勇者、チー牛

２９：朝靄の足跡

薄い霧が森を包み、湿った空気が肌にまとわりつく。
木々の葉から、昨夜の露がぽとり、ぽとりと落ちていた。

凰翔は、昨夜使った丼を洗いながら、ふとため息をついた。

牛丼はスキルで瞬時に作れるが、丼だけは勝手に増えてしまう。
使い道はよくわからないが、一応洗ってストックしておくしかない。

「……まあ、いつか役に立つだろう」

湯気がゆらりと立ち、森の冷たい空気にほのかな温かさを広げる。
隣ではギンが座り、尻尾で小さく地面を叩いた。
「ワフッ！」

凰翔はストック用の丼を整えながら、昨日来た少年のことを思い返す。

――あの子。
ぎこちない声で「ごちそうさま」と言った姿。
目は緊張していたけれど、まっすぐで、どこか真剣だった。

「また来るかな……」
小さく呟いた声が、湯気の中で消えていく。

ギンが首をかしげる。
「ワフ？」
「ん？　いや、独り言だ」


森は静かだった。
けれど、耳を澄ませば小さな音がいくつも重なっている。

鳥のさえずり。木々の軋み。遠くの沢のせせらぎ。
――世界がちゃんと動いている音。

「ギン、薪がもう少ないな。拾ってこよう」
「ワフッ！」
元気よく立ち上がるギン。

凰翔は肩の荷を軽くして森の奥へ歩き出す。
朝の光が差し込み、緑の葉がきらきらと輝く。
その光の中、ふと足を止める。

土の上に、小さな足跡が残っていた。
――昨日、屋台に来たあの少年のもの。


風が吹き、屋台の葉がふわりと揺れた。
森の奥で、焚き火の煙が細く伸びていく。
今日も、異世界の片隅に小さな牛丼屋がひっそりと息づいていた。