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■2.下僕、鬼にアレを奪われる
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けれど、その答えは意外にもあっさり判明した。
「わあ、すごいホテルですね! 松の木も立派ですし、厳格あるホテルって感じがします! ほんと、こんなところに泊まれたら一生の思い出になるでしょうね」
「だろ? 建て替え工事中だったから、しばらく『iroha』には載せられなかったけど、工事が終わったって聞いて、できるだけ早くあいさつしておきたいと思ってたんだ。俺も久しぶりに来たけど、相変わらずやべーくらい、いいところだ」
「やべーって……。でも、そうですね。私もそう思います」
先週と同じく、一度部屋へ帰って身支度を整えたところに絶妙のタイミングで迎えに来た真紘の車で向かった、山あいの温泉地にあるという老舗ホテルは、さすがの真紘も思わず語彙力を失ってしまうほどの圧巻の佇まいで薪たちを出迎えた。
立派な松の木が二本、まるで門の代わりのように立っているそこは、建て替える前の姿を知らない薪にも、以前からの趣のある雰囲気をそのまま引き継いでいるような気配が佇まいから窺える、まさに老舗中の老舗という印象だった。
車から一歩、外に出た瞬間から空気も違うように感じて、はしゃいだ声を上げたのもつかの間、薪は無意識に背筋が伸びる。
――主任ってば、ここに来たくて朝からご機嫌だったんだ。
内心で、ちょっと可愛い、なんて思いながら、けれどこれは誰だってご機嫌になるはずだと薪は納得する。落ち着いた趣のある雰囲気の中にも凛と澄んでいる空気があって、それがとても気持ちいい。きっとおもてなしも最高なのだろう。こんなに素敵なホテルをまた『iroha』で紹介させてもらえるだろう嬉しさと緊張感で、薪の胸はドキドキと高鳴っていった。
「だったら薪。お前がやってみるか?」
「ええっ⁉」
すると真紘がさらりとした口調で言って、薪は大きく目を見開いた。
「何びっくりした顔してんだよ。薪もこれから担当するんだろ。ゆくゆくは任せようって思ってるって話だ。今すぐってわけじゃねーよ」
「ああ、そういう……」
だったらちゃんとそう説明してほしい。相変わらず説明不足で言葉足らずだなと苦笑しながら、薪は内心でほっと胸を撫で下ろす。
こんなに立派なホテルは、担当するのに相当の気合いと覚悟が必要だ。そのほかの顧客がどうこうというわけではないけれど、いきなりひとりで任されるわけではないのだとわかって、やっぱり安心する気持ちのほうが先に立ってしまう。
「俺もそこまで鬼じゃない。よし、行くぞ」
「あ、待ってくださいよ主任」
スタスタ歩いていく真紘を慌てて追いかけながら、そういえばかなり口が悪いだけで、けしてワンマンな人じゃないもんなと薪は思う。
真紘が鬼になるときは、たいてい、こちら側が顧客や仕事に対して甘いときや迷いがあるときだ。自分でも、もうちょっと何かないか、と引っかかりを覚えているときには、エスパー並みの察知能力と嗅覚で的を得た鬼発言をしてくることが多い。とはいえ、それが本当に理にかなっているのだから、さすがなのだ。そしてそのおかげで引っかかりが消える。だから鬼の〝見る力〟は凄まじいものがある。
――私にはわりとワンマンだけど。……下僕って損だ。
それはともかくとして、ホテルの中に入ると、真紘は珍しく「アポなしだからな……」と自信なさげに呟いて広報担当者に会えるかフロントへ話を聞きに行った。直接あいさつができるに越したことはないけれど、なにぶん老舗中の老舗だ、薪もロビーで待ちながら徐々に大きくなっていく緊張をどうにかしようと、胸に手を当てて深呼吸を繰り返す。
ややして真紘がひとりで戻ってくるのが見えた薪は、今日は都合が合わなかったのだろうとわかるなり、あからさまにほっとしてしまい、慌てて自分を叱咤する。
――危ない危ない。こういうところが私はダメなんだ。
ゆくゆくはひとりで担当することになるのだから、しっかりしなければ。
「……お前な、俺がひとりで戻ってきたからって、ふやけた顔なんてしやがって」
「すみません。今、そんな自分を怒っていたところです」
「ったく。今日は出張だと」
「そ、そうなんですね。ははは」
案の定、真紘にもすぐに指摘されてしまい、薪は笑うしかない。
こういうところもきっと、今ひとつ伸び悩んでいる誌面の編集につながっているのだろう。すぐにどうこうできるわけではないけれど、ひとつひとつ磨いていって、一日でも早く真紘に安心して任せてもらえるようにならなければと、薪は新たに気持ちを入れ直した。
「――と、まあ、説教くさいのはこれくらいにして。ほんじゃあ、ちょっとそこら辺をぶらっとしてから帰るとするか。近くに無料の足湯もあるらしいぞ」
「わあ、それは素敵!」
すると真紘が場を仕切り直すように言って、薪も手を合わせて歓迎した。
いくら広報担当の人に会えなかったからとはいっても、このまま帰るなんて本当にもったいない。けれど勝手にホテルの中を見学するのもおかしな話だと思っていたから、真紘の提案は薪も嬉しい。
けれど、そこで〝じゃあ行こう〟とならないのが真紘が鬼と呼ばれる所以だ。
「この一週間、ほとんど歩きっぱなしだっただろうからな。来週からのために足湯でしっかり癒せば、どれだけきつくても持ち堪えられるだろうよ」
「あ、そういう感じで……」
――主任め。いや鬼め。
ニヤリと口の端を持ち上げて笑う真紘に遠い目をするしかない薪だった。
そんなことがありつつも、わざわざ外まで見送りに出てきてくれた従業員に突然の訪問を丁寧に詫びると、薪と真紘は車に乗り込み足湯へ向かった。
ここから車で三分もあれば着くという足湯場は、山のほうへと続く緩やかな登り坂の途中にあるそうだ。薪は、ゆっくりとしたスピードで進んでいく車の助手席から、道の両端に所狭しと軒を連ねる昔ながらの木造旅館や味のある土産物屋の数々を食い入るように見つめる。
ホテルへ着くまでの道のりでも思ったけれど、ここは、この温泉街全体が〝ひとつの景観〟として成り立っている。その道中にしてくれた真紘の説明によると、目の前にそびえる山の裾野に広がるこの温泉街は、街の至るところから源泉が湧き出ているのだという。
実際、中心部になるにつれて、もうもうと立ち上る湯気が多く濃くなる様は圧巻で、寒くなるこれからの時期はさぞ訪れた人々の心を掴んで離さないことだろうと思うと、真紘がご機嫌でここに連れて来たかった意味もわかるというものだった。
「この温泉街全体を『iroha』で特集できたら、どんなに素敵でしょうね」
「そうできるように薪も俺も頑張らないとだな」
「はいっ!」
振り向きざまに、にっこり笑って返事をすると、真紘も緩く口元に弧を描いた。先ほどの意地悪な笑い方ではなく穏やかなそれは、その瞬間、不覚にもちょっとだけ薪の胸の柔らかい部分を掴んでしまって、薪は咄嗟にしまったなと思う。
――もう。だから鬼なんだってば、この人は……。
ふいに優しかったり穏やかだったりされると、薪はそれまでの調子がどうにも狂ってしまって仕方がない。説明不足で言葉足らずな上に薪にはわりとワンマンなところがある真紘がふとした瞬間に見せる鬼以外の顔は、だって思っていたよりずっと格好いい。だから、ついうっかり真紘に憧れを抱く社内の女子社員の気持ちがわかってしまって、反応に困るのだ。
――全部が鬼じゃないのは、もう知ってるけど。
とはいえほぼほぼ鬼でもあるので、あまり真紘に心を乱されたくない薪だった。
「よし。着いたぞ薪」
そんな薪を乗せた車は、きっかり三分後、足湯場に到着した。
車で来る人も多いのだろう、広くはないけれど綺麗に整備された駐車スペースに車を停めた真紘は、薪にも降りるぞと促し、さっそく足湯場へ歩いていった。薪は「待ってくださいよ」と慌ててその背中を追いかけ、ズボンやスカートを膝下までたくし上げると、足湯場に真紘と向かい合わせに腰を下ろし、ふたりでほぼ同時にほうと一息つく。
広さは畳、二畳ほどだろうか。東屋のように屋根もあって、腰を下ろす座面や湯船の中も全面が檜造りという凝った足湯場だ。
そして周りには一面、山の景色が広がっている。まだまだ紅葉が見頃のため、赤や黄色、オレンジに染まった山が目に心に美しい。
週末だけれどちょうど先客はおらず、真紘と貸し切り状態だった。
「主任、主任。ここのお湯も源泉を引いているんですよね? 足だけですけど、なんだか芯から温まってきて、心も体も癒されますね」
「説明書きにそう書いてあるな。効能は、筋肉痛や関節痛、肩凝りに冷え性……あと、バカにも効く、だそうだ。なんだ、薪にぴったりだな」
「ちょっと主任⁉」
真紘が自分の近くにあった効能を記した立て看板を読み上げるけれど、さすがに『バカにも効く』などと書いてあるはずがない。すかさずツッコミを入れる薪を見て肩を揺らしながらおかしそうに笑う目の前の真紘は、今はただの悪ガキだ。
真紘にとってはおそらく、薪にちょっかいをかけてその反応を見るのが一種の趣味のようなものなのだろう。薪は昔から、わりと表情がくるくる変わるほうだったりするので、もしかしたら真紘にはその様子が楽しいのかもしれない。
――まったくこの鬼は。タチが悪いったらありゃしないんだから。
「でも、ここまで足を伸ばしてよかっただろ?」
ぷっくりと頬を膨らませて「バカはさすがに言いすぎですよ。……まあバカですけど」と不貞腐れていると、そう言って真紘が得意げに顎を持ち上げる。
「……そうですね。連れて来てもらって、感謝してます」
「お? なんだ素直じゃん」
「はい、まあ」
その顔がやけに悔しくはあったものの、見渡す限りの綺麗な景色の効果か、はたまた、足湯の癒し効果が抜群のためか、素直に感謝の気持ちを言いたくなった薪は、改まるとなぜか気恥ずかしくなるという法則通り、胸をムズムズさせながらはにかみ、小さく頭を下げる。
思えばここ最近、なんだかんだありつつも、こんなことでもなければできなかったと思うような体験ばかりをさせてもらっている。
いつものように週末の休みは日がな一日、ごろごろして過ごしていては、見渡す限りの綺麗な景色も、可愛らしい東屋の足湯場も、先ほどの思わず背筋が伸びる老舗のホテルも、きっと〝真紘が手掛けた広告〟として何号か先の『iroha』の上でしか見られないものになっていただろう。
そして薪は、自分が作った広告と見比べて落ち込むのだ。
力の差も経験の差も、センスだって自分はまだまだ真紘の足元にも及ばないことは十分に自覚していても、絶対にだ。
でも、何をどうすればいいのか今ひとつ掴めないまま、また目まぐるしく日々は過ぎ、疲れ果てた週末は、趣味の恋愛映画を観たり、ごろごろしたりして過ごす。そして週が明ければ仕事に忙殺される――その繰り返しになってしまう。
そのままでは、いつまで経っても伸び悩んでいる自分からは抜け出せないことはわかっていても、目先の自由な時間に目が眩んで、結局は自分を奮い立たせられないまま、これまでと、いつもと何も変わらない薪になってしまうのだ。
そんな自分とさよならできるチャンスは、きっと今しかない。
「可愛いことが言えたご褒美だ」
そのとき――ちゃぷん。
いつになく優しげな真紘の声とともに、目の前の湯船のお湯が揺れた。そこに影が差して、薪は何がだろうと不思議に思って顔を上げる。
すると、目の前にはひどく至近距離まで真紘の端正な顔が迫っていて、薪はそのあまりの近さに驚きすぎて声すら出せなかった。
けれど、それもほんの一瞬のうちのことだ。
「……んっ⁉ ……んーっ! んーっ‼」
抵抗する間さえなく唇が塞がれ、すぐに離れるかと思いきや、これが意外にも長い。これでは息が続かないと、くぐもった声を上げたり、真紘の胸をバシバシ叩いて〝苦しい〟と抗議したりするほどに、それは長く薪の唇を塞いで離さなかった。
そうするとわずかに隙間ができて、薪は息を吸おうと口を開ける。
「っ⁉ ん……んっ……ん」
けれどその瞬間を狙って温かく湿ったものがにゅるりと入り込み、薪の舌を探し当てるなり執拗に追いかけたり絡め取ったりするのだから、頭では何が起こっているか――何をされているかわからずパニック状態でも、そのあまりの気持ちよさと全身をぞわぞわと這い上がってくる快感に、薪は次第に従順になっていく。
けれど、その答えは意外にもあっさり判明した。
「わあ、すごいホテルですね! 松の木も立派ですし、厳格あるホテルって感じがします! ほんと、こんなところに泊まれたら一生の思い出になるでしょうね」
「だろ? 建て替え工事中だったから、しばらく『iroha』には載せられなかったけど、工事が終わったって聞いて、できるだけ早くあいさつしておきたいと思ってたんだ。俺も久しぶりに来たけど、相変わらずやべーくらい、いいところだ」
「やべーって……。でも、そうですね。私もそう思います」
先週と同じく、一度部屋へ帰って身支度を整えたところに絶妙のタイミングで迎えに来た真紘の車で向かった、山あいの温泉地にあるという老舗ホテルは、さすがの真紘も思わず語彙力を失ってしまうほどの圧巻の佇まいで薪たちを出迎えた。
立派な松の木が二本、まるで門の代わりのように立っているそこは、建て替える前の姿を知らない薪にも、以前からの趣のある雰囲気をそのまま引き継いでいるような気配が佇まいから窺える、まさに老舗中の老舗という印象だった。
車から一歩、外に出た瞬間から空気も違うように感じて、はしゃいだ声を上げたのもつかの間、薪は無意識に背筋が伸びる。
――主任ってば、ここに来たくて朝からご機嫌だったんだ。
内心で、ちょっと可愛い、なんて思いながら、けれどこれは誰だってご機嫌になるはずだと薪は納得する。落ち着いた趣のある雰囲気の中にも凛と澄んでいる空気があって、それがとても気持ちいい。きっとおもてなしも最高なのだろう。こんなに素敵なホテルをまた『iroha』で紹介させてもらえるだろう嬉しさと緊張感で、薪の胸はドキドキと高鳴っていった。
「だったら薪。お前がやってみるか?」
「ええっ⁉」
すると真紘がさらりとした口調で言って、薪は大きく目を見開いた。
「何びっくりした顔してんだよ。薪もこれから担当するんだろ。ゆくゆくは任せようって思ってるって話だ。今すぐってわけじゃねーよ」
「ああ、そういう……」
だったらちゃんとそう説明してほしい。相変わらず説明不足で言葉足らずだなと苦笑しながら、薪は内心でほっと胸を撫で下ろす。
こんなに立派なホテルは、担当するのに相当の気合いと覚悟が必要だ。そのほかの顧客がどうこうというわけではないけれど、いきなりひとりで任されるわけではないのだとわかって、やっぱり安心する気持ちのほうが先に立ってしまう。
「俺もそこまで鬼じゃない。よし、行くぞ」
「あ、待ってくださいよ主任」
スタスタ歩いていく真紘を慌てて追いかけながら、そういえばかなり口が悪いだけで、けしてワンマンな人じゃないもんなと薪は思う。
真紘が鬼になるときは、たいてい、こちら側が顧客や仕事に対して甘いときや迷いがあるときだ。自分でも、もうちょっと何かないか、と引っかかりを覚えているときには、エスパー並みの察知能力と嗅覚で的を得た鬼発言をしてくることが多い。とはいえ、それが本当に理にかなっているのだから、さすがなのだ。そしてそのおかげで引っかかりが消える。だから鬼の〝見る力〟は凄まじいものがある。
――私にはわりとワンマンだけど。……下僕って損だ。
それはともかくとして、ホテルの中に入ると、真紘は珍しく「アポなしだからな……」と自信なさげに呟いて広報担当者に会えるかフロントへ話を聞きに行った。直接あいさつができるに越したことはないけれど、なにぶん老舗中の老舗だ、薪もロビーで待ちながら徐々に大きくなっていく緊張をどうにかしようと、胸に手を当てて深呼吸を繰り返す。
ややして真紘がひとりで戻ってくるのが見えた薪は、今日は都合が合わなかったのだろうとわかるなり、あからさまにほっとしてしまい、慌てて自分を叱咤する。
――危ない危ない。こういうところが私はダメなんだ。
ゆくゆくはひとりで担当することになるのだから、しっかりしなければ。
「……お前な、俺がひとりで戻ってきたからって、ふやけた顔なんてしやがって」
「すみません。今、そんな自分を怒っていたところです」
「ったく。今日は出張だと」
「そ、そうなんですね。ははは」
案の定、真紘にもすぐに指摘されてしまい、薪は笑うしかない。
こういうところもきっと、今ひとつ伸び悩んでいる誌面の編集につながっているのだろう。すぐにどうこうできるわけではないけれど、ひとつひとつ磨いていって、一日でも早く真紘に安心して任せてもらえるようにならなければと、薪は新たに気持ちを入れ直した。
「――と、まあ、説教くさいのはこれくらいにして。ほんじゃあ、ちょっとそこら辺をぶらっとしてから帰るとするか。近くに無料の足湯もあるらしいぞ」
「わあ、それは素敵!」
すると真紘が場を仕切り直すように言って、薪も手を合わせて歓迎した。
いくら広報担当の人に会えなかったからとはいっても、このまま帰るなんて本当にもったいない。けれど勝手にホテルの中を見学するのもおかしな話だと思っていたから、真紘の提案は薪も嬉しい。
けれど、そこで〝じゃあ行こう〟とならないのが真紘が鬼と呼ばれる所以だ。
「この一週間、ほとんど歩きっぱなしだっただろうからな。来週からのために足湯でしっかり癒せば、どれだけきつくても持ち堪えられるだろうよ」
「あ、そういう感じで……」
――主任め。いや鬼め。
ニヤリと口の端を持ち上げて笑う真紘に遠い目をするしかない薪だった。
そんなことがありつつも、わざわざ外まで見送りに出てきてくれた従業員に突然の訪問を丁寧に詫びると、薪と真紘は車に乗り込み足湯へ向かった。
ここから車で三分もあれば着くという足湯場は、山のほうへと続く緩やかな登り坂の途中にあるそうだ。薪は、ゆっくりとしたスピードで進んでいく車の助手席から、道の両端に所狭しと軒を連ねる昔ながらの木造旅館や味のある土産物屋の数々を食い入るように見つめる。
ホテルへ着くまでの道のりでも思ったけれど、ここは、この温泉街全体が〝ひとつの景観〟として成り立っている。その道中にしてくれた真紘の説明によると、目の前にそびえる山の裾野に広がるこの温泉街は、街の至るところから源泉が湧き出ているのだという。
実際、中心部になるにつれて、もうもうと立ち上る湯気が多く濃くなる様は圧巻で、寒くなるこれからの時期はさぞ訪れた人々の心を掴んで離さないことだろうと思うと、真紘がご機嫌でここに連れて来たかった意味もわかるというものだった。
「この温泉街全体を『iroha』で特集できたら、どんなに素敵でしょうね」
「そうできるように薪も俺も頑張らないとだな」
「はいっ!」
振り向きざまに、にっこり笑って返事をすると、真紘も緩く口元に弧を描いた。先ほどの意地悪な笑い方ではなく穏やかなそれは、その瞬間、不覚にもちょっとだけ薪の胸の柔らかい部分を掴んでしまって、薪は咄嗟にしまったなと思う。
――もう。だから鬼なんだってば、この人は……。
ふいに優しかったり穏やかだったりされると、薪はそれまでの調子がどうにも狂ってしまって仕方がない。説明不足で言葉足らずな上に薪にはわりとワンマンなところがある真紘がふとした瞬間に見せる鬼以外の顔は、だって思っていたよりずっと格好いい。だから、ついうっかり真紘に憧れを抱く社内の女子社員の気持ちがわかってしまって、反応に困るのだ。
――全部が鬼じゃないのは、もう知ってるけど。
とはいえほぼほぼ鬼でもあるので、あまり真紘に心を乱されたくない薪だった。
「よし。着いたぞ薪」
そんな薪を乗せた車は、きっかり三分後、足湯場に到着した。
車で来る人も多いのだろう、広くはないけれど綺麗に整備された駐車スペースに車を停めた真紘は、薪にも降りるぞと促し、さっそく足湯場へ歩いていった。薪は「待ってくださいよ」と慌ててその背中を追いかけ、ズボンやスカートを膝下までたくし上げると、足湯場に真紘と向かい合わせに腰を下ろし、ふたりでほぼ同時にほうと一息つく。
広さは畳、二畳ほどだろうか。東屋のように屋根もあって、腰を下ろす座面や湯船の中も全面が檜造りという凝った足湯場だ。
そして周りには一面、山の景色が広がっている。まだまだ紅葉が見頃のため、赤や黄色、オレンジに染まった山が目に心に美しい。
週末だけれどちょうど先客はおらず、真紘と貸し切り状態だった。
「主任、主任。ここのお湯も源泉を引いているんですよね? 足だけですけど、なんだか芯から温まってきて、心も体も癒されますね」
「説明書きにそう書いてあるな。効能は、筋肉痛や関節痛、肩凝りに冷え性……あと、バカにも効く、だそうだ。なんだ、薪にぴったりだな」
「ちょっと主任⁉」
真紘が自分の近くにあった効能を記した立て看板を読み上げるけれど、さすがに『バカにも効く』などと書いてあるはずがない。すかさずツッコミを入れる薪を見て肩を揺らしながらおかしそうに笑う目の前の真紘は、今はただの悪ガキだ。
真紘にとってはおそらく、薪にちょっかいをかけてその反応を見るのが一種の趣味のようなものなのだろう。薪は昔から、わりと表情がくるくる変わるほうだったりするので、もしかしたら真紘にはその様子が楽しいのかもしれない。
――まったくこの鬼は。タチが悪いったらありゃしないんだから。
「でも、ここまで足を伸ばしてよかっただろ?」
ぷっくりと頬を膨らませて「バカはさすがに言いすぎですよ。……まあバカですけど」と不貞腐れていると、そう言って真紘が得意げに顎を持ち上げる。
「……そうですね。連れて来てもらって、感謝してます」
「お? なんだ素直じゃん」
「はい、まあ」
その顔がやけに悔しくはあったものの、見渡す限りの綺麗な景色の効果か、はたまた、足湯の癒し効果が抜群のためか、素直に感謝の気持ちを言いたくなった薪は、改まるとなぜか気恥ずかしくなるという法則通り、胸をムズムズさせながらはにかみ、小さく頭を下げる。
思えばここ最近、なんだかんだありつつも、こんなことでもなければできなかったと思うような体験ばかりをさせてもらっている。
いつものように週末の休みは日がな一日、ごろごろして過ごしていては、見渡す限りの綺麗な景色も、可愛らしい東屋の足湯場も、先ほどの思わず背筋が伸びる老舗のホテルも、きっと〝真紘が手掛けた広告〟として何号か先の『iroha』の上でしか見られないものになっていただろう。
そして薪は、自分が作った広告と見比べて落ち込むのだ。
力の差も経験の差も、センスだって自分はまだまだ真紘の足元にも及ばないことは十分に自覚していても、絶対にだ。
でも、何をどうすればいいのか今ひとつ掴めないまま、また目まぐるしく日々は過ぎ、疲れ果てた週末は、趣味の恋愛映画を観たり、ごろごろしたりして過ごす。そして週が明ければ仕事に忙殺される――その繰り返しになってしまう。
そのままでは、いつまで経っても伸び悩んでいる自分からは抜け出せないことはわかっていても、目先の自由な時間に目が眩んで、結局は自分を奮い立たせられないまま、これまでと、いつもと何も変わらない薪になってしまうのだ。
そんな自分とさよならできるチャンスは、きっと今しかない。
「可愛いことが言えたご褒美だ」
そのとき――ちゃぷん。
いつになく優しげな真紘の声とともに、目の前の湯船のお湯が揺れた。そこに影が差して、薪は何がだろうと不思議に思って顔を上げる。
すると、目の前にはひどく至近距離まで真紘の端正な顔が迫っていて、薪はそのあまりの近さに驚きすぎて声すら出せなかった。
けれど、それもほんの一瞬のうちのことだ。
「……んっ⁉ ……んーっ! んーっ‼」
抵抗する間さえなく唇が塞がれ、すぐに離れるかと思いきや、これが意外にも長い。これでは息が続かないと、くぐもった声を上げたり、真紘の胸をバシバシ叩いて〝苦しい〟と抗議したりするほどに、それは長く薪の唇を塞いで離さなかった。
そうするとわずかに隙間ができて、薪は息を吸おうと口を開ける。
「っ⁉ ん……んっ……ん」
けれどその瞬間を狙って温かく湿ったものがにゅるりと入り込み、薪の舌を探し当てるなり執拗に追いかけたり絡め取ったりするのだから、頭では何が起こっているか――何をされているかわからずパニック状態でも、そのあまりの気持ちよさと全身をぞわぞわと這い上がってくる快感に、薪は次第に従順になっていく。
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