片翼を失ったピアニスト

喜島 塔

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第四章

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 俺は、大学へは行かなかった。成績が悪かったわけではない。確かに、谷村家が泉を一流のピアニストにするために莫大な金がかかっているのは知っていた。しかし、大企業の幹部役職に就いている父の稼ぎをもってすれば、俺を普通の大学に行かせるくらいの財力はあるし、金の心配は要らないとも言われた。俺が、大学へは進学しないと祖母に打ち明けた時、祖母は、俺が兄に遠慮しているのだと不憫に思ったらしい。

「うちには、おじいちゃんが遺してくれた遺産が使えきれないほどあるのだから気兼ねすることはない。お前は頭の良い子なのだから大学に進学するべきだ」
 と言って、心底心配してくれた。家族から見放された俺にとって、祖母の気持ちは素直に嬉しいものだったが、俺は、遠慮して大学進学を諦めたわけではなかった。大学に行く意味が見いだせなかったのだ。それどころか、これから先、自分が生きていく存在意義も見いだせなかった。なんとなく適当な大学に進んで、なんとなくそこに身を置いてみたところで、それは、無意味なことであることが目に見えていた。だからと言って、働きたいわけでもなかったが、親や祖母に面倒を見てもらうのも嫌だった。あれもいやだ、これもいやだ……これでは埒が明かないので、俺は、消去法で、祖母の家を出て一人暮らしをすることに決めたのだ。

 兄は、当たり前のように、名門『慧都音楽大学』に進学した。慧都音楽大学は、国内では最難関と言われている音大で、慧都音楽大学附属高等学校に在籍していた生徒でも、容易には入学することができない。“附属上がり”も“外部受験”も関係ない。真に実力のある者のみが選ばれるのだ。故に、この大学出身の一流の音楽家も少なくない。

 俺は、祖母の家を出て、犬飼五丁目にアパートを借りて一人暮らしを始めた。高校の就職課で紹介された工場に就職した。仕事の内容など別に何でも良かった。一人で生きていくための最低限の収入が得られればそれで良かった。夢も希望もなかった。名門の慧都音楽大学に進学してからの兄の活躍ぶりは以前以上で、俺は、兄が出演しているテレビ番組や兄の快挙が報じられているニュースや、新聞や雑誌、全てを無視しようとしたが、その量は増える一方で、無視することさえままならなくなっていた。

 *

 俺が当時勤めていた工場は、犬飼のアパートから車で十分ほどのところにあって、自動車部品を加工している工場だった。本社は神戸にあって、海外には、シンガポールと台湾に支社がある。朝八時から夕方五時までが拘束時間で、たまに残業が生じるけれども、せいぜい一時間くらいの残業なので、特に困ることもなかった。毎日毎日、部品を組立てて、次工程のラインに流す。その繰り返し。単調で、短調で、退屈な毎日。しかし、半分死んでいるみたいな俺にとっては、分相応な仕事だったのかもしれない。

 佐藤スバルと再会したのは、入社して1カ月が過ぎた頃だった。高校卒業後、新しいバンドメンバーを集めて『chaos night festival《カオス ナイト フェスティバル》』というバンド名で本気でプロを目指して活動しているとのことだが、仕事もしないでバンド活動ばかりしていたら親に文句を言われたので、たまたま地方の求人雑誌でみつけたこの工場に中途入社したのだという。佐藤スバルという人間は、元々物事を根に持たないサッパリとした性格なのか、それとも、ただの馬鹿なのかわからないが、バンド解散時のゴタゴタのことなどはもうすっかり忘れてしまっているようだった。それどころか、俺に偶然再会できたことを心から喜んでいるようで、おめでたいヤツと軽蔑する反面、その楽天的な性格を心底羨ましいとも思った。

 ――「この! 過去に囚われた、ちんかす野郎!」

 あの言葉を思い出しながら、俺は思った。オマエの言う通りだよ、スバル、と。
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