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35 Side 唯 01話
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朝食を摂ってあんちゃんたちと一緒に家を出た。誰もいない家に向かって、「いってきます」なんて口にして。
そしたら、リィが言うんだ。「栞さんがいってらっしゃいって言葉を返してくれた日が懐かしいね」って。すっごく寂しそうなのに笑顔貼り付けて。
俺は栞さんがどういう状態なのかは少しだけ知っている。でも、今のリィに不安要素を増やすのは厳禁。だから教えない。
「唯兄はここからホテルへ出勤するの?」
エレベーターの中で訊かれ、俺は飄々と嘘をつく。
「そう。バスで市街まで行く」
バスに乗るのは嘘じゃない。ただ、行き先はホテルじゃなくて病院。秋斗さんのお見舞い。
リィとあんちゃんをエントランスで見送り、バス停まで五分ちょっと歩いた。雨が降りそうだったからビニール傘をぶらぶら振り回しながら。
あぁ、こんなことしてたらよくセリに怒られたっけ。危ないからやめなさい、って。
バスに乗り流れ行く景色を眺めていると、途中から見慣れた風景に変わっていた。
前はよくバスに乗って病院に通っていた。こんな時間帯に行くことはなかったけど……。
病院に着くと十階まで上がる。
厳重なセキュリティをパスして警備員待機室にいる人たちに会釈して、高級感プンプンの廊下をひとり歩く。
蔵元さんにあらかじめ聞いていた部屋を訪ねると、実に退屈そうな顔をした男がひとり。
「おっはよーございますっ」
「……若槻にしては早起きだな」
「御園生兄妹と生活を共にしているとこうなるわけですよ。……んなわけで、今俺九階に寝泊りしてます。怒んないでくださいね」
「……怒りはしないけど。おまえ、大丈夫なのか?」
明らかに俺を気遣う言葉。
「大丈夫みたい、かな? 自分でも何がどうして大丈夫なのかはサッパリなんですけど」
本当に何がどうしてこんなに冷静で気持ちが穏やかなのかは俺が知りたいくらいだ。
この病院へ来ることだってなんの抵抗も感じなかった。
「もう少し、あの兄妹に混ぜてもらうことにしました」
「そうか……大変じゃないか?」
この人、片や愛しい女の子。片や優秀で信頼できる後輩に混ざって大変じゃないか、って訊いたよね? それ、ちょっとどうなの……?
「たぶん、俺には少し変なくらいがちょうどいいんです」
「……ちょっとっていうか、相当変だろ?」
……あのさ、仮にもあなたが友人と呼べる人であり、あなたが心底惚れている女の子のことを「相当変」とはちょっとひどいんじゃ……。でも、あんちゃんも藤宮の人は変って思ってるみたいだからそこはお互い様かな?
リィは特別っていうか……自業自得でいっか。
「で? 秋斗さんはあとどのくらいで退院できるんですか?」
あれだけ吐血した人がそれっぽく見えないっていうのもどうなんだか……。
少し前までは輸血されていたって話しだし、尿カテもしてたっていってたけど、今は点滴スタンドと一本のラインというとてもシンプルな状態。
「丸二週間で退院していいって言われてる」
ふーん、ってことはまだもう少しかかるわけだ。
二週間っていうと、六月二十七日。でも、退院手続きとか考えると月曜日の二十九日あたりかな。ま、七月前には退院できるわけね。
「住居トレードどうします?」
「それなんだけど、しばらくホテル貸して」
やっぱりか……。
「了解です。考え、まとまりそうです?」
「粗方ね。まとまってはいるんだけど認めたくないっていうか……。でも、答えは出てる。あとは……そうだな、俺が腹据えたら、かな」
自嘲気味に笑ってリィの調子を訊かれた。
「そうですね、体調的には一進一退というか、何も変わってないというか……。かろうじて学校には通っていますが結構つらそうに見えます」
リィは痛みがあってもあまり態度や顔に出さない。どうしても我慢できなくなるころに顔を歪める。
俺が気づくころにはたいてい一段階目の薬は飲んだあとで、二段階目か三段階目の薬を飲むところまできてる。
湊さんの話だと、学校で鎮痛剤を打つほどの発作を起こしたこともあるという。
七月の頭にある期末考査――そこに標準を定めてがんばってるみたいだけど、本当に大丈夫なのか、見てるこっちがハラハラする。
そんな話をすれば、
「そっか……。じゃ、少し早くにがんばらないとな」
この人は何をどうするつもりなんだろうか。
「気持ちだけでも楽にしてあげないと……」
そう呟く顔は、どこにでもいる恋に悩む人のものだった。
この人らしくない。秋斗さんらしくない。藤宮の人間っぽくない。
そもそも、リィの気持ちを楽にするってどういうことだろう。
「俺は一歩後退だよ」
秋斗さんは笑って見せた。その笑顔すら痛々しい。
「一歩後退ってなんですか?」
「一端手を引く。付き合うとか、キスとか、そういうことすら彼女の負担になるというなら、一度距離を置いて彼女を見守るしかないだろ」
まさか――
「欲しいものやっと手に入れたんでしょっ!?」
それを手放す? この人がっ!?
「それで彼女がつらい思いをするなら、自分を傷つけてしまうようじゃ意味がないんだ」
――深い。秋斗さんがリィを想う気持ちはとても深いものに思えた。
ほかの何をおいてでも手に入れたいと思った女。やっと手に入った女。欲望のままに抱きたいとすら思っていた対象のはずなのに……。
なのに、また手放すのか? リィの心を守るために……?
「リィのこと、壊したくないんですね」
「そう、俺の宝物だから」
その気持ちはわかる。
秋斗さんにも蔵元さんにも今後だって話せるかはわからないけど、俺もセリを壊したくなくてセリから離れたから。だからこそ、秋斗さんの「壊したくない」って気持ちはよくわかる。
「いつか、リィが秋斗さんを受け入れてくれるといいですね」
ありきたりのことしか言えない。でも、それ――全然ありきたりの言葉じゃないから。
あくまでも、俺にとっては、だけど。
「あぁ、そうそう。司くんて結構侮れないと思いますよ?」
「……知ってる」
「でも、なんとなく……彼はまだ動かない気がします」
「それも知ってる」
……なーんだ。
「俺、秋斗さんが焦った理由わかっちゃった」
「……黙れ」
くっ……おっかしいの。この人、九歳も年下の従弟の存在が脅威なんだ。
これはさ、ちょっと見てるの楽しいかもしれない。
今、リィの気持ちは秋斗さんにあるのにね。この人はそんなこともわかっているうえで引くんだ。
おっとこ前だなぁ……。
「俺、仕事が溜まってるんで帰りますね」
「あぁ、そうしてくれ」
少しむすっとした感じで言われた。
病室を出てつい顔がにやける。
秋斗さんも普通に恋をする男なんだな。
百戦錬磨は本気じゃない相手にしか通用しないってこと?
しかも、相手はリィだ。どう考えたって一筋縄じゃいかないよ。難攻不落のお姫様。
俺の妹はどう成長していくのかな。俺はそれを間近で見ていてもいいかな。
あんちゃん……俺さ、このままずっと兄妹でいたいよ――
そしたら、リィが言うんだ。「栞さんがいってらっしゃいって言葉を返してくれた日が懐かしいね」って。すっごく寂しそうなのに笑顔貼り付けて。
俺は栞さんがどういう状態なのかは少しだけ知っている。でも、今のリィに不安要素を増やすのは厳禁。だから教えない。
「唯兄はここからホテルへ出勤するの?」
エレベーターの中で訊かれ、俺は飄々と嘘をつく。
「そう。バスで市街まで行く」
バスに乗るのは嘘じゃない。ただ、行き先はホテルじゃなくて病院。秋斗さんのお見舞い。
リィとあんちゃんをエントランスで見送り、バス停まで五分ちょっと歩いた。雨が降りそうだったからビニール傘をぶらぶら振り回しながら。
あぁ、こんなことしてたらよくセリに怒られたっけ。危ないからやめなさい、って。
バスに乗り流れ行く景色を眺めていると、途中から見慣れた風景に変わっていた。
前はよくバスに乗って病院に通っていた。こんな時間帯に行くことはなかったけど……。
病院に着くと十階まで上がる。
厳重なセキュリティをパスして警備員待機室にいる人たちに会釈して、高級感プンプンの廊下をひとり歩く。
蔵元さんにあらかじめ聞いていた部屋を訪ねると、実に退屈そうな顔をした男がひとり。
「おっはよーございますっ」
「……若槻にしては早起きだな」
「御園生兄妹と生活を共にしているとこうなるわけですよ。……んなわけで、今俺九階に寝泊りしてます。怒んないでくださいね」
「……怒りはしないけど。おまえ、大丈夫なのか?」
明らかに俺を気遣う言葉。
「大丈夫みたい、かな? 自分でも何がどうして大丈夫なのかはサッパリなんですけど」
本当に何がどうしてこんなに冷静で気持ちが穏やかなのかは俺が知りたいくらいだ。
この病院へ来ることだってなんの抵抗も感じなかった。
「もう少し、あの兄妹に混ぜてもらうことにしました」
「そうか……大変じゃないか?」
この人、片や愛しい女の子。片や優秀で信頼できる後輩に混ざって大変じゃないか、って訊いたよね? それ、ちょっとどうなの……?
「たぶん、俺には少し変なくらいがちょうどいいんです」
「……ちょっとっていうか、相当変だろ?」
……あのさ、仮にもあなたが友人と呼べる人であり、あなたが心底惚れている女の子のことを「相当変」とはちょっとひどいんじゃ……。でも、あんちゃんも藤宮の人は変って思ってるみたいだからそこはお互い様かな?
リィは特別っていうか……自業自得でいっか。
「で? 秋斗さんはあとどのくらいで退院できるんですか?」
あれだけ吐血した人がそれっぽく見えないっていうのもどうなんだか……。
少し前までは輸血されていたって話しだし、尿カテもしてたっていってたけど、今は点滴スタンドと一本のラインというとてもシンプルな状態。
「丸二週間で退院していいって言われてる」
ふーん、ってことはまだもう少しかかるわけだ。
二週間っていうと、六月二十七日。でも、退院手続きとか考えると月曜日の二十九日あたりかな。ま、七月前には退院できるわけね。
「住居トレードどうします?」
「それなんだけど、しばらくホテル貸して」
やっぱりか……。
「了解です。考え、まとまりそうです?」
「粗方ね。まとまってはいるんだけど認めたくないっていうか……。でも、答えは出てる。あとは……そうだな、俺が腹据えたら、かな」
自嘲気味に笑ってリィの調子を訊かれた。
「そうですね、体調的には一進一退というか、何も変わってないというか……。かろうじて学校には通っていますが結構つらそうに見えます」
リィは痛みがあってもあまり態度や顔に出さない。どうしても我慢できなくなるころに顔を歪める。
俺が気づくころにはたいてい一段階目の薬は飲んだあとで、二段階目か三段階目の薬を飲むところまできてる。
湊さんの話だと、学校で鎮痛剤を打つほどの発作を起こしたこともあるという。
七月の頭にある期末考査――そこに標準を定めてがんばってるみたいだけど、本当に大丈夫なのか、見てるこっちがハラハラする。
そんな話をすれば、
「そっか……。じゃ、少し早くにがんばらないとな」
この人は何をどうするつもりなんだろうか。
「気持ちだけでも楽にしてあげないと……」
そう呟く顔は、どこにでもいる恋に悩む人のものだった。
この人らしくない。秋斗さんらしくない。藤宮の人間っぽくない。
そもそも、リィの気持ちを楽にするってどういうことだろう。
「俺は一歩後退だよ」
秋斗さんは笑って見せた。その笑顔すら痛々しい。
「一歩後退ってなんですか?」
「一端手を引く。付き合うとか、キスとか、そういうことすら彼女の負担になるというなら、一度距離を置いて彼女を見守るしかないだろ」
まさか――
「欲しいものやっと手に入れたんでしょっ!?」
それを手放す? この人がっ!?
「それで彼女がつらい思いをするなら、自分を傷つけてしまうようじゃ意味がないんだ」
――深い。秋斗さんがリィを想う気持ちはとても深いものに思えた。
ほかの何をおいてでも手に入れたいと思った女。やっと手に入った女。欲望のままに抱きたいとすら思っていた対象のはずなのに……。
なのに、また手放すのか? リィの心を守るために……?
「リィのこと、壊したくないんですね」
「そう、俺の宝物だから」
その気持ちはわかる。
秋斗さんにも蔵元さんにも今後だって話せるかはわからないけど、俺もセリを壊したくなくてセリから離れたから。だからこそ、秋斗さんの「壊したくない」って気持ちはよくわかる。
「いつか、リィが秋斗さんを受け入れてくれるといいですね」
ありきたりのことしか言えない。でも、それ――全然ありきたりの言葉じゃないから。
あくまでも、俺にとっては、だけど。
「あぁ、そうそう。司くんて結構侮れないと思いますよ?」
「……知ってる」
「でも、なんとなく……彼はまだ動かない気がします」
「それも知ってる」
……なーんだ。
「俺、秋斗さんが焦った理由わかっちゃった」
「……黙れ」
くっ……おっかしいの。この人、九歳も年下の従弟の存在が脅威なんだ。
これはさ、ちょっと見てるの楽しいかもしれない。
今、リィの気持ちは秋斗さんにあるのにね。この人はそんなこともわかっているうえで引くんだ。
おっとこ前だなぁ……。
「俺、仕事が溜まってるんで帰りますね」
「あぁ、そうしてくれ」
少しむすっとした感じで言われた。
病室を出てつい顔がにやける。
秋斗さんも普通に恋をする男なんだな。
百戦錬磨は本気じゃない相手にしか通用しないってこと?
しかも、相手はリィだ。どう考えたって一筋縄じゃいかないよ。難攻不落のお姫様。
俺の妹はどう成長していくのかな。俺はそれを間近で見ていてもいいかな。
あんちゃん……俺さ、このままずっと兄妹でいたいよ――
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