で起こせるのなら、ピアノを弾きたいときはここに下りてくればいい。静兄様の部屋のキーを渡しておけば、十階の部屋から九階に下りることもできる」
栞さんは次々と提案してくれる。
「私、今、いっぱいいっぱいみたいで……。学校に通うこと、勉強についていくこと、恋愛のこと、身体のこと――全部抱えられなくて、なんか気持ち悪いくらいに頭の中がぐちゃぐちゃなんです……」
「うん、そうよね。色々と一気にありすぎたわよね」
そう肩口で栞さんの柔らかい鈴を転がしたような声がする。それは癒しの音色に思えた。
「でも……一番優先させたいものはわかっているんです。学校と体調……それだけはどうしても譲れない部分で……。秋斗さんのこと、好きだと思ったけど、その気持ちは嘘じゃないんだけど、どうしても……今はそれを許容できる場所がないみたいです。その気持ちを手放すのは私の身勝手ですよね……」
栞さんからの返答はなかった。それは、肯定を意味するのだろうか。
「翠葉ちゃん、人は誰だって自分がかわいいの。それが当たり前なの。最後に優先するのは自分のことでいいの。だから、自分の中で優先事項が決まっているのならば、それに従うのは悪いことじゃないわ。それすらも理解してくれないような相手なら願い下げって言ってやんなさい」
美波さんの言葉はとても重いものだった。
自分がかわいくて当たり前――本当にそれでいいの?
今まで何度となく私を助けてくれた秋斗さん相手にしていいことなの?
秋斗さんが私を大切に想ってくれているのは痛いほど伝わってくる。でも、それを受け止められない自分が、自分が自分を嫌悪するほどにつらい。
なのに、理解してくれない人は願い下げって、そんな理不尽なことを言っていいのかな……。
「翠葉ちゃん、秋斗くんはいくつ年上?」
美波さんに訊かれた。
「九歳……」
「でしょう? 経験値も違えば器だって違うものよ。彼がどれだけの許容量を持っているのか、それがわかるのは今じゃないかしら」
「……人を試しているみたい」
「……そういう受け取り方もあるわね。でも、彼は今まで結構遊んできてる人間だし、それを悪いこととは言わないけれど、本気の相手が翠葉ちゃんなのなら、翠葉ちゃんの気持ちや状態を汲むことができなければこの先うまくなんていかないわ。……ショックかもしれないけどね、翠葉ちゃんはもう耐えられないところまで秋斗くんの要望に応えている状態。それ以上受け入れようとしたら、また無自覚に自傷行為をしてもおかしくないのよ。私、それだけは見過ごせないわ」
その言葉に栞さんが頷き、
「私もね、こんなふうになるくらいなら、今は秋斗くんと距離を置くべきだと思うの」
静かにそう口にした。
「翠葉ちゃん……今、秋斗くんと一緒にいたい? 今すぐ会いたい?」
私は首を真横に振っていた。
「そこからしてもうおかしいのよ。好きな人には普通会いたいと思うし、側にいたい、触れたいって思ったりするものよ。だから、秋斗くんの取っている行動は間違いじゃない。でも、翠葉ちゃんはちょっと違うのよ」
少し前までは少しでも一緒にいたいと思っていたし、会いたいとも思っていた。手だってつなぎたいと思っていた。
それには自信がある。
藤山でデートしたときの気持ち。あのときの気持ちに偽りなんてなかった。
でも、今は全然違う。秋斗さんという存在が恐怖でしかないのだ。
どうして、どうしてこんなことになってしまったのだろう……。
「翠葉ちゃん、少し休みましょう? 湊との約束は守らなくちゃね」
言われて、決断を出す前に休むことになった。
部屋に戻り時計を見ると、五時半を回ったところだった。
次に起きるのは六時半過ぎ。
そんなことを考えつつ携帯を見ると、メールが届いていた。ディスプレイに表示されたのは「藤宮秋斗」の文字。
その文字を見るだけでも手が震える。
奥歯にぐっと力を入れてメールを開いた。
件名 :昨日はごめん
本文 :俺の基準で行動した節が否めない。
しばらく仕事でマンションには戻れないから会うこともできないけど、
俺の代わりに若槻がマンションに泊ることになった。
何かあれば若槻を頼ってあげて。
いつものような甘い言葉は添えられていない。
謝罪と、今後の予定のみのメール。
気を遣ってくれたのだろうか。それとも、呆れられてしまったのだろうか。
どちらであっても怖い――
けど、この首の傷を見られることなく、知られることなく済みそうでほっとしている自分もいる。
驚かれても傷つかれても、説明のしようがないのだ。弁解のしようがない。
ベッドに横になり腹式呼吸をした。
呼吸を整えると心なしか身体がリラックスする気がする。
前に先輩が言っていた瞑想や精神統一ってこれに似たものなのかな。
でも、瞑想は「迷走」になってしまいそうで怖い。
眠ろうかと思っていたけれど、そんなときにポーチが開く音がした。
蒼兄か誰かが帰ってきたのだろう。
時計を見れば六時前。
栞さんと美波さんの「おかえり」という声がする。それに答えた声は低く静かな声。
司先輩だった。
ドアが開くと美波さんが救急箱を持っていて、
「拓斗が帰ってくるからまたね」
と、手を振ってくれた。
「今日はありがとうございました」
「いいえ、どういたしまして。手のカバーは栞ちゃんに策があるみたいだから、栞ちゃんに任せるわ」
入れ替わりに司先輩が入ってきて、かばんを置くと洗面所に向かったようだ。
美波さんを見送った栞さんが部屋に入ってくる。
「翠葉ちゃん、首にこれを巻きましょう」
エプロンのポケットから白い包帯を取り出した。
「とりあえず、直接手が触れないようにね。髪の毛、ちょっと持っててもらえる?」
髪を自分で持ち上げると、ぐるぐると首の回りを太めの包帯で巻かれた。
「起きているときは掻いてないわよね?」
「はい……。たぶん、一度も掻いてはいないと思います。だって、ヒリヒリして触りたくなんてなかったから」
栞さんは頷くと、
「夜や寝るときだけは手にタオルを巻きましょう」
栞さんの話だと日焼け止めのアイテムに使われるような五本の指が自由になる手袋じゃ意味がないのだとか。
手につけるのならミトン状のものか、指の動きを制限する必要があると言われた。
「何その包帯……」
司先輩が部屋の入り口で目を見開いていた。
「あ……えと――」
つい栞さんの顔を見てしまう。説明などできるわけがない。
「キスマークを見られたくないのはわかるけど、それは過剰すぎるんじゃない?」
何を答えることもできず言葉に詰まっていると、
「司くん、違うのよ。今、首を怪我しているの。だからマッサージも首は避けてね」
栞さんの言葉では司先輩は納得しなかった。
「普通首なんて怪我しないですよね」
当たり前すぎる言葉が返された。
「……栞さん、いいです。大丈夫……。司先輩にはちゃんと自分で話します」
「……大丈夫?」
大丈夫なわけではない、でも――
「……大丈夫です。ありがとうございます」
「そう……? じゃぁ、私は夕飯作りに行くけれど、何かあったら声かけてね」
そう言うと部屋を出ていった。
部屋に司先輩とふたりになり、司先輩の視線を痛いほどに感じる。
「話してくれるんでしょ」
無表情で訊かれる。
私は尋問されているような気持ちで重い口を開いた。
「あの……擦過傷です」
「……それだけじゃ説明不十分だと思うけど」
それはそうだ。どうして擦過傷を起こした、という話だろう。
「気づいたら擦ってました……。気づいたら、血が出るほどに引っ掻いていたみたいです」
「……それは無意識にってこと?」
コクリと頷く。
「……見られたのが嫌だった? それとも付けられたのが嫌だった?」
「……両方、かな。自分でもわからないの」
答えると、司先輩は深く息を吐き出した。
「……そんな目で見るな。もうこれ以上は訊かないから。ほら、マッサージ始める」
先輩はトン、と弾みをつけて壁から離れる。
「姉さんから腰と背中と首ってオーダーされた」
うつ伏せになるように言われて体勢を変えると、
「ちょっと待ってて」
と、一度部屋を出ていった。
戻ってきた時には毛布とバスタオルを手にしていた。
「毛布は胸の下に入れて。直接ベッドのマットよりかは楽だと思う。それから、できる限りベッドの端に横になって。壁際行かれると手が届かない」
言われたとおりに位置をずらすと、
「髪、邪魔だから適当に編むよ」
と、手櫛を何度か通して髪の毛を編み始めた。そして、テーブルに乗っていたペンケースからボールペンを取り出すと、それをかんざしのように使って髪の毛をまとめてしまった。
先輩、器用……。
もうひとつの大判のバスタオルは背中にかけられた。
「腰から始めるけど、触られるのが嫌ならとっととカミングアウトすること」
「はい」
「その前に確認。手……」
いつかのように手を差し出された。
その手に自分の手を乗せ軽く握ったけれど、何も感じなかった。
「先輩、大丈夫」
「なら始めるから」
背骨に添って丁寧に丁寧に指圧を加えられる。少しくすぐったくなることがあって、堪えるのが大変だった。
「翠……笑ってたりする?」
こちらをうかがうようにして訊かれる。
「だって、くすぐったいっ!」
「じゃ、もうすこし強く押す」
突如加えられた力に、
「痛いっ」
「……注文が多い人間のマッサージはやりたくない」
そうは言っても、そのあとの指圧は加減がちょうど良く、くすぐったくも痛くもなかった。
腰と背中、頭と二十分くらいずつで施術してくれた。
「先輩……お医者様じゃなくていますぐにでもマッサージ師になれそうですね?」
「それはどうも……」
「手、疲れませんか?」
「あぁ、適当に疲れてる」
「あのっ、私、手の平のマッサージだけは得意なの。終わったらやらせてくださいっ」
「…………」
先輩は急に黙りこくった。
「先輩……?」
「いや……」
いやって、だめってこと……?
「だって、これから毎日来てくれるのに何もお返しができないのは嫌です」
「……それじゃ食後にお願い」
「はい!」
ピアノを習っていたとき、ピアノの先生がしてくれたマッサージを覚えている。
すごく気持ちが良くて、蒼兄やお母さんたちにもしてあげたくて覚えたのだ。
小さい私の手でも両手を使ってツボさえきちんと押さえられれば効果がある。
司先輩みたいに全身の力を使ってするようなマッサージには私の身体は向かないだろう。でも、手の平ならできる。
目の前に自分にできることがひとつ浮上するだけで気持ちが軽くなるのがわかった。
自分がここにいる意味。自分に今できること。
それらは私にとって、とてもとても大切な存在理由なのだ――
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