婚約破棄された魔術師ですが、俺の婚約者を奪った騎士が全力で追いかけてきます

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第5章 誰かの匂い

アルバスの腹芸

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 ※    ※    ※

『必要になったら呼べ。すぐ姿を現すからな』
 姿隠しの術をかけたノクスは、アルバスの隣から耳もとに囁いた。まばゆい白騎士の装束を身に纏い、大理石の廊下をカツカツと靴音高く歩きながら、アルバスはノクスに顔を向けず小声で囁き返す。
「呼ばない。帰れ。脱獄翌日にまた捕まりたいのか? 第一、君は招待されてない」
『だとしても、どうせ俺の話をするんだろ』
「いいから帰れ。君は解錠に専念すべきだ」
 アルバスはそれだけ言って口をつぐんだ。前を歩く執事が足を止め、突き当りの扉をノックする。
「マクシマム伯爵がおいでになられました、旦那様」
 扉が開かれ、アルバスはゆったりと力の抜けた優雅な足取りで豪奢な部屋へ入っていく。にこやかに戸口で一礼した。
「本日はお招きいただきありがとうございます、フローレス伯爵」
「おお、急にお呼び立てしてすまぬの。今を時めく白騎士殿にお会いできて幸甚の至り。今日は息子のルキウスもご紹介したい。さあ、こちらへ」
 しわがれた手を差し伸べてソファから立ち上がったのは、実務家と名高いフローレス伯爵だ。波打つ豊かな白髪の下の青い瞳は、老いてなお炯炯と輝いている。鋭い鷲鼻の下で、手入れの行き届いた白い口髭がぴんと尖っていた。漂う威厳は、隣で不機嫌に座っているルキウスの美貌を霞ませてしまうほどだ。
 ノクスはアルバスの後ろからルキウスを見つめ、どんよりと目を曇らせる。
 ――もう会いたくなかったけど、仕方がない。万が一ルキウスがアルバスに浄化の話をしようとしたら、どうにかして止めなきゃいけないからな。相棒が人殺しになるのは避けたい。
 アルバスはルキウスを一瞥して社交用の微笑を浮かべた。
「やあ、フローレス伯爵の御子息でしたか。先日神殿でお会いしましたね」
「ふん」
 ルキウスは横を向いてしまった。フローレス伯爵は苦虫を嚙み潰したような表情になる。
「挨拶もできぬのか、この出来損ないが! すまぬ、これが愚息のルキウスだ」
「存じ上げております。、ゆくゆくは大司教になられるとか……優秀なご子息をお持ちですね」
 アルバスはにこやかに受け流し、フローレス伯爵の方へ顔を向けた。
「とんでもない。優秀といえばグラディウス家じゃ。兄は英雄の白騎士、弟のマリウス殿は俊才で羨ましい限りだの。実は今回、先にグラディウス家へ大賢者殿の獣毒後遺症について問い合わせたのだが、お父上はお答えにならず、マリウス殿が回答してくださった」
 アルバスは凍りついたように足を停める。
「マリウスが、獣毒後遺症の何を……?」
「発作時の催淫作用とそれが周囲に及ぼす影響について。愚息は大賢者殿の担当神官なのだから、知る権利があるじゃろう?」
 フローレス伯爵は真意のわからぬ微笑を見せ、ソファを指し示す。
「白騎士殿、さあお座りくだされ」
 立ち尽くしていたアルバスは、押し殺すように息をついて、ソファへ腰かける。その隣に、ノクスは足音を殺して立った。息を潜める。
 ――まずい。アルバスの奴、怒ってるぞ。俺の獣毒後遺症が人に知れると毎回怒るんだ……。
 アルバスは低い声でルキウスに尋ねる。
「……ルキウス殿。ノクスが話しましたか?」
「ふん、何をだ」
「発作と催淫作用について、お前に話した?」
 アルバスはもはや怒気を隠しもせず、ルキウスを見開いた目で見つめた。
 アルバスに紅茶を淹れていたメイドは「ひっ」と脅えてカップを取り落とし、何度も謝りながらバタバタと駆け去った。悠然と様子を見ていたフローレス伯爵が声をかける。
「白騎士殿。少し落ち着かれてはいかがか?」
 アルバスは一拍おいて、微笑した。
「ああ、申し訳ありません。少し、取り乱しました。ノクスには誰にも言うなと伝えたのに、守ってもらえなかったものだから」
「それはさぞお腹立ちだろう。しかしノクス殿は収監されている以上、愚息より他に頼る先がなかったのだ。彼の事情を汲んでみれば、そう怒る事でもあるまい」
 フローレス伯爵はそうとりなし、憮然としているルキウスを見返る。アルバスはすう、と息を吸って、にこりと微笑む。
「仰る通りですね、伯爵。ノクスの病についてはマリウスからすでにお聞き及びのようです。改めて私を呼ばれたのには何か理由が?」
 フローレス伯爵は膝の上で手を組み、頷いてみせる。
「そう、貴殿にお聞きしたい事があってな。これ以上回り道をしても時間の無駄というもの、単刀直入にお聞きしよう。――大賢者を攫ったのは貴殿かな、白騎士殿」
 アルバスは目を大きく見開き、驚いたようにかぶりを振った。
「ノクスがいなくなったのですか? それは大変だ。私はずっと彼に会えていないのですよ。ご子息もご存じの通り、私は面会を拒否されましたので。しかし本当なら、ルキウス殿もこんなところで油を売ってはいられないのでは?」
 平然とそう語るアルバスを、ルキウスは立ち上がって怒鳴りつけた。
「とぼけるでない! ノクスをあんな老人と入れ替えおって! お前の仕業に決まっている、お前は香水の残り香をわざと牢に残していったな?! 面会に来る時は毎回つけていたからすぐに解った! 痕跡を残すとは、俺に対する宣戦布告のつもりか?! ノクスをどこへやった!?」
「さあ、存じません」
 アルバスは肩をすくめる。その襟首をルキウスはテーブル越しに掴んだ。
「おのれ嘘つきめ! お前がノクスを不埒な目で見ておるのは目を見れば解ったわ! ノクスを出せ! ノクスに……会わせろ」
 ルキウスの声がしわがれ、アルバスの襟を掴んだ手が震えた。
「黙れルキウス。その手を引け」
 鞭のようなフローレス伯爵の一声に、ルキウスは打たれたように顔を硬くし、力なくアルバスから手を放す。フローレス伯爵は穏やかに続けた。
「愚息の非礼を詫びよう、白騎士殿。ここにお呼びしたのも、我々は貴殿の敵ではないと伝えるためだ。ノクス殿は危険を冒してこのルキウスに伝えてくれた。王はフローレスへの粛清を始めようとして愚息を担当神官に選んだと。この馬鹿は信じなかったようだが……近頃になってフローレスが下に置かれる空気が宮廷には確かにある。残念ながらノクス殿の話を信じるほかないようだ」
「何かの間違いである事を願いますよ。ただし、色恋以外でノクスの読みが外れる事はまずありません。――彼の所在が知れたら必ずお知らせしましょう」
 アルバスはさも心が痛むかのように美しく眉をひそめ、「今はお役に立てず残念です」と付け足した。
 フローレス伯爵はやれやれという顔で首を振る。
「そう警戒しないでほしい。ノクス殿を神殿に戻せと言うのではない。我々にノクス殿の力を貸してほしいのだ。オーティス陛下は執念深い。ルキウスを失脚させるだけで済ませる気はあるまい。フローレスを敵とみなした以上、今後も手を緩めずに潰しにかかってくる。手をこまねいてそれを待つつもりはない。王が我々を革命派と断じて切り捨てるつもりなら、我々もお望み通り謀反を起こしてさしあげよう」
 アルバスは今度は『信じ難い』というように深く眉をひそめる。
「そのような事を初対面の私にお話しになるとは、伯爵ともあろうお方が軽率な。平民人気の高いノクスを革命派の旗頭に据えれば勝率が上がるとお考えですか? 俺がノクスならお断りします。何しろ己を捕えていた神官殿のご実家だ。いつ気が変わって王に『謀叛人』をさし出す気になるか解らない。第一、革命なんて面倒では? 国を捨てて逃げる方が楽だ」
 フローレス伯爵はアルバスの歯に衣着せぬ言葉に苦笑した。
「辛辣だな。まだ信じてはもらえぬか。もしノクス殿に会わせてもらえるのなら、君をヨハネス枢機卿に取り次ぐ事もできるのだが」
「枢機卿に……?」
 アルバスはぴくりと身じろぎする。
「ああ。オーティス陛下の腹違いの弟であり、武と学に優れ宮廷内の支持を多く集めながらも、成年前に突如として出家したヨハネス・ファビウス枢機卿だ。噂ではオーティス陛下との政争に嫌気がさして身を引いたとか。お会いしたくはないか?」
 アルバスはフローレス伯爵を慎重な眼差しで注視した。
「もちろん。しかし、卿は俗世の話に興味がおありでしょうか?」
「神殿にとっても現在の状況は喜ばしいものではない。王家の暴虐に恨みを抱く有力商家が神殿から革命派に流れているのだよ。オーティス陛下が王都の豪商ドミティウスから財産を不当に没収した一件をご存じか?」
「ええ。曰く、『平民の魂が不相応な富によって腐敗するのを防ぐため、アウレリア神の正義を執行する』……でしたか」
 フローレス伯爵は頷いた。淡々と語り始める。
「ドミティウスは信心深く、民間最大の寄進者だった。この一件を境に商家が神殿への寄進を一斉にとりやめたと聞く。アウレリア神殿が暴虐を布く王政を支持していると見たからだ。多くの信徒を失った枢機卿は憂えていらっしゃる。豪商だけの話ではない。魔獣が急激に増加して既存の輸送路も断たれた。討伐隊にかかる護衛費用が上乗せになり、輸入品も木材も品薄の上価格高騰だ。零細の小売から潰れていく。市民は魔獣被害と生活費の上昇に圧迫され、大賢者を返せと訴えている。革命派はこれから急成長するだろう」
 アルバスは深く息を吸い、息を吐いて言った。
「実務家のフローレス伯爵らしいご意見ですね。私にもはやりに乗れと仰る?」
 フローレス伯爵は肩をすくめてかぶりを振る。
「白騎士殿には難しい提案だとわかっている。貴殿に無理は言わぬ」
 アルバスは顔を歪めた。
「そもそも、私にもちかけるには危なすぎる話だとお考えになりませんでしたか」
 ふ、とフローレス伯爵は苦く笑った。
「一世一代の賭けだよ、白騎士殿。他にノクス殿を捕まえる術がない。それにマリウス殿から聞いている。『兄はノクス殿を追いかけて家名を捨て、討伐者になった』と。まるで貴殿が大賢者殿を諦めるはずがないと確信しているようだった。……貴殿は大切な幼馴染を陥れた王の肩を持って、フローレスを売るだろうか? そうは思えぬ」
 アルバスは眉宇を曇らせる。
「口の軽い弟だ。父は教育を誤ったな」
「とんでもない、マリウス殿は賢明な方だ。先の風を読んでいらっしゃる。ノクス殿とて国外に出れば安全というものでもなかろう。あれだけの術の使い手が敵国に回れば脅威となる事は自明。あのオーティス陛下が追手を放たぬとでも? だからこそ、大賢者殿には我々と共闘していただきたいのだ。白騎士殿はお好きになさるがいい」
「ノクスが戦うなら、私もその隣にいますよ」
 アルバスは呟いた。
 ここまで息を潜めてただ話を聞いていたノクスは、音を立てぬように息を吐いた。先のアルバスの台詞は、ノクスに判断を委ねるという意味だ。
 ――俺の決断次第で、アルバスを巻き込んでしまう。今さらか。アルバスはどうしたって俺についてくる。それなら俺が一番正しいと思う選択をするしかない。
 フローレス伯爵はルキウスに向かって目顔で合図を送った。ルキウスは頷いて、戸棚から象嵌細工の箱を取り出し、テーブルの上にそっと置く。懐から取り出した鍵でかちりと箱を開け、両手で蓋を開けた。
「これは……?」
 アルバスは怪訝な表情で箱の中を見つめた。ノクスも箱を覗き込んで首を傾げる。天鵞絨の上に金色の工具が置かれている。鋏にも見えるが、見た事のない形である。
 フローレス伯爵は悠々と微笑んで見せる。
「お越しいただいたお礼に、聖錠用の切断具を持参した。お困りでしょう? 聖錠は普通の工具では切れない。聖具でなければね」
「まさか神殿から盗み出したのですか?」
 アルバスは魅入られたように聖具から目を離さない。フローレス伯爵は破顔した。
「はは、お借りしたまでだ。たまには愚息も役立つ」
 ルキウスは目盛の刻まれた巨大な鋏を前に、ぎらつく瞳を上げて口を開いた。
「いいか、私はゲオルギウス大司教に任命された。王と通じて神殿を監視しているのはあやつだという事だ! ゲオルギウスの目をかいくぐって聖具を持ち出すのは簡単ではなかった。これだけは言わせてもらう」
 フローレス伯爵が頷いて言葉を継ぐ。
「ただし大賢者様に会わせていただけるのなら、お貸ししてもよい」
 アルバスは涼しげに微笑んでかぶりを振る。
「ノクスなら聖具は必要ないでしょうね。時間さえあれば自力で解けます」
 ルキウスはそれを聞くなり、怒気も露わにアルバスに詰め寄った。
「舐めるでないぞ! 聖錠は魔力でなく、聖力を流さねば解けないのだ! それにこの聖錠の術式は10年の歳月をかけ、圧倒的な数量の術式を連ねて編まれた。1つでも飛ばせば解けぬ。聖具なしでは製作者本人さえ解錠に5年かかるのだ!」
 アルバスは白々とした眼差をルキウスに向ける。
「道具としては欠陥があるようだ」
「聖具を侮辱するか、白騎士といえど許さぬぞ! いいか、よく考えろ。聖錠をしたままで国境を越えられると思うか!? 魔術も使えぬぞ?!」
 ――聖錠がかかっていても姿隠しの術くらいなら使えるが、確かに大技は無理だ。解錠だけに何年もかけるわけにはいかないな。
 ノクスは考え込んだ。ルキウスに怒鳴られているアルバスは平然としていたが、フローレス伯爵はうんざり顔で息子を止めにかかる。
「ルキウス、口を閉じろ。……白騎士殿、ただノクス殿にお会いしたいだけなのだ。我々に与するか否かは、後で考えていただければよい」
 アルバスは息をついて頷いた。
「ノクスに再会できたなら、必ずや伯爵のお言葉をお伝えしましょう。この聖具は持ち帰って鑑賞させていただいても……?」
「駄目だ! 私の目の届くところでなければ使用は許可しない!」
 ルキウスは必死の形相で聖具の箱を腕で囲い、アルバスの質問を遮った。
「ノクスを連れて来い! そうすれば聖錠を切ってやる」
 アルバスは顔を歪めた。
「ノクスが貴方に会う事はありません。貴方はノクスに、牢獄での辛い日々を思い出させたいのですか?」
「なっ……! 辛い日々……だと!?」
 ルキウスは雷に撃たれたように目を見開き、唇を震わせた。
「わっ……私と共に過ごした日々を辛いだと!? ノクスがそう申したのか!?」
「聞かずともそうに決まっています」
 アルバスはむっつりと答えた。
 ――アルバスが暴走し始めた。このまま聖具の貸借を断るつもりか!?
 ノクスは慌ててアルバスの硬い表情とルキウスの傷ついたような顔を交互に見比べた。聖具はルキウスの腕の中に隠れており、フローレス伯爵は匙を投げたように二人を見守っている。膠着状態だ。
 ――も、もう、俺が出て行くしかないな。
 ノクスは覚悟を決めて、そろそろと姿隠しの術を解いた。目前でフローレス伯爵とルキウスの目が驚愕に見ひらかれ、次いでルキウスの顔が喜色満面の笑顔に変わっていく。アルバスは2人の変化にいち早く気づき、さっと振り返って鋭く叱咤した。
「ノクス!」
「話を聞くだけだ」
 ノクスはそう言って、フローレス伯爵に一礼する。
「招待状もなく突然押しかけて申し訳ありません。ノクス・フェリスです」
「貴殿がノクス殿か!? いやいや、なんと……まさか今日お会いできるとは! これは望外の喜びだ!」
 フローレス伯爵は立ち上がり、笑顔を輝かせてノクスの手錠のかかった手を包み、何度も力強く振った。
「ノクス! 無事だったか!?」
 ルキウスも潤んだ目で近寄ってきていたが、フローレス伯爵に肘で押しやられる。
「聖錠をかけられてなお、姿隠しの術を使う余裕があるとはさすが大賢者殿! さあルキウスよ、枷を外してさしあげなさい。今すぐだ!」
 厳しく言い渡されたルキウスは神妙に床に膝をつき、聖具を取り上げた。テーブルに聖錠のかかった手首を置いてさし出すノクスをもの言いたげに見つめたまま、説明を始める。
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 ルキウスは羊皮紙の巻物を懐から取り出して広げる。術式がびっしりと書き込まれていた。ルキウスは聖錠の刻みに聖具の刃を嚙み合わせて、ノクスに目を合わせる。
「解法までは持ち出せなかった。1日かかる事は覚悟せよ。ま、まあ、夜を越すとしても、うちに泊まっていけばよいからな!」
 ノクスは羊皮紙から目を離さずに言う。
「なるほど覚えた。やってみよう」
「いや、お前の魔力では解けぬ。俺が聖力を通して術式を解かなければ……」
 ルキウスは慌ててノクスを制止しようとした。ノクスはかぶりを振る。
「聖力も魔力も同じだと言ったはずだ。ちょっと待て」
 フローレス伯爵は黙ってルキウスの手を聖具から外した。ノクスは目を閉じる。
 かちりと音がした。ノクスは瞼を開き、聖具の取っ手に触れて魔力を籠める。シャキン、と音を立てて、聖錠が真っ二つに割れた。
 ルキウスはフローレス伯爵に腕を掴まれたまま茫然とする。
「嘘だろう!? に、2分とかからず!? 魔力で!?」
 フローレス伯爵は、ほう、と目を輝かせて手を打った。
「素晴らしい、まったくもって素晴らしい! この才を封じる事こそ犯罪だ!」
「父上! そんな、だって……聖力は魔力とは違うとアウレリア神は教えたもうたではありませんか! それでは……神殿の教えは何だったというのだ……」
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「気づいたかルキウス。教義とは神ならで人が造りしもの。あれらは我ら貴族が血を流さずして上に立ち、弱きままに強き魔術師を従えるための方便だ」
 ルキウスはフローレス伯爵を振り仰ぎ、信じきれぬという顔で叫ぶ。
「私が信じていた事はみな嘘だったと仰るのですか!?」
 フローレス伯爵はゆっくりとかぶりを振り、窓越しに見える青い空を仰ぐ。
「みなとまでは言わぬさ。アウレリアの神はきっとこの空におわす。だからこそ我々に強力な味方を遣わされた……そうは思わぬか、ルキウス」

 ※    ※    ※

「まったく君は。俺がどんな思いで君を危険から遠ざけているのか解っているのか?」
 先程から、アルバスは馬車の中でずっとノクスを叱り続けている。ノクスは眉を下げて説得を試みた。
「手錠を外さなきゃ、何もできないだろう? 討伐のためにもフローレスに協力しよう」
「協力! 君が矢面に立ってか!? 人目につくのが誰より苦手なくせに!?」
 ――ごもっとも……。
 ノクスが目をそらすと、アルバスは櫛目の通った髪をぐしゃぐしゃとかき回して乱し、苛立ったように眉に深い皺を寄せる。
「それに、俺はあのルキウスに会ってほしくなかった!」
 ノクスはハッとしてアルバスを見上げた。
 ――アルバスはルキウスに手を出されなかったか心配してくれていたな。
「し、心配ない。ルキウスとは何でもないぞ」
「今にも食いつきそうな目でお前を見ていた。あれが何でもないという目か」
「……っ」
 ノクスは気まずくなって目をそらす。別れ際にはルキウスが何とかノクスを屋敷に引き止めようとし、フローレス伯爵もあえてルキウスを止めようとはしなかった。そこでアルバスがけんもほろろに断ったのである。
 アルバスはノクスの手を強く掴んだ。
「もう金輪際、あの男と関わってほしくない。フローレス家に協力したいと言うなら、俺が間に立つ」
 ノクスは素直に頷いた。ノクスとてルキウスと顔を合わせたくはないのだ。やっと安堵の色を見せたアルバスに、ノクスは小さく言った。
「フローレス家との交渉は任せる。負担を増やして悪いな。もうルキウスと会う事はないから」

 ――と言ったのはほんの数日前の事だった気がする。
 険しい顔のアルバスをノクスはちらりと見上げて、ため息を噛み殺した。
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 ふふ、と目を細めて、枢機卿は静かに日記を閉じる。
 ――これは……先妃の偽の日記? アルバスがどうしてそんなものを。まさか!
 ノクスはハッと息をのむ。フローレス伯爵は端然と立つ枢機卿に跪き、深く頭を垂れて恭しい礼を捧げた。
「命を賭けて閣下をお守りします。ステパノスの栄光が、アウレリアの真の王冠の上に輝かんことを」

「ノクス! 少しだけ、話がしたい」
 神殿を出て帰途につくノクスを、ルキウスが後ろから追いかけて腕を掴んだ。ノクスはぎょっと振り返って立ち止まる。
 ――ルキウス。奉仕に戻ると言って一度姿を消したのに。
 アルバスは道の先でフローレス伯爵と真剣に話し込んでいる。こちらには気づいていない。
「な、……なに」
「すまなかった!」
 思い切りよく頭を下げられ、ノクスは驚いた。天地が覆ろうとも、ルキウスだけは謝らない気がしていたからだ。
 ルキウスは必死の形相でノクスの両手を包む。
「私は赦されない事をした。ノクスの言う通りだったのだ。あれは浄化ではなかった。ノクスの力を削ぐ行為にすぎなかった。嫌がるお前を無理やり……」
「いい、言うな! もういい」
 急いでノクスは遮った。改めて聞きたくもない。ルキウスは瞳を大きく見ひらく。
「許してくれるのか!? もし許してくれるのなら……」
 ぎゅっと手に力を籠めて、ルキウスは懇願するようにノクスの目を見つめた。
「何のお話ですか?」
 頭上から声が降ってくるなり、ルキウスの手がもぎ離される。肩を後ろから抱き寄せられて、頭が分厚い胸板に当たり、ノクスは上を振り仰いだ。微笑を顔に貼りつけたアルバスが立っている。ルキウスは顔を歪め、アルバスから手を振りほどいた。
「……白騎士殿には関係のない話だ」
「つれない事をおっしゃる。聞きたいなぁ、私も」
 アルバスはノクスを自分の背の後ろに回した。にこやかなアルバスの声の底に潜む禍々しい気配に、ノクスは息を呑む。アルバスを追ってきたフローレス伯爵はルキウスを見つけて顔色を変え、急いで追い立てた。
「我らと共にいるところを見られてはならないと言ったはずだ。ゲオルギウスが祈祷に出ているからといって、油断するでないぞ! 戻りなさい」
「お待ちください! 今少しだけ、話したいのです! 頼む、ノクス」
 懇願するような訴えに負けたノクスは眉をしかめた。アルバスの肩から半分だけ顔を覗かせて、陰気にぼそぼそと告げる。
「やるべき事をやれよ、ルキウス。お前が神殿にいるのは無能だからじゃない。神殿でこそできる事があるとお父上が認めたからだ。俺はまだお前を許さない。これからのお前次第だからな」
「あっ……ああ! 必ずお前と父上の役に立ってみせる。世にはびこる偽の教えを正してみせるぞ! そうしたら許してくれるのだな!?」
 顔を輝かせてルキウスはノクスに飛びつきそうにしたが、フローレス伯爵に引きずられて神殿に戻って行った。
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「……俺の方が役に立つよ」
「当然だろ。俺の相棒より強い奴はいない」
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「いや。結婚したらお前、俺なんかにかまう時間なくなるだろ。それはちょっと……寂しい」
 ノクスは小さく呟いて俯いた。
 ただでさえ忙しいアルバスだ。結婚すれば滅多に会えなくなるだろう。婚姻相手がオーティス陛下の愛娘ともあればなおさらだ。
 これまでどんな敵に相対する時も、隣にアルバスの肩があるというだけで安心していられた。アルバスは文字通りどんな手を使ってでも、守りたいと思った者だけを守り抜く。これからその安堵を味わうのはシスラ王女なのだ。ノクスではなく。
 ――妙に胸がモヤつくな。だからずっと考えないようにしてた。だが、今は考えなければ。アルバスが枢機卿に渡した偽の日記――俺の推測が正しければ、あれに書かれた内容次第で王女との縁談にも影響が出るぞ。
 アルバスはどう考えているのか尋ねようと顔を上げると、頬を紅潮させたアルバスが目に入った。瞳を見開いて瞬きもせずノクスを見つめ、抑えきれぬ笑みを隠すように口を腕で覆い、かすかに肩を震わせてさえいる。
 ――なんだその顔。
「ノクス……君、可愛いな」
「うるせぇ、笑うな」
「可愛い。まずいな、抱きしめたい」
 アルバスは馬車が動き出しているというのに、いち早く隣の席に移ってきた。ノクスはしかめっつらでアルバスをぐいぐいと押しのける。
「話をはぐらかすなよ。縁談は進んでるのか、進んでないのか、どうなんだ」
「進んでいるさ。でも、これ以上進む事はない」
 ノクスの目に、じっとこちらを見つめるアルバスの青い瞳が映る。
「どういう意味だ」
「後でわかるさ。ただ、起こらないんだ」
 アルバスは淡々と言って、ノクスの手に己の手を重ねた。
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 アルバスはにっこり笑う。
「とんだ戯言だと思わないか?」
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俺──ルシアン・イベリスは学園の卒業パーティで起こった、妹ルシアが我が国の王子で婚約者で友人でもあるジュリアンから断罪される光景を見て思い出す。 (あ、これ乙女ゲームの悪役令嬢断罪シーンだ)と。 ちなみに、普通だったら攻略対象の立ち位置にあるべき筈なのに、予算の関係かモブ兄の俺。 しかし、うちの可愛い妹は、ゲームとは別の展開をして、会場から立ち去るのを追いかけようとしたら、攻略対象の一人で親友のリュカ・チューベローズに引き止められ、そして……。 気づけば、親友にでろっでろに溺愛されてしまったモブ兄の運命は── 異世界転生ラブラブコメディです。 ご都合主義な展開が多いので、苦手な方はお気を付けください。

悪役令嬢の兄でしたが、追放後は参謀として騎士たちに囲まれています。- 第1巻 - 婚約破棄と一族追放

大の字だい
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王国にその名を轟かせる名門・ブラックウッド公爵家。 嫡男レイモンドは比類なき才知と冷徹な眼差しを持つ若き天才であった。 だが妹リディアナが王太子の許嫁でありながら、王太子が心奪われたのは庶民の少女リーシャ・グレイヴェル。 嫉妬と憎悪が社交界を揺るがす愚行へと繋がり、王宮での婚約破棄、王の御前での一族追放へと至る。 混乱の只中、妹を庇おうとするレイモンドの前に立ちはだかったのは、王国騎士団副団長にしてリーシャの異母兄、ヴィンセント・グレイヴェル。 琥珀の瞳に嗜虐を宿した彼は言う―― 「この才を捨てるは惜しい。ゆえに、我が手で飼い馴らそう」 知略と支配欲を秘めた騎士と、没落した宰相家の天才青年。 耽美と背徳の物語が、冷たい鎖と熱い口づけの中で幕を開ける。

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