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■鬼、下僕のツレには歯が立たない
■鬼、下僕のツレには歯が立たない①
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――今頃あいつ、俺のことが嫌になったりしてねーかな……。
真紘はその日、気が気ではないどころか、胃が痛む勢いで心に余裕がなかった。
やっとの思いで薪に好きになってもらったのも束の間、薪は同期で親友の麻井由里子に『付き合いはじめたことをちゃんと報告したい』と言って譲らず、結局、真紘のほうが根負けし『俺のことが嫌にならないって約束できるなら、麻井と話してきてもいい』なんていう女々しすぎる条件を付けて送り出すことにしたからだ。
薪が由里子と連れ立って定時で帰っていったのは、二時間ほど前だ。
ひとり、またひとりと「お先します」と残業を終えて帰っていく同僚たちに「お疲れ様でした」と声を返しつつ、真紘自身も、今日はもうどうしたって気になりすぎて集中できないと残りの仕事を投げることにし、パソコンの電源を落とすと、ざっと戸締りを確認して編集部を出ることにする。
部長の諸住は薪たちが帰ってほどなくして、真紘を含む残業組に「早く帰るんだよ」と声をかけて編集部をあとにしていた。気づけば編集部には真紘しか残っておらず、だったらもう帰ってしまおうと、そう思ったのだった。
「……」
――つーか、麻井のやつ、専用のレーダーでも搭載してんじゃねーかな。
エレベーターで下へ降りながら、会社を出て駐車場へ向かいながら、車で家路につきながら、真紘はこれまでのことを振り返りはじめる。
思い返せば、薪を下の名前で呼びはじめたあたりから、なんとなく由里子からの含みのある視線を感じるようになっていったと思う。
その年の――去年の、二年に一度、希望者を集めて行われる社員旅行で、その視線は由里子が意図して送っていたものだったと決定づける出来事が多くあったわけだけれど、その他のことにしたって、いくら薪と同期で仲がいいとはいえ、どうしてああもタイミングよくこちらの好きがダダ漏れている場面に出くわせるのだろうと、真紘は常々、疑問に思っている。
真紘がわかりやすすぎるのか、それとも、由里子の勘が良すぎるのか。
その話になれば間違いなく不毛な議論になるだろうから、わざわざしようとは思わないけれど、とにかく、由里子は怖いやつだということだけは、間違いない。
*
最初に妙な視線を感じるなと思ったのは、これまで手のかかる後輩としか見えていなかった薪が、あることをきっかけに急に可愛く見えはじめ、そう時間はかからない間に、ああこれは恋なんだと自分の中ではっきりと自覚してからのことだ。
仕事の相談を持ち掛けてきた薪を思い切って「薪」と初めて名前で呼んでみたときの、彼女の愛くるしい表情は、一年以上が経った今でも、まるで昨日のことのように真紘の胸の一番柔らかい部分を締めつけてやまない。
きっかけとなった〝あること〟については、まだ薪に打ち明けられていないけれど、とにかく、その頃からたびたび視線を感じるようになっていったのは本当だ。
これといってこだわりがあったわけではなかったものの、同期にさえ名字呼びを通してきた真紘が後輩のひとりだけを――薪を名前で呼びはじめたことに早々と気づいた由里子は、それだけ彼女と近しい間柄なのだろう。
正直、ちょっとやりにくいなと思ったけれど、仕方がないと切り離すことにして、それからしばらくの間は、薪を名前で呼ぶことに満足しつつ、たまに冗談で『火にくべて燃やすぞ』と言ってみたりしながら、片想いを続けた。
……そのたびに薪にはビクビクされ、薪が泣きついた先の由里子には例の含みのある視線を向けられ、そして真紘は言ったことを激しく後悔し、自分の二つ名である『〝あの〟新田真紘』や『鬼の新田真紘』に落ち込んだけれど。
あとで薪にきちんと謝らなければと思う。……笑って許してくれるだろうか。
*
そうした毎日の中で、社員旅行というイベントは真紘にとってプライベートに近い薪の姿を見られる絶好のチャンスだった。薪が由里子とともに参加すると知るや真紘も申し込み、期待に胸をいっぱいにさせながら当日を迎える。
けれど、そこに思わぬ邪魔が入った。――システム課の折川という男である。
折川はふわふわとした雰囲気の薪に早々に標的を定めたようで、隣にいた由里子には目もくれず、薪にばかり愛想を振りまき、見かけるたびに話しかけ、一泊二日という旅行中に急速に距離を縮めようとしていた。
「……、……っ」
――何やってんだよ、あいつら。……俺もだけど。
ひとつは、満更でもなさそうな薪の態度に。もうひとつは、いつも一緒にいる由里子が、明らかに薪が狙われているというのに、どこ吹く風なことに。さらには、気さくな態度を装って薪を喰おうとしている折川に。
そして、ハラハラしながら遠目から見ることしかできない自分自身に、真紘はひどく腹立たしい思いや焼け焦げそうなほどの焦燥感を募らせる。
夜の食事会で、遠くのほうから『薪ちゃーん!』と呼ぶ折川の声に被せるように『薪はこっち』と自分のそばに置いたのは、もう我慢も限界だったからだ。
一度、酒を注ぎに来てくれたあとのことだったので、薪には〝どうして⁉〟と、ひどく驚いた顔をされたけれど、どうにもなりふり構っていられず、食事会が終わるまで薪をそばに置くことで、折川からの接触を避けることに成功した。
薪が近くにいることと、折川を遠ざけられたことに思わずテーブルの下で小さく拳を握ってしまうほどには、このときの真紘は気分よく酔っていた。
けれど、受難はまだまだ続く。
――あ、薪。どうしよう、か、可愛い……。抱きしめたい……。
「薪ちゃん、薪ちゃん。こっちにも美味しそうなお土産があるよ」
「ほんと?」
「ほら、これとか、薪ちゃん好きそう」
――おい麻井邪魔だ薪が見えねえ! 見せろ!
「好き! わーい、買っちゃお」
「お会計はあっちだよ。行こ行こ」
「うん!」
――麻井お前わざとだな⁉ わざとなんだな⁉
売店で浴衣姿の薪たちを見かけ、なんて可愛いんだろうと頬を緩ませたのも束の間、気づいた由里子にそれとなく薪の後ろに立たれたり横に立たれたりされ、本人を隠された真紘は、麻井コノヤロウと悔しさを募らせることとなる。
泊まる部屋の階が同じだったことで、温泉から上がったばかりの薪のすっぴんを偶然にも拝めたまではよかったものの、自販機でジュースを買う薪の頬を唐突につんつんし『薪ちゃんのほっぺ、ぷにぷにだ』と、これ見よがしに触りはじめた由里子には、腹立たしさを通り越して軽く殺意さえ湧いてきてしまう。
「っ……、ぐっ……」
――おのれ麻井、この恨み、どうやって晴らしてくれよう。……今に見てろよ。いつか絶対、俺のほうがたくさん触ってやるんだからな!
悔しさのあまり声にならない声を上げつつ、それでも真紘は〝薪のほっぺたがぷにぷに〟という新たな情報を頭の中にインプットすることに忙しかったのだった。
それはそうと、さらに難は降りかかる。
――ああもう、なんかどっと疲れた……。外で少し風に当たろう。
そうしてひとり、ふらふらとホテルを出て敷地内を歩いていると、唐突に後ろから「新田さんっ!」と声をかけられ、振り返ると、なんとなく顔は見たことがある程度の女性が、カラコロと下駄を鳴らして真紘を追いかけてきていた。
直感的に嫌な予感がして、けれど振り向いてしまった手前、どうすることもできなかった真紘は、仕方なく自分も彼女のほうへ少し歩を進め、正面から向き合う。
「あ、あの、私、総務部の柳井実夏子っていいます。新田さんが用事で総務部に来るたび、ずっとずっと、いいなって思ってて。余談ですけど、私が応対したこともあるんですよ。彼女がいるって噂も聞いたことがないですし、今、フリーですよね? ……もしよかったらなんですけど、私と付き合ってもらえませんか?」
すると、胸に手を当てて上がった息を整えた彼女は、真っ直ぐに真紘を見つめて一息にそう言う。ぽつぽつと灯っている程度の街頭の明かりでもはっきりとわかるほど彼女の顔は赤く、それだけ本気で告白しているのが嫌でも伝わってくる。
総務にはたびたび、用事で出向く。彼女が応対してくれたこともあるということなので、だから見覚えがあるんだと、真紘はそこで合点がいった。
「……申し訳ないけど、どうしても好きな人がいるから」
「そう……ですか」
「柳井さん、好きになってくれてありがとう。でも、ごめん」
けれど、返事はひとつしかない。
気持ちは嬉しいし、ありがたいと思う。彼女は綺麗というより可愛い系で、どことなく薪に雰囲気が似ている。でも当然、薪じゃない。
薪じゃなければ意味がない。
「……あの、好きな人がいることは、わかりました。けど、納得はできません」
「え?」
「一回だけでいいんです。私のことを知ってもらう機会を作っていただくことはできませんか? それなら仕方ないって諦められるほど簡単な気持ちじゃないし、軽くもないんです。だって新田さん、私がどんな人間か、全然知らないじゃないですか。それを知ってから返事をしても遅くないと思うんです」
すると彼女は、思いのほか食い下がってきた。
「新田さんの都合のいいときでいいんです。……これ、連絡先です。連絡をいただけるの、待ってます。ずっとずっと、待ってます」
咄嗟の返事に困っていると続けてそう言われ、半ば押しつけるようにして小さく折り畳んだ紙も渡されてしまう。そして彼女は、がばりと腰を折って一礼すると、またカラコロと下駄を鳴らして来た道を引き返しはじめる。
「待って、柳井さん。こういうの、はっきり言って迷惑なんだ」
「っ……。迷惑って……ひどいですよ、新田さん。私だって好きなんですよ?」
「言ったでしょ、どうしても好きな人がいるからって。気持ちは嬉しいけど、これは受け取れない。ごめん。もし俺に会うのが嫌なら、これから総務への用事は別の人に頼む。この場だけのことにするから、俺のことは諦めてほしい」
「……知ってもらう機会さえ、もらえないってことですか?」
「そうだね。悪いけど」
「……」
そんな彼女の前に回り込み、渡された紙を差し出す。
彼女からしてみれば、自分の対応はかなりひどいものだという自覚はある。彼女の言うことは、そっくりそのまま薪に対する気持ちだから、なおさらだ。知ってもらう機会もないまま拒絶されるのは、耐えられないほどの苦痛を伴う。
でも、だからといって、真紘だって流されるほど簡単な気持ちじゃないし、軽くもない。もしこの場で紙を受け取ってもらえなくても、連絡するつもりもない。
「……わかり、ました。新田さんにそれほどまでに思ってもらえる人が、どんな人か、私には想像もつきませんけど、きっと素敵な人なんですよね」
「鈍感だし、詰めも甘いし、いつも危なっかしくて目が離せないけどね」
「ふふ。新田さんに見つけてもらったその人が羨ましいです」
「だといいけど」
それから彼女は、真紘が差し出した紙を引き取り、今度こそ来た道を戻っていった。下駄の音の合間に小さく鼻を鳴らしながら、その背中が徐々に見えなくなる。
「ふー……」
彼女の気配が完全に消えると、真紘はたまらず大きく息を吐き出した。
十一月の夜風は冷たく、真紘もそろそろ戻らなければ身体が冷え切ってしまう。けれど、なかなかホテルに戻る気にもなれず、しばしその場に留まる。
もともと薪を好きになっていなかったとしても恋愛する気はなかった。
仕事が忙しいのも理由のひとつだけれど、自分の性格が難ありなのは、これまでの恋人で十分に自覚していたし、恋人には〝甘えたがり〟になることも、そういえば、はっきりと言葉にして打ち明けたことはなかったように思う。
なんとなくそれらしい振る舞いをしてみたことはあるけれど、一歩引かれてしまったり、あまりいい顔をされなかったりと、こちらとしても、いい思い出はない。
端的に言うと、面倒くさい甘えたがりの自分は、もし自分が女性だったら付き合いたくないだろうし、仮に難ありだけだったとしても、敬遠するだろう。
柳井がそうとは限らないけれど、自分に寄せられる好意の中には、そもそも最初から期待や憧れや、その人の中での新田真紘像というような、ある意味、フィルター越しに見ている人もいることを、これまでの経験上から真紘はわかっていた。
だからいつも『イメージと違う』とか『こんなに難しい人とは思わなかった』なんて言われてしまうのだけれど、例えばそれを見せないように付き合ったとして、今度は『何を考えているかわからない』とか『本気で好きなのは私だけなの?』と幻滅され、結局、彼女の望む〝新田真紘〟になってやることはできなかった。
社会人になると、そこに仕事の忙しさも加わる。
――恋愛とか、しばらくいいや……。仕事だけしてるほうが、よっぽど楽だし。
そうしてここ何年も、恋愛から遠ざかってきた。
真紘はその日、気が気ではないどころか、胃が痛む勢いで心に余裕がなかった。
やっとの思いで薪に好きになってもらったのも束の間、薪は同期で親友の麻井由里子に『付き合いはじめたことをちゃんと報告したい』と言って譲らず、結局、真紘のほうが根負けし『俺のことが嫌にならないって約束できるなら、麻井と話してきてもいい』なんていう女々しすぎる条件を付けて送り出すことにしたからだ。
薪が由里子と連れ立って定時で帰っていったのは、二時間ほど前だ。
ひとり、またひとりと「お先します」と残業を終えて帰っていく同僚たちに「お疲れ様でした」と声を返しつつ、真紘自身も、今日はもうどうしたって気になりすぎて集中できないと残りの仕事を投げることにし、パソコンの電源を落とすと、ざっと戸締りを確認して編集部を出ることにする。
部長の諸住は薪たちが帰ってほどなくして、真紘を含む残業組に「早く帰るんだよ」と声をかけて編集部をあとにしていた。気づけば編集部には真紘しか残っておらず、だったらもう帰ってしまおうと、そう思ったのだった。
「……」
――つーか、麻井のやつ、専用のレーダーでも搭載してんじゃねーかな。
エレベーターで下へ降りながら、会社を出て駐車場へ向かいながら、車で家路につきながら、真紘はこれまでのことを振り返りはじめる。
思い返せば、薪を下の名前で呼びはじめたあたりから、なんとなく由里子からの含みのある視線を感じるようになっていったと思う。
その年の――去年の、二年に一度、希望者を集めて行われる社員旅行で、その視線は由里子が意図して送っていたものだったと決定づける出来事が多くあったわけだけれど、その他のことにしたって、いくら薪と同期で仲がいいとはいえ、どうしてああもタイミングよくこちらの好きがダダ漏れている場面に出くわせるのだろうと、真紘は常々、疑問に思っている。
真紘がわかりやすすぎるのか、それとも、由里子の勘が良すぎるのか。
その話になれば間違いなく不毛な議論になるだろうから、わざわざしようとは思わないけれど、とにかく、由里子は怖いやつだということだけは、間違いない。
*
最初に妙な視線を感じるなと思ったのは、これまで手のかかる後輩としか見えていなかった薪が、あることをきっかけに急に可愛く見えはじめ、そう時間はかからない間に、ああこれは恋なんだと自分の中ではっきりと自覚してからのことだ。
仕事の相談を持ち掛けてきた薪を思い切って「薪」と初めて名前で呼んでみたときの、彼女の愛くるしい表情は、一年以上が経った今でも、まるで昨日のことのように真紘の胸の一番柔らかい部分を締めつけてやまない。
きっかけとなった〝あること〟については、まだ薪に打ち明けられていないけれど、とにかく、その頃からたびたび視線を感じるようになっていったのは本当だ。
これといってこだわりがあったわけではなかったものの、同期にさえ名字呼びを通してきた真紘が後輩のひとりだけを――薪を名前で呼びはじめたことに早々と気づいた由里子は、それだけ彼女と近しい間柄なのだろう。
正直、ちょっとやりにくいなと思ったけれど、仕方がないと切り離すことにして、それからしばらくの間は、薪を名前で呼ぶことに満足しつつ、たまに冗談で『火にくべて燃やすぞ』と言ってみたりしながら、片想いを続けた。
……そのたびに薪にはビクビクされ、薪が泣きついた先の由里子には例の含みのある視線を向けられ、そして真紘は言ったことを激しく後悔し、自分の二つ名である『〝あの〟新田真紘』や『鬼の新田真紘』に落ち込んだけれど。
あとで薪にきちんと謝らなければと思う。……笑って許してくれるだろうか。
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そうした毎日の中で、社員旅行というイベントは真紘にとってプライベートに近い薪の姿を見られる絶好のチャンスだった。薪が由里子とともに参加すると知るや真紘も申し込み、期待に胸をいっぱいにさせながら当日を迎える。
けれど、そこに思わぬ邪魔が入った。――システム課の折川という男である。
折川はふわふわとした雰囲気の薪に早々に標的を定めたようで、隣にいた由里子には目もくれず、薪にばかり愛想を振りまき、見かけるたびに話しかけ、一泊二日という旅行中に急速に距離を縮めようとしていた。
「……、……っ」
――何やってんだよ、あいつら。……俺もだけど。
ひとつは、満更でもなさそうな薪の態度に。もうひとつは、いつも一緒にいる由里子が、明らかに薪が狙われているというのに、どこ吹く風なことに。さらには、気さくな態度を装って薪を喰おうとしている折川に。
そして、ハラハラしながら遠目から見ることしかできない自分自身に、真紘はひどく腹立たしい思いや焼け焦げそうなほどの焦燥感を募らせる。
夜の食事会で、遠くのほうから『薪ちゃーん!』と呼ぶ折川の声に被せるように『薪はこっち』と自分のそばに置いたのは、もう我慢も限界だったからだ。
一度、酒を注ぎに来てくれたあとのことだったので、薪には〝どうして⁉〟と、ひどく驚いた顔をされたけれど、どうにもなりふり構っていられず、食事会が終わるまで薪をそばに置くことで、折川からの接触を避けることに成功した。
薪が近くにいることと、折川を遠ざけられたことに思わずテーブルの下で小さく拳を握ってしまうほどには、このときの真紘は気分よく酔っていた。
けれど、受難はまだまだ続く。
――あ、薪。どうしよう、か、可愛い……。抱きしめたい……。
「薪ちゃん、薪ちゃん。こっちにも美味しそうなお土産があるよ」
「ほんと?」
「ほら、これとか、薪ちゃん好きそう」
――おい麻井邪魔だ薪が見えねえ! 見せろ!
「好き! わーい、買っちゃお」
「お会計はあっちだよ。行こ行こ」
「うん!」
――麻井お前わざとだな⁉ わざとなんだな⁉
売店で浴衣姿の薪たちを見かけ、なんて可愛いんだろうと頬を緩ませたのも束の間、気づいた由里子にそれとなく薪の後ろに立たれたり横に立たれたりされ、本人を隠された真紘は、麻井コノヤロウと悔しさを募らせることとなる。
泊まる部屋の階が同じだったことで、温泉から上がったばかりの薪のすっぴんを偶然にも拝めたまではよかったものの、自販機でジュースを買う薪の頬を唐突につんつんし『薪ちゃんのほっぺ、ぷにぷにだ』と、これ見よがしに触りはじめた由里子には、腹立たしさを通り越して軽く殺意さえ湧いてきてしまう。
「っ……、ぐっ……」
――おのれ麻井、この恨み、どうやって晴らしてくれよう。……今に見てろよ。いつか絶対、俺のほうがたくさん触ってやるんだからな!
悔しさのあまり声にならない声を上げつつ、それでも真紘は〝薪のほっぺたがぷにぷに〟という新たな情報を頭の中にインプットすることに忙しかったのだった。
それはそうと、さらに難は降りかかる。
――ああもう、なんかどっと疲れた……。外で少し風に当たろう。
そうしてひとり、ふらふらとホテルを出て敷地内を歩いていると、唐突に後ろから「新田さんっ!」と声をかけられ、振り返ると、なんとなく顔は見たことがある程度の女性が、カラコロと下駄を鳴らして真紘を追いかけてきていた。
直感的に嫌な予感がして、けれど振り向いてしまった手前、どうすることもできなかった真紘は、仕方なく自分も彼女のほうへ少し歩を進め、正面から向き合う。
「あ、あの、私、総務部の柳井実夏子っていいます。新田さんが用事で総務部に来るたび、ずっとずっと、いいなって思ってて。余談ですけど、私が応対したこともあるんですよ。彼女がいるって噂も聞いたことがないですし、今、フリーですよね? ……もしよかったらなんですけど、私と付き合ってもらえませんか?」
すると、胸に手を当てて上がった息を整えた彼女は、真っ直ぐに真紘を見つめて一息にそう言う。ぽつぽつと灯っている程度の街頭の明かりでもはっきりとわかるほど彼女の顔は赤く、それだけ本気で告白しているのが嫌でも伝わってくる。
総務にはたびたび、用事で出向く。彼女が応対してくれたこともあるということなので、だから見覚えがあるんだと、真紘はそこで合点がいった。
「……申し訳ないけど、どうしても好きな人がいるから」
「そう……ですか」
「柳井さん、好きになってくれてありがとう。でも、ごめん」
けれど、返事はひとつしかない。
気持ちは嬉しいし、ありがたいと思う。彼女は綺麗というより可愛い系で、どことなく薪に雰囲気が似ている。でも当然、薪じゃない。
薪じゃなければ意味がない。
「……あの、好きな人がいることは、わかりました。けど、納得はできません」
「え?」
「一回だけでいいんです。私のことを知ってもらう機会を作っていただくことはできませんか? それなら仕方ないって諦められるほど簡単な気持ちじゃないし、軽くもないんです。だって新田さん、私がどんな人間か、全然知らないじゃないですか。それを知ってから返事をしても遅くないと思うんです」
すると彼女は、思いのほか食い下がってきた。
「新田さんの都合のいいときでいいんです。……これ、連絡先です。連絡をいただけるの、待ってます。ずっとずっと、待ってます」
咄嗟の返事に困っていると続けてそう言われ、半ば押しつけるようにして小さく折り畳んだ紙も渡されてしまう。そして彼女は、がばりと腰を折って一礼すると、またカラコロと下駄を鳴らして来た道を引き返しはじめる。
「待って、柳井さん。こういうの、はっきり言って迷惑なんだ」
「っ……。迷惑って……ひどいですよ、新田さん。私だって好きなんですよ?」
「言ったでしょ、どうしても好きな人がいるからって。気持ちは嬉しいけど、これは受け取れない。ごめん。もし俺に会うのが嫌なら、これから総務への用事は別の人に頼む。この場だけのことにするから、俺のことは諦めてほしい」
「……知ってもらう機会さえ、もらえないってことですか?」
「そうだね。悪いけど」
「……」
そんな彼女の前に回り込み、渡された紙を差し出す。
彼女からしてみれば、自分の対応はかなりひどいものだという自覚はある。彼女の言うことは、そっくりそのまま薪に対する気持ちだから、なおさらだ。知ってもらう機会もないまま拒絶されるのは、耐えられないほどの苦痛を伴う。
でも、だからといって、真紘だって流されるほど簡単な気持ちじゃないし、軽くもない。もしこの場で紙を受け取ってもらえなくても、連絡するつもりもない。
「……わかり、ました。新田さんにそれほどまでに思ってもらえる人が、どんな人か、私には想像もつきませんけど、きっと素敵な人なんですよね」
「鈍感だし、詰めも甘いし、いつも危なっかしくて目が離せないけどね」
「ふふ。新田さんに見つけてもらったその人が羨ましいです」
「だといいけど」
それから彼女は、真紘が差し出した紙を引き取り、今度こそ来た道を戻っていった。下駄の音の合間に小さく鼻を鳴らしながら、その背中が徐々に見えなくなる。
「ふー……」
彼女の気配が完全に消えると、真紘はたまらず大きく息を吐き出した。
十一月の夜風は冷たく、真紘もそろそろ戻らなければ身体が冷え切ってしまう。けれど、なかなかホテルに戻る気にもなれず、しばしその場に留まる。
もともと薪を好きになっていなかったとしても恋愛する気はなかった。
仕事が忙しいのも理由のひとつだけれど、自分の性格が難ありなのは、これまでの恋人で十分に自覚していたし、恋人には〝甘えたがり〟になることも、そういえば、はっきりと言葉にして打ち明けたことはなかったように思う。
なんとなくそれらしい振る舞いをしてみたことはあるけれど、一歩引かれてしまったり、あまりいい顔をされなかったりと、こちらとしても、いい思い出はない。
端的に言うと、面倒くさい甘えたがりの自分は、もし自分が女性だったら付き合いたくないだろうし、仮に難ありだけだったとしても、敬遠するだろう。
柳井がそうとは限らないけれど、自分に寄せられる好意の中には、そもそも最初から期待や憧れや、その人の中での新田真紘像というような、ある意味、フィルター越しに見ている人もいることを、これまでの経験上から真紘はわかっていた。
だからいつも『イメージと違う』とか『こんなに難しい人とは思わなかった』なんて言われてしまうのだけれど、例えばそれを見せないように付き合ったとして、今度は『何を考えているかわからない』とか『本気で好きなのは私だけなの?』と幻滅され、結局、彼女の望む〝新田真紘〟になってやることはできなかった。
社会人になると、そこに仕事の忙しさも加わる。
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