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26:名門の落ちこぼれ
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ガルディア王国。
王都の北――白壁の丘にそびえる館、ミルドレッド家。
代々、王国最強の魔導士を輩出してきた名門であり、その屋敷には夜でも魔力の灯が絶えることがなかった。
十歳の少年、クラウス=ミルドレッドは、その広すぎる屋敷の片隅にいた。
机の上には分厚い魔導書と羽ペン。ランプの明かりの下、彼はひたすら数式を書き連ねていた。
「魔力の流れは……感情よりも理論で制御できるはず。
詠唱に頼らず、思考だけで発動できれば……きっと――!」
声は震えていた。
だが、その瞳には炎のような光が宿っている。
兄たちが訓練場で剣を振るう音が、窓の外から響いてくる。
クラウスはその音を聞かぬふりをして、ペンを走らせた。
火球を放てば、屋敷が焦げる。だから、彼は理論だけで戦う方法を探していた。
――剣は怖い。血が怖い。
――でも、魔法なら人を傷つけずに済むかもしれない。
それが、幼い彼の唯一の希望だった。
◇
翌朝
訓練場。
朝露が光る石畳の上で、兄のシグルドが木剣を肩に担ぎ、待っていた。
「おい、クラウス。父上が呼んでるぞ。今日こそ“火球”の訓練だ」
クラウスは小さく息をのむ。
「ぼ、僕は……魔力理論のほうを……」
「いい加減にしろ。いつまでお前は“机の上の天才”気取りなんだよ」
周囲の訓練生たちがくすくすと笑った。
クラウスの足が、地面に貼りついたように動かない。
心臓が暴れ、手のひらが汗で湿る。
「……クラウス」
低く、響く声。
振り返れば、父のヴォルフガングが立っていた。
白い髭に、背筋は真っすぐ。だがその目には、どこか“理想の型”しか見ていない硬さがあった。
「我が家に生まれながら、まだ“実戦魔法”を一つも会得していないと聞くが――まさか、本当なのか?」
クラウスが小さくうなずくと、父の眉がわずかに動く。
「……ふむ。理論だの理屈だのと、紙の上で遊んでいるうちに、肝心の“恐れ”を克服する機会を逃したわけだな」
杖の石突きを地に打ちつけながら、ヴォルフガングは続ける。
「魔法は“恐れ”を断ち切ってこそ完成する。
魔力は剣と同じだ。血の匂いを知らねば、刃は鈍る」
彼は一歩前に出て、訓練場の中央に杖を向けた。
炎が走り、小型のゴブリンが召喚される。
「これを倒せ。……安心しろ、傷一つで済む相手ではない。だが、魔導士を名乗るならこの程度、踏み越えてみせろ」
クラウスが震えるのを見て、父の唇がわずかに歪む。
それは嘲りでも、哀れみでもない。
ただ“失望”を形にしたような、冷たい笑みだった。
ゴブリンの濁った目が、クラウスを真っすぐに見据えた。
息が止まり、膝が震える。
――動け。
――詠唱を。早く。
脳が命じるのに、体が拒む。
唇が震え、声が裏返る。
「ひっ……!」
その瞬間、ゴブリンが跳ねた。
目の前まで迫る影。
だが、斬撃の音が先に響いた。
兄のシグルドが前に出て、一刀で斬り払っていた。
緑の血が地に散り、黒い染みを作る。
「……また逃げたか、クラウス」
ゴブリンが斬られたあと、静寂の中でヴォルフガングが言った。
「……やはり、か。」
短い息を吐き、視線を逸らす。
「我が家に“臆病者”を置くつもりはない。クラウス……出ていけ。お前にミルドレッドの名を背負う資格はない」
クラウスが何か言いかける。
だが、父はもう背を向けていた。
「言い訳はするな。理論が好きなら、それで食っていけ。
“戦場に立てぬ者”が、魔導士を名乗るな」
クラウスは立ち尽くした。
目の前が暗くなり、足元の影が震えて見えた。
兄たちは冷たい視線を向け、誰も彼を止めなかった。
その夜、雨が降った。
屋敷の門が閉ざされる音が、心に刺さる。
荷物を抱えた少年は、冷たい雨の中を歩き出した。
窓の奥で、母が見ていた。
だが声は出なかった。
「家の掟」が、母の唇を縫い止めていた。
――僕は、いらない子なんだ。
少年の呟きは雨に消え、闇へと溶けていった。
◇
数年後。
クラウス=ミルドレッドは、冒険者になっていた。
だが、戦いの才能はなかった。
依頼掲示板の中で、彼が選ぶのはいつも「薬草採取」「荷物運搬」「キノコ回収」。
どれもFランク任務ばかり。
あまりに長いFランク生活。
いつしか彼は、ある意味で“有名人”になっていた。
ギルドの裏手で、若い冒険者たちが笑う。
「あのデブ、また薬草採ってるぜ」
「名門の落ちこぼれが草むしりとか、笑えるな」
「“机上の天才”クラウス様、ご登場~!」
笑い声が風に混じる。
クラウスは肩をすくめ、小さく息を吐いた。
反論はしなかった。
彼らの言葉が“事実”だから。
夜、宿の机にランプを灯す。
擦り切れたノートを開き、羽ペンを握る。
「魔法理論メモ#94――恐怖と魔力の関係性」
ペン先が走る。だが途中で止まる。
恐怖を克服する方法を書こうとして、言葉が出なかった。
代わりに、小さく呟く。
「僕は……怖いんじゃない。
ただ……生きたいだけなんだ」
ランプの炎が揺れた。
その光の中で、彼の影は、ほんの少しだけ前を向いていた。
王都の北――白壁の丘にそびえる館、ミルドレッド家。
代々、王国最強の魔導士を輩出してきた名門であり、その屋敷には夜でも魔力の灯が絶えることがなかった。
十歳の少年、クラウス=ミルドレッドは、その広すぎる屋敷の片隅にいた。
机の上には分厚い魔導書と羽ペン。ランプの明かりの下、彼はひたすら数式を書き連ねていた。
「魔力の流れは……感情よりも理論で制御できるはず。
詠唱に頼らず、思考だけで発動できれば……きっと――!」
声は震えていた。
だが、その瞳には炎のような光が宿っている。
兄たちが訓練場で剣を振るう音が、窓の外から響いてくる。
クラウスはその音を聞かぬふりをして、ペンを走らせた。
火球を放てば、屋敷が焦げる。だから、彼は理論だけで戦う方法を探していた。
――剣は怖い。血が怖い。
――でも、魔法なら人を傷つけずに済むかもしれない。
それが、幼い彼の唯一の希望だった。
◇
翌朝
訓練場。
朝露が光る石畳の上で、兄のシグルドが木剣を肩に担ぎ、待っていた。
「おい、クラウス。父上が呼んでるぞ。今日こそ“火球”の訓練だ」
クラウスは小さく息をのむ。
「ぼ、僕は……魔力理論のほうを……」
「いい加減にしろ。いつまでお前は“机の上の天才”気取りなんだよ」
周囲の訓練生たちがくすくすと笑った。
クラウスの足が、地面に貼りついたように動かない。
心臓が暴れ、手のひらが汗で湿る。
「……クラウス」
低く、響く声。
振り返れば、父のヴォルフガングが立っていた。
白い髭に、背筋は真っすぐ。だがその目には、どこか“理想の型”しか見ていない硬さがあった。
「我が家に生まれながら、まだ“実戦魔法”を一つも会得していないと聞くが――まさか、本当なのか?」
クラウスが小さくうなずくと、父の眉がわずかに動く。
「……ふむ。理論だの理屈だのと、紙の上で遊んでいるうちに、肝心の“恐れ”を克服する機会を逃したわけだな」
杖の石突きを地に打ちつけながら、ヴォルフガングは続ける。
「魔法は“恐れ”を断ち切ってこそ完成する。
魔力は剣と同じだ。血の匂いを知らねば、刃は鈍る」
彼は一歩前に出て、訓練場の中央に杖を向けた。
炎が走り、小型のゴブリンが召喚される。
「これを倒せ。……安心しろ、傷一つで済む相手ではない。だが、魔導士を名乗るならこの程度、踏み越えてみせろ」
クラウスが震えるのを見て、父の唇がわずかに歪む。
それは嘲りでも、哀れみでもない。
ただ“失望”を形にしたような、冷たい笑みだった。
ゴブリンの濁った目が、クラウスを真っすぐに見据えた。
息が止まり、膝が震える。
――動け。
――詠唱を。早く。
脳が命じるのに、体が拒む。
唇が震え、声が裏返る。
「ひっ……!」
その瞬間、ゴブリンが跳ねた。
目の前まで迫る影。
だが、斬撃の音が先に響いた。
兄のシグルドが前に出て、一刀で斬り払っていた。
緑の血が地に散り、黒い染みを作る。
「……また逃げたか、クラウス」
ゴブリンが斬られたあと、静寂の中でヴォルフガングが言った。
「……やはり、か。」
短い息を吐き、視線を逸らす。
「我が家に“臆病者”を置くつもりはない。クラウス……出ていけ。お前にミルドレッドの名を背負う資格はない」
クラウスが何か言いかける。
だが、父はもう背を向けていた。
「言い訳はするな。理論が好きなら、それで食っていけ。
“戦場に立てぬ者”が、魔導士を名乗るな」
クラウスは立ち尽くした。
目の前が暗くなり、足元の影が震えて見えた。
兄たちは冷たい視線を向け、誰も彼を止めなかった。
その夜、雨が降った。
屋敷の門が閉ざされる音が、心に刺さる。
荷物を抱えた少年は、冷たい雨の中を歩き出した。
窓の奥で、母が見ていた。
だが声は出なかった。
「家の掟」が、母の唇を縫い止めていた。
――僕は、いらない子なんだ。
少年の呟きは雨に消え、闇へと溶けていった。
◇
数年後。
クラウス=ミルドレッドは、冒険者になっていた。
だが、戦いの才能はなかった。
依頼掲示板の中で、彼が選ぶのはいつも「薬草採取」「荷物運搬」「キノコ回収」。
どれもFランク任務ばかり。
あまりに長いFランク生活。
いつしか彼は、ある意味で“有名人”になっていた。
ギルドの裏手で、若い冒険者たちが笑う。
「あのデブ、また薬草採ってるぜ」
「名門の落ちこぼれが草むしりとか、笑えるな」
「“机上の天才”クラウス様、ご登場~!」
笑い声が風に混じる。
クラウスは肩をすくめ、小さく息を吐いた。
反論はしなかった。
彼らの言葉が“事実”だから。
夜、宿の机にランプを灯す。
擦り切れたノートを開き、羽ペンを握る。
「魔法理論メモ#94――恐怖と魔力の関係性」
ペン先が走る。だが途中で止まる。
恐怖を克服する方法を書こうとして、言葉が出なかった。
代わりに、小さく呟く。
「僕は……怖いんじゃない。
ただ……生きたいだけなんだ」
ランプの炎が揺れた。
その光の中で、彼の影は、ほんの少しだけ前を向いていた。
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