糸を読むひと

井川林檎

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その1・カレーを美味しく食べることができるという奇跡

 ただでさえゲンナリしているのに、帰宅したら朝作ったカレーの臭いがうち中に立ち込めていて、気分が悪くなった。
 今、世の中で一番食べたくないモノはカレーだった。ろくに昼食をとっていないくせに、おなかが空いていない。それどころか、鍋に入った食べ物を見ると嫌な気分になった。

 まだ明るい日差しが窓から差し込み、梟荘の中はほんのりしていた。
 廊下の明かりとりの小窓からオレンジ色の光が入り込み、壁に四角いかたちを作っている。
 ただいま、と何の気なしに呟くと、思いがけず「おかえり」と返事が返ってきた。

 ヒキコモリのいとちゃんが、台所から顔を出していた。

 昭和レトロな玉のれんをじゃらじゃらいわせて、きゅっとしまった小さい顔でこちらを見ている。その真黒な目はなにもかも見通しているみたいで、見つめられたわたしは、なんだか背中が寒くなった。

 台所からコトコトと何かが煮える音がして、さらにむわっとカレーの臭いが立ち込めた。どうやらいとちゃんが、カレーを温め直していたらしい。
 今朝からいとちゃんが部屋から出てきて、普通のひとみたいに生活している。

 (てっきり、帰ってくる時までに再びヒキコモリのひとになっていると思っていたのだけどなあ)

 疲れ切ったわたしは、特になにかを言う気分にはなれず、いとちゃんに軽く会釈を返しておいた。
 そしてはっとして、のれんから首を出したまま動かないいとちゃんの横をすり抜けて、ガスコンロに向った。案の定、鍋の中身のカレーが、地獄の池みたいにぶくぶく怒り狂っている。

 (焦げる)

 ぶつっ、ぶつっとカレーの礫を吐き出す鍋。わたしはコンロの火を消した。
 梟荘の台所は、IHクッキングヒーターではない。これは嬉しいポイントだった。なにしろ、生まれてこの方おんぼろアパート以外の生活を知らないので、ガスコンロしか使ったことがないのだ。
 下手にハイテクでお洒落なものが用意されていても、困るのだ。

 火を消して、換気扇をつけて、ほっとしたと同時にむせかえるようなカレー臭に「うっ」と口を押える。
 もうダメだ限界。口をふさいだまま台所から出てゆくと、驚いたことにいとちゃんが後ろからくっついてきた。
 トイレの前まできて足をとめて振り向いたら、いとちゃんも足を止めて、じいっと黒い目でわたしを見つめてきたのだった。

 朝見たままの、寝癖とジャージ。
 ふわんと、独特のニオイが漂った。寝臭いというか、布団のこもったような匂い。ヒキコモリの匂い。

 「朝、カレーを食べたおかげで、学食でカレーを食べたくならなかった」

 いきなり、いとちゃんは言った。
 どきっとして、わたしは押し黙った。いとちゃんは続けた。

 「もし今朝カレーを食べなかったら、ゆめちゃんは今日、確実にカレーを頼んでいた。そして」

 それ以上言わないで良い、とわたしはジェスチャーで伝えた。考えるだけで気持ちが悪くなる。
 それにしてもいとちゃんは、何なんだろう。まるで朝から何もかも分かっていたかのように、カレーを作るように指示したのだ。確かにおかげさまで、わたしはカレーを頼まずに済んだ。
 今日は学食のカレーが、半額サービスになっていたというのに。
 みんな、カレーばっかり頼んでいたのに。

 わたしだけだった、きつねうどんを頼んだのは。

 (最も、あの騒動できつねうどんも半分くらいしか食べなかったんだけどさ)

 学食のおばちゃん、あの、新しいひと。
 ちょっと顔色が悪いし、よく観察したら表情がぎこちなかった。
 だけどまさか、あんなことをするなんて。

 カレーを食べた学生たちは、その場でげえげえ吐いていたし、食堂の中は猛烈な臭いに満ちていた。
 臭いをかいでいるだけで、自分まで具合が悪くなりそうだった。

 これは大変なことになった、と思いつつ、うどんを残して学食を逃げ出した。誰かが通報したらしく、救急車と警察が同時にかけつけた。
 そのまま午後は休講になったが、わたしは警察の事情徴収やら、念のために病院で検査するやらで、結局今日は夕方まで忙しかった。へとへとになって帰宅したら、いとちゃんが迎えてくれたという訳だ。

 おぞましい、カレー臭と一緒に。

 いとちゃんは真っ黒い目で、読めない表情をしていた。
 天井につけられた明かり取りの窓から光が差し込んで、いとちゃんの顔に陰影をつけている。そろそろ影が長く伸びてきて、薄闇が忍び寄ってくる頃だ。

 いとちゃんはゆっくりと手を伸ばすと、なにか、奇妙な仕草をした。
 片手でなにかを摘まみあげ、もう片手で透明なハサミを使うかのように。

 ちょきん。

 断ち切られる音が聞こえたような気がした。

 「これで良いよ」
 いとちゃんは、虫でも追い払ったかのように言った。

 わたしは茫然としていとちゃんを見つめた。なんのジェスチャーだったのやらわからない。いとちゃんが変な子で、もしかしたらちょっとオカシクなっているのかもしれないと、前々から覚悟はしていたのだけど、正直、ああやっぱりか、と残念な気持ちになっていた。

 いつまでもいとちゃんと向き合って立ち止まってるわけにはいかないので、わたしは歩き出そうとした。
 自室に入って荷物を置いて、とりあえず何かつくろうと思った。そして、あれっと気づいた。

 食欲が、戻ってきている。

 「夕ご飯はカレーがあるから、いいよ。ご飯も炊けているから」

 何でもないように、いとちゃんが言った。
 わたしは振り向いた。がたがた足が震えだしていた。

 今、なにが、起きた。

 「カレーに罪はない。美味しく食べてもらいたいだけ」
 いとちゃんはそう言うと、頷いて台所に戻って行ってしまった。ひょろひょろの体で、がに股で、だるそうに歩いて玉のれんをくぐって消えた。
 
 (カレーか)
 
 あれほどまでに、カレーを忌まわしく思っていたのに、いつのまにかカレー嫌悪が消えていた。
 漂っているカレーの匂いも、普通に良い匂いだと感じている。
 しかも、なんだかお腹がすいていて、いとちゃんの姿がのれんの中に消えてから、盛大にぐうぎゅるると鳴ったのだった。

 ちょきん、と、いとちゃんは何を切ったのだろう。

 (とにかく今は、早く支度をしよう。早くしなくては)

 夕ご飯のために、お皿を並べたり、お湯を沸かしたりしなくては。それに、カレーの付け合わせのサラダも。

 台所では、いとちゃんが待っている。たぶん、いとちゃんも空腹なんだろう。
 長い間ヒキコモリで姿を見せなかったいとちゃんが、テーブルでごはんを待っている。そう思うと、 気が急いた。

 これから食べるカレーのことだけを必死に考えて、わたしは自室に飛び込んだ。荷物を置いて、楽な格好に着替えて、これから宵の準備。

 今日も無事に一日が暮れるのだ。
 悪意を込められたカレーに当たってしまった大勢の学友を思うと心が痛んだ。そして、どうして自分だけ無事なんだろうと考えようとして、あまりにもぞうっと怖くなったので、それきり考えることを止めた。

 (またカレーを食べることができることに、感謝を)
 きっと学友たちは、今後、人生でカレーを食べることはないのに違いない。
 それを思うと、カレーの香りが奇跡のように思えて仕方がなかった。

 (いとちゃん……)
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