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第一章
第三話
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姉が男といた、と聞いて秋子の頭に思い浮かぶのは、時田という男だった。雪子は恋の経験がすくない。そもそも同性の友人も少ないのだから、異性の相手などは縁遠かった。
その雪子が大学のとき唯一付き合ったのが、時田だった。
三船家において時田という名前はほとんどタブーにちかい。いちど、居間で流れた報道番組に同じ字面のコメンテーターが出演していた。コメンテーターは大学の教授らしく、眼鏡に白髪まじりの髪、くたびれたスーツで、一家が想起したのと異なる風貌、何だったら読み方も「ときた」のほうであったが、父は即座にチャンネルを替えた。
時田は何度か三船家を訪れたことがある。金縁の眼鏡をかけた、ヒッピーのような外見、その見た目らしく妙な馴れなれしさで時田は雪子に近づき、愛を囁いた。秋子はいま思えば、なぜ姉があんな男に心身を許したのかわからない。
時田が愛を囁くのは雪子だけでなかった。三船家にこの男が来るとき、必ず秋子を呼んだ。そのうち、時田はこう言って秋子を口説いた。
「なあ、いままで君を好きだった男は数知れないけど、僕ほど君を好きな男はいないね。……ああ、そう、僕は君が好きなんだが、君も薄々わかっていたろう? ……まあ、それはどっちでもいい。……とにかくね。僕は君をこれまでの誰より愛しているよ。雪子よりずっと。当時はなんであんな女好きになったんだろうなんて思っていたけど、いまならわかるね。あいつにある君のかすかな香りが僕を引き寄せたんだ。そして僕はその香りを頼りに、花粉から葉へ、葉から花へと近づいた。だから、ねえ……」
秋子は思い切り男の頬を張った。それも一度でなく、三度張った。それでも足らなかったが、しかしこの男に触れたくもなかった。そして悲鳴をあげ、居間でくつろいでいた父が現れ、ふたりは別れた。
『もし、雪ちゃんに言い寄った男があんなやつだったら、こんどこそ付き合う前にとっちめてやるわ。あの件で雪ちゃんがどれだけふさぎ込んだことか……。どうしてこう、男の人って盲目なだけのナルシストが多いのかしら』
秋子の怒りの主動は、言い寄られた恐怖ではなく、むしろ姉をないがしろにされたことだった。秋子は自身の危機よりも、姉の危機のほうが大事であった。
ふたりの親愛はピアノの連弾のように奏でられた。いざもう一人の弾き手を失うと、幸福の音色も、物足りない、隙間だらけのわびしさばかり残ってしまう。
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三船家において時田という名前はほとんどタブーにちかい。いちど、居間で流れた報道番組に同じ字面のコメンテーターが出演していた。コメンテーターは大学の教授らしく、眼鏡に白髪まじりの髪、くたびれたスーツで、一家が想起したのと異なる風貌、何だったら読み方も「ときた」のほうであったが、父は即座にチャンネルを替えた。
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時田が愛を囁くのは雪子だけでなかった。三船家にこの男が来るとき、必ず秋子を呼んだ。そのうち、時田はこう言って秋子を口説いた。
「なあ、いままで君を好きだった男は数知れないけど、僕ほど君を好きな男はいないね。……ああ、そう、僕は君が好きなんだが、君も薄々わかっていたろう? ……まあ、それはどっちでもいい。……とにかくね。僕は君をこれまでの誰より愛しているよ。雪子よりずっと。当時はなんであんな女好きになったんだろうなんて思っていたけど、いまならわかるね。あいつにある君のかすかな香りが僕を引き寄せたんだ。そして僕はその香りを頼りに、花粉から葉へ、葉から花へと近づいた。だから、ねえ……」
秋子は思い切り男の頬を張った。それも一度でなく、三度張った。それでも足らなかったが、しかしこの男に触れたくもなかった。そして悲鳴をあげ、居間でくつろいでいた父が現れ、ふたりは別れた。
『もし、雪ちゃんに言い寄った男があんなやつだったら、こんどこそ付き合う前にとっちめてやるわ。あの件で雪ちゃんがどれだけふさぎ込んだことか……。どうしてこう、男の人って盲目なだけのナルシストが多いのかしら』
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