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■2.気づきはじめるメレンゲクッキー
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耀介はもともと、クラスの人気者で中心人物だ。耀介がクラスにいると思うだけで学校に行くのが楽しみになるような、そんな太陽みたいな存在と言える。それに、リレーでは他クラスを抜き返すだけではなく、独走状態だった一位のクラスに肝を冷やさせた立役者だ。
だからバトンを上手く繋げなかった彼女がまず耀介のところに行く気持ちはわかるし、もし悠太が同じ立場だったとしても、真っ先にごめんと言うのは耀介だ。
でも、ただのクラスメート同士のやり取りなのに、どうしてこんなに胸が痛いのだろう。見たくないのに、なんで目が逸らせないのだろう。
「耀介、いろいろイケメンすぎ。こりゃ、遠野さん、惚れちゃったかもな」
「……」
「おーい、悠太?」
「えっ。あ、うん。……かもね」
隣で一緒にリレーの応援をしていたモトの何の気なしの一言にさえ上手く返事ができないくらいには、悠太は自分でも動揺を自覚して、だから余計に耀介と彼女――遠野凪紗との間に何か特別なものが生まれやしないかと目が逸らせないのかもしれない。
「だって耀介、めちゃくちゃ格好よかったもんよ。納得だわ」
「……だね」
「まあ、遠野さんとは限らないけどさ。でも、惚れちゃった子は多いかもね」
「う、うん」
モトとの会話も、自分でもびっくりするくらい身が入らない。
内容にまで気が回らず、やっぱり悠太は、耀介と彼女との間に何か特別なものが生まれやしないかと無性に胸がザワザワして、目が勝手に二人を追ってしまった。
「みんな、ただいまー! てか、聞いてくれよ。順位判定の先生が、頭半分の差でお前は二位だって言って譲らなくてさー。俺の中では抜いてやったぜって感じだったんだけど、あの頑固者め……。来年こそはぶっちぎるから、それまで待ってて!」
結局、陣地に戻ってくるまでには彼女の涙は引いたようで、そう言って笑う耀介につられて笑う彼女の目元は少しだけ濡れているように見える程度まで落ち着いていた。
彼女が自分の失敗を引きずらないように、ごめん、とか、悪い、惜しかった、なんていう後ろ向きな言葉を使わず、明るい口調とおどけた調子で場を盛り上げる耀介は、ちょっとだけ落ち込んだ表情を垣間見せている絢斗にも、ゆるりと肩に腕を回して「リベンジしてやろうぜー!」と同じように笑って言って、笑顔を誘う。
月曜日の試食会で耀介とした、からかえるのは順位なんて関係ないと思っているからこそだ、というような会話の通り、耀介たちリレーメンバーをとやかく言うクラスメートなんていないし、逆にあそこまで追い上げたことを称える声ばかりが飛ぶ。
悠太も、いまだに胸がザワザワしたままなことを除けば、もちろん同じだ。
リレーを頑張る主な理由が、悠太が火曜日に作ってくるメレンゲクッキーだというのは純粋にすごく嬉しいし、そのためのあの走りだったのだろうと思うと、うっかり涙が出てきてしまいそうなほど、胸に込み上げてくるものがある。
でも、あんなふうなさり気ないフォローの言葉をかけてもらったら好きになるのも時間の問題かもしれない、なんてふと思ってしまい、悠太は正直、気が気じゃない。
それが胸のザワザワの原因なのは、わかるつもりだ。でも、果たしてこれは友達に対して持ってもいい気持ちなのだろうかと考えると、そこから先は心にも頭にもモヤがかかったみたいに、はっきりしなくなって、途端に〝わからない〟になる。
こんな気持ちになること自体が初めてで、それがどんな気持ちから来るものなのかも、悠太にははっきりしない。ただ、もし彼女を宥めているのがモトだったら、羨ましいなと思いはしても、ほかには特に何も感じないと、あのとき、はっきり思ってしまった。
友達に対する気持ちとしては重すぎる気もするそれは、でも、だからといって、これがそうだと闇雲に名前をつけてもいい気持ちとは限らないと悠太は思う。
だからこそ悠太は、これが俗に言う〝アレ〟じゃあるまいし、と何度もぼやかしてきたし、甘さ増し増しだろうと、むやみやたらに見せていい顔じゃない顔をされようと、口説かれているみたいだと錯覚してしまわないように、勘違いしてしまわないように、自分で自分を宥めたり心に言い聞かせたりして〝友達〟の距離感を意識してきた。
だって耀介は、とんでもない人たらしだ。
もしこれまでの耀介の言葉や行動や向けられた表情をそのまま受け取ってしまったら、耀介をただの〝仲のいい友達〟としては見られなくなってしまいそうで、怖い。
――それだけは絶対に嫌だ。
「ごめん、モト。なんか顔が熱くてさ。冷やしたいから、ちょっと洗ってこようと思う。もし誰かに何か聞かれたら、悪いけど、そう言っといてくれる?」
そう言うと、悠太はクラスの輪から少しずつ抜ける。
もう頭の中がぐちゃぐちゃで、自分のもののはずなのに、自分の気持ちもわからない。落ち着いてくるまで一人になって頭を冷やさないと、戻ってきたときに耀介の顔がまともに見られそうにないし、胸のザワザワも下火になってくれそうにない。
これからも耀介と友達として変わらず付き合っていくためには、今、感じているような友達に抱くものとは毛色が違う気持ちは耀介本人には絶対に悟られてはいけないから、きちんと落ち着くべきところに落ち着くまでは、一人になりたかった。
「え、大丈夫かよ? 付いてかなくていいの?」
「うん。ずっと陽を浴びてたからかもだから、冷やせば問題ないと思う」
「……なら、いいけど。無理すんなよー?」
「わかってる。ありがと」
輪を抜けると、背中から追いかけてくる心配そうなモトの声とそんなやり取りをして、悠太は校舎のほうへ向かう。校庭にも水道はあるけれど、ちらとそちらを見ると水筒に水を補充したい人やタオルを濡らしたい人でそれなりに賑わっていて、行きにくい。
というより、そもそもが自分を落ち着けるために一人になりたくて捻り出した理由だったから、日陰がほぼないそちらへは、最初から行けるはずもなかった。
「――あー、もう。どうしちゃったんだよ、俺。しっかりしろよ……!」
そうして外とは違ってひんやりとした校舎に入った悠太は、まず目に付いた手洗い場で頭から水をかけながら、そう言って自分自身を叱咤した。それから何度も、耳や心に自分の声がきちんと浸透するように「しっかりしろよ」と繰り返す。
モトには無駄な心配をさせてしまったけれど、とはいえ、クラスの輪を抜けてきた本当の理由は言えない。かといって誰かに相談できるようなものでもない気がして、悠太は、頭から勢いよく水を被っているからだけではない息苦しさを覚える。
こんなふうに完全に詰んでしまっている状態では、悠太は自分で自分の気持ちをどうにかするしかなく、加えて、文字通り頭を冷やせば少しずつ落ち着いてくるかと思ったものの、実際は頭が濡れたことで少しずつ体が寒くなってくるばかりだった。
「……っくしゅっ」
しまいには、くしゃみまで出るという有様だ。
「……、……よし。行くか」
けれど、ずっと落ちてばかりもいられない。
体が冷えたことがきっかけとなって、だんだんと頭のほうも落ち着いてきた悠太は、まずは早くクラスのみんなのところへ戻ることだと思考を切り替え、蛇口の水を止めると持ってきていたタオルでわしゃわしゃと頭を拭きながら昇降口へ向かった。
「わっ、眩し……っ」
校舎を出ると途端に陽の光が悠太を差して、思わすそう声を上げながら目を細める。それからゆっくりと目を開け、グラウンドの奥のほうに陣地を構える自分の団の、耀介やモトや絢斗たちクラスメートが固まっているだろう場所を探した。
見つけるのはひどく簡単だ。
おおよその場所の目星は付いていたのもあるけれど、ほかの団やクラスと違って大いに盛り上がっている様子は〝まさしく〟といった感じだし、ともすれば楽しそうな笑い声が風に運ばれて離れた場所にいる悠太の耳にまで届くかと思うほどだった。
そしてやっぱり、中心になっているのは太陽みたいにキラキラしている耀介だ。
「……すげー。ここからでもみんなの真ん中が耀介だって超わかる」
その輪を抜けてからどれくらい経ったのかは、スマホを置いてきたから正確なところはわからない。けれど、もうそろそろ戻らないとモトを本気で心配させてしまうくらいには、長く抜けていた自覚はある。それに、離れた場所からでも〝あそこにいるのがそうだ〟とすぐにわかる耀介にも、そういえばまだリレーの感想を伝えていない。
そしてそれらは、あの場所に戻らなければ、はじまらないことだ。
「――ああ、そっか」
そのときふいに、何でもないことで笑い合える関係でいられれば、それでいいんじゃないかと、悠太はストンと胸に落ちるものがあったような、そんな気がした。
感覚を言葉に置き換えるのは難しいけれど、強いてするなら、そういう関係でいられることが一番、大切で大事で、ほかの何よりも守りたいこと――という感じだろうか。
モトともそうだし、耀介とも、もちろんそうだ。絢斗とだって、ほかのクラスメートとだってそれは変わらないし、変わりたくない。……変えたくない。
だったら、悠太がするべきことは最初から決まっていたようなものだ。
「あっ、悠太! モトから聞いたよ。体調、大丈夫なの?」
「心配かけてごめんな。冷やしたら良くなったから、もう大丈夫。ありがと」
それからややして、陣地に戻るなりすぐに気づいた耀介に心配顔で尋ねられた悠太は、そう言って笑って、モトにも〝今戻ったよ、いろいろありがとう〟と頷く。
悠太の意図するところを察したモトも口角を上げて頷き返してくれて、ひとまずこれで、一人になって頭を冷やすための悠太のちょっとした離脱は終わった。
「そう? でもまた体調が悪くなっ……え、待ってなんでそんなに濡れてんの? 頭から水を被ったみたいな濡れ方なんかして、校舎の中で一体、何があったの」
「あー。なんか、蛇口が甘くなってたみたいで、捻ったらブシャーって」
「マジで?」
「うん。おかげで髪もジャージも濡れちゃってさー。もーって感じ」
「うわー、災難じゃん」
「まあねー」
本当は耀介が言った通りのことをしてきたから濡れたわけで、欲を言えば、その濡れた髪やジャージがもう少し乾いてから戻りたかった。けれど、抜けていた時間的にそういうわけにもいかなくて、結局は耀介に小さな嘘をつく形になってしまったことは否めない。
でも、そのおかげで頭も心も冷静になれたし、離れたところから自分のクラスを見る機会があったことで得られたものは大きく、また、自分がするべきこともはっきりした。
ちょっと大袈裟かもしれないけれど、離れたところから見たこのクラスは、悠太にとって〝ほかの何よりも守りたいもの〟として目に映った。真ん中に太陽みたいにキラキラ眩しい耀介がいて、周りには、そんな耀介に引き寄せられるように自然と絢斗やモトやみんな、そして悠太が集まる。明るく気さくで楽しい人柄の担任はそんな自分たちを温かく見守ってくれて――そんなの、理想のクラスと言わないで、ほかにどんな言い方があるのだろう。
こんな素敵なクラスは、どこを探しても見つからないんじゃないかとさえ思う。
「それより。さっきのリレー、めちゃくちゃ痺れた! すごいな、耀介!」
ぐっと喉の奥に力を入れて唾を飲み込むと、悠太はようやくリレーの感想を伝える。
いつも通り、口調も態度もほかのみんなと接するのと同じように、そして、そう意識していることを勘付かれないように、ごくごく自然な調子を心がける。
「でしょー? ご褒美が待ってるからね。てか、もっと褒めてもいいんだよー?」
「わはは。自画自賛かよ。わかってるって。楽しみに待っとけ」
「お守り代わりに悠太のお題の紙も持ってたからね。そりゃ、頑張りますよ」
「ははっ。相変わらず耀介はイケメンだなー」
するといつも通りの会話が生まれて、悠太は、一瞬だけチクリと胸が刺したのと同時に、何にも代えがたい大きな安心感でいっぱいに包まれ、内心でほっと息をついた。
そのときふいに視線を感じて、悠太は元を辿るように、つとそちらに目を向ける。
……ああ、うん。わかる。わかるよ。
その先には耀介しか目に入っていない様子の遠野凪紗の姿があって、悠太は、ふ、と口元に笑みを作ると耀介の背中を押して「遠野さんが呼んでる」とまた小さな嘘をつく。
ほかの何よりも守りたいものが、ここにある。
背中を押したときも、いつも通り、ちゃんと友達の顔で笑えていたと思う。
だからバトンを上手く繋げなかった彼女がまず耀介のところに行く気持ちはわかるし、もし悠太が同じ立場だったとしても、真っ先にごめんと言うのは耀介だ。
でも、ただのクラスメート同士のやり取りなのに、どうしてこんなに胸が痛いのだろう。見たくないのに、なんで目が逸らせないのだろう。
「耀介、いろいろイケメンすぎ。こりゃ、遠野さん、惚れちゃったかもな」
「……」
「おーい、悠太?」
「えっ。あ、うん。……かもね」
隣で一緒にリレーの応援をしていたモトの何の気なしの一言にさえ上手く返事ができないくらいには、悠太は自分でも動揺を自覚して、だから余計に耀介と彼女――遠野凪紗との間に何か特別なものが生まれやしないかと目が逸らせないのかもしれない。
「だって耀介、めちゃくちゃ格好よかったもんよ。納得だわ」
「……だね」
「まあ、遠野さんとは限らないけどさ。でも、惚れちゃった子は多いかもね」
「う、うん」
モトとの会話も、自分でもびっくりするくらい身が入らない。
内容にまで気が回らず、やっぱり悠太は、耀介と彼女との間に何か特別なものが生まれやしないかと無性に胸がザワザワして、目が勝手に二人を追ってしまった。
「みんな、ただいまー! てか、聞いてくれよ。順位判定の先生が、頭半分の差でお前は二位だって言って譲らなくてさー。俺の中では抜いてやったぜって感じだったんだけど、あの頑固者め……。来年こそはぶっちぎるから、それまで待ってて!」
結局、陣地に戻ってくるまでには彼女の涙は引いたようで、そう言って笑う耀介につられて笑う彼女の目元は少しだけ濡れているように見える程度まで落ち着いていた。
彼女が自分の失敗を引きずらないように、ごめん、とか、悪い、惜しかった、なんていう後ろ向きな言葉を使わず、明るい口調とおどけた調子で場を盛り上げる耀介は、ちょっとだけ落ち込んだ表情を垣間見せている絢斗にも、ゆるりと肩に腕を回して「リベンジしてやろうぜー!」と同じように笑って言って、笑顔を誘う。
月曜日の試食会で耀介とした、からかえるのは順位なんて関係ないと思っているからこそだ、というような会話の通り、耀介たちリレーメンバーをとやかく言うクラスメートなんていないし、逆にあそこまで追い上げたことを称える声ばかりが飛ぶ。
悠太も、いまだに胸がザワザワしたままなことを除けば、もちろん同じだ。
リレーを頑張る主な理由が、悠太が火曜日に作ってくるメレンゲクッキーだというのは純粋にすごく嬉しいし、そのためのあの走りだったのだろうと思うと、うっかり涙が出てきてしまいそうなほど、胸に込み上げてくるものがある。
でも、あんなふうなさり気ないフォローの言葉をかけてもらったら好きになるのも時間の問題かもしれない、なんてふと思ってしまい、悠太は正直、気が気じゃない。
それが胸のザワザワの原因なのは、わかるつもりだ。でも、果たしてこれは友達に対して持ってもいい気持ちなのだろうかと考えると、そこから先は心にも頭にもモヤがかかったみたいに、はっきりしなくなって、途端に〝わからない〟になる。
こんな気持ちになること自体が初めてで、それがどんな気持ちから来るものなのかも、悠太にははっきりしない。ただ、もし彼女を宥めているのがモトだったら、羨ましいなと思いはしても、ほかには特に何も感じないと、あのとき、はっきり思ってしまった。
友達に対する気持ちとしては重すぎる気もするそれは、でも、だからといって、これがそうだと闇雲に名前をつけてもいい気持ちとは限らないと悠太は思う。
だからこそ悠太は、これが俗に言う〝アレ〟じゃあるまいし、と何度もぼやかしてきたし、甘さ増し増しだろうと、むやみやたらに見せていい顔じゃない顔をされようと、口説かれているみたいだと錯覚してしまわないように、勘違いしてしまわないように、自分で自分を宥めたり心に言い聞かせたりして〝友達〟の距離感を意識してきた。
だって耀介は、とんでもない人たらしだ。
もしこれまでの耀介の言葉や行動や向けられた表情をそのまま受け取ってしまったら、耀介をただの〝仲のいい友達〟としては見られなくなってしまいそうで、怖い。
――それだけは絶対に嫌だ。
「ごめん、モト。なんか顔が熱くてさ。冷やしたいから、ちょっと洗ってこようと思う。もし誰かに何か聞かれたら、悪いけど、そう言っといてくれる?」
そう言うと、悠太はクラスの輪から少しずつ抜ける。
もう頭の中がぐちゃぐちゃで、自分のもののはずなのに、自分の気持ちもわからない。落ち着いてくるまで一人になって頭を冷やさないと、戻ってきたときに耀介の顔がまともに見られそうにないし、胸のザワザワも下火になってくれそうにない。
これからも耀介と友達として変わらず付き合っていくためには、今、感じているような友達に抱くものとは毛色が違う気持ちは耀介本人には絶対に悟られてはいけないから、きちんと落ち着くべきところに落ち着くまでは、一人になりたかった。
「え、大丈夫かよ? 付いてかなくていいの?」
「うん。ずっと陽を浴びてたからかもだから、冷やせば問題ないと思う」
「……なら、いいけど。無理すんなよー?」
「わかってる。ありがと」
輪を抜けると、背中から追いかけてくる心配そうなモトの声とそんなやり取りをして、悠太は校舎のほうへ向かう。校庭にも水道はあるけれど、ちらとそちらを見ると水筒に水を補充したい人やタオルを濡らしたい人でそれなりに賑わっていて、行きにくい。
というより、そもそもが自分を落ち着けるために一人になりたくて捻り出した理由だったから、日陰がほぼないそちらへは、最初から行けるはずもなかった。
「――あー、もう。どうしちゃったんだよ、俺。しっかりしろよ……!」
そうして外とは違ってひんやりとした校舎に入った悠太は、まず目に付いた手洗い場で頭から水をかけながら、そう言って自分自身を叱咤した。それから何度も、耳や心に自分の声がきちんと浸透するように「しっかりしろよ」と繰り返す。
モトには無駄な心配をさせてしまったけれど、とはいえ、クラスの輪を抜けてきた本当の理由は言えない。かといって誰かに相談できるようなものでもない気がして、悠太は、頭から勢いよく水を被っているからだけではない息苦しさを覚える。
こんなふうに完全に詰んでしまっている状態では、悠太は自分で自分の気持ちをどうにかするしかなく、加えて、文字通り頭を冷やせば少しずつ落ち着いてくるかと思ったものの、実際は頭が濡れたことで少しずつ体が寒くなってくるばかりだった。
「……っくしゅっ」
しまいには、くしゃみまで出るという有様だ。
「……、……よし。行くか」
けれど、ずっと落ちてばかりもいられない。
体が冷えたことがきっかけとなって、だんだんと頭のほうも落ち着いてきた悠太は、まずは早くクラスのみんなのところへ戻ることだと思考を切り替え、蛇口の水を止めると持ってきていたタオルでわしゃわしゃと頭を拭きながら昇降口へ向かった。
「わっ、眩し……っ」
校舎を出ると途端に陽の光が悠太を差して、思わすそう声を上げながら目を細める。それからゆっくりと目を開け、グラウンドの奥のほうに陣地を構える自分の団の、耀介やモトや絢斗たちクラスメートが固まっているだろう場所を探した。
見つけるのはひどく簡単だ。
おおよその場所の目星は付いていたのもあるけれど、ほかの団やクラスと違って大いに盛り上がっている様子は〝まさしく〟といった感じだし、ともすれば楽しそうな笑い声が風に運ばれて離れた場所にいる悠太の耳にまで届くかと思うほどだった。
そしてやっぱり、中心になっているのは太陽みたいにキラキラしている耀介だ。
「……すげー。ここからでもみんなの真ん中が耀介だって超わかる」
その輪を抜けてからどれくらい経ったのかは、スマホを置いてきたから正確なところはわからない。けれど、もうそろそろ戻らないとモトを本気で心配させてしまうくらいには、長く抜けていた自覚はある。それに、離れた場所からでも〝あそこにいるのがそうだ〟とすぐにわかる耀介にも、そういえばまだリレーの感想を伝えていない。
そしてそれらは、あの場所に戻らなければ、はじまらないことだ。
「――ああ、そっか」
そのときふいに、何でもないことで笑い合える関係でいられれば、それでいいんじゃないかと、悠太はストンと胸に落ちるものがあったような、そんな気がした。
感覚を言葉に置き換えるのは難しいけれど、強いてするなら、そういう関係でいられることが一番、大切で大事で、ほかの何よりも守りたいこと――という感じだろうか。
モトともそうだし、耀介とも、もちろんそうだ。絢斗とだって、ほかのクラスメートとだってそれは変わらないし、変わりたくない。……変えたくない。
だったら、悠太がするべきことは最初から決まっていたようなものだ。
「あっ、悠太! モトから聞いたよ。体調、大丈夫なの?」
「心配かけてごめんな。冷やしたら良くなったから、もう大丈夫。ありがと」
それからややして、陣地に戻るなりすぐに気づいた耀介に心配顔で尋ねられた悠太は、そう言って笑って、モトにも〝今戻ったよ、いろいろありがとう〟と頷く。
悠太の意図するところを察したモトも口角を上げて頷き返してくれて、ひとまずこれで、一人になって頭を冷やすための悠太のちょっとした離脱は終わった。
「そう? でもまた体調が悪くなっ……え、待ってなんでそんなに濡れてんの? 頭から水を被ったみたいな濡れ方なんかして、校舎の中で一体、何があったの」
「あー。なんか、蛇口が甘くなってたみたいで、捻ったらブシャーって」
「マジで?」
「うん。おかげで髪もジャージも濡れちゃってさー。もーって感じ」
「うわー、災難じゃん」
「まあねー」
本当は耀介が言った通りのことをしてきたから濡れたわけで、欲を言えば、その濡れた髪やジャージがもう少し乾いてから戻りたかった。けれど、抜けていた時間的にそういうわけにもいかなくて、結局は耀介に小さな嘘をつく形になってしまったことは否めない。
でも、そのおかげで頭も心も冷静になれたし、離れたところから自分のクラスを見る機会があったことで得られたものは大きく、また、自分がするべきこともはっきりした。
ちょっと大袈裟かもしれないけれど、離れたところから見たこのクラスは、悠太にとって〝ほかの何よりも守りたいもの〟として目に映った。真ん中に太陽みたいにキラキラ眩しい耀介がいて、周りには、そんな耀介に引き寄せられるように自然と絢斗やモトやみんな、そして悠太が集まる。明るく気さくで楽しい人柄の担任はそんな自分たちを温かく見守ってくれて――そんなの、理想のクラスと言わないで、ほかにどんな言い方があるのだろう。
こんな素敵なクラスは、どこを探しても見つからないんじゃないかとさえ思う。
「それより。さっきのリレー、めちゃくちゃ痺れた! すごいな、耀介!」
ぐっと喉の奥に力を入れて唾を飲み込むと、悠太はようやくリレーの感想を伝える。
いつも通り、口調も態度もほかのみんなと接するのと同じように、そして、そう意識していることを勘付かれないように、ごくごく自然な調子を心がける。
「でしょー? ご褒美が待ってるからね。てか、もっと褒めてもいいんだよー?」
「わはは。自画自賛かよ。わかってるって。楽しみに待っとけ」
「お守り代わりに悠太のお題の紙も持ってたからね。そりゃ、頑張りますよ」
「ははっ。相変わらず耀介はイケメンだなー」
するといつも通りの会話が生まれて、悠太は、一瞬だけチクリと胸が刺したのと同時に、何にも代えがたい大きな安心感でいっぱいに包まれ、内心でほっと息をついた。
そのときふいに視線を感じて、悠太は元を辿るように、つとそちらに目を向ける。
……ああ、うん。わかる。わかるよ。
その先には耀介しか目に入っていない様子の遠野凪紗の姿があって、悠太は、ふ、と口元に笑みを作ると耀介の背中を押して「遠野さんが呼んでる」とまた小さな嘘をつく。
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