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■4.鬼の心、下僕知らず
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少し思案顔をして、由里子が口を開く。
「そうだな、薪ちゃんとホテルの売店でお土産を見てたときも、わりと近くにいたよ。浴衣姿の薪ちゃんのことが直視できないって感じで声はかけられなかったみたいだけど、すごく嬉しそうにしてたよね。温泉から上がってほかほかの薪ちゃんが自販機でジュースを買ってたときも、薪ちゃん可愛いなって顔で見てたし、私が『薪ちゃんのほっぺ、ぷにぷにだ』って言って触ったときも、すっごい不機嫌な顔で見られたよ。……まあ、全然気づかない薪ちゃんと感情が丸わかりの主任って構図が面白くて、わざとやってたんだけどさ」
「わざとって……」
「でもさ。夜に外で彼氏と電話してたときに、たまたま聞こえたんだけど、主任『どうしても好きな人がいるから』って告白を断ってたんだよね。今は仕事が楽しいからとか、忙しくて寂しい思いをさせるだろうからとか、断る理由なんてたくさんあるわけじゃない? でも、ちゃんと〝好きな人がいる〟って言った主任に、冗談抜きにすごいなって思ったんだよ。ただ単に好きなだけじゃないんだろうなっていうかさ。それからは私、主任を密かに応援してたの」
「……そっか」
なんだかんだ主任ってモテるもんなと思いながら、薪は由里子の言葉に噛みしめるように相槌を打った。
高身長だし、顔もいい。スペックは薪や由里子、編集部の人たちも知っての通り折り紙付きで、社内外からの信頼もとても厚い。鬼になっているときであろうが、そうではないときであろうが結局は優しいし、最後まで世話を焼いてくれる。本気で好きになる女子社員がいたとしても、それは全然、不思議なことじゃない。
今まで浮いた話の一つもなかったことが、逆におかしいくらいだろう。
会社は仕事をするところ、というのが大前提ではあるとしても、それなりに大きい会社だ。薪が知らなかっただけかもしれないけれど、噂話さえ聞いたことがないとなれば、真紘の薪への思いは察して余りあるほど大きい。
ここでもまた一つ〝やっと〟の意味を知って、薪は感情が忙しい。
由里子は続ける。
「そうそう、バレンタインのときも、編集部の女子社員みんなでチョコを配ったでしょ。主任ね、薪ちゃんから手渡されたチョコだけ、ずーっとデスクの引き出しに入れて、本当に大事そうに食べてたの。さすがにあれは私も可愛いと思ったよね。義理だってわかってても、薪ちゃんが『主任の分です』って渡してくれたものだから、きっとすごく大事だったんだよ」
「そ、そうだったんだ……」
「それが、その三ね」
「……うん」
知らなかった、というか、ここまで来れば気づかなかった薪のほうに何か問題があるような気さえしてきてしまう。
よく言えば一点集中型、悪く言えば周りが見えていないことも、要領があまりよくないことに加えて薪の欠点ではあるけれど、それにしたって、由里子には気づけて薪にはさっぱりわからない、なんてことがあるのだろうか。
それだけ真紘は、薪の前ではそれらしい素振りを見せなかったと理由付けることもできるとはいえ、一度、真紘にも言ったけれど、薪はバカ――というか、こと恋愛に関しては、基本的に自分が恋愛対象になっているとは思っていないので、相手――この場合は真紘からすると、ものすごく察しが悪く見えていたに違いない。
でも、ちゃんと言葉にしてもらわないと、薪には何もわからないのだ。
――あんな、仕方なく渡したようなチョコをそんなに大事に……。
今さら遅いけれど、もっとほかに渡しようもあっただろうにと思えて、薪の胸は『……お、おう』とチョコを受け取ったときの真紘の顔をまともに見ていなかった後悔でズキンと痛んで仕方がない。……そのときの薪には真紘に対して苦手意識しかなかったので、仕方がないと言えばそれまでなのだけれど。
それに、由里子も由里子で、どうしてそうタイミングよく真紘の〝好き〟が漏れている場面に出くわせるのだろう。
このとき薪は、自分の察しの悪さを改めて痛感したのと同時に、真紘がどうして由里子とふたりにしたくなかったのかがわかったような気がして、今さらながら『俺のことが嫌にならないって約束できるなら』という条件がじわじわと効いてくるのを感じずにはいられなかった。
そりゃあ、真紘にしたら何を暴露されるかわからなくて恐ろしいだろう。
そんな中であっても、由里子は楽しそうな顔を崩さない。
「極めつけは〝あれ〟よね」
「ま、まだあるの……?」
恐々尋ねる薪に一段と笑みを深くした由里子は、こくりと頷き、さらに続ける。
「社員旅行のあとだったと思うけど、一時期、薪ちゃんに言い寄ってたシステム課の折川さんっていたじゃない? これもたまたま見ちゃったんだけど、主任ってば、陰でこっそり折川さんに壁ドンして『本気じゃないなら編集部の薪に手を出すな』って言って追い払ってたのよね。……まあ、もともと〝軽い〟って噂のある人だったし、薪ちゃんはもう存在自体が〝騙されやすそう〟だから、主任にはハラハラしすぎて見ていられなかったんだろうけどさ。でも、そこまで思われる薪ちゃんが羨ましいなって思うくらいには、主任が格好よく見えたよね」
「そ、そんなことも……」
「うん。これが、その四かな」
「……なるほど」
――そういえば、そんなこともあったっけ……。
続々と由里子の口から語られる〝真紘が薪を好きな証拠〟に胸がいっぱいになりながら、薪は朧げな記憶を手繰り寄せる。
薪の何を気に入ったのか、はたまた、薪なら簡単に〝喰えそう〟と思う何かがあったのか、由里子が言った通り、社員旅行のあとからなぜか薪は折川という社員によく話しかけられるようになった。
まるっきり課が違うので、それまでは接点らしい接点もなかったし、名前も知らないくらいだったけれど、たまたまシステム課に薪たちの同期がいて、話しているうちに折川もそこに加わり、あいさつをしたのがはじまりだったように思う。
由里子にはそれ以前から彼氏がいて、左手の薬指にペアリングもしているので、折川もすぐに彼氏持ちだと察したのだろう。
途端に折川の興味は由里子の隣にいる薪に集中したようで、社員旅行の間は見かけるたびに笑顔を振りまかれ、時間があると見ると話しかけられ、薪は気さくな人なんだなと思いながら、会釈を返したり世間話にしばし付き合った。
……ひとつ思い出したのだけれど、食事会の席で真紘に『薪はこっち』と、なぜかそばに置かれてしまう直前、遠くの席から折川に『薪ちゃーん!』と呼ばれていたような気がするのだけれど、あれはたまたま――だったんだろうか。
とにかく、社員旅行から帰ってきたあとから社内で折川に会う機会がぐっと増えたことは本当だ。そのたびに、例えば『社員旅行のお土産にと思って親戚に買ったんだけど、ちょっと買いすぎちゃって』とお菓子をもらったり、システム課の同期から聞いたのだろう『〝あの〟新田真紘と仕事してるんでしょ? 辛かったら慰めてあげようか?』と言われたりと、社内で会うたびに何かと話しかけられることが増えていったのは、なんとなく記憶している。
なぜ〝なんとなく〟だったのかというと……。
――そうだ、いつの間にか社内で会わなくなったんだった。
「っ!」
「あ。薪ちゃん、ピンときた顔になった」
「うん。そういうことだったんだね」
「んふふ。格好よかったよ、あのときの主任。薪ちゃんにも見せてあげたかった」
「……見たら絶対、もっと早く惚れてたよ」
だから急に折川と会わなくなったんだと、そこでようやく合点がいった薪は、テーブルに頬杖を付いて薪の記憶がリンクする瞬間を待っていた由里子に、顔どころか耳まで燃えるように熱くしながら、もごもごとそう言う。
薪としてはこれといって言い寄られていたという感覚はなかったけれど、由里子も言っていた通り、正直、折川にはあまりいい噂を聞かなかった。
そんなまさかと思うほど折川の人となりを知っていたわけでも、親しいわけでもなかったものの、同期が世話になっている先輩社員ということもあって、あからさまに警戒するわけにもいかず、どうしたものかと思いはじめていた矢先、ふと気づくと、折川と社内で会うことは、もうすっかりなくなっていたのだった。
――あれは主任が先回りして守ってくれてたんだ……。
そう思うと、もうたまらなかった。涙が込み上げてきて、すんと鼻が鳴る。
これまでどれだけ思われてきたのだろう。真紘が言った〝やっと〟の言葉の重さをようやく理解した薪は、けれどその重さが愛おしくてならない。
「薪ちゃん。もう帰ろっか」
そんな薪を見て、ふんわり笑った由里子がそう言う。
「……え?」
「主任にいっぱい〝ありがとう〟って言いな。絶対、喜ぶから」
「で、でも……」
「いいの、いいの。私も彼氏に会いたくなっちゃったし」
戸惑う薪だったけれど、由里子にもう一押しされて、うんと頷く。
由里子がそう言うなら自分も、というのは言い訳にもならない。本当は薪が今すぐ真紘のところへ行きたくなって仕方がないのだ。そんな薪の気持ちを汲んでくれた由里子が、けれどまだ食事もお酒もそんなに進んでいないのにと、素直に帰ると頷けない薪に気を回してくれたに過ぎない。
「ありがとう、由里子。私、由里子が同期で本当によかった」
「あら、そこは〝親友〟って言うところじゃない?」
「あはは。ごめん、由里子が親友で本当によかったよ」
「うん。私もだよ、薪ちゃん。あと、薪ちゃんの彼氏が主任ってところも」
「そうだね。ほんと、そう思う」
その会話を潮に、薪たちはオーダーした料理やカクテルの残りをお腹に収め、すぐに会計を済ませてそれぞれの彼氏のもとへ向かった。由里子は大学時代から付き合って五年という彼氏のところへ、薪はもちろん真紘のところへ、足取りも軽く、初冬の肌寒い夜の街を、胸の中は愛おしい思いでいっぱいにさせながら。
*
やがて着いた真紘の部屋では、玄関のドアを開けるなり〝全部知ったかコノヤロウ〟とぶっすりと膨れ顔をした真紘に出迎えられたけれど、すかさず薪がにっこり笑ってぎゅっと抱きつけば、痛いくらいに抱きしめ返してくれた。
「嫌になった……感じはしないけど、一応聞く。麻井と話して俺のことが嫌になったりしなかったか? あいつ、タイミングがいいんだか悪いんだかで……。俺が薪のことでみっともなく執着してるときに限って、なぜか見られてるんだよ」
ぎゅうぎゅうに抱きしめながら弱り切ったようにそう言う真紘に、薪はふるふると首を振って「これまでいっぱい、ありがとうございました。主任のこと、ますます好きになりましたよ」と返す。
真紘は絶対に〝どんなふうに好きでいたか〟なんて話してくれない。まして由里子にはいろいろと見られていたわけで、由里子に薪を預けたくなかったに違いないだろう。それでも送り出し、全部知った薪を迎え入れてくれたということは、それもきっと真紘が薪を思う気持ちの大きさや深さの表れなのだと思う。
「そうか……。よかった」
心底安心したように息を吐き出す真紘の広い背中に腕を回して、薪はいっそう、真紘との密着度を上げる。すると薪の顎をくいと持ち上げた真紘に唐突に深いキスを落とされ、薪は「……んっ」と声を漏らしながら、だんだんと激しさや濃度を増していくそれを一身に受け止める。
「メシは?」
「お腹いっぱいです」
「シャワーは?」
「主任もまだですよね? ……い、一緒に入ってもいいですか?」
「また……この天然煽り上手が。薪、どうなってもいい覚悟はあるな?」
「……はい」
やがて唇を離した真紘に熱の籠った瞳で見つめられた薪は、頭の芯を甘く蕩けさせながら聞かれるままに素直に答え、満足げに笑った真紘にまたキスを落とされる傍ら、急いた手つきで薪のコートや服を脱がせていくのを手伝う。
「薪、俺のも」
言われるがまま、薪も真紘のズボンのベルトやワイシャツのボタンを外し、身に纏うものをひとつひとつ剥ぎ取っていく。お互いに服を脱がせ終えると、もう一秒だって待っていられないとばかりに、ふたりでバスルームへとなだれ込んだ。
由里子に聞いた真紘の独占欲は、本当に鬼並みだった。けれど、それを聞いても嫌になるどころか、ますます好きだと思うのだから、もうどうしようもない。
「もっともっと、私を独占してください」
「ああ。遠慮なくそうさせてもらう」
精も根も尽き果て、ふたりでベッドに沈む中、その会話を最後に、薪は幸せに心も身体も満たされながら深く甘い眠りに落ちていった。
「そうだな、薪ちゃんとホテルの売店でお土産を見てたときも、わりと近くにいたよ。浴衣姿の薪ちゃんのことが直視できないって感じで声はかけられなかったみたいだけど、すごく嬉しそうにしてたよね。温泉から上がってほかほかの薪ちゃんが自販機でジュースを買ってたときも、薪ちゃん可愛いなって顔で見てたし、私が『薪ちゃんのほっぺ、ぷにぷにだ』って言って触ったときも、すっごい不機嫌な顔で見られたよ。……まあ、全然気づかない薪ちゃんと感情が丸わかりの主任って構図が面白くて、わざとやってたんだけどさ」
「わざとって……」
「でもさ。夜に外で彼氏と電話してたときに、たまたま聞こえたんだけど、主任『どうしても好きな人がいるから』って告白を断ってたんだよね。今は仕事が楽しいからとか、忙しくて寂しい思いをさせるだろうからとか、断る理由なんてたくさんあるわけじゃない? でも、ちゃんと〝好きな人がいる〟って言った主任に、冗談抜きにすごいなって思ったんだよ。ただ単に好きなだけじゃないんだろうなっていうかさ。それからは私、主任を密かに応援してたの」
「……そっか」
なんだかんだ主任ってモテるもんなと思いながら、薪は由里子の言葉に噛みしめるように相槌を打った。
高身長だし、顔もいい。スペックは薪や由里子、編集部の人たちも知っての通り折り紙付きで、社内外からの信頼もとても厚い。鬼になっているときであろうが、そうではないときであろうが結局は優しいし、最後まで世話を焼いてくれる。本気で好きになる女子社員がいたとしても、それは全然、不思議なことじゃない。
今まで浮いた話の一つもなかったことが、逆におかしいくらいだろう。
会社は仕事をするところ、というのが大前提ではあるとしても、それなりに大きい会社だ。薪が知らなかっただけかもしれないけれど、噂話さえ聞いたことがないとなれば、真紘の薪への思いは察して余りあるほど大きい。
ここでもまた一つ〝やっと〟の意味を知って、薪は感情が忙しい。
由里子は続ける。
「そうそう、バレンタインのときも、編集部の女子社員みんなでチョコを配ったでしょ。主任ね、薪ちゃんから手渡されたチョコだけ、ずーっとデスクの引き出しに入れて、本当に大事そうに食べてたの。さすがにあれは私も可愛いと思ったよね。義理だってわかってても、薪ちゃんが『主任の分です』って渡してくれたものだから、きっとすごく大事だったんだよ」
「そ、そうだったんだ……」
「それが、その三ね」
「……うん」
知らなかった、というか、ここまで来れば気づかなかった薪のほうに何か問題があるような気さえしてきてしまう。
よく言えば一点集中型、悪く言えば周りが見えていないことも、要領があまりよくないことに加えて薪の欠点ではあるけれど、それにしたって、由里子には気づけて薪にはさっぱりわからない、なんてことがあるのだろうか。
それだけ真紘は、薪の前ではそれらしい素振りを見せなかったと理由付けることもできるとはいえ、一度、真紘にも言ったけれど、薪はバカ――というか、こと恋愛に関しては、基本的に自分が恋愛対象になっているとは思っていないので、相手――この場合は真紘からすると、ものすごく察しが悪く見えていたに違いない。
でも、ちゃんと言葉にしてもらわないと、薪には何もわからないのだ。
――あんな、仕方なく渡したようなチョコをそんなに大事に……。
今さら遅いけれど、もっとほかに渡しようもあっただろうにと思えて、薪の胸は『……お、おう』とチョコを受け取ったときの真紘の顔をまともに見ていなかった後悔でズキンと痛んで仕方がない。……そのときの薪には真紘に対して苦手意識しかなかったので、仕方がないと言えばそれまでなのだけれど。
それに、由里子も由里子で、どうしてそうタイミングよく真紘の〝好き〟が漏れている場面に出くわせるのだろう。
このとき薪は、自分の察しの悪さを改めて痛感したのと同時に、真紘がどうして由里子とふたりにしたくなかったのかがわかったような気がして、今さらながら『俺のことが嫌にならないって約束できるなら』という条件がじわじわと効いてくるのを感じずにはいられなかった。
そりゃあ、真紘にしたら何を暴露されるかわからなくて恐ろしいだろう。
そんな中であっても、由里子は楽しそうな顔を崩さない。
「極めつけは〝あれ〟よね」
「ま、まだあるの……?」
恐々尋ねる薪に一段と笑みを深くした由里子は、こくりと頷き、さらに続ける。
「社員旅行のあとだったと思うけど、一時期、薪ちゃんに言い寄ってたシステム課の折川さんっていたじゃない? これもたまたま見ちゃったんだけど、主任ってば、陰でこっそり折川さんに壁ドンして『本気じゃないなら編集部の薪に手を出すな』って言って追い払ってたのよね。……まあ、もともと〝軽い〟って噂のある人だったし、薪ちゃんはもう存在自体が〝騙されやすそう〟だから、主任にはハラハラしすぎて見ていられなかったんだろうけどさ。でも、そこまで思われる薪ちゃんが羨ましいなって思うくらいには、主任が格好よく見えたよね」
「そ、そんなことも……」
「うん。これが、その四かな」
「……なるほど」
――そういえば、そんなこともあったっけ……。
続々と由里子の口から語られる〝真紘が薪を好きな証拠〟に胸がいっぱいになりながら、薪は朧げな記憶を手繰り寄せる。
薪の何を気に入ったのか、はたまた、薪なら簡単に〝喰えそう〟と思う何かがあったのか、由里子が言った通り、社員旅行のあとからなぜか薪は折川という社員によく話しかけられるようになった。
まるっきり課が違うので、それまでは接点らしい接点もなかったし、名前も知らないくらいだったけれど、たまたまシステム課に薪たちの同期がいて、話しているうちに折川もそこに加わり、あいさつをしたのがはじまりだったように思う。
由里子にはそれ以前から彼氏がいて、左手の薬指にペアリングもしているので、折川もすぐに彼氏持ちだと察したのだろう。
途端に折川の興味は由里子の隣にいる薪に集中したようで、社員旅行の間は見かけるたびに笑顔を振りまかれ、時間があると見ると話しかけられ、薪は気さくな人なんだなと思いながら、会釈を返したり世間話にしばし付き合った。
……ひとつ思い出したのだけれど、食事会の席で真紘に『薪はこっち』と、なぜかそばに置かれてしまう直前、遠くの席から折川に『薪ちゃーん!』と呼ばれていたような気がするのだけれど、あれはたまたま――だったんだろうか。
とにかく、社員旅行から帰ってきたあとから社内で折川に会う機会がぐっと増えたことは本当だ。そのたびに、例えば『社員旅行のお土産にと思って親戚に買ったんだけど、ちょっと買いすぎちゃって』とお菓子をもらったり、システム課の同期から聞いたのだろう『〝あの〟新田真紘と仕事してるんでしょ? 辛かったら慰めてあげようか?』と言われたりと、社内で会うたびに何かと話しかけられることが増えていったのは、なんとなく記憶している。
なぜ〝なんとなく〟だったのかというと……。
――そうだ、いつの間にか社内で会わなくなったんだった。
「っ!」
「あ。薪ちゃん、ピンときた顔になった」
「うん。そういうことだったんだね」
「んふふ。格好よかったよ、あのときの主任。薪ちゃんにも見せてあげたかった」
「……見たら絶対、もっと早く惚れてたよ」
だから急に折川と会わなくなったんだと、そこでようやく合点がいった薪は、テーブルに頬杖を付いて薪の記憶がリンクする瞬間を待っていた由里子に、顔どころか耳まで燃えるように熱くしながら、もごもごとそう言う。
薪としてはこれといって言い寄られていたという感覚はなかったけれど、由里子も言っていた通り、正直、折川にはあまりいい噂を聞かなかった。
そんなまさかと思うほど折川の人となりを知っていたわけでも、親しいわけでもなかったものの、同期が世話になっている先輩社員ということもあって、あからさまに警戒するわけにもいかず、どうしたものかと思いはじめていた矢先、ふと気づくと、折川と社内で会うことは、もうすっかりなくなっていたのだった。
――あれは主任が先回りして守ってくれてたんだ……。
そう思うと、もうたまらなかった。涙が込み上げてきて、すんと鼻が鳴る。
これまでどれだけ思われてきたのだろう。真紘が言った〝やっと〟の言葉の重さをようやく理解した薪は、けれどその重さが愛おしくてならない。
「薪ちゃん。もう帰ろっか」
そんな薪を見て、ふんわり笑った由里子がそう言う。
「……え?」
「主任にいっぱい〝ありがとう〟って言いな。絶対、喜ぶから」
「で、でも……」
「いいの、いいの。私も彼氏に会いたくなっちゃったし」
戸惑う薪だったけれど、由里子にもう一押しされて、うんと頷く。
由里子がそう言うなら自分も、というのは言い訳にもならない。本当は薪が今すぐ真紘のところへ行きたくなって仕方がないのだ。そんな薪の気持ちを汲んでくれた由里子が、けれどまだ食事もお酒もそんなに進んでいないのにと、素直に帰ると頷けない薪に気を回してくれたに過ぎない。
「ありがとう、由里子。私、由里子が同期で本当によかった」
「あら、そこは〝親友〟って言うところじゃない?」
「あはは。ごめん、由里子が親友で本当によかったよ」
「うん。私もだよ、薪ちゃん。あと、薪ちゃんの彼氏が主任ってところも」
「そうだね。ほんと、そう思う」
その会話を潮に、薪たちはオーダーした料理やカクテルの残りをお腹に収め、すぐに会計を済ませてそれぞれの彼氏のもとへ向かった。由里子は大学時代から付き合って五年という彼氏のところへ、薪はもちろん真紘のところへ、足取りも軽く、初冬の肌寒い夜の街を、胸の中は愛おしい思いでいっぱいにさせながら。
*
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「嫌になった……感じはしないけど、一応聞く。麻井と話して俺のことが嫌になったりしなかったか? あいつ、タイミングがいいんだか悪いんだかで……。俺が薪のことでみっともなく執着してるときに限って、なぜか見られてるんだよ」
ぎゅうぎゅうに抱きしめながら弱り切ったようにそう言う真紘に、薪はふるふると首を振って「これまでいっぱい、ありがとうございました。主任のこと、ますます好きになりましたよ」と返す。
真紘は絶対に〝どんなふうに好きでいたか〟なんて話してくれない。まして由里子にはいろいろと見られていたわけで、由里子に薪を預けたくなかったに違いないだろう。それでも送り出し、全部知った薪を迎え入れてくれたということは、それもきっと真紘が薪を思う気持ちの大きさや深さの表れなのだと思う。
「そうか……。よかった」
心底安心したように息を吐き出す真紘の広い背中に腕を回して、薪はいっそう、真紘との密着度を上げる。すると薪の顎をくいと持ち上げた真紘に唐突に深いキスを落とされ、薪は「……んっ」と声を漏らしながら、だんだんと激しさや濃度を増していくそれを一身に受け止める。
「メシは?」
「お腹いっぱいです」
「シャワーは?」
「主任もまだですよね? ……い、一緒に入ってもいいですか?」
「また……この天然煽り上手が。薪、どうなってもいい覚悟はあるな?」
「……はい」
やがて唇を離した真紘に熱の籠った瞳で見つめられた薪は、頭の芯を甘く蕩けさせながら聞かれるままに素直に答え、満足げに笑った真紘にまたキスを落とされる傍ら、急いた手つきで薪のコートや服を脱がせていくのを手伝う。
「薪、俺のも」
言われるがまま、薪も真紘のズボンのベルトやワイシャツのボタンを外し、身に纏うものをひとつひとつ剥ぎ取っていく。お互いに服を脱がせ終えると、もう一秒だって待っていられないとばかりに、ふたりでバスルームへとなだれ込んだ。
由里子に聞いた真紘の独占欲は、本当に鬼並みだった。けれど、それを聞いても嫌になるどころか、ますます好きだと思うのだから、もうどうしようもない。
「もっともっと、私を独占してください」
「ああ。遠慮なくそうさせてもらう」
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