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第4章 それは浄化じゃない
予期せぬ襲撃
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その扉が蹴り開けられたのは、昼食後の自由時間だった。椅子に座って解錠に打ち込んでいたノクスはぎょっとして顔を跳ね上げる。最初は扉を蹴った黒いブーツだけが見えていたが、その足が床に下りて、黒いローブ姿の痩せた男がゆらと姿を現す。
「邪魔するぜ、元大賢者殿」
うっすら笑ってそう言いながら、黒いローブを纏った男はかぶっていたフードを肩に落とした。切りそろえて真ん中で分けたまっすぐな黒い髪の下で、油断のない切れ長の黒い瞳が獲物を狙うようにぎらと光ってノクスを見つめる。
「前回は顔も拝めず残念だったが、やっとお目にかかれたな。ふん、これのどこが白髭の爺だ。滅多にお目にかかれねぇ上玉じゃねぇか。王妃を虜にしただけはある」
ノクスは立ち上がって、一歩、後じさった。
――この男、牢に直接入って来た。ルキウスの案内もなしに。
「……ガルバ男爵か。貴方の魔力は管理施設で視た。面会希望なら神官の案内があるはずだが」
「チッ、口調も顔も変えてきたのに気づきやがるか。大賢者ってな伊達じゃねぇな」
ガルバ男爵は舌打ちしてノクスの質問を無視した。見定めるような瞳でノクスの全身を舐めるように眺め回す。無遠慮な視線にノクスは眉を顰めた。
「誰が牢の鍵を開けた? 何の用だ!」
「んな事どうでもいいじゃねぇか。魔術師同士、仲良くしようぜ」
ガルバは大股に歩み寄ってノクスの顎をぐいと掴む。ハ、と片頬で笑った。
「雪白の膚がしっとり指に吸いつきやがる。抗しがたい魅力で魂を奪う妖魔がいるとしたら、こんな面だろうな。この反抗的な目が極上だ。俺は男女を問わず、嫌がる奴を組み敷いて泣かせるのが大好きなんだ。気が強ければ強いほどいい。弱みを握られて俺の言うなりになる様が痛快でな」
「触るな!」
ノクスはぞっとして顔を振り、ガルバの手を振り払って後ろへ飛びずさった。
「つれないな。でもふられたからといって、黙って帰るわけにはいかねぇんだ」
ガルバはじりじりとノクスに歩を進めて来る。ノクスの後ろはすぐ寝台で、もはや逃げ場がない。ノクスは時間稼ぎに質問を投げかける。
「王命で来たんだな?」
「いいや、陛下はもう何もしなくていいとさ。だが、それじゃ俺が困るんだ。成果を持ち帰って、昇爵させていただかなくっちゃな」
ガルバはナイフのような鋭い眼を細めた。
――王命じゃない? 陛下は俺の催淫作用を危険視しているんじゃないのか?
疑問が浮かんだが、今はそれどころではない。ガルバは手を挙げる。
「さあ、時間がないんだ。大人しくしてな……カテーナ!」
――こいつ、人に使ってはいけない討伐魔術を平気で!
ノクスは目を見開いた。がちっと体が動かなくなったところを押され、ノクスは寝台に倒れ込む。ガルバは手慣れた手つきでノクスに猿轡を噛ませ、服を脱がせる。
「聖錠を嵌められちゃ元大賢者様も赤子同然だな。いい子にしてな、好くしてやる」
――クソッ……! 思い通りにさせてたまるか!
ノクスは腹に魔力を溜めて、一気に魔鎖を断ち切った。驚愕に凍りつくガルバの手を逃れて寝台を滑り降り、乱れたシャツのまま扉へと駆け出す。
「おいおいおい……! 聖錠をかけても術が使えるってのか!? 待てよっ」
ガルバはノクスの腕を掴もうとして、電撃にでも打たれたように顔を歪めて手をひっこめる。ノクスは残った魔力で、己に触ると凍る術をかけたのだ。
――触れるものなら触ってみろ! 生活魔術だから誰にも文句は言わせないぞ。
ガルバがノクスに触れるのをためらっているうちに、ノクスは扉を開けようとドアノブを必死で掴んで回す。が、外鍵の扉は当然のように開かない。
ノクスは外に異常を知らせようとして、拳でどんどんと扉を叩いた。
――誰か、誰か来てくれ!!
「柔いお手々が傷つくぜ。誰も来やしねぇ。あんたの担当は出張中だ」
ガルバはなぜか焦る様子もなく、悠々とノクスの背後で嘯いた。
――なんだ、この余裕は。人払いしたって俺に触れないんだから、もっと焦ってもおかしくないのに。
振り向くノクスの目の前で、ガルバは燐寸をすって煙草に火をつける。
ゆらめく燐寸の火が橙色に歪んで、二つに見える。
ふら、と肩が揺れ、足から力が抜けて、ノクスは床に膝をついた。
――火が二つ……なんだ、これ。視界が歪む。体に力が……入らない。
「……ったく、手をかけさせやがって。食事に眠剤を盛らせておいて正解だった。念の為倍量盛ったけど、元大賢者様はそんな事で死なねぇよな? あんたの泣き顔が見られないのは残念だが」
蛇のように粘つく眼でノクスを見下ろしながら囁き、ガルバは一服を終えて体を起こす。煙草を机でねじり消して近づいてくるのを、扉の下に倒れたノクスは薄く瞳をひらいて見つめた。瞼が重くて、これ以上目を開けていられない。
――眠ってしまう。抵抗できない。嫌だ、嫌……だ……。
「誰だ、誰か来ているな!? 私の留守には誰も通すなと言ったはずだぞ!?」
取り乱したルキウスの声が割れんばかりに響いた。激しい音を立てて開いた扉から、長い金髪をなびかせてルキウスが飛び込んでくる。入り口に倒れたノクスを認め、立ち尽くすガルバを確認するなり、ルキウスはさっと青ざめた。
ルキウスの唇がかすれた声で聖術の文言をつぶやき始める。ガルバは顔を歪めて走り出そうとするも、その腹を蹴られてうずくまった。
その後の事は見ていない。怒号と共に何かを殴るような音が続いたが、ノクスは猿轡を嚙まされたまま冷たい床に頬をつけて横たわり、重い瞼を閉じた。薄れる意識の中で、ルキウスが己を呼ぶ声を何度も聴いた気がする。
目覚めたのは翌日の夜明け方だった。
「ノクス、ノクス。大丈夫か」
薄暗い部屋の中で気遣うように見下ろされ、ノクスは床についたまま呻く。
「私の出張中に薬を盛られたんだ。ふ、服を脱がされて……何もされてないか!?」
ノクスは黙ってかぶりを振った。
「そ、そうか! 私が早く帰って止めたから無事にすんだのだな! あのゴロツキ、なぜノクスを狙った!? 食事係も買収していたようだぞ」
「さあな……王にもってく手土産が欲しかったんだろ」
ノクスは目を閉じた。どういう意味だとルキウスは頭上で喚いていたが、ノクスは再び眠りに落ちる。微睡みの中で何度も己に問いかけた。
――ガルバの襲撃は王命ではなく単独行動だった。なぜ王はガルバに『もういい』と言ったんだ? 何が狙いで。
※ ※ ※
「くっそ、いよいよ時間がねぇぞ」
ノクスは礼拝堂のベンチに座り込んで呻いた。きつく瞳を閉じて寄せた眉間には深い皺が刻まれ、青ざめた額には冷や汗が浮かぶ。
神殿に収監されてしばらくは、夜のあいだ術式を解く事に時間をあてる事ができた。が、ガルバの一件以来、ルキウスが夜もべったり牢にいて一人の時間がほとんどない上、魔力も搾り取られている。
ルキウスに『浄化』されないようにするには、移動を許されている罪人専用礼拝堂に篭るしかなかった。神像の前ではルキウスもさすがに手を出さないからだ。
――さっさと脱獄しないと2週後には発作の日が来てしまう。妃殿下の『慈悲』によって生かされている俺が、清廉な神官の集まる神殿で淫行事件を起こしたらどうなる!? 百年の恋も冷めて、妃殿下も二つ返事で俺の処刑に同意するぞ。オーティア陛下はそれを狙って、デドラ獣毒後遺症について担当神官に知らせず神殿に俺を引き渡したんだ。
ノクスは膝に乗せて祈りの形に組んだ両の手を握りしめた。ずっしりと重たい銀の手錠に、わずかに残った魔力と意識を集める。何としても、解錠するのだ。
「――ずいぶん熱心に祈っている。もう5時間もここにいるぞ、ノクス。アウレリア神に懺悔を? それとも悩みが?」
目の前に人の影が落ちた。気がつけば窓は暗くなっており、ルキウスが案ずるようにこちらを覗き込んでいる。
「……俺はアウレリア神教の教えを知らない。魔術にだけ没頭してきた。懺悔しようにも、何を告解していいかわからない」
ノクスは集中の糸が切れた苛立ちから、ぶっきらぼうにそう答えた。
「おお、そうか。よいのだ、無知を認めるのは恥ではない。私が教え導いてやる」
ルキウスは隣に座って聖文書を開き、真面目にノクスに教義を教え始める。
「いいか、この挿絵に描かれた方が我が天神アウレリアだ。アウレリア神は王族を含める信徒をみな天界に属する者と認められた。魔獣とそれを亡ぼす魔術師は地界に属する者だ。地界の者は穢れた魂同士、同属嫌悪によって相争うが、天界の者はその上に立ってアウレリア神の救いを説き、地界を治める」
ノクスはアウレリアの神像を見上げ、呟いた。
「ああ、そういえば……魔術師を輩出する家は子爵位以上になれないってアルバスも言ってたな。『地界の者』だからか。伯爵家以上の出身で術式を扱える者は魔術アカデミーには行かずに、神学校へ行くんだって」
「その通りだ! 私のようにな。……アルバスとは、白騎士のか」
――道理で討伐魔術師が増えないわけだ。公に肯定された偏見に晒されてまで、禁欲しつつ命を賭ける討伐魔術師になろうと思う人間がそういるわけもない。
ノクスは考え込みながら答えた。
「うん……」
「懺悔していたのではないなら、何をそうして悩んでいるのだ。言うがよい、聞いてやる」
ルキウスはノクスの手を掴んで𠮟りつけるように尋ねる。
「……ここでは新聞も読めなくて、外の様子がわからない。不安で……アルバスはどうしているだろう」
ノクスは上の空で呟いた。ルキウスは口の片端を歪ませる。
「ふん、あの白騎士か。面会にも来ぬとは薄情な男だ。ま、来年にでも来るのではないか?」
「――それでは間に合わない」
ノクスは呟いた。苦く微笑する。
――俺の発作は2週後だ。アルバスの助けは期待できない。自力で助かるんだ。
「どういう事だ。間に合わないとは?」
ルキウスは眉を顰めてノクスを覗き込む。ノクスは深く息を吸い、ルキウスの腕を掴んだ。
「……ルキウス、頼みたい事があるんだ」
「獣毒後遺症の発作で催淫作用が起こるから、鎮静剤で寝かせろ!?」
ルキウスは顔を歪めた。牢の自室に戻ったノクスはいつものように寝台に座り、ルキウスを見上げてうなずく。本当は話したくはなかった。
――だが、発作が起きればルキウスも巻き込んでしまう。
「神殿で淫行事件を起こしたとあっては、俺は処刑台行きだ。ルキウスも厳しい処分を受けるだろう。昇格の望みは消え、家名にも傷がつく。だから俺に鎮静剤を打って、3日間誰にも近づかせないでほしい」
「信じられるか! そんな獣毒後遺症など聞いた事もない。お前はその3日で脱獄するつもりだろう!?」
「聖錠をかけて鎮静剤を打たれても動けると思っているのか? 俺は竜ではないぞ」
ノクスは弱々しく微笑んだ。ルキウスはアウレリアの聖具の力に疑いを差し挟むわけにはいかず、顔をぴくつかせる。
「むっ……無理だろうな」
「他に頼める人がいないんだ。頼む、ルキウス」
じっと見つめて頼むと、ルキウスは頬を紅潮させ、咳払いした。
「ふ……ふん、まあ、薬くらいは用意してやる。あくまで私が打つ、お前には渡さないからな」
「ありがとう。俺が寝ている間に人が来る。扉に頑丈な鍵をかけておいてくれ」
「誰が来るというんだ?」
ぴくり、とルキウスの指が動いた。ノクスは目を伏せる。
「敵の捨て駒だ。前の発作の時も来た……王は俺の獣毒後遺症と発作周期を知っている。俺に神殿内で淫行事件を起こさせたいのだろう」
ルキウスのこめかみに青筋が立った。ルキウスはテーブルに掌を叩きつけて叫ぶ。
「なぜだ!? 何のために!? 王がそんな事をして何の役に立つというのだ!?」
「俺を処刑するのに役立つ」
ノクスは肩をすくめた。しばらく絶句していたルキウスは、信じられないというようにかぶりを振る。
「なぜだ。王はなぜお前を処刑しようとなさるのだ」
ノクスはため息をついて、静かに言う。
「平民出の俺が革命派の旗頭になるのではと恐れているからだ。そんな面倒なものになりたかねぇけどな。……ルキウス、捨て駒になりたくなかったら、俺の発作日には何と命じられても俺から離れているんだ。俺の担当神官は発作時には真っ先に被害に遭うのに、なぜルキウスには知らされていないのか、考えてみてくれ。俺の世話役にして使い捨てるなら平民の方が都合がいいはずなのに、貴族のルキウスが選ばれた事にも意図を感じる。――お父上のフローレス伯爵は過去、革命派に与していると疑われるような行動をされなかったか?」
ルキウスは激しくかぶりを振った。
「そのような事、あるものか! 父は先代の倍も税収を上げ、誰より王家に貢献している。国教たるアウレリア神殿にも多大な寄進をしている! 確かに父上は平民だろうと有能な者は取り立てて重用なさる。だがそれだからこそ、領地が栄えるのだ! ……私は……父上に選ばれず神殿入りしたが……」
ルキウスの目が虚ろになる。しばらく沈黙した後、愕然としたように呟いた。
「……だが待て……父上は確か……地方議会に平民の議員を推挙したか……? 地方自治体の小議会にたった一人だぞ。まさかそのような事で王への忠心を疑われたとでもいうのか!?」
「なるほど、そこで目をつけられたか。王は俺を片づけるついでに、革命派を一掃するつもりだ」
ノクスは呟く。ルキウスはぎっとノクスを睨んだ。
「父上は革命派ではない!! 序列を乱そうなどと思ってはおられぬわ!? ただ冷酷なまでに、実力主義なだけだ!」
「だろうな。ただ、天上におわす方は今、疑心暗鬼になっているんだ」
そう言ったノクスの肩にルキウスは飛びついて緑の目を見開き、揺さぶった。
「お前、お前は私を惑わそうとしているな!? 王に疑いを抱かせ、ありもしない陰謀をでっち上げて煽動し、謀叛を起こさせようとしている! やっと本性を現したな、穢れた魔術師め!」
――まずい。担当神官から王に『謀叛の煽動』など証言されたら、今度こそ俺の首が飛ぶ。安易に背景など話すからこれだ。お前は捨て駒だと言われて、喜ぶ奴などいやしない。でも、こんなにあからさまに利用されて使い捨てられるであろう男を、放っておけないだろう……!
「……落ち着いて。俺を信じないのも無理はないが」
ノクスは揺さぶられて舌を噛みそうになりながら言葉を続ける。
「だが催淫作用で被害が起きたら、俺もお前も破滅する! 獣毒後遺症が疑わしいというなら、魔獣学専門のグラディウス家に俺が言った事が正しいかどうか問い合わせてくれ」
「なに、グラディウス伯爵家? あそこは秘密主義で有名だぞ。研究結果を漏らさぬよう召使にさえ緘口令を敷いている。病気の事は魔獣医にでも聞けとあしらわれるに決まっているだろう。初めからできもせぬ事を言って誤魔化そうという腹か!」
ルキウスは激昂した。大声で喚かれて耳が痛いが、ノクスは必死に抗弁する。
「ち、違う! グラディウス家が無理なら、白騎士アルバスに聞けばわかる!」
ノクスを揺さぶる手がぴたりと止まり、ルキウスはノクスの瞳をじっと見つめる。
「……なぜ白騎士の名が挙がる? 専門家ではなかろう」
「グラディウス家の出身だし、俺の相棒だからだ。デドラ討伐中に獣毒を浴びた時も一緒にいた」
「ならば白騎士は、ノクスの発作時の催淫作用とやらも知っているのか」
「むろん」
知っている、とみなまで言う前に、ルキウスはわなわなと震える手で再びノクスを揺さぶり始めた。
「お前! さては白騎士とも不埒な関係を持っていたのだな!? あ……あの巨体に抱かれておったのか!? この淫蕩な魔性め!」
「痛い! 寝てねぇ! 寝てたらこうはなってないっての!」
ノクスは叫んだ。ルキウスは揺さぶるのをやめてノクスに鼻先を近づける。間近に顔を寄せ、真顔で問うた。
「本当だな。嘘をついたら容赦はしない」
「何で嘘つかなきゃなんないんだよ。そもそも誰かと寝れば発作はなくなるんだから、――」
――しまった。これは言うなと止められていた。
ノクスはハッと口をつぐんだ。ルキウスはじっとノクスを見つめる。
「ならば発作を起こす前に私と寝ればよいではないか。多量の鎮静剤など体に悪い」
「いや、――あの……それは困るんだけど」
「問題解決!」
ルキウスはノクスから手を離して体を起こし、肩に流れ落ちる金糸のような髪をさらりと払った。ぶつぶつと一人小声で呟いている。
「……ふむ。つまり、ノクスはまだ誰とも……処女、というわけだな……魔術師は童貞ばかりと聞くが、なるほど噂通り……私が責任をとってやらねば。まあ、私はいずれ司教、ひいては大司教にもなる身だ。ノクスを手元に置くだけの力は持てる」
――責任、とってくれなくていい! むしろ、とるな!
ノクスはぞっとして鳥肌を立てた。
思い込みの激しいルキウスと一度でも寝ようものなら、後々どんな面倒事が持ち上がるかわからない。
――いずれ雌化の相手が必要だとしても、ルキウスだけは避けたい!
「よし、善は急げという。今からだ。脱げ」
ルキウスはノクスの肩に手をかけた。
ノクスは凍りつき、大きくかぶりを振って寝台の上を後じさる。
――『嫌だ断る』とはっきり言えばこいつはまた怒るぞ。機嫌を損ねて鎮静剤すら渡してもらえなかったら、発作をしのぐ術がなくなる。何か無いか!? ルキウスを激怒させずにうまく断る方法は!?
「いや……鎮静剤の方がいいよ! 駄目だから……! こ、ここでは」
「礼拝堂ではもっと駄目だぞ」
ルキウスは呆れたようにノクスを見下ろした。当たり前である。
「か、監視されている可能性が高いから……! こ、行為に及んだらすぐ露呈して騒ぎになるかも」
嘘である。監視に使われるような術式の痕跡は牢周りでは感じ取れない。敵は発作の日を待って動くだろう。しかしルキウスは「まことか!?」とあたりを見回し始めた。神殿では術式の痕跡をたどる術視の訓練をしないものと見える。
ノクスは勢いづいて声を張り上げる。
「それにだ! グラディウス家に獣毒後遺症の確認をとらなくていいのか? 俺は後で『騙されて淫行を迫られた』なんて言われたくないぞ。ちゃんと確認してくれ。その上で、やっぱり鎮静剤を用意してほしい。ふ、負担になりたくないから」
冷や汗をかきながらノクスがそう説得すると、ルキウスは感心したように何度も頷く。にっこり笑った。
「殊勝な心がけだが、負担など気にせずともよい。よし、では早速裏取りにかかろう。監視の目のない場所も探さねば」
――探さなくていい……!
ノクスはぎゅっと目を閉じる。ルキウスは足取り軽く部屋を出て行ってしまった。
「最悪だ!」
ノクスは寝台の上で体を折り、大きな声で吐き出す。発作まで座して待つわけにはいかなくなった。一刻も早く逃げるほかない。
打ちのめされて動けないノクスの耳に、やがて足音と聞き慣れぬ話し声が聴こえてくる。
――ルキウスの声じゃない。今、夜だぞ。ここは神殿内でも隔離されていて、人も来ないのに。
警戒するノクスの目前で、扉の鍵が開けられる。
「5分しかありません。お気をつけて」
「ええ、すぐ出ます」
――この……声……?
顔を上げて目を見開いたノクスの目に、似合わぬ神官服を纏ってひょいと頭をかがませ、戸口をくぐるアルバスの笑顔が映る。
「やあ。……ごめん、来ちゃった」
「邪魔するぜ、元大賢者殿」
うっすら笑ってそう言いながら、黒いローブを纏った男はかぶっていたフードを肩に落とした。切りそろえて真ん中で分けたまっすぐな黒い髪の下で、油断のない切れ長の黒い瞳が獲物を狙うようにぎらと光ってノクスを見つめる。
「前回は顔も拝めず残念だったが、やっとお目にかかれたな。ふん、これのどこが白髭の爺だ。滅多にお目にかかれねぇ上玉じゃねぇか。王妃を虜にしただけはある」
ノクスは立ち上がって、一歩、後じさった。
――この男、牢に直接入って来た。ルキウスの案内もなしに。
「……ガルバ男爵か。貴方の魔力は管理施設で視た。面会希望なら神官の案内があるはずだが」
「チッ、口調も顔も変えてきたのに気づきやがるか。大賢者ってな伊達じゃねぇな」
ガルバ男爵は舌打ちしてノクスの質問を無視した。見定めるような瞳でノクスの全身を舐めるように眺め回す。無遠慮な視線にノクスは眉を顰めた。
「誰が牢の鍵を開けた? 何の用だ!」
「んな事どうでもいいじゃねぇか。魔術師同士、仲良くしようぜ」
ガルバは大股に歩み寄ってノクスの顎をぐいと掴む。ハ、と片頬で笑った。
「雪白の膚がしっとり指に吸いつきやがる。抗しがたい魅力で魂を奪う妖魔がいるとしたら、こんな面だろうな。この反抗的な目が極上だ。俺は男女を問わず、嫌がる奴を組み敷いて泣かせるのが大好きなんだ。気が強ければ強いほどいい。弱みを握られて俺の言うなりになる様が痛快でな」
「触るな!」
ノクスはぞっとして顔を振り、ガルバの手を振り払って後ろへ飛びずさった。
「つれないな。でもふられたからといって、黙って帰るわけにはいかねぇんだ」
ガルバはじりじりとノクスに歩を進めて来る。ノクスの後ろはすぐ寝台で、もはや逃げ場がない。ノクスは時間稼ぎに質問を投げかける。
「王命で来たんだな?」
「いいや、陛下はもう何もしなくていいとさ。だが、それじゃ俺が困るんだ。成果を持ち帰って、昇爵させていただかなくっちゃな」
ガルバはナイフのような鋭い眼を細めた。
――王命じゃない? 陛下は俺の催淫作用を危険視しているんじゃないのか?
疑問が浮かんだが、今はそれどころではない。ガルバは手を挙げる。
「さあ、時間がないんだ。大人しくしてな……カテーナ!」
――こいつ、人に使ってはいけない討伐魔術を平気で!
ノクスは目を見開いた。がちっと体が動かなくなったところを押され、ノクスは寝台に倒れ込む。ガルバは手慣れた手つきでノクスに猿轡を噛ませ、服を脱がせる。
「聖錠を嵌められちゃ元大賢者様も赤子同然だな。いい子にしてな、好くしてやる」
――クソッ……! 思い通りにさせてたまるか!
ノクスは腹に魔力を溜めて、一気に魔鎖を断ち切った。驚愕に凍りつくガルバの手を逃れて寝台を滑り降り、乱れたシャツのまま扉へと駆け出す。
「おいおいおい……! 聖錠をかけても術が使えるってのか!? 待てよっ」
ガルバはノクスの腕を掴もうとして、電撃にでも打たれたように顔を歪めて手をひっこめる。ノクスは残った魔力で、己に触ると凍る術をかけたのだ。
――触れるものなら触ってみろ! 生活魔術だから誰にも文句は言わせないぞ。
ガルバがノクスに触れるのをためらっているうちに、ノクスは扉を開けようとドアノブを必死で掴んで回す。が、外鍵の扉は当然のように開かない。
ノクスは外に異常を知らせようとして、拳でどんどんと扉を叩いた。
――誰か、誰か来てくれ!!
「柔いお手々が傷つくぜ。誰も来やしねぇ。あんたの担当は出張中だ」
ガルバはなぜか焦る様子もなく、悠々とノクスの背後で嘯いた。
――なんだ、この余裕は。人払いしたって俺に触れないんだから、もっと焦ってもおかしくないのに。
振り向くノクスの目の前で、ガルバは燐寸をすって煙草に火をつける。
ゆらめく燐寸の火が橙色に歪んで、二つに見える。
ふら、と肩が揺れ、足から力が抜けて、ノクスは床に膝をついた。
――火が二つ……なんだ、これ。視界が歪む。体に力が……入らない。
「……ったく、手をかけさせやがって。食事に眠剤を盛らせておいて正解だった。念の為倍量盛ったけど、元大賢者様はそんな事で死なねぇよな? あんたの泣き顔が見られないのは残念だが」
蛇のように粘つく眼でノクスを見下ろしながら囁き、ガルバは一服を終えて体を起こす。煙草を机でねじり消して近づいてくるのを、扉の下に倒れたノクスは薄く瞳をひらいて見つめた。瞼が重くて、これ以上目を開けていられない。
――眠ってしまう。抵抗できない。嫌だ、嫌……だ……。
「誰だ、誰か来ているな!? 私の留守には誰も通すなと言ったはずだぞ!?」
取り乱したルキウスの声が割れんばかりに響いた。激しい音を立てて開いた扉から、長い金髪をなびかせてルキウスが飛び込んでくる。入り口に倒れたノクスを認め、立ち尽くすガルバを確認するなり、ルキウスはさっと青ざめた。
ルキウスの唇がかすれた声で聖術の文言をつぶやき始める。ガルバは顔を歪めて走り出そうとするも、その腹を蹴られてうずくまった。
その後の事は見ていない。怒号と共に何かを殴るような音が続いたが、ノクスは猿轡を嚙まされたまま冷たい床に頬をつけて横たわり、重い瞼を閉じた。薄れる意識の中で、ルキウスが己を呼ぶ声を何度も聴いた気がする。
目覚めたのは翌日の夜明け方だった。
「ノクス、ノクス。大丈夫か」
薄暗い部屋の中で気遣うように見下ろされ、ノクスは床についたまま呻く。
「私の出張中に薬を盛られたんだ。ふ、服を脱がされて……何もされてないか!?」
ノクスは黙ってかぶりを振った。
「そ、そうか! 私が早く帰って止めたから無事にすんだのだな! あのゴロツキ、なぜノクスを狙った!? 食事係も買収していたようだぞ」
「さあな……王にもってく手土産が欲しかったんだろ」
ノクスは目を閉じた。どういう意味だとルキウスは頭上で喚いていたが、ノクスは再び眠りに落ちる。微睡みの中で何度も己に問いかけた。
――ガルバの襲撃は王命ではなく単独行動だった。なぜ王はガルバに『もういい』と言ったんだ? 何が狙いで。
※ ※ ※
「くっそ、いよいよ時間がねぇぞ」
ノクスは礼拝堂のベンチに座り込んで呻いた。きつく瞳を閉じて寄せた眉間には深い皺が刻まれ、青ざめた額には冷や汗が浮かぶ。
神殿に収監されてしばらくは、夜のあいだ術式を解く事に時間をあてる事ができた。が、ガルバの一件以来、ルキウスが夜もべったり牢にいて一人の時間がほとんどない上、魔力も搾り取られている。
ルキウスに『浄化』されないようにするには、移動を許されている罪人専用礼拝堂に篭るしかなかった。神像の前ではルキウスもさすがに手を出さないからだ。
――さっさと脱獄しないと2週後には発作の日が来てしまう。妃殿下の『慈悲』によって生かされている俺が、清廉な神官の集まる神殿で淫行事件を起こしたらどうなる!? 百年の恋も冷めて、妃殿下も二つ返事で俺の処刑に同意するぞ。オーティア陛下はそれを狙って、デドラ獣毒後遺症について担当神官に知らせず神殿に俺を引き渡したんだ。
ノクスは膝に乗せて祈りの形に組んだ両の手を握りしめた。ずっしりと重たい銀の手錠に、わずかに残った魔力と意識を集める。何としても、解錠するのだ。
「――ずいぶん熱心に祈っている。もう5時間もここにいるぞ、ノクス。アウレリア神に懺悔を? それとも悩みが?」
目の前に人の影が落ちた。気がつけば窓は暗くなっており、ルキウスが案ずるようにこちらを覗き込んでいる。
「……俺はアウレリア神教の教えを知らない。魔術にだけ没頭してきた。懺悔しようにも、何を告解していいかわからない」
ノクスは集中の糸が切れた苛立ちから、ぶっきらぼうにそう答えた。
「おお、そうか。よいのだ、無知を認めるのは恥ではない。私が教え導いてやる」
ルキウスは隣に座って聖文書を開き、真面目にノクスに教義を教え始める。
「いいか、この挿絵に描かれた方が我が天神アウレリアだ。アウレリア神は王族を含める信徒をみな天界に属する者と認められた。魔獣とそれを亡ぼす魔術師は地界に属する者だ。地界の者は穢れた魂同士、同属嫌悪によって相争うが、天界の者はその上に立ってアウレリア神の救いを説き、地界を治める」
ノクスはアウレリアの神像を見上げ、呟いた。
「ああ、そういえば……魔術師を輩出する家は子爵位以上になれないってアルバスも言ってたな。『地界の者』だからか。伯爵家以上の出身で術式を扱える者は魔術アカデミーには行かずに、神学校へ行くんだって」
「その通りだ! 私のようにな。……アルバスとは、白騎士のか」
――道理で討伐魔術師が増えないわけだ。公に肯定された偏見に晒されてまで、禁欲しつつ命を賭ける討伐魔術師になろうと思う人間がそういるわけもない。
ノクスは考え込みながら答えた。
「うん……」
「懺悔していたのではないなら、何をそうして悩んでいるのだ。言うがよい、聞いてやる」
ルキウスはノクスの手を掴んで𠮟りつけるように尋ねる。
「……ここでは新聞も読めなくて、外の様子がわからない。不安で……アルバスはどうしているだろう」
ノクスは上の空で呟いた。ルキウスは口の片端を歪ませる。
「ふん、あの白騎士か。面会にも来ぬとは薄情な男だ。ま、来年にでも来るのではないか?」
「――それでは間に合わない」
ノクスは呟いた。苦く微笑する。
――俺の発作は2週後だ。アルバスの助けは期待できない。自力で助かるんだ。
「どういう事だ。間に合わないとは?」
ルキウスは眉を顰めてノクスを覗き込む。ノクスは深く息を吸い、ルキウスの腕を掴んだ。
「……ルキウス、頼みたい事があるんだ」
「獣毒後遺症の発作で催淫作用が起こるから、鎮静剤で寝かせろ!?」
ルキウスは顔を歪めた。牢の自室に戻ったノクスはいつものように寝台に座り、ルキウスを見上げてうなずく。本当は話したくはなかった。
――だが、発作が起きればルキウスも巻き込んでしまう。
「神殿で淫行事件を起こしたとあっては、俺は処刑台行きだ。ルキウスも厳しい処分を受けるだろう。昇格の望みは消え、家名にも傷がつく。だから俺に鎮静剤を打って、3日間誰にも近づかせないでほしい」
「信じられるか! そんな獣毒後遺症など聞いた事もない。お前はその3日で脱獄するつもりだろう!?」
「聖錠をかけて鎮静剤を打たれても動けると思っているのか? 俺は竜ではないぞ」
ノクスは弱々しく微笑んだ。ルキウスはアウレリアの聖具の力に疑いを差し挟むわけにはいかず、顔をぴくつかせる。
「むっ……無理だろうな」
「他に頼める人がいないんだ。頼む、ルキウス」
じっと見つめて頼むと、ルキウスは頬を紅潮させ、咳払いした。
「ふ……ふん、まあ、薬くらいは用意してやる。あくまで私が打つ、お前には渡さないからな」
「ありがとう。俺が寝ている間に人が来る。扉に頑丈な鍵をかけておいてくれ」
「誰が来るというんだ?」
ぴくり、とルキウスの指が動いた。ノクスは目を伏せる。
「敵の捨て駒だ。前の発作の時も来た……王は俺の獣毒後遺症と発作周期を知っている。俺に神殿内で淫行事件を起こさせたいのだろう」
ルキウスのこめかみに青筋が立った。ルキウスはテーブルに掌を叩きつけて叫ぶ。
「なぜだ!? 何のために!? 王がそんな事をして何の役に立つというのだ!?」
「俺を処刑するのに役立つ」
ノクスは肩をすくめた。しばらく絶句していたルキウスは、信じられないというようにかぶりを振る。
「なぜだ。王はなぜお前を処刑しようとなさるのだ」
ノクスはため息をついて、静かに言う。
「平民出の俺が革命派の旗頭になるのではと恐れているからだ。そんな面倒なものになりたかねぇけどな。……ルキウス、捨て駒になりたくなかったら、俺の発作日には何と命じられても俺から離れているんだ。俺の担当神官は発作時には真っ先に被害に遭うのに、なぜルキウスには知らされていないのか、考えてみてくれ。俺の世話役にして使い捨てるなら平民の方が都合がいいはずなのに、貴族のルキウスが選ばれた事にも意図を感じる。――お父上のフローレス伯爵は過去、革命派に与していると疑われるような行動をされなかったか?」
ルキウスは激しくかぶりを振った。
「そのような事、あるものか! 父は先代の倍も税収を上げ、誰より王家に貢献している。国教たるアウレリア神殿にも多大な寄進をしている! 確かに父上は平民だろうと有能な者は取り立てて重用なさる。だがそれだからこそ、領地が栄えるのだ! ……私は……父上に選ばれず神殿入りしたが……」
ルキウスの目が虚ろになる。しばらく沈黙した後、愕然としたように呟いた。
「……だが待て……父上は確か……地方議会に平民の議員を推挙したか……? 地方自治体の小議会にたった一人だぞ。まさかそのような事で王への忠心を疑われたとでもいうのか!?」
「なるほど、そこで目をつけられたか。王は俺を片づけるついでに、革命派を一掃するつもりだ」
ノクスは呟く。ルキウスはぎっとノクスを睨んだ。
「父上は革命派ではない!! 序列を乱そうなどと思ってはおられぬわ!? ただ冷酷なまでに、実力主義なだけだ!」
「だろうな。ただ、天上におわす方は今、疑心暗鬼になっているんだ」
そう言ったノクスの肩にルキウスは飛びついて緑の目を見開き、揺さぶった。
「お前、お前は私を惑わそうとしているな!? 王に疑いを抱かせ、ありもしない陰謀をでっち上げて煽動し、謀叛を起こさせようとしている! やっと本性を現したな、穢れた魔術師め!」
――まずい。担当神官から王に『謀叛の煽動』など証言されたら、今度こそ俺の首が飛ぶ。安易に背景など話すからこれだ。お前は捨て駒だと言われて、喜ぶ奴などいやしない。でも、こんなにあからさまに利用されて使い捨てられるであろう男を、放っておけないだろう……!
「……落ち着いて。俺を信じないのも無理はないが」
ノクスは揺さぶられて舌を噛みそうになりながら言葉を続ける。
「だが催淫作用で被害が起きたら、俺もお前も破滅する! 獣毒後遺症が疑わしいというなら、魔獣学専門のグラディウス家に俺が言った事が正しいかどうか問い合わせてくれ」
「なに、グラディウス伯爵家? あそこは秘密主義で有名だぞ。研究結果を漏らさぬよう召使にさえ緘口令を敷いている。病気の事は魔獣医にでも聞けとあしらわれるに決まっているだろう。初めからできもせぬ事を言って誤魔化そうという腹か!」
ルキウスは激昂した。大声で喚かれて耳が痛いが、ノクスは必死に抗弁する。
「ち、違う! グラディウス家が無理なら、白騎士アルバスに聞けばわかる!」
ノクスを揺さぶる手がぴたりと止まり、ルキウスはノクスの瞳をじっと見つめる。
「……なぜ白騎士の名が挙がる? 専門家ではなかろう」
「グラディウス家の出身だし、俺の相棒だからだ。デドラ討伐中に獣毒を浴びた時も一緒にいた」
「ならば白騎士は、ノクスの発作時の催淫作用とやらも知っているのか」
「むろん」
知っている、とみなまで言う前に、ルキウスはわなわなと震える手で再びノクスを揺さぶり始めた。
「お前! さては白騎士とも不埒な関係を持っていたのだな!? あ……あの巨体に抱かれておったのか!? この淫蕩な魔性め!」
「痛い! 寝てねぇ! 寝てたらこうはなってないっての!」
ノクスは叫んだ。ルキウスは揺さぶるのをやめてノクスに鼻先を近づける。間近に顔を寄せ、真顔で問うた。
「本当だな。嘘をついたら容赦はしない」
「何で嘘つかなきゃなんないんだよ。そもそも誰かと寝れば発作はなくなるんだから、――」
――しまった。これは言うなと止められていた。
ノクスはハッと口をつぐんだ。ルキウスはじっとノクスを見つめる。
「ならば発作を起こす前に私と寝ればよいではないか。多量の鎮静剤など体に悪い」
「いや、――あの……それは困るんだけど」
「問題解決!」
ルキウスはノクスから手を離して体を起こし、肩に流れ落ちる金糸のような髪をさらりと払った。ぶつぶつと一人小声で呟いている。
「……ふむ。つまり、ノクスはまだ誰とも……処女、というわけだな……魔術師は童貞ばかりと聞くが、なるほど噂通り……私が責任をとってやらねば。まあ、私はいずれ司教、ひいては大司教にもなる身だ。ノクスを手元に置くだけの力は持てる」
――責任、とってくれなくていい! むしろ、とるな!
ノクスはぞっとして鳥肌を立てた。
思い込みの激しいルキウスと一度でも寝ようものなら、後々どんな面倒事が持ち上がるかわからない。
――いずれ雌化の相手が必要だとしても、ルキウスだけは避けたい!
「よし、善は急げという。今からだ。脱げ」
ルキウスはノクスの肩に手をかけた。
ノクスは凍りつき、大きくかぶりを振って寝台の上を後じさる。
――『嫌だ断る』とはっきり言えばこいつはまた怒るぞ。機嫌を損ねて鎮静剤すら渡してもらえなかったら、発作をしのぐ術がなくなる。何か無いか!? ルキウスを激怒させずにうまく断る方法は!?
「いや……鎮静剤の方がいいよ! 駄目だから……! こ、ここでは」
「礼拝堂ではもっと駄目だぞ」
ルキウスは呆れたようにノクスを見下ろした。当たり前である。
「か、監視されている可能性が高いから……! こ、行為に及んだらすぐ露呈して騒ぎになるかも」
嘘である。監視に使われるような術式の痕跡は牢周りでは感じ取れない。敵は発作の日を待って動くだろう。しかしルキウスは「まことか!?」とあたりを見回し始めた。神殿では術式の痕跡をたどる術視の訓練をしないものと見える。
ノクスは勢いづいて声を張り上げる。
「それにだ! グラディウス家に獣毒後遺症の確認をとらなくていいのか? 俺は後で『騙されて淫行を迫られた』なんて言われたくないぞ。ちゃんと確認してくれ。その上で、やっぱり鎮静剤を用意してほしい。ふ、負担になりたくないから」
冷や汗をかきながらノクスがそう説得すると、ルキウスは感心したように何度も頷く。にっこり笑った。
「殊勝な心がけだが、負担など気にせずともよい。よし、では早速裏取りにかかろう。監視の目のない場所も探さねば」
――探さなくていい……!
ノクスはぎゅっと目を閉じる。ルキウスは足取り軽く部屋を出て行ってしまった。
「最悪だ!」
ノクスは寝台の上で体を折り、大きな声で吐き出す。発作まで座して待つわけにはいかなくなった。一刻も早く逃げるほかない。
打ちのめされて動けないノクスの耳に、やがて足音と聞き慣れぬ話し声が聴こえてくる。
――ルキウスの声じゃない。今、夜だぞ。ここは神殿内でも隔離されていて、人も来ないのに。
警戒するノクスの目前で、扉の鍵が開けられる。
「5分しかありません。お気をつけて」
「ええ、すぐ出ます」
――この……声……?
顔を上げて目を見開いたノクスの目に、似合わぬ神官服を纏ってひょいと頭をかがませ、戸口をくぐるアルバスの笑顔が映る。
「やあ。……ごめん、来ちゃった」
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