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第8章 魔獣襲来
日常
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「――でさ、あたしは言ってやったわけよ。『そこの出店で売ってるフランクフルトの半分くらいの大きさだな』って。その時の奴の顔ときたら」
「ふふ、マイちゃんったら」
舞奈の軽口に、園香が笑う。
2人は仲良く並んで、商店街近くの小道を歩いていた。
スーパーのタイムセールでモヤシを買い漁っている途中で、夕食の買い出しをしていた彼女とばったり出くわしたのだ。
郵便ポストの上で、讃原町で見かけるシャムの野良猫が丸くなって寝ている。
空がよく晴れた平日の夕方は、絶好の買い物日和だ。
舞奈と園香は生まれも育ちも何もかも正反対だ。
だが日常的に料理をするという意外な共通点がある。塩コショウをふっただけのモヤシ炒めと、プロ顔負けの家庭料理という違いはあるが。
そんなことを考えながら、園香の尻をなんとなく撫でる。
「もうっ、マイちゃんったら」
園香はおどろき、顔を赤らめて微笑む。
身をよじった拍子に、ふくよかな胸がプルンと揺れる。
舞奈も笑う。
鋼鉄の如く引き締まった舞奈の手とは真逆に、園香の身体はどこもやわらかい。
舞奈はシスターの包みこむような抱擁を知っている。
けれどそれは、園香の大ぶりながら張りのある胸を否定する理由にはならない。
シスターの微笑みは無条件に甘えさせてくれる母親の笑みだけれど、園香のそれは対等な立場で向けあえる友人の笑みだ。
どちらも舞奈の大事な友人だ。
「そういや、チャビーの奴は元気か?」
何気に問う。
舞奈は別にゴシップが好きなわけではない。園香もだ。
だが2人の間に共通の趣味とかはなく、舞奈は女の子が好きで園香は世話好きだ。
なので自然に会話は共通の友人のことになる。
それに先日に教会で見たチャビーの様子が、少し気になったのは事実だ。だが、
「チャビーちゃんは中等部のバスケの試合の応援に行ってるよ。舞花ちゃんが応援してる選手さんを、いっしょに応援するんだって」
家の近い小さな親友の近状を、園香は楽しげに語る。
いつもと変わらぬ友人の様子に舞奈はほっとする。
見た目も中身も幼女のクセに、チャビーは惚れた腫れたの話が大好きだ。
気になる男子の追っかけをするのもこれが初めてではない。
舞奈の不安はひとまず杞憂だったようだ。
「……舞花が追いかけてるのって、女バスの先輩じゃなかったか?」
安堵を悟られぬように軽薄に笑い、
「チャビーの奴も節操ないな」
やれやれと肩をすくめる。
まあ舞奈も人のことは言えないのだが。
そんな舞奈を見やって園香も笑う。
そして――
「――!?」
舞奈は園香を抱えて横に跳んだ。
その残像を引き裂くように、すごいスピードで巨大な何かが通り過ぎた。
後から軽四輪が走ってきたのだ。
明らかに舞奈と園香の命を狙っていた。
「……え?」
道の端で舞奈の上に庇われて、園香は驚きの声をあげる。
「マイちゃん!? だいじょうぶ!?」
園香の顔面が蒼白になる。
轢かれかけたことに気づいたか。
だが舞奈はニヤリと笑う。
「へへっ。今度は袋、無事だったぞ」
園香の下敷きになったまま両手を上げる。
手には園香と舞奈のビニール袋。
舞奈は跳びながら体勢を入れ替えて園香を庇い、スーパーの袋も守っていた。
この程度の生命の危機は日常茶飯事だ。
それに先日もモヤシをお釈迦にしたばかりだ。気をつけるくらいはする。
「ったく。最近の教本にほ、車を買ったら子供を轢けとでも書いてあるのか?」
舞奈は毒づきながらも一挙動で立ち上がる。
そして不安げな園香を元気づけるように笑いかける。
軽四輪が走り去った方向を見やる。
幸いにも人気のない路地を蛇行しながら、大通りの方向へ走る。
「……酔っ払いか?」
舞奈はそれが、以前にテックがしていたレースゲームで通行人をひき殺すミッションに挑んでいたときの動きに似ていると思った。
「……あ、止まった」
止まったようだ。
大通りの電柱にぶつかったらしい。
ドアが開いて人が出てきた。
「やれやれ、ちょっと厄介ごとになりそうだな」
舞奈は肩をすくめてひとりごちる。
出てきたのは野球のユニフォームを着こんだ、くわえ煙草の団塊男だ。
最近の教本は関係なさそうだ。
男はベルトに刃物のようなものを何本も差して、手には金属バット。
何よりヤニで濁った双眸に滲む殺意。
「スマン園香、モヤシを頼む。あとそこらへんの物陰に隠れててくれ」
「え? 舞奈ちゃん、何するの?」
何気ない感じで袋を手渡し、歩き出す。
園香は知らないが、喫煙者――贄虫は邪悪で身勝手な人間型の怪異だ。
そんな害虫が、金属バットや刃物を使って何をするつもりなのかは明確だ。
任務も依頼も受けていない今の舞奈に止める義務はないが、見て見ぬふりをするのも後味が悪い。
「ちょっと止めてくる。すぐに済ませてくるよ」
「う、うん。気をつけてね……」
園香は舞奈の裏の顔など知らないが、他人の感情の機微には敏感な方だ。
舞奈が何をしようとしているのかを察し、コンクリート塀の陰に隠れてくれた。
……脂虫や異能がらみの厄介ごとに何度も巻きこんだせいで、荒事にちょっと慣れてしまったのかもしれない。
幸いにも大通りにも人通りはない。
この時間にしては不自然な気がしたが、舞奈としては好都合だ。
殺る気まんまんの男は不満だろうが被害者を出さずに片づけられる。
懐の拳銃を意識したが、撃つほどの相手ではない。
代わりに小石を拾って投げる。
石は男の頬をかすめ、車のフロントガラスに当たる。
手近な店に押し入ろうとしていた男は舞奈に気づいたようだ。
わけのわからない何かをわめきながら、舞奈めがけて走ってくる。
最初の犠牲者を通りすがりの女子小学生に決めたらしい。
「殺してやる! 俺の人生を、水素水を奪った世の中を、幸せそうな奴らをみんなぶち殺してやる! おめぇもだ!!」
男は叫ぶ。
電柱の陰に隠れた園香が息を飲む。
舞奈は笑う。
服装でもしやと思っていたら、やはり水素水――違法薬物の中毒者だった。
「へえ、あたしがあんたの人生を奪うって、良く気づいたな」
違法薬物に手を出す類の人間は、まず表向きには合法な煙草を摂取して人間であることを止める。舞奈はそういう輩を退治する専門家だ。だから笑う。
だが次の瞬間、
「……ん、どうした?」
男は急に立ち止まり、明後日の方向に金属バットを振り回しはじめた。
「ヤニか麻薬が、とうとう脳に回ったか?」
舞奈も思わず首をかしげる。
「あ、舞奈さーん!」
大通りから頼りなげな眼鏡の女子高生が走ってきた。
「奈良坂さんじゃないか。……ひょっとして、これやったのあんたか?」
「えへへへ、わかりますか?」
奈良坂は柄にもなく自慢げに笑って見せる。
「奪いやがって! 俺から何もかも奪いやがって!!」
舞奈が指さす男の背には、1枚の符が貼りついていた。
即ち【摩利支天神鞭法】。
摩利支天の咒を唱え、対象を透明化のフィールドで裏向に覆う妖術だ。
この術にかかった対象からは、周囲の存在すべてが【偏光隠蔽】を使って透明化したように見える。その結果、目前の男のように実質的に無力化される。
長い人生で、人は何かを無くしたりしないと舞奈は思う。見えなくなるだけだ。
それはともかく、大通りに人気がなかった理由も奈良坂だろう。
仏術には大威徳明王の咒による人払いの術が存在する。
脂虫と違って人格を持つ市井の人々を生半可な術で操ることはできないが、明日行ける店には明日行こうと思わせる程度のことはできる。
そんな地味な術を使い、市民が事件に巻きこまれぬよう人払いしたのだ。
正直なところ粗忽な奈良坂には子供のお使いのように詳細な指示がなされているはずだが、彼女の言われた事を言われた通りにこなす才能はちょっとしたものだ。
男はパニックに陥って叫びながら金属バットを振り回す。
素振りの勢いもスタミナも並の成人男性の基準を遥かに超える。
取扱店が焼けて水素水が手に入らなくなったので自棄になり、最後の水素水を摂取して凶行に及んだのだろう。
そういえば技術担当官《マイスター》が折を見て彼らを根絶やしたいと言っていた。
だが【機関】もいろいろと忙しいのだろう。
「実は諜報部の占術士が通り魔事件の発生を予言しまして、偶然わたしが近くにいまして、わたしが対処すれば被害者がゼロになると先ほど連絡がありまして……」
「あんたの部署には守秘義務とかないのか」
奈良坂は聞かれてもいない事情をぺらぺらと喋る。
珍しく任務を完遂できたのがよほど嬉しいのか。
被害者とかとは別の意味で、通行人がいなくて幸運だ。
舞奈はやれやれと肩をすくめる。だが、
「……あの! 奈良坂さん後ろ!?」
塀の陰から園香が叫ぶ。
見やると男が奈良坂の背後に迫っていた。
でたらめに振り回された金属バットが、奈良坂の側頭部を捉える。
鈍い音。
フレームレスの眼鏡が宙を舞う。
吹き飛ばされた奈良坂は壁に叩きつけられる。
野暮ったいセミロングの頭がコンクリート壁をえぐる。
「奈良坂さん!? ……マイちゃん!?」
園香が叫ぶ。
かかっていた【摩利支天神鞭法】が解けたのだろう、男は舞奈を見つけて叫ぶ。
金属バットを振りかざし、舞奈めがけて走り来る。
「――野郎!?」
奈良坂の危機に気づけなかった悔恨に、舞奈の怒りが沸騰する。
自分からも距離を詰め、男の土手っ腹に撃鉄のような蹴りを叩きこむ。
大柄な男の身体がくの字に折れ曲がる。
だが舞奈の打撃は終わらない。
ヤニと麻薬で歪んだ側頭を蹴って反対側の壁に叩きつける。
鍛え抜かれた舞奈の蹴りは、違法薬物で強化された男より強い。
甲高い音をたてて、金属バットが地を転がる。
男は崩れ落ちたまま動かない。
火がついたまま指の間に挟まれた煙草を、舞奈は指ごと踏みつぶす。
「奈良坂さん、無事か!?」
舞奈は奈良坂に走り寄る。
「は、はひっ、わたしはなんとか……」
気の抜けた返事が当たり前のように聞こえて、思わずつんのめった。
(術で身を守ったのか……)
仏術士は強力な身体強化の妖術を誇る。
執行人としては最底辺だが術者としてはそれなりに優秀な奈良坂は、とっさ二段重ねの付与魔法を発動させて身を守ったのだろう。
そうでなければ壁の方ががえぐれるわけがない。
現に男が叩きつけられた方の壁は、体液がべったりついてるが割れてはいない。
「でも眼鏡が……。メガネ、メガネ……」
「こっちに落ちてたよ」
自身の額をペタペタ触る奈良坂に苦笑しつつ、眼鏡を差し出す。
「奈良坂さん、あの、救急車を……!!」
「あ、園香さん、大丈夫ですよ」
奈良坂は園香を安心させるように笑いかける。
だが園香は奈良坂を不安げに見やる。
心優しい園香は、幾度となく庇ってくれた恩人がまた殴られたのが心配なのだ。
「ま、検査は受けたほうが良いだろ。規定通りに」
「そっか、それもそうですね」
舞奈の言葉に奈良坂はうなずく。
何かと人員の損耗の多い【機関】だが、福利厚生は意外にも充実している。
付与魔法や身体強化系の異能力を常用する執行人には一定期間毎の、あるいは異能に頼って命を繋いだ後の身体検査を義務づけている。
術や異能の成否は本人の要領次第で、それらが不完全な効果しか発揮していなければ身体に後遺症が残るかもしれないからだ。
もちろん経費は【機関】持ちである。
「じゃ、近くの市民病院に行くか。スマン、園香もついて来てもらっていいか?」
「あ、いえ、そこまで大層なことでは……」
あわてる奈良坂に構わず、園香は袋をひとつ舞奈に手渡し、奈良坂の手をとる。
だが、不安げな視線が動かない男に向かう。
「ああ、あっちはすぐに迎えが来るはずだ。心配ないよ」
舞奈は園香に笑いかける。
奈良坂が男を止めるよう指示を受けていたということは、彼を迎えに来るのは警察や救急ではなく【機関】だ。
彼は脂虫なのだから、それ自体は妥当だ。
だが【機関】は表向きは保健所の一部門なので、迎えに来るのは回収車だ。
同様に表向きは人間ということになっている脂虫を、園香の目の前で保健所の回収車に放りこむのは如何なものかと思う。
それに、世話好きな園香は頼られるのが好きだ。
そのことを、付き合いの長い舞奈は知っている。なので、
「それじゃあ、園香はそっちを頼む」
「うん、マイちゃん」
「そんな、ひとりで歩けますよぉ」
舞奈と園香は、あわあわ言ってる奈良坂を挟んで市民病院に向かう。
女好きな舞奈と世話好きな園香は、たぶん、間に他の女の子を挟んでいた方が自然に笑い合える。
そうやって、2人は奈良坂を病院まで送り届けた。
奈良坂は急患の扱いで検査を受けることになった。
園香は夕食の時間が迫っているので、先に帰ることになった。
夕食を作っているのが園香だからだ。
検査の結果は明日の学校で伝えることになった。
そして舞奈は園香を家まで送り、病院に戻ってきた。
「あ、舞奈さん。お待たせしてすいません」
通常の診療時間が終わったせいか人気のない廊下の椅子に腰かけて手持無沙汰にしていると、検査室から奈良坂が出てきた。
「いいってことよ。それより結果はどうだった?」
意識してフランクに問いかける舞奈だが、奈良坂の表情はうかない。
「……何かあったのか?」
「はい、視力の検査で……」
奈良坂は言い淀む。
舞奈は急かさず、だが視線で先をうながす。
表情がこわばらないよう意識する。
殴られたのは頭のはずだが、視力に何らかの影響が出たのだろうか。
「……例によって右と左を全部間違えちゃいまして」
「何言ってるんだ? あんた」
「いえその、わたしと看護婦さんと、どっちから見て右なんだろうって、いつも迷っちゃうんですよ。舞奈さんはそういうことないですか?」
奈良坂はしょげかえる。
「……頭とかは大丈夫だったのか?」
「はい、異常はないそうです」
「そりゃよかった」
やれやれと口元を緩める。
脱力と、そして安堵の笑みだ。
それを誤魔化し損ねて、相手が奈良坂なら別にいいやと思いなおす。
「……あ、でも眼鏡のフレームが歪んじゃいました」
「技術部に、強化眼鏡とか作ってもらった方がよくないか?」
落ち着かなげに眼鏡をいじる奈良坂を見やって苦笑する。
奈良坂の眼鏡はフレームレスで、耐久性に優れているとは言い難い。
「そうしたいのはやまやまなんですけど、今、ちょっとごたごたしてまして」
「また厄介ごとか?」
「えーっと、そういうのとはちょっと違うんですが……」
奈良坂は言葉を整理するように瞳を彷徨わせる。
そんな表情を、舞奈はとりたてて興味もなさそうに見やる。
別に【機関】が慌ただしいのはいつものことだ。
ある意味、そのための組織なのだから。
そして内部で収拾がつかなければ嫌でも舞奈に話が来る。
だが奈良坂が何食わぬ顔で話した内容は、舞奈の想像外のことだった。
「諜報部の【思兼】が引っ越すことになったんですよ」
「【思兼】って……サチさんが、引っ越し?」
「ええ、なんでも上から急な指示があったみたいなんです。だから諜報部の業務が滞ってるし、他の部署にもしわ寄せがきてて……」
それは今回の事件の収拾に奈良坂が単体で送りこまれた理由でもあるのだろう。
だが、その事実は舞奈にとって、それ以上の意味を持っていた。
「サチさんが……引っ越すのか……」
舞奈は驚愕を悟られぬよう視線を伏せながら、ひとりごちた。
「ふふ、マイちゃんったら」
舞奈の軽口に、園香が笑う。
2人は仲良く並んで、商店街近くの小道を歩いていた。
スーパーのタイムセールでモヤシを買い漁っている途中で、夕食の買い出しをしていた彼女とばったり出くわしたのだ。
郵便ポストの上で、讃原町で見かけるシャムの野良猫が丸くなって寝ている。
空がよく晴れた平日の夕方は、絶好の買い物日和だ。
舞奈と園香は生まれも育ちも何もかも正反対だ。
だが日常的に料理をするという意外な共通点がある。塩コショウをふっただけのモヤシ炒めと、プロ顔負けの家庭料理という違いはあるが。
そんなことを考えながら、園香の尻をなんとなく撫でる。
「もうっ、マイちゃんったら」
園香はおどろき、顔を赤らめて微笑む。
身をよじった拍子に、ふくよかな胸がプルンと揺れる。
舞奈も笑う。
鋼鉄の如く引き締まった舞奈の手とは真逆に、園香の身体はどこもやわらかい。
舞奈はシスターの包みこむような抱擁を知っている。
けれどそれは、園香の大ぶりながら張りのある胸を否定する理由にはならない。
シスターの微笑みは無条件に甘えさせてくれる母親の笑みだけれど、園香のそれは対等な立場で向けあえる友人の笑みだ。
どちらも舞奈の大事な友人だ。
「そういや、チャビーの奴は元気か?」
何気に問う。
舞奈は別にゴシップが好きなわけではない。園香もだ。
だが2人の間に共通の趣味とかはなく、舞奈は女の子が好きで園香は世話好きだ。
なので自然に会話は共通の友人のことになる。
それに先日に教会で見たチャビーの様子が、少し気になったのは事実だ。だが、
「チャビーちゃんは中等部のバスケの試合の応援に行ってるよ。舞花ちゃんが応援してる選手さんを、いっしょに応援するんだって」
家の近い小さな親友の近状を、園香は楽しげに語る。
いつもと変わらぬ友人の様子に舞奈はほっとする。
見た目も中身も幼女のクセに、チャビーは惚れた腫れたの話が大好きだ。
気になる男子の追っかけをするのもこれが初めてではない。
舞奈の不安はひとまず杞憂だったようだ。
「……舞花が追いかけてるのって、女バスの先輩じゃなかったか?」
安堵を悟られぬように軽薄に笑い、
「チャビーの奴も節操ないな」
やれやれと肩をすくめる。
まあ舞奈も人のことは言えないのだが。
そんな舞奈を見やって園香も笑う。
そして――
「――!?」
舞奈は園香を抱えて横に跳んだ。
その残像を引き裂くように、すごいスピードで巨大な何かが通り過ぎた。
後から軽四輪が走ってきたのだ。
明らかに舞奈と園香の命を狙っていた。
「……え?」
道の端で舞奈の上に庇われて、園香は驚きの声をあげる。
「マイちゃん!? だいじょうぶ!?」
園香の顔面が蒼白になる。
轢かれかけたことに気づいたか。
だが舞奈はニヤリと笑う。
「へへっ。今度は袋、無事だったぞ」
園香の下敷きになったまま両手を上げる。
手には園香と舞奈のビニール袋。
舞奈は跳びながら体勢を入れ替えて園香を庇い、スーパーの袋も守っていた。
この程度の生命の危機は日常茶飯事だ。
それに先日もモヤシをお釈迦にしたばかりだ。気をつけるくらいはする。
「ったく。最近の教本にほ、車を買ったら子供を轢けとでも書いてあるのか?」
舞奈は毒づきながらも一挙動で立ち上がる。
そして不安げな園香を元気づけるように笑いかける。
軽四輪が走り去った方向を見やる。
幸いにも人気のない路地を蛇行しながら、大通りの方向へ走る。
「……酔っ払いか?」
舞奈はそれが、以前にテックがしていたレースゲームで通行人をひき殺すミッションに挑んでいたときの動きに似ていると思った。
「……あ、止まった」
止まったようだ。
大通りの電柱にぶつかったらしい。
ドアが開いて人が出てきた。
「やれやれ、ちょっと厄介ごとになりそうだな」
舞奈は肩をすくめてひとりごちる。
出てきたのは野球のユニフォームを着こんだ、くわえ煙草の団塊男だ。
最近の教本は関係なさそうだ。
男はベルトに刃物のようなものを何本も差して、手には金属バット。
何よりヤニで濁った双眸に滲む殺意。
「スマン園香、モヤシを頼む。あとそこらへんの物陰に隠れててくれ」
「え? 舞奈ちゃん、何するの?」
何気ない感じで袋を手渡し、歩き出す。
園香は知らないが、喫煙者――贄虫は邪悪で身勝手な人間型の怪異だ。
そんな害虫が、金属バットや刃物を使って何をするつもりなのかは明確だ。
任務も依頼も受けていない今の舞奈に止める義務はないが、見て見ぬふりをするのも後味が悪い。
「ちょっと止めてくる。すぐに済ませてくるよ」
「う、うん。気をつけてね……」
園香は舞奈の裏の顔など知らないが、他人の感情の機微には敏感な方だ。
舞奈が何をしようとしているのかを察し、コンクリート塀の陰に隠れてくれた。
……脂虫や異能がらみの厄介ごとに何度も巻きこんだせいで、荒事にちょっと慣れてしまったのかもしれない。
幸いにも大通りにも人通りはない。
この時間にしては不自然な気がしたが、舞奈としては好都合だ。
殺る気まんまんの男は不満だろうが被害者を出さずに片づけられる。
懐の拳銃を意識したが、撃つほどの相手ではない。
代わりに小石を拾って投げる。
石は男の頬をかすめ、車のフロントガラスに当たる。
手近な店に押し入ろうとしていた男は舞奈に気づいたようだ。
わけのわからない何かをわめきながら、舞奈めがけて走ってくる。
最初の犠牲者を通りすがりの女子小学生に決めたらしい。
「殺してやる! 俺の人生を、水素水を奪った世の中を、幸せそうな奴らをみんなぶち殺してやる! おめぇもだ!!」
男は叫ぶ。
電柱の陰に隠れた園香が息を飲む。
舞奈は笑う。
服装でもしやと思っていたら、やはり水素水――違法薬物の中毒者だった。
「へえ、あたしがあんたの人生を奪うって、良く気づいたな」
違法薬物に手を出す類の人間は、まず表向きには合法な煙草を摂取して人間であることを止める。舞奈はそういう輩を退治する専門家だ。だから笑う。
だが次の瞬間、
「……ん、どうした?」
男は急に立ち止まり、明後日の方向に金属バットを振り回しはじめた。
「ヤニか麻薬が、とうとう脳に回ったか?」
舞奈も思わず首をかしげる。
「あ、舞奈さーん!」
大通りから頼りなげな眼鏡の女子高生が走ってきた。
「奈良坂さんじゃないか。……ひょっとして、これやったのあんたか?」
「えへへへ、わかりますか?」
奈良坂は柄にもなく自慢げに笑って見せる。
「奪いやがって! 俺から何もかも奪いやがって!!」
舞奈が指さす男の背には、1枚の符が貼りついていた。
即ち【摩利支天神鞭法】。
摩利支天の咒を唱え、対象を透明化のフィールドで裏向に覆う妖術だ。
この術にかかった対象からは、周囲の存在すべてが【偏光隠蔽】を使って透明化したように見える。その結果、目前の男のように実質的に無力化される。
長い人生で、人は何かを無くしたりしないと舞奈は思う。見えなくなるだけだ。
それはともかく、大通りに人気がなかった理由も奈良坂だろう。
仏術には大威徳明王の咒による人払いの術が存在する。
脂虫と違って人格を持つ市井の人々を生半可な術で操ることはできないが、明日行ける店には明日行こうと思わせる程度のことはできる。
そんな地味な術を使い、市民が事件に巻きこまれぬよう人払いしたのだ。
正直なところ粗忽な奈良坂には子供のお使いのように詳細な指示がなされているはずだが、彼女の言われた事を言われた通りにこなす才能はちょっとしたものだ。
男はパニックに陥って叫びながら金属バットを振り回す。
素振りの勢いもスタミナも並の成人男性の基準を遥かに超える。
取扱店が焼けて水素水が手に入らなくなったので自棄になり、最後の水素水を摂取して凶行に及んだのだろう。
そういえば技術担当官《マイスター》が折を見て彼らを根絶やしたいと言っていた。
だが【機関】もいろいろと忙しいのだろう。
「実は諜報部の占術士が通り魔事件の発生を予言しまして、偶然わたしが近くにいまして、わたしが対処すれば被害者がゼロになると先ほど連絡がありまして……」
「あんたの部署には守秘義務とかないのか」
奈良坂は聞かれてもいない事情をぺらぺらと喋る。
珍しく任務を完遂できたのがよほど嬉しいのか。
被害者とかとは別の意味で、通行人がいなくて幸運だ。
舞奈はやれやれと肩をすくめる。だが、
「……あの! 奈良坂さん後ろ!?」
塀の陰から園香が叫ぶ。
見やると男が奈良坂の背後に迫っていた。
でたらめに振り回された金属バットが、奈良坂の側頭部を捉える。
鈍い音。
フレームレスの眼鏡が宙を舞う。
吹き飛ばされた奈良坂は壁に叩きつけられる。
野暮ったいセミロングの頭がコンクリート壁をえぐる。
「奈良坂さん!? ……マイちゃん!?」
園香が叫ぶ。
かかっていた【摩利支天神鞭法】が解けたのだろう、男は舞奈を見つけて叫ぶ。
金属バットを振りかざし、舞奈めがけて走り来る。
「――野郎!?」
奈良坂の危機に気づけなかった悔恨に、舞奈の怒りが沸騰する。
自分からも距離を詰め、男の土手っ腹に撃鉄のような蹴りを叩きこむ。
大柄な男の身体がくの字に折れ曲がる。
だが舞奈の打撃は終わらない。
ヤニと麻薬で歪んだ側頭を蹴って反対側の壁に叩きつける。
鍛え抜かれた舞奈の蹴りは、違法薬物で強化された男より強い。
甲高い音をたてて、金属バットが地を転がる。
男は崩れ落ちたまま動かない。
火がついたまま指の間に挟まれた煙草を、舞奈は指ごと踏みつぶす。
「奈良坂さん、無事か!?」
舞奈は奈良坂に走り寄る。
「は、はひっ、わたしはなんとか……」
気の抜けた返事が当たり前のように聞こえて、思わずつんのめった。
(術で身を守ったのか……)
仏術士は強力な身体強化の妖術を誇る。
執行人としては最底辺だが術者としてはそれなりに優秀な奈良坂は、とっさ二段重ねの付与魔法を発動させて身を守ったのだろう。
そうでなければ壁の方ががえぐれるわけがない。
現に男が叩きつけられた方の壁は、体液がべったりついてるが割れてはいない。
「でも眼鏡が……。メガネ、メガネ……」
「こっちに落ちてたよ」
自身の額をペタペタ触る奈良坂に苦笑しつつ、眼鏡を差し出す。
「奈良坂さん、あの、救急車を……!!」
「あ、園香さん、大丈夫ですよ」
奈良坂は園香を安心させるように笑いかける。
だが園香は奈良坂を不安げに見やる。
心優しい園香は、幾度となく庇ってくれた恩人がまた殴られたのが心配なのだ。
「ま、検査は受けたほうが良いだろ。規定通りに」
「そっか、それもそうですね」
舞奈の言葉に奈良坂はうなずく。
何かと人員の損耗の多い【機関】だが、福利厚生は意外にも充実している。
付与魔法や身体強化系の異能力を常用する執行人には一定期間毎の、あるいは異能に頼って命を繋いだ後の身体検査を義務づけている。
術や異能の成否は本人の要領次第で、それらが不完全な効果しか発揮していなければ身体に後遺症が残るかもしれないからだ。
もちろん経費は【機関】持ちである。
「じゃ、近くの市民病院に行くか。スマン、園香もついて来てもらっていいか?」
「あ、いえ、そこまで大層なことでは……」
あわてる奈良坂に構わず、園香は袋をひとつ舞奈に手渡し、奈良坂の手をとる。
だが、不安げな視線が動かない男に向かう。
「ああ、あっちはすぐに迎えが来るはずだ。心配ないよ」
舞奈は園香に笑いかける。
奈良坂が男を止めるよう指示を受けていたということは、彼を迎えに来るのは警察や救急ではなく【機関】だ。
彼は脂虫なのだから、それ自体は妥当だ。
だが【機関】は表向きは保健所の一部門なので、迎えに来るのは回収車だ。
同様に表向きは人間ということになっている脂虫を、園香の目の前で保健所の回収車に放りこむのは如何なものかと思う。
それに、世話好きな園香は頼られるのが好きだ。
そのことを、付き合いの長い舞奈は知っている。なので、
「それじゃあ、園香はそっちを頼む」
「うん、マイちゃん」
「そんな、ひとりで歩けますよぉ」
舞奈と園香は、あわあわ言ってる奈良坂を挟んで市民病院に向かう。
女好きな舞奈と世話好きな園香は、たぶん、間に他の女の子を挟んでいた方が自然に笑い合える。
そうやって、2人は奈良坂を病院まで送り届けた。
奈良坂は急患の扱いで検査を受けることになった。
園香は夕食の時間が迫っているので、先に帰ることになった。
夕食を作っているのが園香だからだ。
検査の結果は明日の学校で伝えることになった。
そして舞奈は園香を家まで送り、病院に戻ってきた。
「あ、舞奈さん。お待たせしてすいません」
通常の診療時間が終わったせいか人気のない廊下の椅子に腰かけて手持無沙汰にしていると、検査室から奈良坂が出てきた。
「いいってことよ。それより結果はどうだった?」
意識してフランクに問いかける舞奈だが、奈良坂の表情はうかない。
「……何かあったのか?」
「はい、視力の検査で……」
奈良坂は言い淀む。
舞奈は急かさず、だが視線で先をうながす。
表情がこわばらないよう意識する。
殴られたのは頭のはずだが、視力に何らかの影響が出たのだろうか。
「……例によって右と左を全部間違えちゃいまして」
「何言ってるんだ? あんた」
「いえその、わたしと看護婦さんと、どっちから見て右なんだろうって、いつも迷っちゃうんですよ。舞奈さんはそういうことないですか?」
奈良坂はしょげかえる。
「……頭とかは大丈夫だったのか?」
「はい、異常はないそうです」
「そりゃよかった」
やれやれと口元を緩める。
脱力と、そして安堵の笑みだ。
それを誤魔化し損ねて、相手が奈良坂なら別にいいやと思いなおす。
「……あ、でも眼鏡のフレームが歪んじゃいました」
「技術部に、強化眼鏡とか作ってもらった方がよくないか?」
落ち着かなげに眼鏡をいじる奈良坂を見やって苦笑する。
奈良坂の眼鏡はフレームレスで、耐久性に優れているとは言い難い。
「そうしたいのはやまやまなんですけど、今、ちょっとごたごたしてまして」
「また厄介ごとか?」
「えーっと、そういうのとはちょっと違うんですが……」
奈良坂は言葉を整理するように瞳を彷徨わせる。
そんな表情を、舞奈はとりたてて興味もなさそうに見やる。
別に【機関】が慌ただしいのはいつものことだ。
ある意味、そのための組織なのだから。
そして内部で収拾がつかなければ嫌でも舞奈に話が来る。
だが奈良坂が何食わぬ顔で話した内容は、舞奈の想像外のことだった。
「諜報部の【思兼】が引っ越すことになったんですよ」
「【思兼】って……サチさんが、引っ越し?」
「ええ、なんでも上から急な指示があったみたいなんです。だから諜報部の業務が滞ってるし、他の部署にもしわ寄せがきてて……」
それは今回の事件の収拾に奈良坂が単体で送りこまれた理由でもあるのだろう。
だが、その事実は舞奈にとって、それ以上の意味を持っていた。
「サチさんが……引っ越すのか……」
舞奈は驚愕を悟られぬよう視線を伏せながら、ひとりごちた。
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