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第九章 化学反応
10話
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十を数え終わると、ブン、と音がした。
顔を上げると、数メートル先にある自動ドアが開いたところだった。
そこには薄紫色のシャツを着たお父さんがいて、外に出るとこちらに向かって真っ直ぐ歩いてくる。
久しぶりに見るお父さんは、少し日焼けをしているように見えた。
「翠葉」
「お父さん……」
「具合はどう?」
「ん……大丈夫」
「そう」
お父さんは私の隣まで来ると、花壇の縁に腰を下ろした。
「お母さん、元気……?」
「ん~……何か聞いた?」
「…………」
聞いたと言えばいいのに、どうしてか何も答えられなかった。
黙りこんでしまう自分が嫌……。こんなの、黙っていても肯定しているようなものじゃない。
「そっか……ま、大丈夫だよ。過労だ、過労。父さんもわかってて止めなかったしな」
お父さんは空を見ながらのんびりと話す。
「私のせい、だよね……」
「……誰のせいとか、そういうんじゃないと思うけどな」
お父さんのほうが少し低い位置に座っているけれど、身体を折り曲げて話すお父さんと顔の高さが同じ。そのお父さんに顔を覗き込まれ、困った私は髪の毛で顔を隠す。
「でも、私が現場に戻って仕事をしてほしいって言ったから……」
「……ま、それもそうか。でもさ、家に母さんがいたとして、翠葉の痛みがなくなるわけでもないしな」
そう――だから、いつもどおりに仕事をしてほしいと思った。
そんなふうに自分を正当化しては、後悔する。
「こういう考えは親らしくないのかなぁ……」
お父さんはそんな前置きをして、
「本当なら側にいてあげたいっていうのが親心なのかな、と。碧……母さんはその典型だろ?」
私はコクリと頷く。
「でも、父さんはさ……側にいたいのはいたいけど、それで何もできない自分にも腹が立つんだ。だから、お金を稼ぐ……。どんな治療が降って湧いてもその治療を受けさせてあげられるだけの経済状態を維持する」
お父さんは口を真一文字に引き結んだ。そして、次の瞬間にはほわっとした笑顔で、
「なーんてな。……そんなふうに思うわけだ。だから、父さんは翠葉が仕事に行ってくれって言ってくれて助かったよ」
そんな言葉に救われちゃうから私はだめなんだ……。
「たださ、女って生き物は母親だからなぁ……。男親とはちょっと違うんだよ」
「……うん、近いうちに会うよ」
「……翠葉?」
「ん……?」
お父さんは花壇から腰を浮かし、車椅子の前にしゃがみこむ。
「無理はしなくていいんだぞ?」
「……もう、何がなんだか、わからなくなっているの」
私の目をじっと見ているお父さんは、少し口を開いて、何も言わずに口を閉じた。
「あのね、私は誰のことも傷つけたくなかったの。大切な人なら大切な人ほど、ひどい言葉を投げたくなくて――」
少しずつでも話さなくちゃ……。苦しくても話さなくちゃいけない。
「会わなければひどいことを言わずに済む。そう思っていたけど……そうやって人を遠ざけた時点で、私はみんなを傷つけてたんだよね」
何度口にしてもつらい。でも、つらくてもなんでも、何度でも口にして、私は自分に刻み付けなくちゃいけない。
「教えてくれた人がいるの。私は人を傷つけたくないって言ってて、実は自分が傷つくのも嫌なんだって。それは自己防衛だって。自己防衛で人を遠ざけたら、その人たちはその時点で傷を負うって……」
「……そうか」
お父さんは私の両手を掴むと、まるで祈りでも捧げるかのように、そこに自分の額をつけた。
「翠葉、幸せか……?」
幸せ――幸せ、とはなんだろう。でも……。
「私は幸せだよ」
それは胸を張って言える。
私を思ってくれる家族がいて、友達がいて、心配して手をつないでくれる人がいる。それは当たり前のことではなく、恵まれていることだと思うから。
「こんなふうに治療を受けなくちゃいけなかったり、身体がつらくても、か?」
「……この身体じゃなかったら、なんて考えても何があるのかわからないもの」
それは本音だった。
もし自分がものすごく元気な身体だったら……? みんなと一緒に体育をしている自分がいたとしたら……?
そんなことは考えてみても想像ができない。わからない。
どんな自分がそこにいるのか。どんな自分になっていたのか――。
今の私はこの身体があってこそ、なのだ。
「『もしも』って言葉を使ったら怒りそうな人がいる」
ふと、裏に座っているであろうツカサのことを思い出した。
「『もしも』なんて非現実的なことを考える時間があるなら、これからを考えろ、って言われそうなの」
お父さんは顔を上げて、「え?」といった顔をする。
「だって……『もしも』の元気な私がいたら、今の私はここにいないでしょう?」
「……そうだけど」
「……藤宮に通うこともなく、今周りにいる大好きな友達とも会えることはなかったよ。そう考えるとね、少しだけ、この身体に感謝してもいいかな、って思えるの」
それが、今の私――
「あのな?」
お父さんが握る手に力をこめた。
「つらいとき、どうして元気に産んでくれなかったんだ、って言ってくれていいんだ。翠葉はそれを言いたくなくて、それで父さんたちを遠ざけていただろう?」
ドクリ、と心臓が脈打つ。
「いいんだ、言っても……」
「……ど、して……」
どうしてそんなひどいことを言ってもいいなんて言うの?
「言われたほうが楽なこともあるんだよ」
お父さんは力なく笑った。
でも――
「やだよ……。言わない。それだけは言わないっ、言いたくない、絶対に嫌っ」
「……そうか。ま、無理して言ってもらいたいことでもないんだけどな」
と曖昧に笑う。
「……いかんなぁ。父さん、ちょっと楽になりたいがために、こんなことを愛娘に言ってしまった」
立ち上がり、私に背を向けてはそんなふうに茶化す。
「あぁ、そうだ」
急にこちらを振り返り、
「唯くん、うちの養子にしようと思うんだ」
「そうなのね」
「翠葉も賛成か? じゃ、ほぼ決定だな」
「え……あれ?」
あまりにも普通のことのように言われたので、つい何も考えずに答えてしまったけど――
「今、唯兄が養子って言った?」
「言ったぞ?」
「えーーーっ!?」
「反応薄いと思ったら、今ごろ理解したのか?」
「唯兄が養子って何っ!?」
「……何って、そのまんまの意味なんだけどな」
お父さんは朗らかに笑っていた。
久しぶりに大声を出した私は、気管支だか声帯がおかしなことになって、そのあと少し咽ることになる。
話の内容に呆気に取られているうちに、
「そろそろ病室に戻ろう」
と、お父さんに車椅子を押された。
「あ――」
「ん?」
上からお父さんに覗き込まれる。そのお父さんの後ろのハーブ園、さらにはその裏――
「何かあったか?」
お父さんも背後を振り返る。
「……ううん、何もない」
何もないけど人はいる……。
心の中で「ごめんなさい」と謝りつつ、そのまま病室へ戻った。
顔を上げると、数メートル先にある自動ドアが開いたところだった。
そこには薄紫色のシャツを着たお父さんがいて、外に出るとこちらに向かって真っ直ぐ歩いてくる。
久しぶりに見るお父さんは、少し日焼けをしているように見えた。
「翠葉」
「お父さん……」
「具合はどう?」
「ん……大丈夫」
「そう」
お父さんは私の隣まで来ると、花壇の縁に腰を下ろした。
「お母さん、元気……?」
「ん~……何か聞いた?」
「…………」
聞いたと言えばいいのに、どうしてか何も答えられなかった。
黙りこんでしまう自分が嫌……。こんなの、黙っていても肯定しているようなものじゃない。
「そっか……ま、大丈夫だよ。過労だ、過労。父さんもわかってて止めなかったしな」
お父さんは空を見ながらのんびりと話す。
「私のせい、だよね……」
「……誰のせいとか、そういうんじゃないと思うけどな」
お父さんのほうが少し低い位置に座っているけれど、身体を折り曲げて話すお父さんと顔の高さが同じ。そのお父さんに顔を覗き込まれ、困った私は髪の毛で顔を隠す。
「でも、私が現場に戻って仕事をしてほしいって言ったから……」
「……ま、それもそうか。でもさ、家に母さんがいたとして、翠葉の痛みがなくなるわけでもないしな」
そう――だから、いつもどおりに仕事をしてほしいと思った。
そんなふうに自分を正当化しては、後悔する。
「こういう考えは親らしくないのかなぁ……」
お父さんはそんな前置きをして、
「本当なら側にいてあげたいっていうのが親心なのかな、と。碧……母さんはその典型だろ?」
私はコクリと頷く。
「でも、父さんはさ……側にいたいのはいたいけど、それで何もできない自分にも腹が立つんだ。だから、お金を稼ぐ……。どんな治療が降って湧いてもその治療を受けさせてあげられるだけの経済状態を維持する」
お父さんは口を真一文字に引き結んだ。そして、次の瞬間にはほわっとした笑顔で、
「なーんてな。……そんなふうに思うわけだ。だから、父さんは翠葉が仕事に行ってくれって言ってくれて助かったよ」
そんな言葉に救われちゃうから私はだめなんだ……。
「たださ、女って生き物は母親だからなぁ……。男親とはちょっと違うんだよ」
「……うん、近いうちに会うよ」
「……翠葉?」
「ん……?」
お父さんは花壇から腰を浮かし、車椅子の前にしゃがみこむ。
「無理はしなくていいんだぞ?」
「……もう、何がなんだか、わからなくなっているの」
私の目をじっと見ているお父さんは、少し口を開いて、何も言わずに口を閉じた。
「あのね、私は誰のことも傷つけたくなかったの。大切な人なら大切な人ほど、ひどい言葉を投げたくなくて――」
少しずつでも話さなくちゃ……。苦しくても話さなくちゃいけない。
「会わなければひどいことを言わずに済む。そう思っていたけど……そうやって人を遠ざけた時点で、私はみんなを傷つけてたんだよね」
何度口にしてもつらい。でも、つらくてもなんでも、何度でも口にして、私は自分に刻み付けなくちゃいけない。
「教えてくれた人がいるの。私は人を傷つけたくないって言ってて、実は自分が傷つくのも嫌なんだって。それは自己防衛だって。自己防衛で人を遠ざけたら、その人たちはその時点で傷を負うって……」
「……そうか」
お父さんは私の両手を掴むと、まるで祈りでも捧げるかのように、そこに自分の額をつけた。
「翠葉、幸せか……?」
幸せ――幸せ、とはなんだろう。でも……。
「私は幸せだよ」
それは胸を張って言える。
私を思ってくれる家族がいて、友達がいて、心配して手をつないでくれる人がいる。それは当たり前のことではなく、恵まれていることだと思うから。
「こんなふうに治療を受けなくちゃいけなかったり、身体がつらくても、か?」
「……この身体じゃなかったら、なんて考えても何があるのかわからないもの」
それは本音だった。
もし自分がものすごく元気な身体だったら……? みんなと一緒に体育をしている自分がいたとしたら……?
そんなことは考えてみても想像ができない。わからない。
どんな自分がそこにいるのか。どんな自分になっていたのか――。
今の私はこの身体があってこそ、なのだ。
「『もしも』って言葉を使ったら怒りそうな人がいる」
ふと、裏に座っているであろうツカサのことを思い出した。
「『もしも』なんて非現実的なことを考える時間があるなら、これからを考えろ、って言われそうなの」
お父さんは顔を上げて、「え?」といった顔をする。
「だって……『もしも』の元気な私がいたら、今の私はここにいないでしょう?」
「……そうだけど」
「……藤宮に通うこともなく、今周りにいる大好きな友達とも会えることはなかったよ。そう考えるとね、少しだけ、この身体に感謝してもいいかな、って思えるの」
それが、今の私――
「あのな?」
お父さんが握る手に力をこめた。
「つらいとき、どうして元気に産んでくれなかったんだ、って言ってくれていいんだ。翠葉はそれを言いたくなくて、それで父さんたちを遠ざけていただろう?」
ドクリ、と心臓が脈打つ。
「いいんだ、言っても……」
「……ど、して……」
どうしてそんなひどいことを言ってもいいなんて言うの?
「言われたほうが楽なこともあるんだよ」
お父さんは力なく笑った。
でも――
「やだよ……。言わない。それだけは言わないっ、言いたくない、絶対に嫌っ」
「……そうか。ま、無理して言ってもらいたいことでもないんだけどな」
と曖昧に笑う。
「……いかんなぁ。父さん、ちょっと楽になりたいがために、こんなことを愛娘に言ってしまった」
立ち上がり、私に背を向けてはそんなふうに茶化す。
「あぁ、そうだ」
急にこちらを振り返り、
「唯くん、うちの養子にしようと思うんだ」
「そうなのね」
「翠葉も賛成か? じゃ、ほぼ決定だな」
「え……あれ?」
あまりにも普通のことのように言われたので、つい何も考えずに答えてしまったけど――
「今、唯兄が養子って言った?」
「言ったぞ?」
「えーーーっ!?」
「反応薄いと思ったら、今ごろ理解したのか?」
「唯兄が養子って何っ!?」
「……何って、そのまんまの意味なんだけどな」
お父さんは朗らかに笑っていた。
久しぶりに大声を出した私は、気管支だか声帯がおかしなことになって、そのあと少し咽ることになる。
話の内容に呆気に取られているうちに、
「そろそろ病室に戻ろう」
と、お父さんに車椅子を押された。
「あ――」
「ん?」
上からお父さんに覗き込まれる。そのお父さんの後ろのハーブ園、さらにはその裏――
「何かあったか?」
お父さんも背後を振り返る。
「……ううん、何もない」
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心の中で「ごめんなさい」と謝りつつ、そのまま病室へ戻った。
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