光のもとで1

葉野りるは

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第八章 自己との対峙

26話

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 お風呂から上がったお母さんが私の部屋へ顔を出し、
「ここで寝てもいいかしら……?」
 訊き方が昼間のお父さんと同じだった。
 拒否されるかもしれない――そう思いながら尋ねている感じ。
「うん、喜んで。私もお話したいことがあるから嬉しい」
 決してお母さんに気を遣って口にした言葉ではない。
 電話やメールでもやり取りはしているけれど、やっぱり会って話すのとは全然違うから。
 お母さんは嬉しそうに笑い、
「じゃ、スキンケア済ませたらすぐに下りてくるわね」
 と、両親の寝室がある二階へと上がっていった。
 引き出しベッドの用意をしたかったけれど、そこまで動けそうにはなく、仕方なくベッドの上で待っていると、蒼兄がやってきた。
 今度はマグカップの片づけらしい。唯兄が入れたから片付けるのは蒼兄、そんな感じかな。
「母さん、ここで寝るの?」
「うん。久しぶりだし……」
 蒼兄は私の代わりに引き出しベッドの用意をしてくれた。
「つらくないか?」
「え……?」
「身体も、気持ちも……」
「……身体はつらい。でも、まだ大丈夫。気持ちはつらくないよ」
 それはきっとお母さんのことを指していたと思う。
 何が、とはお互いが明確にはしなかった。でも、互いが言わんとしていることは通じていると思えた。
「普段会って話せない分、今のうちにたくさんお話しなくちゃ」
「……大丈夫そうだな」
 ベッドの用意が済むと、蒼兄は「おやすみ」と部屋を出ていった。
 入れ替わりでお母さんが入ってくる。お母さんはベッドに横になると、
「学校の話を聞かせて」
 乾かしたばかりのふんわりとした髪を左サイドにまとめて私を見上げた。
 私は行ったことがないけれど、修学旅行や同級生と一緒に夜を過ごすときはこんな感じかな、と想像する。
「学校の話……。何度も話してるのだけど、クラスの友達がみんな優しい……。必要以上には体調のことを訊かないでいてくれるの。いつもものすごく気にはかけてくれていて、私が無理をしそうになるとすぐに止めてくれる。でもね、そういう優しさが気持ちの負担になることがないから、ちょっと不思議……」
 お母さんは興味深そうに耳を傾けていてくれた。
「中でも司先輩にはすごくお世話になっているの。同い年だけど一学年先輩で、私が具合が悪いとき、たいてい先輩が見つけてくれて保護してくれる。もうずっとお世話になりっぱなし」
「あら、それじゃいつかお礼を言わなくちゃね」
「でもね、この先輩すっごく容赦のない人なの。根は優しいのだけど、言葉は辛辣。何度も泣きそうになったし、実際に泣いちゃったこともある。……容赦ないけど、いつでも私のことを思って口にしてくれている言葉だった」
 街中でのいきさつを話すと、
「それはそれは……頭を下げてお礼を言いたいわ」
 と、お母さんは真面目な顔つきになった。
「箱庭で育ててしまったのは私たち親の失敗だわ。今からでも、ある程度の世間は知ってほしい。……これから、今までにないことがたくさん起こると思うけど、すべて自分で考えようとしないで、蒼樹なり唯くん、周りの友達に相談しなさいね。もちろん私でも零でもかまわないから」
「うん……」
「翠葉、あなたは確かにもう十七歳だけど、私たちからしてみたらいくつになっても子どもに変わりはないの。親は子どもが心配なものだし、子どもだって親が年をとれば心配をするようになるでしょう? そういうものなのよ。年がどうこうで大人子どもというわけじゃないわ。家族においてはその関係性はずっと変わらないの」
 お母さんの言葉がどういう意味を持つのか、すべてを理解できたわけではない。けれども、私はその言葉を噛みしめるように頷いた。
「あ……お母さん、私、火曜日は午前中だけ学校に行かないと単位が足りなくなっちゃうの」
「わかった。帰りは私が迎えに行くから、行きをどうするかは蒼樹と話し合いましょう」
 私たちは明後日の予定を話して部屋の電気を消した。

 翌日、月曜日は地味な痛みが続いてはいるものの、発作的な痛みがくることはなかった。
 激痛発作がやってくるのはいつか――
 大きな不安を抱えてる毎日。こんな日々、早く終わればいいのに……。
 気分転換にピアノを弾こうと思い部屋を出た。
 二階へ上がろうと階段を上り始めると、物音に気づいた唯兄が部屋から顔を出し、私のもとまで駆け寄る。
「ピアノ?」
「うん。少し弾きたくて……。お仕事の邪魔になる?」
「いや、大丈夫。でも、二階に上がったり下りたりするときは俺を呼ぶこと。OK?」
「……はい」
「今の間はなぁに?」
 じとりと睨まれる。
「ううん、日に日に蒼兄みたいになってくるな、と思って」
「……ま、そのあたりは反論しない」
 そんな会話をしながら二階へと続く階段を上り、踊り場に置いてあるピアノに向かった。
 踊り場とはいっても六畳ほどの広さがあり、突き当たりにピアノが置いてある。
 右側はリビングからの吹き抜けになっており、手すりの状態だから開放感がある空間だ。
 左側の壁際にはソファが置かれており、その前には小さなテーブルがある。
 ピアノの脇には観葉植物が置かれていて、ピアノの両脇にある細い縦長の窓から日光を得ていた。
 シュベスター――この子に触れるのは久しぶり。音を鳴らすと少し調律が狂っていた。
 この時期は湿度も高めだし、前に調律をしてから半年以上が経っている。そろそろ調律の時期だな、と思いながら指を滑らせた。
「リィ、リクエストしてもいい?」
 振り返ると、唯兄は少し恥ずかしそうな面持ちでソファにちょこんと座っていた。
「弾けるものなら」
「……リストの愛の夢」
 ――お姉さんの、オルゴールの曲……。
「唯兄……私、その曲は原曲が弾けないの」
「そっか……」
「でもっ、触りでいいならアレンジになっちゃうけど弾けるっ。それでもいい?」
「……うん。お願いします」
 あまりにも私が必死すぎたのか、唯兄は少し面食らった感じだった。
「じゃ、弾きます……」
 主旋律を忠実に弾き、左手はベースラインだけは間違えないように気をつける。あとは緩やかに、穏やかに……。
 唯兄の心に寄り添える演奏ができれば、とただただそれだけを考えて音を鳴らしていた。
 ゆっくりとお姉さんと過ごした日々を思い出せるだけの時間が取れるように、何度も何度も繰り返し同じフレーズを弾き続けた。
 静かに演奏を終えると、唯兄が無言で泣いていてびっくりした。
「リィ、ありがと」
 鼻声を耳にして振り返る。
「……唯兄?」
「大丈夫……。ただ、色々と思い出すことが多くて――でも、やっと泣けた気がする」
 唯兄は細身の身体を丸く丸く縮こめた。私は蹲っている唯兄に近づき、抱きしめるように腕を回した。
 言葉だと、何を言っても薄っぺらいものになってしまう気がしたから。だから、今はぬくもりを――
 しばらくすると三階からお母さんが下りてきて、私たちを見て事態を察したのか、
「そろそろお昼だわ。唯くん、手伝ってくれる?」
「もちろんっ」
「翠葉は少し休憩。ベッドで横になっていなさい」
 私はふたりに付き添われて自室へ戻り、ベッドに横になった。
 部屋を出ていくお母さんと唯兄を見て思う。
 私は今、とても唯兄に救われている。助けられている。
 いつの日か、私も唯兄を助けることができるだろうか。……できると思いたい。
 自分の未来に何が起こるのかはきっと誰もがわからないことだろう。それでも、人は将来を考えるし将来を設計する。
 そのうえで起きたハプニングに対しどう対処していくか……。そこで人の器量が試されるのだろう。
 私もそれに挑める人間になりたい――
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