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4 町の空白
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町は、静かだった。
朝のはずだ。
本来なら、荷馬車の軋む音や、井戸を汲む縄のきしみ、
パン窯を叩く音が混ざり合っている時間だ。
だが今日は――音が薄い。
パン屋の前を通る。
いつもなら香ばしい匂いが通りまで流れ、
開け放たれた扉から笑い声がこぼれている。
今日は、扉が閉じていた。
焼き上がりの匂いは、かすかにある。
中に人影もある。
だが俺を見ると、
ゆっくりとカーテンが引かれた。
視線が、自然と手元に落ちる。
スーパーのビニール袋。
薄く白濁したそれは、
中身を完全には隠さない。
小さな影が、もぞりと動いた。
「距離を取れ」
遠くで、低い声がした。
俺が一歩進むたびに、
人の流れが左右に割れる。
触れないように。
近づかないように。
俺の周囲だけ、
不自然な空白ができる。
◇
井戸端で笑っていた女たちの会話が止まる。
桶を持つ手が止まる。
視線だけが、袋に落ちる。
子どもが一人、こちらを見ていた。
袋の中を、じっと。
恐怖よりも先に、好奇心。
「まま、あれ、なに」
母親の指が強く食い込む。
「見ちゃだめ」
乱暴に引き寄せる。
子どもが泣き出す。
理由は分からない。
だが大人の緊張は、伝染する。
――竜。
その言葉の重みは、記録や歴史よりも先に、
本能に沈んでいる。
◇
宿屋の前で足を止める。
昨夜と同じ宿だ。
王国の監察官の指示で、
俺はここに留め置かれている。
扉を開けると、空気が重い。
主人が顔を上げる。
無言。
袋を見る。
喉が動く。
「……部屋は空いている」
言葉は平坦だが、声帯が乾いている。
「ありがとうございます」
俺が頭を下げると、
彼はほんの一瞬、迷うように目を細めた。
「朝食は部屋に運ぶ」
「下では食べられないですか?」
沈黙。
食堂の奥で椅子が擦れる。
「……他の客がいる」
それだけで十分だった。
◇
階段を上る。
袋の中で子竜が、くあ、と小さく鳴いた。
子猫のような声だ。
それでも――
下の食堂で椅子が倒れる音がした。
誰かが立ち上がる。
皿が鳴る。
ひそひそ声。
「鳴いたぞ」
「火は」
「まだだ」
まだ。
その言葉が、やけに残る。
部屋に入る。
扉を閉めると、
廊下の気配が一段階、遠のく。
袋を机に置く。
子竜が顔を出しかける。
薄い鱗が、光を受けてわずかにきらめく。
「出るな」
小さく言う。
子竜は首を引っ込め、
再び丸くなった。
理解しているのか。
ただ暖かいからか。
分からない。
窓の外を見る。
通りを人は歩いている。
だが――
この宿の前だけ、妙に空いている。
誰も立ち止まらない。
誰も見上げない。
見ないようにしている。
廊下には兵が一人立っている。
監察官の命令で、
交代制の見張りだ。
その兵が、ぽつりと呟いた。
「……怖くないのか」
俺に向けた言葉ではない。
独り言のように。
「何がですか」
「竜だぞ」
俺は袋を見る。
薄い膜越しの、小さな影。
「今は、静かです」
兵は乾いた笑いを漏らす。
「今は、な」
その“今”の不安定さが、
町全体の空気だった。
◇
夕方、買い物に出る。
塩と干し肉、それと水。
生活は続く。
だが店に入ると、客が減る。
会計の手が震える。
硬貨が一枚、床に落ちる。
乾いた音が、やけに響く。
袋の中で子竜が動くたび、
店主の視線が跳ねる。
「……お釣りです」
差し出された手は、
触れないぎりぎりの距離で止まる。
俺も触れない。
空間だけが、間に残る。
竜は暴れていない。
炎も吐いていない。
それでも。
町は、確実に削れている。
音が減る。
笑いが減る。
視線が逸れる。
恐怖は、事実よりも先に広がる。
◇
夜。
通りは早く閉じた。
窓の灯りも、普段より少ない。
袋の中で子竜が目を開けた。
黄金の瞳。
静かに、こちらを見る。
「……お前のせいじゃない」
そう言うと、
子竜はゆっくり瞬きをした。
袋の内側が、ほんのり温かい。
一定の体温。
一定の呼吸。
災害には見えない。
だが――
町の人々にとっては、
いつか燃える存在だ。
まだ何も起きていない。
だからこそ怖い。
“いつか”が来る前に、
排除するべきもの。
そう思われても不思議ではない。
廊下で兵が足を鳴らす。
遠くで犬が吠える。
子竜は再び丸くなる。
俺は袋の口を、そっと整えた。
町にできた空白は、
簡単には埋まらない。
竜がいる限り。
そして。
俺が抱えている限り。
朝のはずだ。
本来なら、荷馬車の軋む音や、井戸を汲む縄のきしみ、
パン窯を叩く音が混ざり合っている時間だ。
だが今日は――音が薄い。
パン屋の前を通る。
いつもなら香ばしい匂いが通りまで流れ、
開け放たれた扉から笑い声がこぼれている。
今日は、扉が閉じていた。
焼き上がりの匂いは、かすかにある。
中に人影もある。
だが俺を見ると、
ゆっくりとカーテンが引かれた。
視線が、自然と手元に落ちる。
スーパーのビニール袋。
薄く白濁したそれは、
中身を完全には隠さない。
小さな影が、もぞりと動いた。
「距離を取れ」
遠くで、低い声がした。
俺が一歩進むたびに、
人の流れが左右に割れる。
触れないように。
近づかないように。
俺の周囲だけ、
不自然な空白ができる。
◇
井戸端で笑っていた女たちの会話が止まる。
桶を持つ手が止まる。
視線だけが、袋に落ちる。
子どもが一人、こちらを見ていた。
袋の中を、じっと。
恐怖よりも先に、好奇心。
「まま、あれ、なに」
母親の指が強く食い込む。
「見ちゃだめ」
乱暴に引き寄せる。
子どもが泣き出す。
理由は分からない。
だが大人の緊張は、伝染する。
――竜。
その言葉の重みは、記録や歴史よりも先に、
本能に沈んでいる。
◇
宿屋の前で足を止める。
昨夜と同じ宿だ。
王国の監察官の指示で、
俺はここに留め置かれている。
扉を開けると、空気が重い。
主人が顔を上げる。
無言。
袋を見る。
喉が動く。
「……部屋は空いている」
言葉は平坦だが、声帯が乾いている。
「ありがとうございます」
俺が頭を下げると、
彼はほんの一瞬、迷うように目を細めた。
「朝食は部屋に運ぶ」
「下では食べられないですか?」
沈黙。
食堂の奥で椅子が擦れる。
「……他の客がいる」
それだけで十分だった。
◇
階段を上る。
袋の中で子竜が、くあ、と小さく鳴いた。
子猫のような声だ。
それでも――
下の食堂で椅子が倒れる音がした。
誰かが立ち上がる。
皿が鳴る。
ひそひそ声。
「鳴いたぞ」
「火は」
「まだだ」
まだ。
その言葉が、やけに残る。
部屋に入る。
扉を閉めると、
廊下の気配が一段階、遠のく。
袋を机に置く。
子竜が顔を出しかける。
薄い鱗が、光を受けてわずかにきらめく。
「出るな」
小さく言う。
子竜は首を引っ込め、
再び丸くなった。
理解しているのか。
ただ暖かいからか。
分からない。
窓の外を見る。
通りを人は歩いている。
だが――
この宿の前だけ、妙に空いている。
誰も立ち止まらない。
誰も見上げない。
見ないようにしている。
廊下には兵が一人立っている。
監察官の命令で、
交代制の見張りだ。
その兵が、ぽつりと呟いた。
「……怖くないのか」
俺に向けた言葉ではない。
独り言のように。
「何がですか」
「竜だぞ」
俺は袋を見る。
薄い膜越しの、小さな影。
「今は、静かです」
兵は乾いた笑いを漏らす。
「今は、な」
その“今”の不安定さが、
町全体の空気だった。
◇
夕方、買い物に出る。
塩と干し肉、それと水。
生活は続く。
だが店に入ると、客が減る。
会計の手が震える。
硬貨が一枚、床に落ちる。
乾いた音が、やけに響く。
袋の中で子竜が動くたび、
店主の視線が跳ねる。
「……お釣りです」
差し出された手は、
触れないぎりぎりの距離で止まる。
俺も触れない。
空間だけが、間に残る。
竜は暴れていない。
炎も吐いていない。
それでも。
町は、確実に削れている。
音が減る。
笑いが減る。
視線が逸れる。
恐怖は、事実よりも先に広がる。
◇
夜。
通りは早く閉じた。
窓の灯りも、普段より少ない。
袋の中で子竜が目を開けた。
黄金の瞳。
静かに、こちらを見る。
「……お前のせいじゃない」
そう言うと、
子竜はゆっくり瞬きをした。
袋の内側が、ほんのり温かい。
一定の体温。
一定の呼吸。
災害には見えない。
だが――
町の人々にとっては、
いつか燃える存在だ。
まだ何も起きていない。
だからこそ怖い。
“いつか”が来る前に、
排除するべきもの。
そう思われても不思議ではない。
廊下で兵が足を鳴らす。
遠くで犬が吠える。
子竜は再び丸くなる。
俺は袋の口を、そっと整えた。
町にできた空白は、
簡単には埋まらない。
竜がいる限り。
そして。
俺が抱えている限り。
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