紫雨の話

ヰ野瀬

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記憶

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 久しぶりに会った紫雨は頬がゲッソリとしていて骸骨みたいだった。たった数日会わなかっただけなのに、どうしてそんな姿になっているのだろう。
 幸もあれからどうやって家まで帰ったのかわからなかった。額に残る印は確かに紫雨のものだ。だけど、家族の誰にも指摘されることは無かった。きっと自分にしか見えないものなんだろう。なんのための印なのだろう。額を指で擦っても取れることはないが、変な模様をつけている気がして嫌だ。された瞬間意識が無くなったかと思えば、気づいたら家だった。起きたときは朝だった。朝にこんなにスッキリ起きることなんてなかったからこれはきっと紫雨の魔法なんだ。と思った。
 妖怪が魔法を使うなんて面白くて自分でクスッと笑ってしまう。

 学校は相変わらず休んでいる。今日は図書館にこもることにした。本は嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。
 いつも通りお下げにした髪。それも今日は編み込みをされている髪。髪のサラサラとした部分をいじると楽しい。
 そういえば、なにかそういうものに詳しい本とかあるのだろうか。あっちこっちと周回を繰り返しながらお目当ての本を探す。だけど、それっぽい本はあっても紫雨の見た目とはまた違うものばかり。本当にオオカミなのだろうか。ニホンオオカミはたくさん出てくるけれど、他の種類が出てこない。それっぽいようなものばかりで紫雨とは全然違う。
 紙を擦る音が心地好く響く室内。忘れていたが、通っている高校はとても近くにある。家からは遠くても高校よりの図書館だ。だけど、先生が図書館に行くのを見たことがなかったから安心していた。
 また紙を捲る。やはり紫雨のことはどこにも載っていない。本を閉じてさらに探そうと立ち上がると聞き覚えのある声が後ろから自分を呼んだ。
「……先生」
 ゲッソリとした様子で、先生は自分に笑顔を向ける。
「ははは。今日はこんなところまで来てたんだな。もう卒業まで会えないんじゃないかと思ってたぞ」
 笑っていない瞳に寒気がする。
 逃げようかと腰を引き、すぐに逃げられる体勢をとる。
「あ、これ宿題。やっておきなさい。君のためだ」
 真剣な顔で数十枚のプリントを押し付けられた。有無を言わさない先生の瞳に黙って受け取る。受け取るやいなや、はぁっと大きなため息を吐き、背を向け、早足で帰って行った。
 だから苦手なんだ。あの教師は。目力がすごくて怖い。あの教師が授業を始めると必ず、みんなを立たせて問題に正解するまで座らせて貰えない。最後の一人になったとき。みんなの前で恥晒しになる。それが嫌で必死になって勉強していた。最後の一人になるのは怖かった。
 廊下まで臭うタバコ。よく吸っているのを見かけては、見た目通りの教師だと安心した。タバコで補えないストレスを生徒に向けているのだと、そう思った。
 図書館に入ってきたときにも臭った、同じタバコの臭い。嫌いだ。どうしようもなく。思い出すだけで吐き気がする。

『みんな同じなのよ』
『みんなが辛いのよ』
『私たち/僕たちよりも辛くて苦しんでいる人がたくさんいるよ、だから頑張ろうよ』

 みんな同じことばかりいうのは感情がないのだろうか。いや、感情があるからそういう答えなのか。いつでも相談していいと言われた先生にはいつも同じことしか諭されなかった。そう思わなければいけないように思った。正しいことはそれだけなのだろうか。ずっとずっと考えていた。
 小説の中の登場人物は自分たちとは違って眩しいほどにまっすぐに相手と向き合っていて、自分はだめなやつなんだと言われているようだった。泣きそうになるたび、腕に線を描いた。
  最初はうさぎ、次は犬、次は猫。好きな動物を描くようになって腕は動物だらけになった。だけどそれは日にちが経つごとにすぐに消えていってしまう。おままごとだった。
 紫雨まで描いてしまったら、これも本当はいなかった友人だと気づいてしまうのだろうか。本当にいたのかすらもわからない。自分が寂しくて作り上げてしまったものだったら、なんて考えたくはない。

 家に帰ってからは布団に潜って紫雨のことばかり考えていた。いつ呼んでくるのかわからないのに、待っててもしょうがない。分かっているのに肌が寒いような痛いような気がして仕方がない。
 自分から会いに行けばいいのに、どうして待っているんだろう。そうだ、そうしよう。
 思い立って、ご飯に呼ばれても出かけてくると言う自分に怒る母さんを尻目に逃げるように山に登った。たった一日会っていないだけなのに、どうしてこんなに会いたくなるのだろう。この額の印と関係があったりして。そんなふざけたことを考えてたどり着いた頂上。
 紫雨はいなかった。当たり前だ。紫雨には感情がある。自分の思っていた場所にいなかったからと言ってなんだというのだ。きっとあの小屋でお酒でも呷っているんだろう。

 居なくてよかったのかもしれない。今まで描いていた落書きが消えて、足そうとしていたたった一人を縛ることがなくなったんだから。喜ぶべきなんだ。それなのに、それなのに。

 大きな粒となった涙が地面に消えていく。すっかり暗くなった辺りを見て初めてもう夜なんだと気付く。ずっと空想で描いたものを自分に縛り続けて一人じゃないと思い込んでいたのかもしれない。寂しいとわかってても言葉にしなかったのは自分じゃないか。紫雨だって本当は空想だったんだ。自分にとって都合のいい存在だった。分かっている。
 ずっと自分は一人だった。うさぎも犬も猫も、紫雨も。全部自分を守るために必要だったものだ。
💥
 蹲って振り子のように揺れていると、突然草木がガサガサと揺れて振り向いた。
 ゆっくりと歩く姿は少年のそれで、自分と同じくらいの歳のように見える。
「ん? まあたお前。なにかあるたびに毎度毎度ここにくる……。危ないから帰れ」
 相変わらずゲッソリとした表情をしている。本当に自分の夢ではないのだろうかと確かめるように、頬に手を添える。
「触れる」
「は? なに、頭おかしくなったの……か」
「……」
 酷いことを言われたのに、それに反論するよりも先にまた目から大量の涙がこぼれ落ちた。
 蹲る自分の頭を躊躇いがちな手がリズム良く叩く。慰められているのか、なんなのか。
 ずっと、ずっと涙が止まらなかった。そこに居てくれる紫雨の手が温かい。温かい。

 それだけで良かったと思った。
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