57 / 70
57:変な店と、忘れられない味
しおりを挟む
昼の森は、ひどく静かだった。
人の気配はなく、聞こえるのは風が葉を揺らす音と、木々が擦れ合う乾いたざわめきだけ。
道から少し外れた場所に、簡素な小屋がある。
葉と枝を組み合わせただけの即席の建物で、看板らしき板は掛かっているが、そこに書かれた文字は、この世界の者にはほとんど意味を成さない。
『牛丼屋』
その言葉を知らなければ、ここが食事処だとはまず思わないだろう。
凰翔は、粗末なカウンターの内側に立っていた。
奥には、葉を何枚も重ねて作った仕切りがある。
一見すれば調理場――そう思わせるための、ただの区切りだ。
実際に火は使わない。
鍋も包丁も、食材の山も存在しない。
ただ、仕切りの向こうへ入る。
それだけで、すべては終わる。
「……今日も、来ないかな」
独り言のように呟いた、その直後だった。
踏みしめる音。
落ち葉を踏む、慎重な足音が近づいてくる。
「こんな所に……店? ……なのか?」
旅装の男が、小屋の前で立ち止まった。
警戒する視線が、看板と凰翔を行き来する。
「はい。食事処です」
「……本当に? なにが食えるんだ?」
「チーズ牛丼です。かなり珍しい料理ですよ」
「牛丼……? チーズは分かるが」
「ご飯の上に、肉とチーズを載せた料理です」
「ほう。肉か。……まあ、腹に溜まるなら文句はない」
「はい。では、すぐに作りますね」
凰翔はそれだけ言って、葉の仕切りの奥へ入った。
――その瞬間。
ふわり、と。
甘く、香ばしい匂いが、風に乗って流れ出した。
焼いた肉の脂。
とろけるチーズの濃厚さ。
米の湯気が持つ、安心する香り。
男の腹が、小さく鳴った。
「……?」
思わず、鼻を鳴らす。
仕切りの向こうは見えない。
だが、確かに“料理している気配”だけは存在していた。
調理場では、ギンが静かに伏せている。
凰翔のスキルで作られた牛丼の匂いを、ギンの風魔法が、絶妙な加減で外へと送り出していた。
強すぎず、弱すぎず。
鼻腔をくすぐり、食欲だけを正確に刺激する流れ。
男は無意識のうちに、唾を飲み込んでいた。
やがて、凰翔が仕切りの向こうから戻ってくる。
手には、器がひとつ。
「お待たせしました。外に席があるので、ごゆっくりどうぞ」
白い米の上に盛られた、見慣れない料理。
照りのある肉から、湯気が静かに立ち上っている。
「……これが、チーズ牛丼?」
「はい!」
男は丼を持って外の席に移り、腰を下ろした。警戒を捨てきれないまま、匙を取る。
一口。
次の瞬間、男は動きを止めた。
「……うまいな」
それ以上、言葉はなかった。
ただ黙々と、匙を運び続ける。
食べ終えた頃、ようやく息をつく。
「変な店だが……腕は確かだ。いや、こんな美味いもの、中々ない」
そして、何気ない調子で尋ねた。
「これ、いくらなんだ?」
その言葉に、凰翔の動きが止まった。
(……あ)
今になって、ようやく気づく。
値段を、決めていなかった。
この世界の物価も、銀貨や銅貨の価値も、曖昧なままだ。
短い沈黙。
凰翔は、正直に口を開いた。
「……まだ、決めてないんです」
「は?」
「店を開いたばかりで……相場も、よく分からなくて」
一瞬、妙な空気が流れる。
だが男は、すぐに小さく笑った。
「本当に、変な店だな」
懐から銀貨を取り出し、指先で転がす。
「……この味と量なら、このくらいが妥当だ」
そう言って、カウンターに置いた。
正確な価値は分からない。
だが、軽すぎる音ではなかった。
凰翔は一瞬だけ迷い、そして頷く。
「……ありがとうございます」
男は満足そうに頷き、背を向ける。
「また来るかは分からん。だが……忘れはしない味だ」
そして森の中へ消えていった。
店に残ったのは、静けさと、かすかに漂う香りだけ。
ギンが銀貨を見上げ、首を傾げる。
カゲ丸が興味深そうに近づき、揺れた。
凰翔はそれを見下ろし、ぽつりと呟く。
「……これで、良かったのかな」
答える者はいない。
ただ、森の外れの小さな牛丼屋に、初めて代金が置かれた日だった。
人の気配はなく、聞こえるのは風が葉を揺らす音と、木々が擦れ合う乾いたざわめきだけ。
道から少し外れた場所に、簡素な小屋がある。
葉と枝を組み合わせただけの即席の建物で、看板らしき板は掛かっているが、そこに書かれた文字は、この世界の者にはほとんど意味を成さない。
『牛丼屋』
その言葉を知らなければ、ここが食事処だとはまず思わないだろう。
凰翔は、粗末なカウンターの内側に立っていた。
奥には、葉を何枚も重ねて作った仕切りがある。
一見すれば調理場――そう思わせるための、ただの区切りだ。
実際に火は使わない。
鍋も包丁も、食材の山も存在しない。
ただ、仕切りの向こうへ入る。
それだけで、すべては終わる。
「……今日も、来ないかな」
独り言のように呟いた、その直後だった。
踏みしめる音。
落ち葉を踏む、慎重な足音が近づいてくる。
「こんな所に……店? ……なのか?」
旅装の男が、小屋の前で立ち止まった。
警戒する視線が、看板と凰翔を行き来する。
「はい。食事処です」
「……本当に? なにが食えるんだ?」
「チーズ牛丼です。かなり珍しい料理ですよ」
「牛丼……? チーズは分かるが」
「ご飯の上に、肉とチーズを載せた料理です」
「ほう。肉か。……まあ、腹に溜まるなら文句はない」
「はい。では、すぐに作りますね」
凰翔はそれだけ言って、葉の仕切りの奥へ入った。
――その瞬間。
ふわり、と。
甘く、香ばしい匂いが、風に乗って流れ出した。
焼いた肉の脂。
とろけるチーズの濃厚さ。
米の湯気が持つ、安心する香り。
男の腹が、小さく鳴った。
「……?」
思わず、鼻を鳴らす。
仕切りの向こうは見えない。
だが、確かに“料理している気配”だけは存在していた。
調理場では、ギンが静かに伏せている。
凰翔のスキルで作られた牛丼の匂いを、ギンの風魔法が、絶妙な加減で外へと送り出していた。
強すぎず、弱すぎず。
鼻腔をくすぐり、食欲だけを正確に刺激する流れ。
男は無意識のうちに、唾を飲み込んでいた。
やがて、凰翔が仕切りの向こうから戻ってくる。
手には、器がひとつ。
「お待たせしました。外に席があるので、ごゆっくりどうぞ」
白い米の上に盛られた、見慣れない料理。
照りのある肉から、湯気が静かに立ち上っている。
「……これが、チーズ牛丼?」
「はい!」
男は丼を持って外の席に移り、腰を下ろした。警戒を捨てきれないまま、匙を取る。
一口。
次の瞬間、男は動きを止めた。
「……うまいな」
それ以上、言葉はなかった。
ただ黙々と、匙を運び続ける。
食べ終えた頃、ようやく息をつく。
「変な店だが……腕は確かだ。いや、こんな美味いもの、中々ない」
そして、何気ない調子で尋ねた。
「これ、いくらなんだ?」
その言葉に、凰翔の動きが止まった。
(……あ)
今になって、ようやく気づく。
値段を、決めていなかった。
この世界の物価も、銀貨や銅貨の価値も、曖昧なままだ。
短い沈黙。
凰翔は、正直に口を開いた。
「……まだ、決めてないんです」
「は?」
「店を開いたばかりで……相場も、よく分からなくて」
一瞬、妙な空気が流れる。
だが男は、すぐに小さく笑った。
「本当に、変な店だな」
懐から銀貨を取り出し、指先で転がす。
「……この味と量なら、このくらいが妥当だ」
そう言って、カウンターに置いた。
正確な価値は分からない。
だが、軽すぎる音ではなかった。
凰翔は一瞬だけ迷い、そして頷く。
「……ありがとうございます」
男は満足そうに頷き、背を向ける。
「また来るかは分からん。だが……忘れはしない味だ」
そして森の中へ消えていった。
店に残ったのは、静けさと、かすかに漂う香りだけ。
ギンが銀貨を見上げ、首を傾げる。
カゲ丸が興味深そうに近づき、揺れた。
凰翔はそれを見下ろし、ぽつりと呟く。
「……これで、良かったのかな」
答える者はいない。
ただ、森の外れの小さな牛丼屋に、初めて代金が置かれた日だった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
エリクサーは不老不死の薬ではありません。~完成したエリクサーのせいで追放されましたが、隣国で色々助けてたら聖人に……ただの草使いですよ~
シロ鼬
ファンタジー
エリクサー……それは生命あるものすべてを癒し、治す薬――そう、それだけだ。
主人公、リッツはスキル『草』と持ち前の知識でついにエリクサーを完成させるが、なぜか王様に偽物と判断されてしまう。
追放され行く当てもなくなったリッツは、とりあえず大好きな草を集めていると怪我をした神獣の子に出会う。
さらには倒れた少女と出会い、疫病が発生したという隣国へ向かった。
疫病? これ飲めば治りますよ?
これは自前の薬とエリクサーを使い、聖人と呼ばれてしまった男の物語。
聖女を追放した国は、私が祈らなくなった理由を最後まで知りませんでした
藤原遊
ファンタジー
この国では、人の悪意や欲望、嘘が積み重なると
土地を蝕む邪気となって現れる。
それを祈りによって浄化してきたのが、聖女である私だった。
派手な奇跡は起こらない。
けれど、私が祈るたびに国は荒廃を免れてきた。
――その役目を、誰一人として理解しないまま。
奇跡が少なくなった。
役に立たない聖女はいらない。
そう言われ、私は静かに国を追放された。
もう、祈る理由はない。
邪気を生み出す原因に目を向けず、
後始末だけを押し付ける国を守る理由も。
聖女がいなくなった国で、
少しずつ異変が起こり始める。
けれど彼らは、最後まで気づかなかった。
私がなぜ祈らなくなったのかを。
悪役令息、前世の記憶により悪評が嵩んで死ぬことを悟り教会に出家しに行った結果、最強の聖騎士になり伝説になる
竜頭蛇
ファンタジー
ある日、前世の記憶を思い出したシド・カマッセイはこの世界がギャルゲー「ヒロイックキングダム」の世界であり、自分がギャルゲの悪役令息であると理解する。
評判が悪すぎて破滅する運命にあるが父親が毒親でシドの悪評を広げたり、関係を作ったものには危害を加えるので現状では何をやっても悪評に繋がるを悟り、家との関係を断って出家をすることを決意する。
身を寄せた教会で働くうちに評判が上がりすぎて、聖女や信者から崇められたり、女神から一目置かれ、やがて最強の聖騎士となり、伝説となる物語。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
生贄にされた少年。故郷を離れてゆるりと暮らす。
水定ゆう
ファンタジー
村の仕来りで生贄にされた少年、天月・オボロナ。魔物が蠢く危険な森で死を覚悟した天月は、三人の異形の者たちに命を救われる。
異形の者たちの弟子となった天月は、数年後故郷を離れ、魔物による被害と魔法の溢れる町でバイトをしながら冒険者活動を続けていた。
そこで待ち受けるのは数々の陰謀や危険な魔物たち。
生贄として魔物に捧げられた少年は、冒険者活動を続けながらゆるりと日常を満喫する!
※とりあえず、一時完結いたしました。
今後は、短編や別タイトルで続けていくと思いますが、今回はここまで。
その際は、ぜひ読んでいただけると幸いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる