26 / 121
第四章
4
しおりを挟む
俺は、大学へは行かなかった。成績が悪かったわけではない。確かに、谷村家が泉を一流のピアニストにするために莫大な金がかかっているのは知っていた。しかし、大企業の幹部役職に就いている父の稼ぎをもってすれば、俺を普通の大学に行かせるくらいの財力はあるし、金の心配は要らないとも言われた。俺が、大学へは進学しないと祖母に打ち明けた時、祖母は、俺が兄に遠慮しているのだと不憫に思ったらしい。
「うちには、おじいちゃんが遺してくれた遺産が使えきれないほどあるのだから気兼ねすることはない。お前は頭の良い子なのだから大学に進学するべきだ」
と言って、心底心配してくれた。家族から見放された俺にとって、祖母の気持ちは素直に嬉しいものだったが、俺は、遠慮して大学進学を諦めたわけではなかった。大学に行く意味が見いだせなかったのだ。それどころか、これから先、自分が生きていく存在意義も見いだせなかった。なんとなく適当な大学に進んで、なんとなくそこに身を置いてみたところで、それは、無意味なことであることが目に見えていた。だからと言って、働きたいわけでもなかったが、親や祖母に面倒を見てもらうのも嫌だった。あれもいやだ、これもいやだ……これでは埒が明かないので、俺は、消去法で、祖母の家を出て一人暮らしをすることに決めたのだ。
兄は、当たり前のように、名門『慧都音楽大学』に進学した。慧都音楽大学は、国内では最難関と言われている音大で、慧都音楽大学附属高等学校に在籍していた生徒でも、容易には入学することができない。“附属上がり”も“外部受験”も関係ない。真に実力のある者のみが選ばれるのだ。故に、この大学出身の一流の音楽家も少なくない。
俺は、祖母の家を出て、犬飼五丁目にアパートを借りて一人暮らしを始めた。高校の就職課で紹介された工場に就職した。仕事の内容など別に何でも良かった。一人で生きていくための最低限の収入が得られればそれで良かった。夢も希望もなかった。名門の慧都音楽大学に進学してからの兄の活躍ぶりは以前以上で、俺は、兄が出演しているテレビ番組や兄の快挙が報じられているニュースや、新聞や雑誌、全てを無視しようとしたが、その量は増える一方で、無視することさえままならなくなっていた。
*
俺が当時勤めていた工場は、犬飼のアパートから車で十分ほどのところにあって、自動車部品を加工している工場だった。本社は神戸にあって、海外には、シンガポールと台湾に支社がある。朝八時から夕方五時までが拘束時間で、たまに残業が生じるけれども、せいぜい一時間くらいの残業なので、特に困ることもなかった。毎日毎日、部品を組立てて、次工程のラインに流す。その繰り返し。単調で、短調で、退屈な毎日。しかし、半分死んでいるみたいな俺にとっては、分相応な仕事だったのかもしれない。
佐藤スバルと再会したのは、入社して1カ月が過ぎた頃だった。高校卒業後、新しいバンドメンバーを集めて『chaos night festival《カオス ナイト フェスティバル》』というバンド名で本気でプロを目指して活動しているとのことだが、仕事もしないでバンド活動ばかりしていたら親に文句を言われたので、たまたま地方の求人雑誌でみつけたこの工場に中途入社したのだという。佐藤スバルという人間は、元々物事を根に持たないサッパリとした性格なのか、それとも、ただの馬鹿なのかわからないが、バンド解散時のゴタゴタのことなどはもうすっかり忘れてしまっているようだった。それどころか、俺に偶然再会できたことを心から喜んでいるようで、おめでたいヤツと軽蔑する反面、その楽天的な性格を心底羨ましいとも思った。
――「この! 過去に囚われた、ちんかす野郎!」
あの言葉を思い出しながら、俺は思った。オマエの言う通りだよ、スバル、と。
「うちには、おじいちゃんが遺してくれた遺産が使えきれないほどあるのだから気兼ねすることはない。お前は頭の良い子なのだから大学に進学するべきだ」
と言って、心底心配してくれた。家族から見放された俺にとって、祖母の気持ちは素直に嬉しいものだったが、俺は、遠慮して大学進学を諦めたわけではなかった。大学に行く意味が見いだせなかったのだ。それどころか、これから先、自分が生きていく存在意義も見いだせなかった。なんとなく適当な大学に進んで、なんとなくそこに身を置いてみたところで、それは、無意味なことであることが目に見えていた。だからと言って、働きたいわけでもなかったが、親や祖母に面倒を見てもらうのも嫌だった。あれもいやだ、これもいやだ……これでは埒が明かないので、俺は、消去法で、祖母の家を出て一人暮らしをすることに決めたのだ。
兄は、当たり前のように、名門『慧都音楽大学』に進学した。慧都音楽大学は、国内では最難関と言われている音大で、慧都音楽大学附属高等学校に在籍していた生徒でも、容易には入学することができない。“附属上がり”も“外部受験”も関係ない。真に実力のある者のみが選ばれるのだ。故に、この大学出身の一流の音楽家も少なくない。
俺は、祖母の家を出て、犬飼五丁目にアパートを借りて一人暮らしを始めた。高校の就職課で紹介された工場に就職した。仕事の内容など別に何でも良かった。一人で生きていくための最低限の収入が得られればそれで良かった。夢も希望もなかった。名門の慧都音楽大学に進学してからの兄の活躍ぶりは以前以上で、俺は、兄が出演しているテレビ番組や兄の快挙が報じられているニュースや、新聞や雑誌、全てを無視しようとしたが、その量は増える一方で、無視することさえままならなくなっていた。
*
俺が当時勤めていた工場は、犬飼のアパートから車で十分ほどのところにあって、自動車部品を加工している工場だった。本社は神戸にあって、海外には、シンガポールと台湾に支社がある。朝八時から夕方五時までが拘束時間で、たまに残業が生じるけれども、せいぜい一時間くらいの残業なので、特に困ることもなかった。毎日毎日、部品を組立てて、次工程のラインに流す。その繰り返し。単調で、短調で、退屈な毎日。しかし、半分死んでいるみたいな俺にとっては、分相応な仕事だったのかもしれない。
佐藤スバルと再会したのは、入社して1カ月が過ぎた頃だった。高校卒業後、新しいバンドメンバーを集めて『chaos night festival《カオス ナイト フェスティバル》』というバンド名で本気でプロを目指して活動しているとのことだが、仕事もしないでバンド活動ばかりしていたら親に文句を言われたので、たまたま地方の求人雑誌でみつけたこの工場に中途入社したのだという。佐藤スバルという人間は、元々物事を根に持たないサッパリとした性格なのか、それとも、ただの馬鹿なのかわからないが、バンド解散時のゴタゴタのことなどはもうすっかり忘れてしまっているようだった。それどころか、俺に偶然再会できたことを心から喜んでいるようで、おめでたいヤツと軽蔑する反面、その楽天的な性格を心底羨ましいとも思った。
――「この! 過去に囚われた、ちんかす野郎!」
あの言葉を思い出しながら、俺は思った。オマエの言う通りだよ、スバル、と。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
神楽坂gimmick
涼寺みすゞ
恋愛
明治26年、欧州視察を終え帰国した司法官僚 近衛惟前の耳に飛び込んできたのは、学友でもあり親戚にあたる久我侯爵家の跡取り 久我光雅負傷の連絡。
侯爵家のスキャンダルを収めるべく、奔走する羽目になり……
若者が広げた夢の大風呂敷と、初恋の行方は?
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ヤクザに医官はおりません
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした
会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。
シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。
無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。
反社会組織の集まりか!
ヤ◯ザに見初められたら逃げられない?
勘違いから始まる異文化交流のお話です。
※もちろんフィクションです。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる