光のもとで1

葉野りるは

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21 Side 司 01話

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「司、なんかあったのか?」
 ケンがおずおずと寄ってくる。
 それもそのはず――俺はインハイを目前に、的を外すようになっていた。
 昨夜の藤原さんの電話に加え、今朝の出来事。動揺するには十分すぎる出来事だった。
「悪い、ちょっと抜ける」
 弓を置いて弓道場の外に出ると、意外な人物が待ち受けていた。
 静さんがなんで――
「調子が悪そうだな」
「えぇ、全然たらなくて」
「少しいいか?」
 訊かれた、というよりは、「ついてこい」と言われた気がした。

 静さんが向かった先は桜香庵だった。
「なんでここ……?」
 その問いに答えは得られず、
「まぁ、中に入れ」
 桜香庵の敷居をまたぐと、座敷には秋兄がいた。
「静さんっ!?」
 俺が今一番会いたくない人間にどうしてっ――
「司、落ち着け。おまえの言いたいこともわかるが、秋斗にも秋斗なりの考えがあってやったことだった」
 そんなの知るかっ。
 秋兄のせいで翠は倒れた。それ以外の何ものでもない。
「消えたい」なんて二度と思わせたくなかったのに――
「司、翠葉ちゃんの追加情報を知りたくないか?」
 追加情報……?
「知りたいなら、中に入って座れ」
 知りたくないといえば嘘になる。けど、静さんから聞かずとも自分が病院へ出向けばわかることでもある。
 そう思ったと同時、
「今、病院へ行ったところで彼女には会えない」
 確かに、翠はすぐ九階の病室へは戻らないだろう。今朝はICUに入るのを見届けてから学校へ向かったのだから。しかし、静さんが言っているのはそれとは別な気がした。
 嫌な予感がする――
「聞くなら中だ」
 もう一度言われて座敷に上がった。
 逸る気持ちを抑え、声に現れないよう精一杯気をつける。
「静さん、翠の容態は?」
「どうやら解離性障害の一種、解離性健忘というらしい」
 解離性健忘――
 今までにも何度かそんな状態の翠を見てきた。でも、そう特定するだけの材料はなかったはずだ。しかも、部分健忘といえるほどの症状ではなかった。
 嫌な予感に拍車がかかる。
「何か判断基準を満たすようなことがあったんですか」
 尋ねると、静さんは「そうだな」とため息を漏らす。
「秋斗と司の記憶だけがごっそりと抜け落ちているらしい」
 ――何?
「司、もう一度言う。翠葉ちゃんの記憶から、秋斗と司の記憶だけがなくなった」
「司……悪い――」
 少し離れた場所から秋兄の声がした。
「こんなことになるとは……」
 ふざけるなっっっ。
「司、秋斗は本意じゃなかったんだ」
 意味がわからない。静さんが口にした言葉の意味がわからない。
「秋斗は彼女を襲うつもりもなければ、彼女を許さないつもりもなかったんだ」
 何を言って――
 秋兄は確かに昨日の電話で「許さない」と翠に言った。それは俺の目の前で起こったことだ。
 けれども、胸を一瞬掠めた疑問がある。
 ――この秋兄が、翠に向かってそんなことを言うだろうか? いや、確かに言った。でも――
 自分の記憶が疑わしくなる。
 でも、だとしたらなんで今朝みたいなことが起こるのか、どうして自分が部分健忘の内に組み込まれてしまうのか、すべてに納得がいかない。
「ただ許すだけじゃだめだと思った。……そんな簡単に許すだけじゃ、彼女は自分を責めることはやめない。そう思ったんだ――」
 口を開いた秋兄からは思いもよらない言葉が紡がれる。
「だから、その立場を利用して彼女には恋人になってもらおうと思った。少しでも俺から責められることで楽になるのなら、そんな期間を少し設ければいいと思っていた」
 そんなこと――
「翠がどんな思いで秋兄に電話したと思ってるんだよっっっ」
「――すまない」
「司、少し落ち着け」
 静さんに肩を叩かれ、
「今回は私にも非がある。監視カメラがこれほど彼女を追い詰めることになるとは思いもしなかった」
 でも、翠を安心させたくてカメラのことを翠に告げたのは俺自身だ。
「くそっっっ」
 結局、俺も片棒を担いだことになる。
「それでなんだが……」
 静さんを見ると、やけに深刻そうな顔をしていた。
「困ったことに、ふたりの記憶がないということは、うちで使いたい写真を撮った記憶もないということなんだ」
 あ――
 咄嗟に顔を上げたのは秋兄も一緒だった。
「秋斗とパレスへ行った記憶はない。つまり、彼女が撮った写真ですら、記憶の混乱を招く可能性がある」
 記憶をなくすということがどういうことなのか、俺には想像ができない。けれど、俺や秋兄が翠と過ごした時間はそれなりにある。日常生活に支障がなかったとしても、ところどころの記憶がなければ本人だって混乱するだろう。翠の性格からして、パニックに陥ることは間違いない。
 どうしたら――
 脳裏に浮かんだのはずいぶんと前に読んだ本の一文。
 ――「人の記憶は都合よく改ざんされる」。
 つまり、記憶をなくしても、それが「全健忘」でない限り、都合いいように脳が前後の記憶をつなぎあわせてくれる、ということ。しかし、つい最近の出来事で分量が多いとなると、それがどこまで適用されるものなのか――
「司、おまえは今日の夕方に病院へ行って会うことができる。が、もちろん彼女はおまえのことを覚えていない」
「っ……会ってどうしろとっ!?」
「とくには何も……。自己紹介でもしたらどうだ?」
 自己紹介――ま、そこから始めるしかないんだろうけれど……。
「司の場合は記憶がないだけだ。聞いた話によれば、それまでは司をかなり頼っていたそうじゃないか。彼女が司のことを思い出してもつらい思いをすることはない。……わかるな?」
「……はい」
 確かに、俺に関することで思い出してつらいことは何ひとつないだろう。翠にとって、俺はそこまで大きな存在じゃない――だとしたら秋兄は……?
 ……自業自得とはいえ、これは結構きつい。
 それに、脳が勝手にプログラミングしてくれるのだとしたら、問題の人間が現れたそのとき、そのプログラミング自体が意味をなさなくなるんじゃないのか?
 ……そうか、そういうことか。静さんはそれを知ったたうえで俺に会いに行けと言っているのだろう。
「秋斗、おまえは時期を見て私と一緒に会いにいくことになる。それまでは病院への立ち入りは禁ずる。秋斗の診察は司の家で行うことが決まった」
「はい……」
 始終俯いてつらそうに身体を丸めている秋兄なんて初めて見た。
 ……イライラする。
「私からの話は以上だ」
 そう言うと、静さんはひとり先に桜香庵を出ていった。

「司、本当にすまない……」
「――過ぎたことはしかたないだろっ!?」
 こんな秋兄だって見たくはない。
 青白い顔をした翠が倒れるのも見たくなければ、秋兄のこんな姿だって見たくはない。
 俺にとってふたりは大切な人間で、それはどうあっても変わらない。何があっても変えられない事実だ。
「秋兄、弓道見てよ……」
「え?」
「今朝から一射も中たらない。型が崩れてるのかもしれないから」
 そんなのは自分の精神鍛錬が足りてないからほかならない。でも、インハイは目前だし、翠が記憶を取り戻したとき、翠がまた自分を責める要因は作りたくない。
 なら、インハイで入賞するしかない。もともとそのつもりで練習してきたんだ。
「秋兄、忘れてないよね」
 何を、という顔をされうんざりする。
「ピンチは最大の好機――」
 秋兄に向き直り、今度こそ宣言する。
「俺は翠が好きだ。秋兄も俺に譲れないくらいにはそう思ってるよね? なら、今回のことで引け目なんか感じず、これからは秋兄らしく翠に接してくれない? 少なくとも、今回みたいな――秋兄らしからぬ行動はしないでほしい」
「……司?」
「意味、理解できないわけ? 翠にごく甘なのが秋兄だろっ!? なら、そのままでいればいいんだっ。無理に突き放したり冷たくするからこんなことになるっ。翠を突き放したりきついことを言うのは俺の専売特許。秋兄の専売特許は甘いこと。違うっ!?」
「…………」
「何か言えよ」
「……ありがとう」
「弓道、見てくれるんだよね」
「あぁ……」
 生気のない顔に少しの笑みがうかがえた。
 どいつもこいつも手のかかる――俺より一回り近く年上のくせに……。
「部室のロッカー、一番奥が俺の。そこに替えの道着が入ってるから」
 そう言うと、俺は先に桜香庵を出た。
 今日から柏木桜の家庭教師もインハイが終わるまでは休みだ。
 助かった……これが今日までだったなら、俺は間違いなく怒鳴り散らしてあの女を泣かせていただろう。
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