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第一章
第四話
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折戸をさかいに空気は独特な無臭になり、三人がひらけた最後部座席に座ると、その小高い無機物の丘から、疎らな乗客の、内々にむけたまなざしを望めた。学生服でスマートフォンをいじる少年も、念じるように眠る老婦人も、窓に首をもたれる白シャツの男も、みなうつむき、内省に勤しんでいる。夏の熱射に横顔を打たれても、逆にバスのよぎった木の葉の揺らぎが淡い影をつくり泳いでも、彼らの傾きはびくともしなかった。
秋子の恋人は、その乗客の無関心さに安堵した。
秋子は、誰の目からも美しかった。ふたりで歩くとき、夏樹は男たちの好奇でにやついた視線が恋人にからむのを感じた。シルクのような白肌や、長い睫毛、身体のなだらかな曲線にみだらな印象はなかったが、かえって男たちは彼女にファンタジーな欲望を見出し、わが物にしようと挑んできた。また秋子は道に迷った老婆や上京したばかりの女子からも話しかけられた。秋子の美しさは上品であったが、他方で親しみやすさもあった。同期のある男子などは酔いながら、「お前の彼女はこ洒落た豪邸の心地の良い日向みたいだ」なんて下手な文句をいった。
秋子はまだぼんやりとしている。大きく濃い、濡れた黒真珠の瞳は窓外にあてられていた。
夏樹も外を眺めると、公園のベンチで中学生が呑気にアイスを齧っていた。中学生は二人組で、その一方が氷の溶けた汁を口の端から垂らし、もう一人がぎょっとしてその口を指さした。
「今日は土曜なのにめずらしいね。制服を着ている」
秋子の気をひこうとして、夏樹はまたそんなことをいった。
「ほんとう。なんでだろう」
秋子は疑問符の抑揚のない、乾燥した声で相槌した。夏樹は経験から、熱のない返事にはやくも観念して、
「あ、そうか、部活帰りなんだろう。制服で帰るってことは剣道とか柔道とか、そこらへんかもしれない」
と完結したつぶやきを早口でいった。それは事実上の敗走だったが、抵抗をすればするほど彼の擦り傷は増えてしまうのだった。
夏樹はしばしば秋子の姉好きに困ることがあった。いや困るほどではないが、どこか息苦しい、鼻づまりのようなものがこの姉妹の親愛だった。
秋子は、恋人よりも姉が大事だった。しかしそれは夏樹も似たようなもので、自分の研究やサークルのほうが秋子より大事である。けれども恋人といるときにそのことで考えがいっぱいになるほどではない。夏樹の研究が大事というのは、あくまで秤で量ったらということで、秋子のような明らかなウエイト差、次元の上下はなかった。秋子のもつ姉への過剰な親愛が、ときおり透明な綿糸になって恋人の身体にまきついた。
だからといって、「君の姉にたいする愛情は異常だ」とは夏樹はいえない。彼にとって秋子ははじめての恋人だったから、その距離は潮の満ち引きのように曖昧な境目をしていた。付き合って一年も経つというのに、ふたりはキスも一度しかしていない。
恋人だけでない。夏樹は上京してからあまりにも沢山のことを経験した。地下鉄、雑踏、パソコンの細々とした機能……。彼の経験は目まぐるしく、しかし質量をもったかたちで、油絵の具のように重なっていった。いまや夏樹の高校までの、徳之島の生活が彼の表面にあらわれることはあるだろうか。鋭く研磨された彫刻刀で、いまある表面をすべて削ればいいのだろうか。
夏樹は手提げかばんからメモ帳を取り出した。いまだデジタルに慣れない彼は、サークルの活動報告もまずは紙に下書きをしてからワードに写した。手元にある愛用のメモ帳は、去年のいまごろに秋子からプレゼントされたもので、茶色の牛革に金色の刺繍がついている。といってもこれも、雪子のお薦めらしいが。
頻繁にバスが揺れ、さすがの夏樹もメモが安定しなかった。夏樹はまたメモをもどし、秋子とは逆の窓を眺める美玖に、「さっきの話だけどさ」なんて前置きをして、
「ボランティアだか何だか色々やっていても、けっきょく君らのピアノが一等受けがいいんだ。いや、受けがいいというと商売じみてるけど、僕らは所詮学生のボランティアサークルでしかなくてさ、根本的に世界をどうこうっていうのはどだい困難なんだけど、しかしこういう困っている人たちを……いや老人ホームの人たちが困っているとは限らないんだけどさ……ともかく人を感動させたりするのが僕らに出来る上等なボランティアなんだと思うんだ。そういう意味で、美玖さんたちのピアノはやっぱりいいんだよ」
とくすぐったい講釈を聞かせた。美玖は健気に話にのって、なにかと気の利いた相槌を返した。
秋子の恋人は、その乗客の無関心さに安堵した。
秋子は、誰の目からも美しかった。ふたりで歩くとき、夏樹は男たちの好奇でにやついた視線が恋人にからむのを感じた。シルクのような白肌や、長い睫毛、身体のなだらかな曲線にみだらな印象はなかったが、かえって男たちは彼女にファンタジーな欲望を見出し、わが物にしようと挑んできた。また秋子は道に迷った老婆や上京したばかりの女子からも話しかけられた。秋子の美しさは上品であったが、他方で親しみやすさもあった。同期のある男子などは酔いながら、「お前の彼女はこ洒落た豪邸の心地の良い日向みたいだ」なんて下手な文句をいった。
秋子はまだぼんやりとしている。大きく濃い、濡れた黒真珠の瞳は窓外にあてられていた。
夏樹も外を眺めると、公園のベンチで中学生が呑気にアイスを齧っていた。中学生は二人組で、その一方が氷の溶けた汁を口の端から垂らし、もう一人がぎょっとしてその口を指さした。
「今日は土曜なのにめずらしいね。制服を着ている」
秋子の気をひこうとして、夏樹はまたそんなことをいった。
「ほんとう。なんでだろう」
秋子は疑問符の抑揚のない、乾燥した声で相槌した。夏樹は経験から、熱のない返事にはやくも観念して、
「あ、そうか、部活帰りなんだろう。制服で帰るってことは剣道とか柔道とか、そこらへんかもしれない」
と完結したつぶやきを早口でいった。それは事実上の敗走だったが、抵抗をすればするほど彼の擦り傷は増えてしまうのだった。
夏樹はしばしば秋子の姉好きに困ることがあった。いや困るほどではないが、どこか息苦しい、鼻づまりのようなものがこの姉妹の親愛だった。
秋子は、恋人よりも姉が大事だった。しかしそれは夏樹も似たようなもので、自分の研究やサークルのほうが秋子より大事である。けれども恋人といるときにそのことで考えがいっぱいになるほどではない。夏樹の研究が大事というのは、あくまで秤で量ったらということで、秋子のような明らかなウエイト差、次元の上下はなかった。秋子のもつ姉への過剰な親愛が、ときおり透明な綿糸になって恋人の身体にまきついた。
だからといって、「君の姉にたいする愛情は異常だ」とは夏樹はいえない。彼にとって秋子ははじめての恋人だったから、その距離は潮の満ち引きのように曖昧な境目をしていた。付き合って一年も経つというのに、ふたりはキスも一度しかしていない。
恋人だけでない。夏樹は上京してからあまりにも沢山のことを経験した。地下鉄、雑踏、パソコンの細々とした機能……。彼の経験は目まぐるしく、しかし質量をもったかたちで、油絵の具のように重なっていった。いまや夏樹の高校までの、徳之島の生活が彼の表面にあらわれることはあるだろうか。鋭く研磨された彫刻刀で、いまある表面をすべて削ればいいのだろうか。
夏樹は手提げかばんからメモ帳を取り出した。いまだデジタルに慣れない彼は、サークルの活動報告もまずは紙に下書きをしてからワードに写した。手元にある愛用のメモ帳は、去年のいまごろに秋子からプレゼントされたもので、茶色の牛革に金色の刺繍がついている。といってもこれも、雪子のお薦めらしいが。
頻繁にバスが揺れ、さすがの夏樹もメモが安定しなかった。夏樹はまたメモをもどし、秋子とは逆の窓を眺める美玖に、「さっきの話だけどさ」なんて前置きをして、
「ボランティアだか何だか色々やっていても、けっきょく君らのピアノが一等受けがいいんだ。いや、受けがいいというと商売じみてるけど、僕らは所詮学生のボランティアサークルでしかなくてさ、根本的に世界をどうこうっていうのはどだい困難なんだけど、しかしこういう困っている人たちを……いや老人ホームの人たちが困っているとは限らないんだけどさ……ともかく人を感動させたりするのが僕らに出来る上等なボランティアなんだと思うんだ。そういう意味で、美玖さんたちのピアノはやっぱりいいんだよ」
とくすぐったい講釈を聞かせた。美玖は健気に話にのって、なにかと気の利いた相槌を返した。
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