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■鬼、下僕のツレには歯が立たない
■鬼、下僕のツレには歯が立たない②
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でも、どうしてだか薪だけは違う。
本能的にというか、感覚的に、薪にしかそんな自分は見せられないだろうという気がしていて、こんな〝面倒くさい甘えたがり〟な自分を受け入れて甘やかしてくれるのも、きっと薪だけだろうという気がしている。
……もとより、そのきっかけやチャンスが巡ってきたら、そのときは絶対に受け入れさせてやるし、めちゃくちゃ甘やかしてもらう気、満々だけれど。
「チャンスさえあれば……」
これまでの仕事上での関り方が関り方だっただけに、薪には苦手に思われていることはわかっている。でも、嫌われているわけではないことは、薪の態度や表情や、やり取りをしている中での感触ではっきりしていた。
そういうものは、たとえどんなに上手く隠しているつもりでいても、わかってしまうものだから、間違いない。第一、薪はそこまで器用でもない。
だから、好きになってもらう余地は大いにあると踏んでいる。
由里子との雑談の中で、薪にしばらく恋人がいないことは知っていた。休みの日は部屋でごろごろしていることも、恋愛映画を観ることを趣味としていることも。
――いつか映画館で会えたら、そのときは……。
笑われたり、似合わないと言われるのがわかっているため、誰にも言ったことはなかったものの、真紘の趣味も同じなので、あわよくばと思いはじめて久しい。
けれど残念ながら、まだ映画館で会えた試しもなく、やはりチャンスは自分から作らなければどうにもならないのかもしれないという思いも同時に持っている。
「鈍感すぎなんだよな。どうしたもんだろ……」
とはいえ、柳井にも言ったように、薪はそうなのだ。
会社での〝鬼と下僕〟のような関係を百八十度、覆すような出来事が起こるのを待っているだけでは、薪に自分を男として意識してもらうことは永遠に叶わない。薪は基本的に自分が恋愛対象になっているとは思っていないところがあるから、何かよっぽどのインパクトがない限りは、不毛な片想いが続くことになるだろう。
――麻井の百分の一くらいでいいから、薪にも察する能力がありゃあな……。
そこがまた可愛いけれど。
とにかく、薪のこととなると、どうにも真紘は弱い。
俺の薪に手を出すなと言わんばかりに、折川にも、友人の由里子にさえ、薪に対する執着や独占欲をみっともなく晒してしまうのだから、もうお手上げだ。
「ああ、付き合いたい……」
真紘の心からの願望は、けれど当然、今頃、ホテルの部屋でのほほんとジュースでも飲んでいるだろう本人に届くわけもなく、十一月の夜風に溶けて消えた。
そのとき由里子が近くで彼氏と電話をしていて、柳井との一部始終や、そのあとの情けない独り言を聞かれていたことは知る由もない真紘だった。
*
そうして社員旅行から帰ってきても、まだまだ厄災は降りかかる。
「あれ? 薪ちゃん、社員旅行でそんなお菓子買ってたっけ?」
「あ、ううん。ついさっきラウンジで折川さんに会ったんだけど、買いすぎちゃったからって、お裾分けしてもらったんだよね。由里子もどうぞー。美味しいよ」
――は⁉ 折川が⁉ あいつ、全然、階が違うじゃねーか。
「……あーうん。じゃあ、ひとつもらおうかな」
「ひとつと言わず、二つでも三つでも。一箱ももらったんだけど、さすがに食べきれるか自信がなくて。それにしても太っ腹だよねー、折川さん。部署のみんなに配ったらどうですかって言ったんだけど、ぱっと浮かんだ顔が私だったとかでさ。そこまで食いしん坊に見えてるのかな、私。ちょっと複雑かも。あはは」
「あはは……」
――違うぞ薪! お前、折川に狙われてんだぞ!
というわけで、社員旅行では不発に終わったからか、なんなのか、折川は社内でもわざわざ薪のところに出向いてちょっかいをかけはじめたのである。
真紘の気苦労や心労は日ごとに増すばかりで、それに比例するように、由里子からの何か物言いたげな含みのある視線を感じる頻度も増していく一方だった。
とはいえ、ただの職場の上司である真紘が、どういった権限があって部下の薪の交友関係に口を出せるというのだろうか。
折川の話が出るたび、由里子からの〝何やってんですか、主任〟という非難めいた視線や〝ただ見てるだけじゃ薪ちゃんは気づきもしませんよ、わかってるとは思いますけど……〟という、ある意味、同情の視線を受けつつ、やきもきしたりハラハラしたりしながら、注意深く折川の出方を窺うしかなかった。
そんなある日、ついに静観なんてしていられないような出来事が起こる。
「薪ちゃん、さっきの折川さんのあれ、たぶん普通にセクハラだと思う」
「うーん……。はは」
「はは、じゃないよ、もう。私たちの同期がお世話になってる先輩だから、こっちが強く出られないのをいいことに〝辛かったら慰めてあげようか?〟って、私が通りかからなかったら薪ちゃんどうしてたの。嫌ならちゃんと言わなきゃ。直接言うのが怖かったり、同期の手前、気が引けるんだったら私が言ってもいいし、部長に相談してもいいんだよ? 現に薪ちゃん、困ってるじゃない。……心配なの」
「ありがとう、由里子。うん、ちゃんとするね」
「……できる?」
「が、頑張る……!」
他部署への用事で席を外していた真紘が編集部に戻ってくると、神妙な顔つきの由里子と、どこか他人事のような雰囲気が漂う薪のそんな会話が耳に入り、真紘は、肝が冷えるのと同時に、どっと冷や汗が噴き出てくるようだった。
会話の内容から想像するに、どうやら折川はまた薪にちょっかいをかけに来ていたらしく、困っていたところを由里子に助けられ、編集部に避難してきたようだ。
真紘の二年先輩である折川は、正直言って女性関係にいい噂を聞かない。歯に衣着せぬ言い方をすれば、遊び目的なのだ。
噂話が耳に入るたび、三十歳も過ぎていい加減に落ち着けよと内心で思ってきた。けれど今回ばかりは、どうしたって黙っていられない。
薪のこの、今ひとつ自分のこととしてピンときていない様子を見ると、折川に面と向かって嫌だとは言えないだろうし、頑張るとはいっても、その前に言葉巧みに言いくるめられてしまうだろうことは想像に容易いので、なおさらだ。
「あれ、今戻ってきたばっかりなのに、どうしたんですか、新田さん」
「ああうん、特急案件ができたんだ。ちょっくら片づけてくるわ」
「はあ」
席に戻るなりまた出ていこうとする真紘に気づいた隣のデスクの社員と短くやり取りをし、すぐに折川の所属部署であるシステム課に足を向かわせる。
真紘にしてみれば、薪たちの同期が世話になっているからとか、どうでもいい。薪が困っているのは由里子の言葉からも確かだし、真紘だって心配だ。
薪のことだから、部長の諸住の手を煩わせたくない、なんていう理由で最初から相談しないつもりだろう。由里子にしたって、あれでも一応、女の子だ。薪との会話で強気なことを言ってはいたけれど、本当は大人の男と対峙するのは怖いに決まっている。薪の前ではその気持ちを押し隠しているだけなのだ。
……いや、あれでも一応は言葉が過ぎるか。女の子だ。
とにかく、編集部のやつに手を出してきたからには、見過ごせない。
真紘はシステム課のある階でエレベーターを降り、廊下を進む。
「ああ、折川さん、ちょうど探してたんですよ。お久しぶりです、新田です」
「これはこれは。新田君じゃん。珍しい。どうした?」
すると、タイミングよく、ひとりでこちらへ向かって歩いてくる折川を見つけ、真紘は笑顔を添えて声をかける。折川も表向きは相変わらずの人当たりのいい笑みを浮かべながら、探していたと聞いて〝俺を?〟と不思議そうにした。
――久々にあいさつしたけど、やっぱどうにも受け付けないわ、この人。
真紘は、なんか全部が胡散臭いんだよなと内心で嫌な顔をする。〝女遊びが激しい男〟という目で見ているせいだけれど、真紘はやはり折川を好きになれないなと、はっきり思う。昔からこういう男とは根本的に反りが合わない。
「ここでは、ちょっと……。場所を変えさせてください」
「えー、なになに。新田君もついに女の子と遊びたくなった?」
「……はは」
それはそうと、ここは廊下の真ん中だ。いつほかの人が通るかもわからない、こんなところでするような話でもないため、折川と連れ立って適当に移動する。
お前の頭の中はそればっかりかよと、また内心で折川に牙を剥きつつ、ほとんど人通りのない資料室や保管室が並ぶエリアに入ると真紘は足を止めた。
「で。改めて聞くけど、俺に何の用事? 新田君、硬派だって女の子の間で人気だし、別に誰か紹介してほしくて俺のところに来たわけじゃないんでしょ?」
どうやら折川自身も、真紘が誰かと遊びたくてわざわざ人気のないところへ場所を移したわけではないことは、わかっているらしい。
「ああ、それなんですけど――」
だったら話は早い。
壁に背中を預けて余裕綽々といった様子で尋ねる折川に、真紘はくるりと振り返る。と同時に折川の顔の横に勢いよく両手を付き、上から凄みを利かせる。
「折川さん、最近、餌付けしたり会いに行ったりして、あからさまに狙ってる子がいるじゃないですか。それ、編集部のなんですよね。俺、折川さんの噂、よーく知ってますよ。……ここまで言ったら、さすがにわかりますよね。言いたいことはひとつだけです。本気じゃないなら編集部の薪に手を出すんじゃねーよ」
そして、呆気に取られた顔の折川をフンと一瞥すると、編集部へ引き返す。
――これで薪を守ったことになったらいいんだけど……。
そう思いながら、真紘は悔しさから唇の端を噛む。
上司の立場としてできることは、せいぜいこれくらいが限界ろう。本当はもっと早く薪から折川を遠ざけてやりたかったけれど、上司として部下を心配する体を装うくらいしか、残念ながら今の真紘には立場らしい立場がないからだ。
とはいえ、これでしばらくは折川も大人しくなるだろう。もちろん一番の望みは、もう薪にちょっかいをかけに来ないことだけれど、もしかしたら、真紘が出てきたことによって、簡単には喰えないとわかって手を引くかもしれない。
どちらにせよ、また性懲りもなく薪に近づこうものなら、今度は物申すだけでは済ませないつもりだ。おそらく、それをわからない折川ではないだろうから、面倒くさくなってフェードアウトしてくれたらこちらの勝ちである。
とにかく、ひとまずは薪に平穏が訪れるはずだ。
「……よし」
小さく呟き、編集部へ戻ると真紘はそのまま残りの仕事を片づけはじめる。
ちらりと薪の様子を窺うと、先ほど折川からセクハラ発言を受けた、さっきの今でも、とりあえずはなんとか仕事ができているようで、相変わらずぽやっとしているところはあるものの、しっかり集中できた顔をしていて少し安心した。
そこへ、用事でもあったのだろう、真紘から少し遅れて由里子が編集部へ戻り、薪と二言、三言、雑談を交わして自分の仕事に取りかかりはじめた。
そのときの由里子の顔が、なんだかやけに清々したというか、晴れ晴れとしたものだったのだけれど――まさか自分の後を付けて折川との一部始終を覗き見ていたわけでもないだろうと、真紘は邪推を振り払う。
いくらこちらの気持ちが筒抜けとはいえ、さすがにそこまではやるまい。
……と、思いたい。
ともかく、その後もしばらくの間、注意深く薪の様子や由里子との会話を観察したり聞いたりしたところ、薪の周りから折川の影はいつの間にか消えていたので、どうやらこちらの勝ちで間違いないようだった。
あの折川も薪に手を出すと面倒くさいことになると踏んだらしい。
というより、ただの遊び目的なのだから、もっとお手軽な相手を探すなり見つけるなりしたほうが単に手っ取り早いのだろう。……真紘にはなかなか理解できないけれど、実際、女性側にも、そういう目的を持っている人は一定数いるものだ。
お互いに利害が一致していれば、そういう関係も成り立つ。
そっちはそっちで上手くやってくれと思いつつ、それから間もなくして年末を迎え、年が明け、編集部はいつも通り、目まぐるしく動きはじめた。その頃には薪もすっかりいつも通りに戻り、真紘はようやく、心の底からほっと胸を撫で下ろす。
本能的にというか、感覚的に、薪にしかそんな自分は見せられないだろうという気がしていて、こんな〝面倒くさい甘えたがり〟な自分を受け入れて甘やかしてくれるのも、きっと薪だけだろうという気がしている。
……もとより、そのきっかけやチャンスが巡ってきたら、そのときは絶対に受け入れさせてやるし、めちゃくちゃ甘やかしてもらう気、満々だけれど。
「チャンスさえあれば……」
これまでの仕事上での関り方が関り方だっただけに、薪には苦手に思われていることはわかっている。でも、嫌われているわけではないことは、薪の態度や表情や、やり取りをしている中での感触ではっきりしていた。
そういうものは、たとえどんなに上手く隠しているつもりでいても、わかってしまうものだから、間違いない。第一、薪はそこまで器用でもない。
だから、好きになってもらう余地は大いにあると踏んでいる。
由里子との雑談の中で、薪にしばらく恋人がいないことは知っていた。休みの日は部屋でごろごろしていることも、恋愛映画を観ることを趣味としていることも。
――いつか映画館で会えたら、そのときは……。
笑われたり、似合わないと言われるのがわかっているため、誰にも言ったことはなかったものの、真紘の趣味も同じなので、あわよくばと思いはじめて久しい。
けれど残念ながら、まだ映画館で会えた試しもなく、やはりチャンスは自分から作らなければどうにもならないのかもしれないという思いも同時に持っている。
「鈍感すぎなんだよな。どうしたもんだろ……」
とはいえ、柳井にも言ったように、薪はそうなのだ。
会社での〝鬼と下僕〟のような関係を百八十度、覆すような出来事が起こるのを待っているだけでは、薪に自分を男として意識してもらうことは永遠に叶わない。薪は基本的に自分が恋愛対象になっているとは思っていないところがあるから、何かよっぽどのインパクトがない限りは、不毛な片想いが続くことになるだろう。
――麻井の百分の一くらいでいいから、薪にも察する能力がありゃあな……。
そこがまた可愛いけれど。
とにかく、薪のこととなると、どうにも真紘は弱い。
俺の薪に手を出すなと言わんばかりに、折川にも、友人の由里子にさえ、薪に対する執着や独占欲をみっともなく晒してしまうのだから、もうお手上げだ。
「ああ、付き合いたい……」
真紘の心からの願望は、けれど当然、今頃、ホテルの部屋でのほほんとジュースでも飲んでいるだろう本人に届くわけもなく、十一月の夜風に溶けて消えた。
そのとき由里子が近くで彼氏と電話をしていて、柳井との一部始終や、そのあとの情けない独り言を聞かれていたことは知る由もない真紘だった。
*
そうして社員旅行から帰ってきても、まだまだ厄災は降りかかる。
「あれ? 薪ちゃん、社員旅行でそんなお菓子買ってたっけ?」
「あ、ううん。ついさっきラウンジで折川さんに会ったんだけど、買いすぎちゃったからって、お裾分けしてもらったんだよね。由里子もどうぞー。美味しいよ」
――は⁉ 折川が⁉ あいつ、全然、階が違うじゃねーか。
「……あーうん。じゃあ、ひとつもらおうかな」
「ひとつと言わず、二つでも三つでも。一箱ももらったんだけど、さすがに食べきれるか自信がなくて。それにしても太っ腹だよねー、折川さん。部署のみんなに配ったらどうですかって言ったんだけど、ぱっと浮かんだ顔が私だったとかでさ。そこまで食いしん坊に見えてるのかな、私。ちょっと複雑かも。あはは」
「あはは……」
――違うぞ薪! お前、折川に狙われてんだぞ!
というわけで、社員旅行では不発に終わったからか、なんなのか、折川は社内でもわざわざ薪のところに出向いてちょっかいをかけはじめたのである。
真紘の気苦労や心労は日ごとに増すばかりで、それに比例するように、由里子からの何か物言いたげな含みのある視線を感じる頻度も増していく一方だった。
とはいえ、ただの職場の上司である真紘が、どういった権限があって部下の薪の交友関係に口を出せるというのだろうか。
折川の話が出るたび、由里子からの〝何やってんですか、主任〟という非難めいた視線や〝ただ見てるだけじゃ薪ちゃんは気づきもしませんよ、わかってるとは思いますけど……〟という、ある意味、同情の視線を受けつつ、やきもきしたりハラハラしたりしながら、注意深く折川の出方を窺うしかなかった。
そんなある日、ついに静観なんてしていられないような出来事が起こる。
「薪ちゃん、さっきの折川さんのあれ、たぶん普通にセクハラだと思う」
「うーん……。はは」
「はは、じゃないよ、もう。私たちの同期がお世話になってる先輩だから、こっちが強く出られないのをいいことに〝辛かったら慰めてあげようか?〟って、私が通りかからなかったら薪ちゃんどうしてたの。嫌ならちゃんと言わなきゃ。直接言うのが怖かったり、同期の手前、気が引けるんだったら私が言ってもいいし、部長に相談してもいいんだよ? 現に薪ちゃん、困ってるじゃない。……心配なの」
「ありがとう、由里子。うん、ちゃんとするね」
「……できる?」
「が、頑張る……!」
他部署への用事で席を外していた真紘が編集部に戻ってくると、神妙な顔つきの由里子と、どこか他人事のような雰囲気が漂う薪のそんな会話が耳に入り、真紘は、肝が冷えるのと同時に、どっと冷や汗が噴き出てくるようだった。
会話の内容から想像するに、どうやら折川はまた薪にちょっかいをかけに来ていたらしく、困っていたところを由里子に助けられ、編集部に避難してきたようだ。
真紘の二年先輩である折川は、正直言って女性関係にいい噂を聞かない。歯に衣着せぬ言い方をすれば、遊び目的なのだ。
噂話が耳に入るたび、三十歳も過ぎていい加減に落ち着けよと内心で思ってきた。けれど今回ばかりは、どうしたって黙っていられない。
薪のこの、今ひとつ自分のこととしてピンときていない様子を見ると、折川に面と向かって嫌だとは言えないだろうし、頑張るとはいっても、その前に言葉巧みに言いくるめられてしまうだろうことは想像に容易いので、なおさらだ。
「あれ、今戻ってきたばっかりなのに、どうしたんですか、新田さん」
「ああうん、特急案件ができたんだ。ちょっくら片づけてくるわ」
「はあ」
席に戻るなりまた出ていこうとする真紘に気づいた隣のデスクの社員と短くやり取りをし、すぐに折川の所属部署であるシステム課に足を向かわせる。
真紘にしてみれば、薪たちの同期が世話になっているからとか、どうでもいい。薪が困っているのは由里子の言葉からも確かだし、真紘だって心配だ。
薪のことだから、部長の諸住の手を煩わせたくない、なんていう理由で最初から相談しないつもりだろう。由里子にしたって、あれでも一応、女の子だ。薪との会話で強気なことを言ってはいたけれど、本当は大人の男と対峙するのは怖いに決まっている。薪の前ではその気持ちを押し隠しているだけなのだ。
……いや、あれでも一応は言葉が過ぎるか。女の子だ。
とにかく、編集部のやつに手を出してきたからには、見過ごせない。
真紘はシステム課のある階でエレベーターを降り、廊下を進む。
「ああ、折川さん、ちょうど探してたんですよ。お久しぶりです、新田です」
「これはこれは。新田君じゃん。珍しい。どうした?」
すると、タイミングよく、ひとりでこちらへ向かって歩いてくる折川を見つけ、真紘は笑顔を添えて声をかける。折川も表向きは相変わらずの人当たりのいい笑みを浮かべながら、探していたと聞いて〝俺を?〟と不思議そうにした。
――久々にあいさつしたけど、やっぱどうにも受け付けないわ、この人。
真紘は、なんか全部が胡散臭いんだよなと内心で嫌な顔をする。〝女遊びが激しい男〟という目で見ているせいだけれど、真紘はやはり折川を好きになれないなと、はっきり思う。昔からこういう男とは根本的に反りが合わない。
「ここでは、ちょっと……。場所を変えさせてください」
「えー、なになに。新田君もついに女の子と遊びたくなった?」
「……はは」
それはそうと、ここは廊下の真ん中だ。いつほかの人が通るかもわからない、こんなところでするような話でもないため、折川と連れ立って適当に移動する。
お前の頭の中はそればっかりかよと、また内心で折川に牙を剥きつつ、ほとんど人通りのない資料室や保管室が並ぶエリアに入ると真紘は足を止めた。
「で。改めて聞くけど、俺に何の用事? 新田君、硬派だって女の子の間で人気だし、別に誰か紹介してほしくて俺のところに来たわけじゃないんでしょ?」
どうやら折川自身も、真紘が誰かと遊びたくてわざわざ人気のないところへ場所を移したわけではないことは、わかっているらしい。
「ああ、それなんですけど――」
だったら話は早い。
壁に背中を預けて余裕綽々といった様子で尋ねる折川に、真紘はくるりと振り返る。と同時に折川の顔の横に勢いよく両手を付き、上から凄みを利かせる。
「折川さん、最近、餌付けしたり会いに行ったりして、あからさまに狙ってる子がいるじゃないですか。それ、編集部のなんですよね。俺、折川さんの噂、よーく知ってますよ。……ここまで言ったら、さすがにわかりますよね。言いたいことはひとつだけです。本気じゃないなら編集部の薪に手を出すんじゃねーよ」
そして、呆気に取られた顔の折川をフンと一瞥すると、編集部へ引き返す。
――これで薪を守ったことになったらいいんだけど……。
そう思いながら、真紘は悔しさから唇の端を噛む。
上司の立場としてできることは、せいぜいこれくらいが限界ろう。本当はもっと早く薪から折川を遠ざけてやりたかったけれど、上司として部下を心配する体を装うくらいしか、残念ながら今の真紘には立場らしい立場がないからだ。
とはいえ、これでしばらくは折川も大人しくなるだろう。もちろん一番の望みは、もう薪にちょっかいをかけに来ないことだけれど、もしかしたら、真紘が出てきたことによって、簡単には喰えないとわかって手を引くかもしれない。
どちらにせよ、また性懲りもなく薪に近づこうものなら、今度は物申すだけでは済ませないつもりだ。おそらく、それをわからない折川ではないだろうから、面倒くさくなってフェードアウトしてくれたらこちらの勝ちである。
とにかく、ひとまずは薪に平穏が訪れるはずだ。
「……よし」
小さく呟き、編集部へ戻ると真紘はそのまま残りの仕事を片づけはじめる。
ちらりと薪の様子を窺うと、先ほど折川からセクハラ発言を受けた、さっきの今でも、とりあえずはなんとか仕事ができているようで、相変わらずぽやっとしているところはあるものの、しっかり集中できた顔をしていて少し安心した。
そこへ、用事でもあったのだろう、真紘から少し遅れて由里子が編集部へ戻り、薪と二言、三言、雑談を交わして自分の仕事に取りかかりはじめた。
そのときの由里子の顔が、なんだかやけに清々したというか、晴れ晴れとしたものだったのだけれど――まさか自分の後を付けて折川との一部始終を覗き見ていたわけでもないだろうと、真紘は邪推を振り払う。
いくらこちらの気持ちが筒抜けとはいえ、さすがにそこまではやるまい。
……と、思いたい。
ともかく、その後もしばらくの間、注意深く薪の様子や由里子との会話を観察したり聞いたりしたところ、薪の周りから折川の影はいつの間にか消えていたので、どうやらこちらの勝ちで間違いないようだった。
あの折川も薪に手を出すと面倒くさいことになると踏んだらしい。
というより、ただの遊び目的なのだから、もっとお手軽な相手を探すなり見つけるなりしたほうが単に手っ取り早いのだろう。……真紘にはなかなか理解できないけれど、実際、女性側にも、そういう目的を持っている人は一定数いるものだ。
お互いに利害が一致していれば、そういう関係も成り立つ。
そっちはそっちで上手くやってくれと思いつつ、それから間もなくして年末を迎え、年が明け、編集部はいつも通り、目まぐるしく動きはじめた。その頃には薪もすっかりいつも通りに戻り、真紘はようやく、心の底からほっと胸を撫で下ろす。
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