光のもとで1

葉野りるは

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第十一章 トラウマ

49話

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 川岸先生が入ってくるとすぐに出欠確認が始まり、二十八番目に自分が呼ばれる。
「御園生」
「はい……」
 声が震えた。
 次に桃華さんの名前が呼ばれ、和光くんの名前が呼ばれて出欠確認は終わる。
「試験前だから風邪には気をつけろー」
 先生はそれだけ言って出ていく。
 何か伝達事項がない限り、朝のホームルームは出欠確認だけで終わってしまうのだ。
 時間は三十五分。授業が始まるのは四十分。
 みんな予習か復習をしていて、きっと誰も私のことなんて見ていない。なのに、人の視線が怖いと思う。
 まだ目に映る景色には色があって、鮮やかに見えるからこそ余計に怖い。
 また、景色から色がなくなったらどうしよう……。
 中学のとき、学校はいつでも灰色の世界だった。
「何かあった?」
 前の席の海斗くんが振り返る。
 飛鳥ちゃんの視線も感じるし、きっと桃華さんも気にしているだろう。少しだけ視線を上げると、佐野くんもこちらを見ていた。
 授業が始まる前だから席は立たないけど――そんな感じ。私は――
「海斗、俺今日英語当たるんだけどさ、これ間違ってないか見てよ」
 空太くんがノートを手に海斗くんに話しかけると、
「ん? あぁ、これは……」
 空太くんのノートを覗き込むことで海斗くんの意識は私から逸れた。
 空太くん、ありがとう……。ごめんね。
「翠葉、何かあるなら聞くよ?」
 飛鳥ちゃんの言葉が胸に痛い。
「うん、ごめんね。でも、大丈夫だから……」
 頬がわずかに引きつる。
 笑えない――顔の筋肉が動いてくれない……。
「……ん、わかった。でも、今の翠葉が大丈夫だとは思ってないからね?」
 飛鳥ちゃんはそう言って教科書に視線を落とした。
 飛鳥ちゃん、ごめんね……。
 空太くんに説明が終わったのか、海斗くんが再度振り返る。
 そのとき、「起立」と佐野くんの声が教室に響き、英語の先生が入ってきたことを告げた。
 この学校は先生が入ってくると同時に号令がかかるのだ。
 授業が始まれば授業に集中できるはずだった。
 なのに、今日はどうしても集中できない。板書をノートに取るのが精一杯。
 指名されて教科書の英文を読むことになったけれど、いつもより声が小さくて、先生に「もっと大きな声で」と注意された。でも、出そうと思ってもそれ以上の声は出せなかった。

 次の時間は数学。
 数学なら気持ち的に余裕がある。
 授業中だけど、考えたいことが、考えなくちゃいけないことがあった。
「翠葉、ここ教えてくれない?」
 後ろから桃華さんの声。
 恐る恐る振り返る。と、数学の問題集は開かれていなかった。
「私、何かした?」
「っ……!?」
 桃華さんの、ガラスのような目が私を捕らえて放さない。
「……何も」
 そう答えるのが精一杯だった。
 桃華さんは何もしていない。誰も何もしていない。なのに、この視線にすら耐えられそうにはない。
 何かしているとしたら、それは私のほうなのに――
「今は話せそうにないみたいだから無理には訊かないけど、一応確認だけはしておきたかったの。わからないのはこの問題」
 桃華さんは問題集を開いた。
「あ、それは……」
 自分の持っているメモ帳に公式と途中式から答えまでを記す。そのうえで問題を解くコツを話すと、
「ありがとう。やっと納得できたわ」
 桃華さんはにこりと笑ってくれた。
 その笑顔が好きなのに。大好きなのに――
「これも今のと同じよね?」
 ほかの問題を指差し訊かれる。
「うん、そう……」
 説明を終えた頃、数学の先生が入ってきた。

 ノートを取りながら、先生が進めるままに教科書の問題を解く。
 でも、実のところ、頭の七十パーセントくらいは違うことを考えていた。
 さっき高崎さんに言われたこと――

 ――「彼は翠葉ちゃんに対して虫唾が走るって言ったんじゃないよ? もう一度言われたことを思い出してごらん?」。
 ――「司様は翠葉ちゃんの体調を優先するって言ってたし、それで翠葉ちゃんが葛藤しても悩んでも止めるって言ってたよね? それはさ、翠葉ちゃんをひとり置いていくつもりはないってことでしょう?」。
 ――「わかった? 侮るなっていうのは、自分たちは中学の人間たちとは違うんだから、いらぬことで悩むな、葛藤するな、ってことじゃない? ま、究極の思考翻訳だけどさ」。

 それらは思い出せるのに、肝心のツカサの言った言葉が思い出せない。
「虫唾が走る」――その言葉だけが頭をぐるぐると回っている。
 ほかに思い出せることといったら、冷たい視線と冷めた声音。
 どうしよう――
 ノートを取る手まで震え始めた。
 ぎゅ、とシャーペンを握りしめてから、一度それを置いた。
 姿勢を正し、深く息を吸い込んでから最後まで息を吐き切る。そして、頭に響かせるのは一から十までの数。声はツカサ――
『一、二、三、四、五、六、七、八、九、十――』。
 手の震えが止まった。
 大丈夫――今は授業を受けなくちゃ……。
 この学校は授業中に私語が聞こえてくることはないし、クラスのどこかで手紙交換をしている気配もない。
 誰もが授業に集中していて、聞こえてくるのは先生の声と黒板にチョークが当たる音。あとは指名された人が席を立つ音や答える声。
 人の視線を気にしなくて済む時間があることにほっとする。
 ……本当は、こんなことに安心してしまう自分をどうにかしなくてはいけないのに。

 午前授業がすべて終わり、ホームルームも終わった。
 はっと思い出したように空太くんの席を見たけれど、すでに席を立ったあとで、ドアに目をやると空太くんが教室を出るところだった。
 咄嗟にその背を追いかける。
「翠葉っ!?」
 後ろから桃華さんに呼ばれたけど、ごめん――今は空太くん。

 ほんの少し走ったら、階段を下りている空太くんに追いついた。
 周りにはほかのクラスの人がいて戸惑ったけれど、今話を聞けるのは空太くんしかいない。
 両手をぎゅっと握って、精一杯の声で呼び止めた。
「空太くんっっっ」
「っ……翠葉ちゃん!?」
「わっ、姫だっ!」
 知らない人たちに顔を覗き込まれ、思わず後ずさる。
「あー……悪い、先行ってて?」
 空太くんが階段を二段ほど上り、私とその人たちの間に入ってくれた。
「えーーー!? 俺らクラス違うんだからさ、少しくらい話させてくれてもいいじゃん」
「んー、またの機会ね。すぐに追いつくからさ」
 空太くんは友達に先に行くよう促した。
 迷惑かけてる、どうしよう……。
「ほい、翠葉ちゃん、どうした? っていっても、今朝のことしかないよね?」
 コクリと頷くと、
「ここは人がいっぱい通るから場所を移そう?」
 私はまたコクリと頷いた。
「テラスは暑いし、昇降口もアウト。教室は論外――桜林館の外周廊下にしようか」
「ごめんねっ!?」
「いいよ、謝らなくて。今までの関係なら翠葉ちゃんに相談なんてされること絶対になかったと思うし。そう考えると偶然の産物にちょっと感謝。俺、めったに兄ちゃんのところには泊らないからさ」
 そう言って空太くんは笑った。
 空太くんの言うとおり、桜林館の外周廊下にはさほど人がいなかった。
「で?」
「あの、あのっ……私、今朝――」
「今朝?」
「……ツカサになんて言われたかなっ!?」
 あまりにも尋ねている内容がバカみたいなことで、空太くんにどう思われるのかが怖かった。
 でも、訊ける人は空太くんか高崎さんしかいなくて、すぐにでも思い出したかった私は空太くんを追いかけずにはいられなかったのだ。
「翠葉ちゃん……えっとさ……俺、今朝の藤宮先輩と翠葉ちゃんがした会話の内容を訊かれてるんだよね?」
「そうなの……」
「どうしたっ!? あんまりにも辛辣な内容すぎて脳内消去しちゃったっ!?」
「あの……言うならば、『虫唾が走る』っていう言葉が強烈で、それしか覚えてなくて……」
「えええええっっっ!?」
「あ、あのっ、高崎さんが話してくれたことなら全部覚えてるんだけどっ」
 言ったあとで、それがなんのフォローにもならないことに気づく。
 空太くんは脱力したようにしゃがみこみ、
「まぁ、お姫さん、ちょっと座ろうか……」
 と、桜林館脇にある階段に座らされた。
 そして、会話の内容をひとつひとつ教えてくれた。
「思い出した?」
「ん……ありがとう」
「訊かれたから答えたとはいえ、聞いたらまた泣きたくもなるよね」
 今、私は泣かないように、と必死だった。
 泣くわけにはいかない。これ以上空太くんを引き止めちゃだめ――
「ううん、ごめん、泣いてないよ。教えてくれてありがとう。引き止めてごめんね。お友達にも謝ってね」
 今朝大泣きしているのを見られているし、説得力なんて全然ないと思う。でも、涙を零さないように、振り切るように立ち上がった。
「翠葉ちゃんっ、全然迷惑じゃないからねっ!? 困ってるときに助けてって言われるの、全然迷惑じゃないからっ」
「……空太くん、ありがとう。本当にありがとう」
「……またごめんなさいって顔が言ってる」
「っ――ごめんなさいっ」
「あああああ、ごめんっ。時間かけていいんだよって言ったばかりなのにいいいいっ」
 空太くんは頭を抱えてしまう。
「ううん、この場合、間違っているのは絶対に私だから。だから――」
 その先を話そうとしたとき、空太くんの視線が明らかに私の背後を見ていた。
 私に視線が合っていたはずなのに、今は明らかに違うものを見ている。口を半開きにして……。
 振り返ると、そこにはツカサが立っていた。
「ツ、カサ……」
 ごくり、と唾を飲む。おまけに、足が竦んでその場から動けなくなってしまった。
「藤宮先輩、ちょっとたんまっっっ! 翠葉ちゃん、今色々と混乱してるだけですからっ」
 空太くんが私とツカサの間に入ってくれる。
「だから何?」
 ツカサの声はとても冷たい響きをしていた。
「だから――えぇと……あまり手厳しいことは今ちょっと……」
「無理。翠、病院まで付き添う。御園生さんには連絡してあるし了承も得てる」
「っ……」
「ついでに、高崎に訊かなくても直接俺に訊けばいいんじゃない? 翠に言った張本人に訊くのが一番いいと思うけど? ……教室からかばん持ってきたからこのまま行くよ」
 ツカサは私の返事を待たずに昇降口へ向かって歩きだした。
「ちょっ、翠葉ちゃん大丈夫っ!?」
 振り返った空太くんに訊かれる。
「……大丈夫。空太くん、ごめんね? それから……ありがとう」
「翠葉ちゃん、全然大丈夫って顔してないよっ!?」
「それでも、大丈夫だから……」
 そう言ってツカサのあとを追った。
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